2013年1月29日火曜日

卒展 2013

卒展の感想を記す。


これは自分が感じたことを連ねる勝手気侭な似非エセーである。独断と高慢と偏見で描かれたルポルタージュと思ってもらいたい。


まずはじめに、やっぱり卒展は面白い。一年を通じて、自分が巡ったどの展覧会よりも、やっぱり圧倒的に面白い。六本木であろうが、銀座であろうが、西美、近美、東博、現美であろうが、やっぱりこの時期のこの展覧会が一番面白くて好きだ。


昨日と今日で、都美館、芸大校内の全作品をコンプリートしたったwww。作品側にあるポートフォリオ、ならびに各課展示で一カ所に集められているポートフォリオも網羅した。

ぼくは見ないともったいない貧乏根性があるから、作品もポートフォリオもあれば必ず見る。


ぼくの鑑賞の仕方はおそらく参考にはならない。芸術学に属する人間としては失格と思われる帰来もあるかもしれないが、それは、至って簡単でただ勝手に見て、勝手に感じるだけだからである。コンテキストがどうだとか小難しい話などはひとまずどこかに放棄してただ感じ入る。黙って作品に向き合う、それだけだ。

眼前にある作品と対峙すれば、そうこうする内数秒も立たぬうちに作品の仕事量が見えてくる。ぼくの勝手な解釈だから定かではないにしろ、その仕事量を前にして作品に込められた情念を想像するのがとても心地いい。勝手にハチクロの甘酸っぱさを作品に投影して作者の熱血と怠惰な四年間を脳内リピートして感慨に耽る。



めっちゃ知っている人、ちょっと知っている人、顔だけ知っている人、まったく知らない人、その他諸々の作品を見て回って、自分の中で批評する。批評とは価値判断であるから、自分の中でA+、A、A−、B+、、、、をつける。目利きは判断する事から逃げてはいけないから、自分の全存在を賭けて判定を下す。あちらが本気で挑んでくるからこっちも本気で批評する。言い訳はしない。こっちもあっちも。だから、こちらはただ感じた事に嘘はつかず価値判断を下すのみだ。ちなみにぼくは仕事量の多い作品が好きだ。

ぼくは、努力は認められず、結果が全ての世界においてもやはり仕事量は嘘をつかない、という勝手な信念を価値判断のひとつの指標にしている。


作品はただ佇みもの言わず雄弁に語る。その沈黙に報い芸大にいるからこそ感じられる膨大なコンテキストを読み込む。そこに滲み出てくる葛藤を勝手に把握し、ポートフォリオを読み、また再度、卒制作品を見る、読む、聴く。耳を澄ませば不在の作者の声がこだまする。



棟と棟の遊覧中にふいにとある情景がフラッシュバックした。今は真っ裸のイチョウの木々に緑が繁茂する季節、その下で発砲まみれになっていた彼らが、四年という歳月を経て、自己と対峙し、己が持てるすべてを作品に叩き付けた。


黄色の衣を脱ぎ、今は裸に見えるその木々の枝々にはぽつぽつと次世代の芽が息吹いている。これからまたすぐ上野に花が咲く。さうして散る頃にまたスチロールの粉が舞うのだろう。四季を四期繰り返し学生は同じ空間を壁画の上に壁画を重ねるように生々流転する。


卒制には魂が宿る。作品の良かれ悪しかれを問わず作家の為した息づかいの来歴が込められるから、納得は如実に滲み出て観者に伝わる。やり切った感のある作品、無い作品、どれもがみな四年間の集大成でありファウスト的痕跡と見なされる。卒制の中には明らかに自分から逃げた作品もあるし、当然、闘い抜いた作品もあるが、いずれにせよ、それらは同じ四年である。素晴らしいのはどちらも言い訳せずに、背中で語るに徹していることである。この点に関しては皆何とも潔い。



総合工房との上から下へ。5階から見渡す景色に藝祭の面影が蘇る。

眼前の天心の森はいつも見守っていてくれた。



入学して春、この世をば我が世とぞ思ふ上野の桜、と詠み、桜吹雪の中、勝利の美酒に酔い痴れ、人生のピークを迎えた。夏、夏休みなんていらねぇよ、夏。強制労働の名のもと夜遅くまで仲間と音楽をかけながら神輿を作り、サンバを経験して芸大生として一人前を迎える。君も踊れる夏の季節に、楽しめ一瞬をそれこそ真の人生だ。秋から冬にかけて、ハネムーンも終わりを迎えアートパスがやってくる。作ることにも腰が据わり冬。かじかむ手で石を、木を削る。鞴の神様、漆の神様、ありとあらゆる科の神様に感謝を捧げ真の伝統に触れる。芸術とは神事であり、神事に酒は欠かせぬものと肌で知る。ふきのとうより早く新級展を行い、退任展を経て今度の卒展を迎える。年々歳々花相似たり。芸大の一年サイクルとは大方こんなものだろう。その間にも絶えず講評に追われたり、追われなかったり、岩絵具、シリコン高かったり、バイトしたり、しなかったり、恋人ができたり、できなかったり、徹夜したり、単位落としたり、教職諦めたり、同じ科でぎくしゃくしたり、しなかったり、そうこうしてるうちにATM(あっという間)で気付けば四年が経って、追いコンで毎年、わかっているにもかかわらず、インフルエンザが蔓延して、わかっちゃいるけど止められない、これって芸術と同じなんだよね。


卒制とは、一種の死であり、生である。卒制とは産まれ直す恰好の契機である。

生まれ変わりのけじめ、しかと見届けさせていただき、しかと己が身を省みる絶好の機会とさせてもらった。



院に行く者、行かぬ者、就職する者、せぬ者、すべての人生が生ある限り続く。


自戒として、自分にアドバイス。




作り続けなさい。働いても、働かずとも、作り続けること。

自分に厳しく、自分と闘う時間を毎日幾分でも作りなさい。

蟻のように、小さく一歩一歩、象のように歩みなさい。




卒業生に幸あれ。



追記:

⑴自分が入学した年のはじめての卒展で見た作家の大半が今年院を卒業した。

そんなに記憶力がある方ではないが、それにしても多くの作品を覚えていて、比較する事ができた。これが芸大生にしか味わえない特上のクオリアであり、とても贅沢に感じた。

全く変わらず、ブレず同一の作品を造り続けるもの、ちょっとした作風の変化を取り入れるもの、また新しく作風を一新させるもの、そうした諸々の変化の比較をすることができたのに芸大特権を感じた。

⑵横浜バンクアート帰りには必ず中華街で中華を食べるといったことをしていたが、今年からそれができなくなったのが少々残念ではあった。

⑶精神が聞く耳を持っているレベルにある状態で、鬱な方々、及び鬱な小学生、中学生、高校生、大学生、主婦、サラリーマン、おじいちゃん、おばあちゃん、まぁ、結局、誰でもに卒展を見てもらえたら、あぁ、こんな意味不な生き方があるんだぁ、と生きる意味の無さと有りさを伝える事ができるのではないか。だって意味わかんない事ばっかしてんじゃん、あいつら、それに命かけてるて!

作品そのものが人生のちゃらんぽらんさを融通無碍に語られれば救える命がちょっとはあるかも。意味不な作品を意味不と捉えれば誰彼の人生すべてに意味がなく、だがしかし、その意味不な作品に意味を認められたら自分の人生に意味が湧く。

⑷ひとつ、ただし、卒制で逃げた人間はまたいつか闘わねばならない時が来る。それだけは言える。そして、ここで闘い切った人間にもまた戦わねばならぬ時が来る。クリムトの黄金の騎士なり、人生は戦いなり。ただし、今回闘い切った人間には次の戦いの時に少しだけ経験値が実感できる。違いはそれだけであるが、それが積み重なった時にその差は歴然と揺るがしがたいものとなる。

⑸あと、なんかあったけど忘れた。また思い出したら、書くべし。





平成25年 1月29日(火) 一ノ瀬健太








2013年1月23日水曜日

英語が手段になった時

英語が目的である分には英語学習の本筋は見えこない。

地平線の先の狐を見る為には英語が手段とならなくてはならない。

最近、へーゲルの『美学』(竹内敏雄訳、岩波書店)を読んだが、半分くらいしかその意味が理解できなかった。そのため、グーグル先生などを駆使して、ネットに上がっている先輩諸氏の方々のブログなども閲覧してみたが、なんだかんだまさし、でまだまだハテナ感がとれなかった。

わからない時はウィキペディア。(これ鉄則)

たまたまヘーゲルの日本語ウィキの下方にある、外部リンクでスタンフォード哲学事典のサイトにバシルーラされてみた。

してみて思った事。

あ、ここに答えがあった。(ぼくの、ぼくだけのかもしれないけどもぼくの答え、求めていたものは確かにここにあった。)

かなりの分量であるが、これが一番自分の理解にしっくりきた。

これは一般にも使える勉強法かもしれぬからここに記しておく。とりあえず、今日からわからない不明瞭な事は、ウィキ日本語→英語版→からのスタンフォードの流れで行こう。

大方の哲学用語の基礎知識はこのスタンフォード辞書を読めば事足りる。当然、勉強するということはノートを取りながら読む、書く、聞く、ということだから、メモを取りながら読み進んでいく方がよろしい。

まぁ、いってみれば、これが世界の第一線で闘う際に押さえるべき初期装備なのだから装備しない訳にはいかない。



ヘーゲル美学の項目をしこしこと読み進め、とりあえず読了する頃にはかなりの英語力が付いていた、というのは適切ではない。今まで溜まっていた英語の能力が花開いたといった感じだ。日の目見ぬうちにも醸造された努力のマグマは、必ず、噴火するのだと改めて再確認した。それは普遍の真理であるから、やはり努力は、ブロードウェイト同じく、the show must go onせねばならない。


今日もちょっとした調べもので、Mughal paintingを調べていた時に、あぁ、まじで、英語を読んでいる感覚が消える感覚、いうなれば、センター英語をめっちゃ集中して解いているあの感覚がずーっと続いた感じがリアルに実地に続く感覚があった。意味が英語のままわかる。それはセンターでも普段の日常でも経験できる事だが、英語学習そのものが目的であるセンターは囲いのある四角いジャングル、いうなれば決められたルールの中で闘うボクシングに近い。英語が手段になった時、スタンフォードは囲いのないリアルガチ生存競争のジャングルで感じる全能力の萌芽といった得も言われぬ歓びをもたらしてくれる。とはいえ、喜んでいるうちはまだガキなのかもしれない。

歓びの消えた先に真の理解が待っている、と先学者は声高にかたるかもしれない。けれども、ぼくは孔子主義者であるから、学びて時にこれを習う、また楽しからずや!でいい。それで満足だ。


詠める、

目的とし英語が 手段になりし Mughal painting 読みし 涙溢るる 合掌



(参考文献)
http://plato.stanford.edu/entries/hegel-aesthetics/
http://en.wikipedia.org/wiki/Mughal_painting


2013年1月20日日曜日

むさびいったったwww

東京に来て初めて他大の卒展に行ってきた。

結論からいって、めっちゃ面白かった。芸大ブランドにかまけている人間は知らず知らずの内にぐさりと後ろからやられているのだろう。駄馬も十賀すれば麒麟に及ぶ。

武蔵野美の卒展、全体的に面白かった。油画の部屋を壊すっていう展示が印象に残っている。そして、芸文、視覚、9号館の展示もとても興味深かった。

芸大でいうところの芸術学科的ポジションに相当するのが芸文で、その学科の論文も全部目を通してきた。それを見て思った事は、あぁ、本当に芸大はクラシックな大学なんだな。ということだ。

彼らの中でクラシックな時代、中世だったり、ルネサンスだったり、まぁ、端的に言えば近代以前を研究テーマにしている人はほぼ皆無であった。いるにはいたが、ロマネスク建築とモネの睡蓮を掛け合わせたものだったり、セザンヌ作品の構図分析などがその例で、芸文の大方はやはり現代志向であった。

自分の実感としては、ムサビの芸文は、芸術学科とデザ科と音環を足して3で割ったような学部だと思った。これは自分で言うのもなんだが実に巧い表現だと思う。入念なリサーチで”新書”を一冊仕上げる、それがムサビ芸文の卒論だ。

それにしても、会場にいる、女の子顔面偏差値が芸大よりも圧倒的に高かった。是非とも一度、今まで一度も経験した事のない合コンなるものを三千世界の烏を殺してでもしてみたい。


他大見学、とっても勉強になりました。

いやぁ、設備すごすぎ。

追記:ムサビの芸文の卒論を閲覧する事ができるのに、芸大の芸術学の卒論を卒展でみることができないのはちょっとおかしいと思った。自分のたちの年には自分たちの卒論も卒展時にはぜひとも見られるようにしておきたいと思った。



文責 一ノ瀬健太

文責っていうの、一回使ってみたかったんだよね。なんかかっこいいね。

2013年1月11日金曜日

芸大寮猫の生態調査がウケる件www!!!

暇だったから追跡したった。

ダーウィンの気持ちでセンスオブワンダーに浸ってみたったwww!!!

http://www.youtube.com/watch?v=7obfFLXKrAE


2013年1月6日日曜日

松林図屏風(國華風)


月曜5限 日本美術史演習 後期課題レポート 
                                  一ノ瀬健太

松林図屏風(しょうりんずびょうぶ) 
61
紙本墨画
長谷川等伯筆(はせがわとうはくひつ)
各縦156.8 横356.0 (単位cm
安土桃山時代・16世紀
日本国、国宝指定
A-10471
画像元、東京国立博物館ホームページより:http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl_img&size=L&colid=A10471&t=(平成25年1月6日現在)

 観者は瞬時に当作品の持つ蠱惑的ともとれる幽玄世界に逍遙する。濃霧が辺り一面の視程を遮り前後不覚の感に陥るや、眼前の白一色の世界に仄かに松の幻影が姿を現す。湿潤でひんやりと大気が鼻腔を駆け昇り、一息ごとに身体の内から霧と同化して、影も形も消えてなくなって、ただ声のみを残し空に消えた雲雀のようにぼんやりした意識のみがいつまでもゆらゆらとその場でたゆたう。
 逆剥いた筆で荒々しいままに上四方に散らし描かれる鋭利な鉤放射は巧みに松を写し、その筆致には牧谿筆『観音猿鶴図』(大徳寺蔵)右軸猿の体毛の表現模倣が見られる。乱反射した水分子に深奥感ある空間表現を演出させるのも同氏の影響であろう。同左軸を模倣した鶴が布置されている等伯筆『竹鶴図屏風』(出光美術館蔵)左隻にはその空気遠近法の消化と応用が垣間見られ、両の技法が『竹林猿猴図屏風』(相国寺蔵)で如実に展開され、本作においても遺憾なく発揮されている。描かれている松林という景物は大和絵伝統の作例である浜松図にも見受けられることから、本図は和漢双方の学習効果が高次元で融合した希有な作品と言える。
 本作は牧谿の柔らかで暈すような筆致から力強いシャープな作家独特の荒々しい描線へと変化しつつある過程、さらには没骨法的深奥表現から大和絵的平面性に回帰していく等伯様式のターニングポイントの頃に描かれたものと推測される。『枯木猿猴図屏風』(龍泉庵蔵)の前、又は同時期に描かれたものであろう。あえて明瞭に年代を特定すれば天正十七年(西暦1589年)頃か。等伯51歳の時に描いた三玄院障壁画『山水図襖』(京都・圓徳院蔵)、とりわけ『松林山水図』(樂美術館蔵)の作中の松に既に本作と同様の表現原型が見られる。等伯自身、この頃には智積院障壁画制作を通じた大画面様式での省略表現に熟達していたことと、また絢爛豪華な狩野派へのカウンターパートとしての長谷川派の位置付け、及び愛息子久蔵の夭逝も加わった悲しみの心的境遇がその背景にあるとも推察される。
 等伯は雪舟五代と称し自らを売り出していた。雪舟の系譜に連なると自覚し、場は京都、「天下画工の長」ともなれば必然的に文人、茶人、高位者と交わる機会も増え自然と禅の影響も受ける。書は「有声の画」、画は「無声の詩」と称されるからこの白と黒の濃淡が奏でる水墨の禅の教えに耳を澄ますのも一興である。下記の文章、詩を画に置き換えてみても又一興。

 ―苦しんだり起こったり、騒いだり泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年間それをし通して飽きあきした上に、芝居や小説で同じ刺激を繰り返しては大変だ。世が欲する詩はそんな世間的人情を鼓舞するようなものではない。俗念を放棄して、しばらくでも塵界を離れた心持ちになれる詩である。うれしい事に東洋の詩歌はそこを解脱したものがある。採菊東籬下 悠然見南山 只それ切りの裏(うち)に暑苦しい世の中を丸で忘れた光景が出てくる。―
                            『草枕』夏目漱石著より
 
 禅的観点から本作を見れば、視界全面の霧は人牛倶忘の虚白であり、観者を在家のまま束の間返本還源に連れ立つ。先はまた尋牛するもよし、入鄽垂手するもよし。清明の時節に霧紛紛とする中、杏花村に逗留するのもいい。しかし、本作は冗長と虚空に耽ることを許さず尋思して世を避けた逋客となろうとする観者に厳しい目を向ける。本作は智積院障壁画と共に安土桃山に惜敗して散って逝った武将たちの心象風景に思いを寄せることを要請して止まない。
 目下国宝扱いされている本作も実は『月夜松林図屏風』の草稿下絵であるとはあまり知られていない事実である。何を隠そう本作は異例な程薄い粗末で錯綜した継ぎ接ぎ紙に描かれているが、これは障壁画としては明らかにおかしい。『月夜松林図屏風』と見比べれば一目瞭然であるが、その構図は現在の両隻を左右逆にした構図に全く等しくなっている。さらによく目を凝らして見れば左隻左端にわずかに覗く枝の先端部が右隻右端の松の延長部分の可能性が濃厚だ。私たちが見慣れている本図両隻の配置は実際のところ左右逆であるかもしれない。もっとも『月夜松林図屏風』は等伯筆であるか定かではなく、一説によれば長谷川派の正式な門人たちによって制作されたものとされている。しかし、その月や松林に諸行無常の露の夜霧がかかることに変わりはない。

 月さびよ 明智が妻の 咄せむ  
                                     芭蕉

 本作が下絵であろうとなかろうとその美的体験は不動である。先述の通り、靄に霞む松林は一刹那に、黒澤明の『乱』の世界に、また渡邉健出演の『ラストサムライ』の冒頭に、そしてまた先の東日本大震災の一本松へと観る者の魂を誘う。見せびらかすのではなく、ほのめかすこと、それこそが日本の美の秘訣であると岡倉天心は語って随分と久しいが、本作もそのたぶんに漏れぬまごうことなき日本美術の精華である。してみると本作は幽玄を超えて”あはれ”に行き着いた。だが、たとえどんなに本作が優れていようとも、どうやら草枕のラストシーンを飾ることはできそうもない。なぜなら、この作品には”あはれ”があり過ぎるのだ。                   (全2204字)










2013年1月1日火曜日

のめしこき

新年明けましておめでとうございます。

本年もふつつかものではございますが、日本一の、のめしこきこと一ノ瀬健太をよろしくお願いします。

のめしこき、なんてすばらしいことばなんでしょう!今年はこの言葉をねぎっこと同じく全国規模のものにしたいと思います。

それでは毎年恒例、年末年始のめしこきエセーのはじまりはじまりー!

だらだらすごしてしまう、年末年始、机に向かえば、向かう度、なにかとお茶はいるか、電気の球変えてくれ、ご飯できたよ〜!とか至れり尽くせりな素晴らしい魔法のような、ソロモンの王のような生活を送っています。超人気もののぼくですが、それはそれで、勉強に全く身がはいらないので、今年は早めに切り上げて3日の夜には東京の戻ろうかと思います。

いやぁ、とかくに人世は住みにくい。

普段はこんなに駄弁を弄さない僕ですが、今日は勉強に身が入らず、ブラインドタッチの練習がてらも兼ねて士君子にあるまじき駄文を連ねさせていただきます。






こんなタラタラとした文章を書くのは一年に一回のこの時期だけです。はい。

ではでは、ぶつ切りエセー続きです。

気づいたことメモ。変化としては、一昨年くらいから自転車にのれなくなったばあさまが、ついに移動の際にハイハイになりました。赤ちゃんに戻るとはまさにこのこと。いやぁ、これはオイディプスのスフィンクスも吃驚でしょう。はじめて四つ足、次に二本足、最後に三つ足、これなーんだ?

人間!


というのはもちろん正解なのです。

まぁ、年末年始暇なので、トリビアもセットでつけまつげしておきましょうか。これには実は逆パターンもあるわけで、先述の4-2-3のダブルプレーバージョンが世間的には広くしられていますが、もうひとつ2-4-3の変則ダブルプレーもあるわけです。その答えはオイディプス!この青年、壮年、老年パターンもあるわけですが、いずれにせよ、うちのばーちゃんは4-2-3-4の常道後期高齢者医療制度トリプルプレーとなったわけです。



毎年、この春休みのこの時期に一冊本を仕上げています。一年に一冊ペースでしょうか、佐々木俊尚さんと同じペースで仕上げております。

もう、同期の友人たちとは話が合わなくなりつつあります。あえば過去や仕事の悩み、愚痴などを聞かされるのはあまり建設的でなく、ぼくはイチローのような今と、未来を語るものたちと貴重な残り少ない時間を費やしたいと思います。しかし、同期と話が合わなくなったのは事実ですが、なぜだか、後輩たちとは話があってびっくりしました。類は友を呼ぶといいますから、私も魂のレベルはそんなものなのでしょう。それほど賢くはないですが、普通に楽しくそれなりに今を生きてる奴らです。彼らと過ごした除夜の鐘からの新年会、とってもおもしろかった。よかった。よかった。精進。精進。

!!

ごはんができたというので早速、いかねばなりません。おちついて文章を書く暇もありません。テイラー展開しているときに呼ばれるのが一番辛いですwww!


あー、おかんのきげんがわるくなるといけませんので、ちょうすーぱーしりきれとんぼ状態でこの文章を挙げてご飯に行こうと思います。

それではみなさん本年も良いお年を!

そして世界ののめしこきこと、一ノ瀬健太をよろしくお願いします!



なにかおしごとください。