2013年5月19日日曜日

現代アートが終わりとか言ってる奴wwwワロタwww!!!

現代アートについて岡田としおさんが語るユーチューブ動画を見て、とても参考になり、考えさせられた。

アート(主に西洋の文脈に基づいた、歴史に基づくコンテキストを有している、主に造形美術品(当然、近年のメディアアートを含む))の定義は、作家が芸術系大学を出ているか、どうか、と、なおかつ、歴史に則って自分の作品をカタク(論理武装で、ペダンティックに)説明できるか、どうか、と、そして、お金持ちなハイソな人たち(アートワールドの住人含む)の所有欲を巧くくすぐることができているかどうか、で決まるのだな、ふぅ、と思った。

(反論の余地のない)現代アートとは、現代に生きるアーティストが、上の3つの要素を満たす作品を造ることである。それが出来ていれば、とりま、現代アートと言っていい。

それが出来ていないものは、アートであるが、(現代)アートではない、ということになる。

ぼくもアートワールド(芸術生態系)の住人(まぁ、ランク的に言えば、ダンゴムシクラスかな。たとえを挙げれば、人間クラスは、ジェフ・クーンズさんとか、ダミアン=ハーストさん、これらは、まぁ、王様クラスだね。人間の中でも。村上隆さんとかは、公爵クラスか、まぁ、草間弥生ちゃんさん、とかも正直クイーンと言っても良い感じがする。著名な大学教授やギャラリストでも公爵、まぁ、ロザリンドクラウスとか、正直批評家にも王クラスはいる。まぁ、皇帝は、アートワールドにはいないのかもしれない。)だから、批評にはもう半ば飽き飽きしている。これ以上、ぼくの中に塩は溶けない飽和水溶液状態だ。まぁ、溶けるものは小林秀雄くらいか。したり顔で他人のふんどしで相撲を取る批評家にはあまり与しない。正直、批評もアートシーンもどうでもいい、というのがハナモゲラ、意味等無く、ハナモゲラである。つまり、てきとーにどうにでもなってくれ、とりあえず、自分が穏やかに暮らせれば現代アートがどうなろうと、


Apres moi le déluge !




とりま、人間ってのは表現の場所が無いと鬱屈して”黒々とした得体の知れないもの”が溜まってきて、発散したくなってくるから、白魔法としてなかば、灰色魔法として放出したくなるから、みながみなが百家争鳴で議論しあう、ある者は的外れな人格攻撃のなべのふたで、ある者は本質をぐさりと突く怜悧な思考のナイフで、みながみなバトルロワル。それでいいじゃん。みながみんな、いいたいこといってさ。みんなでガス抜きしあってさ、その中で建設的な議論が産まれればそれに越したことは無いし、いっかい、一斉にアートワールドの住人が、みんなで同時に2ちゃんスレに書き込みすれば何かがうまれるはず、トゥギャッターのまとめにくくられるようなハブ的な人が中心になって議論が形成されていくだろうけど、素人のガヤガヤがないと、盛り上がらないし、その熱量が無いと最後の真理の扉は開かないような気がするわけね。


アートワールドのダンゴムシにとっては何が現代アートか否か、ってのは、ほんっと、正直、心の底から、どうでもいい話で。それよかは汗水流して型を作っている海洋堂のスタッフや、動画担当アニメーターを尊敬している。とはいえ、ぼくにできない難しいことばを用いて内輪だけに通じる文法で、むしろ、そっちの方がオタク的で、そっちのほうが専門的な知識を有するからニワカが繁殖できない場でありそう?、まぁ、批評している批評家も正直、心の底では尊敬してたり、して、まぁ人間の心は欧州事情と同じで複雑怪奇だ。何が現代アートか語るよりもぼくはベーシックインカムの方がプライオリティーが高い。そっちの動向の方が5億倍気になる。

若手自称アーティスト(ぼくは彼らをアーティストと思っています)がよく集まって何か話し合うってのも、めっちゃ、すーぱー超超マルティテュードだから、意味はあることなのであろうけれども、なんか、やることがないからやっていて、鬱屈した者をとりあえず、だしとけ、みたいな。ミニミニ宗教の集会っぽくて、これもぼくの体質に合わない。各人が各人で掘り下げ、各人が各人の指針を持っていれば、正直どっちだっていいし、芸術うんぬんかんぬんを定義してやりがいを見つけている人がいれば、それはそれで素晴らしい白魔法だから、存分にやってください。ってわけ。

ソクラテスたちだって、云々かんぬんしていたのだから、それをとやかくいうつもりもない。だから、何度でもぼくはいうが、正直、アートとかどうだっていいのだ、これでいいのだ。ハナモゲラ。酒が飲めれば、それでいい。あー、ソクラテスとか絶対2ちゃんねらーだったっつーの。んで、プラトンは絶対同人誌超擁護してるよぉ!彼らは秋葉原と親和性が高かったのだ。ギリシアと秋葉原は螺旋階段の同一ポイントの上と下の関係に過ぎない。もちろん、秋葉原の方が真理の階段に近いほう。上か下かはどうでもいい。中心か周縁かもどっちだっていい。扉に近い方、そんだけ。

ぼくはボードレールを読むし。タモリがぼくの師匠であるから、赤塚不二夫でいたいだけだ。そして、お前の判断力批判的な趣味は何かと問われたら、アニメや同人誌の方が感情を揺さぶってきますから、そちらの方が好きですし、ぼく当人としてはやっぱり、そっち系のほうと親和性が高いのであります。

結局、何が言いたいのかというと、単なるブラインドタッチの練習なので有りました。

ちゃんちゃん/


”得たいの知れない黒々としたもの”について知りたい方、人間藝術家宣言をお勧めします!!!

あじゃじゃしたー!

追記;んで、休日にはモーツァルトの41番、クライバーのやつ、聴いてりとね、あぁ、芸術特有のクオリアってのがあって、エヴァを見ている時に感じる、クオリアと、モーツァルトの41番のクオリアと、レニーのブラームスの交響曲第一番のクオリアってのはやっぱり、質が異なるわけであって、みんなちがってみんなよくはあるんだけれども、その違いがあるってことと、それに上位、下位、高級、低級って、クオリアに価値を付けるのも、人間の営みなのね。差別は感情で、特権階級の優越感で芸術は進歩、それがダメなら変容、してきたわけだから。その価値の呪縛から自由になれた時にはじめて、エヴァはベートホーヘンと肩を並ばせることが出来るわけね。だけど、それを同列に並べていいのかって言う問題と、それをどうして並べていけないのか、っていいう問題があり、つまり、俺は何がいいたいかっていうと、芸術の感動の、クオリア、芭蕉的なものもあれば、ジャッカス的なものも、あって、ガンダムもあれば、ショパンもあって、それが個人に与えるインパクトの少なくとも二つのパラメター、質と威力、閾値でも可能、があるし、パラメーターは二つだけでなく3つでも、4つでも、それ以上でもいいってこと。

この質は等価でない、てことと。イコールならばベートーヴェンとエヴァはまったく同じってことになるから、問題、問題っていうのもおかしいが、それは制度(受容者、ラカン、作者の死とかも含めて、含めるけれども、それも正直どうでもいいが)の側にある。

そ、端的に言えば、その作品に高級な神を感じるか、ってことだ。

つまり、もっと簡単に分けると、手塚治虫、さらに詳細に迫れば火の鳥とベートーヴェンは近い。

エヴァと、ボードレールは近い。

芭蕉と、カニングは近い、的な、近さ。

わかるかな〜、わっかんねえだろうな〜/