まず、バッチの説
芸術とは、感性のアレゴリーである、とするのがバッチの芸術の定義。
アレゴリーとは精神的事物を外界に表現というプロセスを経て表象することである。
ばっちにとって表現とは、過程そのものであり、完成した作品を表象(作品)と呼ぶとする立場をとる。ので完成した作品でなければ表象作品とは呼べないことになる。つまり未完の作品はばっちにとっての芸術作品ではなくなる。その作品を未完ととるか否かは場合によるが、一般的にここでは完成か否かを決めるのは作者であると仮定して話を進める。
作家が何らかの精神事物、ここからは分かりやすくする為に具体例を挙げていくが、たとえば、燃え上がる怒りを表したいと思った時に、その瞬間から表現となる。何ら描いていなくても表現となる。赤を使おう、とおもった瞬間も表現である。それをカンバスに塗り付けている間、それからずっと作品が完成するまではずっと表現である。であるから作家が完成するまでに何らかの理由で死んでしまったら、藝術作品とはなり得ないことになる。
未完でも芸術作品となりうるというのが自分の立場である。だからこのバッチ説には何らかの修正が必要な気がする。後期ミケランジェロの創りかけの作品がアートワールドでアートとして流通していればそれはアートと認めざるを得なくなる。全美術史とアートワールドを無視して理論を展開すればそれはそれで問題ない。そもそもどんな理論を掲げようと当人の勝手だというのが自分の立ち位置である。それならバッチ説も何ら問題ないわけである。であるが、ばっちはアートワールドに生息したいというからここは優しくてかっこいい先輩の情けで修正を試みるわけである。
バッチ説においては、創作物のプロセス全体を表現と呼び、表象を完成に求めようとするが、プロセス内においても表象は生じるとしたほうが妥当かつ有効かもしれない。作家が芸術的メディアにライプニッツの意味内容を施せば、それはそれで、その瞬間、それで表象と呼んでいいと思う。線を引き続けている間は表現と表象が入り交じる汽水状態となるということである。線を引き終わった後でその線は表象となる。もちろん、未だ完成していないのならそれはプロセスの中にあるから表現でもある。
端的に言えば、藝術作品とは、小規模な表象の集合が大いなる表象の全体を形作るということである。とすればバッチ説は破綻せず難なく広範な有効説になるはずである。
これからの課題としては、表現と表象の定義についてさらなる吟味が必要である。
バッチ君。どうであろうか。