沈潜、いいことばだ。これを日常生活で実践できる人だけが世界をオイスターとすることができる。(シェークスピア、分かる人だけ分かればいい。)
わかるひとだけわかればいい芸術作品は、分かる人だけにしか伝わらないからある種の特権的エリート主義的な、おれだけがわかってるぜ、へへ、じぇじぇじぇ、的な優越感をもたらしてくれる。エヴァも村上春樹も、インセプションとかもこの辺をうまくついている、という批評家のどうでもいい指摘、現代アートと同じで取り上げたらその時点でまけんこグミ。ったてなもんで、すったもんだがありまして、メタにとらえたところで、だからそれがどうした。だからどうした、それがなんとかなんとやら〜(クレヨンしんちゃんのオープニング?昔の)ってかんじだよねー、だよねー、いうっきゃないかも、そんなときならね(このだよねー、の流れ、多いな、自分。乙!)
abject art を調べていて Herman Nitsh,GG Allin とか諸々の芸術作品を一挙に閲覧した。世界はabject art だらじぇ、けっこうけだらけねこはいだらけな黄色いハンカチだらけだ。(善も悪も、いいも悪いも、地球浄土。南無南無。)
人間の思考をより忠実にありのまま抽出するとこんな文体になる。進化論的な非言語脳が脳の大部分を占める本体だから、その右脳のレベルを解放、もしくは左脳のメタ意識を極力アウェアネスを下げて、内観して、非言語脳に忠実な文章を書くとこうなる。
戦争は究極の abject art であり、まぁ、魚とか、鳥、虫、獣からすれば毎日が戦争で、社畜、ブラックもみんなショッカーみたいなもので、ばかにしてまてーん。は〜い、とぅいまてーん!最も賢い処世術は、世間を卑下し、下卑し、見下し、嘲笑し、俯瞰し、鳥瞰し、爆速読で、しかもなお、そこからいっさいはみ出さないように処世することなのですから!自分もなんだかんだで組織に属するショッカーですから、そして、ショッカーも家に帰れば家庭がある訳で、最近は秀吉や信長やナポレオンよりも、のぼうや柴田勝家、的な黒沢が描きたかった名もなき小市民的なものにフォーカスが移りだしている。さすが、リトルピープルの時代なわけでありんす。
ゴールドマンが語ったように、趣味判断は、チーズとともに消えた。だから芸術定義ができなくなったわけではなく、芸術が細分化してみながみな一定数のパイを持つ、おたくのネットによる規模の拡大化、ってわけで、みながみな小市民権利を近代啓蒙思想を経たマグナカルタ的法制度の恩恵を被っている、というわけだ。
なんか、無性に文章が書きたくなったからかみまみた。
人と話すことは素晴らしい。観念でなく、身体で語る人のことばはたのしい。説得力もあり、イマジネーションに引き込まれる。見習いたい。場数を踏んだ人のことばは心に美と同じく税関を通らず、アルミサエルかっつーの(ジャイアン風)くらいに侵入してくる。
人と話すことが億劫である。人と話すと気を使うからだ。気を使わない人と話すのは楽だが、刺激もまた少ない。気のおけない、知的に興奮させてくれる友は得難い。得たら死んでも離すな。
わかるひとだけ、わかればいい、という文章をかいてみたったw。年末。
12月20日 下の練習室から聞こえてくるボレロを聴きながら
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