2014年1月18日土曜日

芸術の最終定義 -The Final Definition of Art-

https://www.youtube.com/watch?v=5rGKCefnM_A

 いよいよ来週から芸大で卒展がはじまる。

 これは普通の展覧会よりもかなり面白い。会期が一週間と言うのは短いくらいだ。こんなに面白いコンテンツなのだから、すくなくとも2週間はやるべきであろう。日曜美術館もぜひ取材にくるべきだ。マエストロの作品ばっかり追うんじゃなくて、”今”を少しは追ってみたらいい。ケネス・クラークだって高階秀爾先生だって追ってるんだから、すこしは追ってみたらいい。(ケネス・クラークが呼び捨てで高階秀爾に先生を付けるのはいったいなんでなんだろう?距離の近さか。カントやゲーテにゲーテさんとかつけないもんな。偉大になりすぎるか、また時の淘汰を経ると、敬称が消えるのかもしれない。へーへへーへーへー、34へー(トリビアのイズミ)そうしえば、むかし、なんとか泉が反町隆史と付き合ってたっけか。ま、そんなことはどうでもいいねねちゃんのままー。まさおくん!わーっはっはははっは!アクション仮面とみせかけてカンタムロボ!!北風小僧の寒太郎!池中玄太80キロ!

 芸術学が衆人環視の目に曝されない限り実技に低く見られても仕方がない。実技は有無を言わさず矢面に立たされる。背中で語らざるを得ず語れば言い訳になるから沈黙を守る潔さの点が尊く、自分もそうした身体を張るアスリートとして彼らと肩を並べて対等に対話できるようにネットに卒論を挙げた次第だ。

どうぞ、よろしく僕の卒論をご覧ください。僕は言い訳はしません。利口でもないから反省もしません。賢い奴らはたんと反省するがいい。ぼくはコバヒデと同じで馬鹿だから反省はしません。ただ、読み返して、あ、ここをこうするともっとよくなると思ったら直しますが、モーツァルトの交響曲と同じなので一文字たりとも文字を修正することが出来ないかもしれませんがw。

それではどうぞ。ごゆっくりお読みください。



論文要旨

 デュシャン以降のアートヒストリーを受けてダントーは「芸術は哲学となることによってその役割を終えた」とする芸術終焉論を唱えた。現在の芸術界はまさに彼の言う通り美的完全性を放棄した知的感性ゲームの戦場となっている。何が芸術であり、芸術でないのか、芸術界では百家争鳴の状態が続く。本稿はそうした葛藤状態を解決するための一つの案を提起する。技術や美術を含んだ人間の為す全体の営みとしての芸術史を踏まえ多様化を極める芸術の定義を語源である人為に一度、原点回帰させ、その人為がどこまで拡張可能かを伝統的美学芸術学と認知科学の視点から考察し、「人間に関わるすべての現象に芸術が関与している」ことを証明した上で、ダントーが語った芸術の哲学としての終わりの意味を概念操作に見い出す。現今のクラスター理論では定義基準に恣意性の余地が含まれるため砂山のパラドクスを脱し得るのは難しい。畢竟本稿における最大の利点は美術としての意味合いの強い芸術概念の適用範囲を本来の語源である人為に帰着させることで既存のクラスター理論を補強し、芸術であるか否かといった命題を、どのような芸術であるか否かといった命題にシフトさせることにある。
 第一章では一般的に用いられている広義の仕業としての芸術の定義をステッカーを参考に吟味しそのエッセンスを抽出する。第二章、第三章では第一章において抽出したエッセンスについて技能の獲得や学習、意図的か否か、といった観点から認識や心内にまでその定義を拡張する。第四章では前章を踏まえた上で現在の芸術定義の諸問題が人間の神経系的特質に由来するプロトタイプ理論に基づいた家族的類似概念の必然的拡張化の過程に原因があることを突き止める。ダントーが語った哲学としての芸術の意味を因果律に裏打ちされたカテゴリー操作に求め、クラスター理論を補強し、多様化した芸術概念に一定の終止符を打つ。第五章では人為にまで拡張した芸術概念は人間に関わるありとあらゆる現象を網の目に結びつけ、人間の両義性及び他者との不可分性を悟らせより良き生の謳歌へと導く。

 芸術定義の原点回帰とそれに伴う概念拡張は美術の定義であるクラスター理論の補強を促すことと共に人類全体の福祉の向上に貢献できることを示す。心内に拡張された芸術定義は、心の中で他者の痛みを想像することを創造的な芸術行為であると認める。芸術とは「あるべき姿かたちを探求する」カテゴリー操作であり、人間が人間である限り欠くことのできない学習と因果律と生産関係とに密接に繋がった人間存在そのものである。芸術という現象は人間だけに限られたものではないが、その出発点として人間の認識カテゴリーとしての人為を通さなければ存在し得ない。 言語や文化、学問は人間の芸術の産物として世代ごとに作り変えられながら受け継がれる。究極的に人間は何らかの人工的環境を構築するだけでなく、究極的にあらゆる種類の人工的環境に従属している。これを生産関係とも巨人の肩とも形容できるだろう。数学は数の芸術であり、科学は自然法則を導きだす芸術である。美術は多種多様なコンテキストを含んだ美しい芸術である。美は美を生み、存在は存在を生む。本稿もまたそうした意味で世界を変革する小さな作品のひとつであり、存在の連鎖に包摂される。人間の存在は神経可塑性レベルで必ず相互に影響を与え合う。人間は必ず人為と人為の網の目に連なりその為す仕業は善きにしろ悪しきにしろ鎖となって宇宙に伝わる。人生は短いが芸術は永い。ゲーテのことばを借りれば、芸術とはまさに人間が存在し生きた証である。かつてドストエフスキーが美は世界を救うと語ったが、芸術網もまた世界を救う一つの概念足り得るだろう。本稿を通じて人は三千年を解く術を身に付ける。本稿はまさに芸術の終焉に相応しい記念碑的芸術作品である。



これより本編
https://www.youtube.com/watch?v=5rGKCefnM_A





















芸術の最終定義(pdf)

https://drive.google.com/file/d/0B7fRE94ENmncbXVMSlBGRmplRDA/edit?usp=sharing




































芸術の最終定義(標準テキスト)*注が下にいかないとみれないので読みづらいかもです。pdfの方が脚注があろ、読み易いです。



以下本編



 デュシャン以降のアートヒストリーを受けてダントーは「芸術は哲学となることによってその役割を終えた」とする芸術終焉論を唱えた。前衛が「やってみることがなくなった」現在の芸術界はまさに彼の言う通り美的完全性を放棄したと言っても過言ではない知的感性ゲームの主戦場となっている。何が芸術であり、何が芸術でないのか、芸術界では百家争鳴の状態が続いている。本稿はそうした葛藤状態を解決するための一つの案を提起する。技術や美術を含んだ人間の為す全体の営みとしての芸術史を踏まえ多様化を極める芸術の定義を語源である人為に原点回帰させ、その人為がどこまで拡張可能かを伝統的美学芸術学と認知科学の視点から考察し、ダントーが語った芸術の哲学としての終わりの意味を概念操作に見い出す。クラスター理論は芸術に付与する特性の集合として芸術を定義しようとするが、現今のままでは定義基準に個々の恣意性の余地が含まれるため難しい。畢竟本稿における最大の利点は美術としての意味合いの強い芸術概念の適用範囲を本来の語源である人為に帰着させることで既存のクラスター理論を補強し、芸術であるか否かといった命題を、どのような芸術であるか否かといった命題にシフトさせることにある。つまり、美術としての芸術を詳細に区別でき綿密な議論が可能となる素地を生み出すことである。また同時に芸術が、人間に関わるすべての現象に関与している、ということを証明し、人間が常に正と負の両義性を併せ持つ芸術を織り成す主体であることを喚起し、ボイスの語った社会彫刻を認知科学的観点から擁護することである。なお本稿においては芸術=芸術作品ではないこと、及び美術、美術品ではないこと、また芸術に必ずしも美的要素が必要ではないこととを予め断っておく。
 本稿の流れを説明する。第一章では一般的に用いられている広義の仕業としての芸術の定義をステッカーを参考に吟味しそのエッセンスを抽出する。第二章、第三章では第一章において抽出したエッセンスについて技能の獲得や学習、意図的か否か、といった観点から考察し認識や心内にまでその定義を拡張する。第四章では、前章を踏まえた上でダントーが語った哲学としての芸術の意味を因果律に裏打ちされたカテゴリー操作に求め、クラスター理論を補強し、多様化した芸術概念に一定の終止符を打つ。第五章では人為にまで拡張した芸術概念は人間に関わるありとあらゆる現象を網の目に結びつけ、人間の両義性及び他者との不可分性を喚起させより良き生の謳歌に導く。


目次

序  5
第一章 芸術/仕業  8
第二章 技能/学習  11
第三章 意識的/無意識的  14
第四章 因果律/カテゴリー  18
第五章 芸術網  22
結論  25
謝辞  26
参考文献  27


凡例

・原則として諸符号の転記は慣例に従うが、()(かっこ)、「」(かぎかっこ)、『』(二重かぎかっこ)は文意を通すために比較的自由に用いる。文章の力点を強調するために適宜傍点を付す。
・引用に関しては「」(かぎかっこ)で括り、直後に()(かっこ)内にてその原典を記す。また「」内における『』は原典における「」である。
・原語を表記した方がよいと思われる箇所には、適宜、原語を用いて表記する。
・()内における参照は基本的に著者の姓とその著作物の発行年、頁番号または章名を記す。原典に関しては参考文献を参照せよ。
・参考文献は和文献、欧文献に分けて記載する。前者に関しては五十音順、後者はアルファベット順である。また別途、漫画、映画の項目も設ける。















第一章 芸術/仕業

 一般に芸術を定義する際にはその必要充分条件を突き止めようとする。第一章では現在広く用いられている芸術の定義として佐々木の言葉を借りつつ、そこから現在の芸術哲学的文脈(ステッカー、第一章 はじめに)に則った上で芸術定義に関する必要十分条件を導く。佐々木の定義は「人間が自らの生と生の環境とを改善するために自然を改造する力を、広い意味でのart(仕業)という」(佐々木、p.31.)であり、さらに佐々木は続けて「特に芸術とは、予め定まった特定の目的に鎖されることなく、技術的な困難を克服し常に現状を越えて出てゆこうとする精神の冒険性に根ざし、美的コミュニケーションを志向する活動である。」(同書、同頁)と述べる。art と芸術といった言語の種類や地域・時代による意味の相違(Dutton、Chap.3 Ⅰ)を認めつつ本稿は前者の意味における仕業としての芸術の定義を吟味し、後者の意味における美術としての芸術に関しては次章で言及する。同氏の言葉に従えば、芸術とは人間が周囲の世界を自らで自らのある特定の目的のために作り変える能力全般である。改善とは先立つ状態より優れている状態に変えることからも、自然という認識可能な世界をある特定の望ましい方向に変化、導くことを意味する。つまり芸術とは解釈学的循環的に自然においての「あるべき姿かたちを探求する能力」と言い換えられる。第一章は以下それを吟味する。
 まずは「姿かたち」の定義からはじめる。「姿かたち(佐々木、pp.109-118.)」とは名詞であり、姿と形とが同語反復的であるが、その実は存在形式に置換可能である。現実の世界にある認知可能な物体そのものだけでなく、動きや心内イメージ、概念も含む。例を挙げれば、キャンバスそのもの、またそれに描かれる絵画、大理石そのもの、またそこに刻まれる彫像、楽器そのものや声そのもの、またそれによって奏でられる音楽、ダンスそのもの、またそれを踊る身体そのもの、その一連のムーブメント、またソフトウェアそのもの、及びそのコード、人そのもの、及びその顔立ちや性格、態度また対人関係、組織、政治体制等である。「姿かたち」とはありとあらゆる名詞的カテゴリーを意味する。
 次に「あるべき」の定義である。「あるべき」とは当為の形容詞であり、宗教的、倫理的、道徳的、美的、快的、機能的、法則的、進化論的、生得的に望ましい、最適な状態を意味する。理想的といった形容詞に置換可能である。あるべき=理想的、とは主にある存在形式にとって造形・非造形を問わず真であったり、善であったり、美であったり、壮であったり、目的に適ったりといった「よい」状態を意味する。ある個人にとっての望ましい状態はゼロサムゲームの場合その個人以外にとっては望ましくない状態を意味するが、本稿では「あるべき」とは少なくともある一つの存在にとって価値論的にポジティブで望ましい状態であればその語義を用いる。空を飛ぶことやハーレムといった物理法則を無視した、現実離れした妄想も当人にとっての望ましい状態であるならば「あるべき」状態に含む。
 最後に「探求」の定義である。「探求」とは文字通り探し求めることである。ある目的に向かっての志向性であり、なおかつ現実、心内を問わず理想や目的に自身や物事をある方向や状態に近づけていく過程や結果である。また、あるべき状態の維持や、そこからよりあるべき状態を探ることも含む。
 つまり、芸術とは「存在形式の理想を探求する能力」ともまた言い換えられる。上記の定義を満たすものを芸術とした上で次章から本論を認知科学よりに進めていく。











第二章 学習/技能

 画家や彫刻家は自らの心内に生じる理想のイメージをキャンバスや大理石といったメディアに表現するため、美術としての芸術が上記の定義を満たすのは合意を得やすい。だが本稿は美術だけに芸術を留めるつもりはない。ではどこまで適用可能であるのか。本章では「見る」・「聞く」・「話す」・「読む」・「コップの上げ下げ」といった一見すると容易に感じられる「無意識的な複合運動」(田中、3.1.1. 運動の階層性)という行為にまで学習と技能の獲得という観点から芸術という概念を拡張する。
 当然「コップの上げ下げ」は美術ではないから、芸術を美術作品と同様の意味で用いている者には誤解が生じる。端的に言って美術とは18世紀に発明された芸術の一つの分野である(Shiner、2003)。美しいと知覚され得る芸術の集合が美術を形成し、その前段階として芸術が関与する。日本において美術と芸術とが混同して用いられていることはその概念形成の過程を鑑みれば仕方ないが(北澤、2010)、本稿は両者を厳密に区別する。再三繰り返しになるが、芸術は美術ではない。美術とは美的要素がクラスターとして集合した芸術である。これに関しては第四章で詳しく述べる。
 マエストロの筆致や「見る」・「聞く」・「話す」・「読む」・「コップの上げ下げ」といった仕業はいずれも行為者のある一定の意図を持ち、そしていずれも同一に学習の延長線上にある。
 私たちは「見る」という行為を美術館やジャングルといった環境の変化に応じて、そのモードの状態や意識のフォーカス、焦点を調整する(川畑、第一章 美術作品に向けられるまなざし)。また「聞く」という行為に関しても人の声を「聞く」のか、周辺の音を「聞く」のか、音楽を「聞く」のかで意識のモードを変える。文字を読むということもまた言語学習と努力を要する行為である(村上、第六章 言語 pp.89-105.)。そしていずれの行為においても訓練によって一層ある特定の目的に鍛えることができる。上記に示した行為以外にも人間にとって基本的な行為には芸術が働いている。
 「コップの上げ下げ」はそうした基本的な芸術の集合によって為される。確かに「コップの上げ下げ」は取るに足らぬ挙動であるが、認知科学から考察すればコップ一つの上げ下げにもマエストロの筆致と同じく多くの芸術が凝らされていることが伺える。
 まずはじめに初動として眼前の世界を見る。一見すると容易に見える「コップを上げ下げする」動作もまた記憶を伴った学習(村上、p.156.)に裏打ちされている。過去の記憶と照らし合わせ「コップ」という言葉で世界を区切り認知する。適切な早さと正確さで「コップ」に手を伸ばし、掌を開き、コップを落とさぬよう、壊さぬよう適切な力で持ち上げ、幾度か上げ下げを行い、また元の場所に戻す。この動きの背後には膨大な情報が処理されている。眼球、網膜を通じて得られた視覚情報は、視神経シナプス間のやり取りを通じてLGN(外測膝状体)に送られ、三種類の細胞層で並列的に処理される(同書、p.60.)。「コップ」のある位置に対する奥行きの知覚には様々な奥行き手がかりが利用される。左右の眼が離れているために観察距離に伴って生じる網膜像のずれである両眼視差、また両眼視差の情報から右眼と左眼の画像のどの部分が対応しているのかを決定する対応問題を解決する。眼の焦点を意図的にずらして立体的にみることができるランダムドット・ステレオグラムを用いる。さらに脳内にある「図形的特徴ではない、単なる光の空間分布の左右眼の違い、すなわち視差エネルギーを直接検出する装置」(同書、p.64.)を経て、奥行きを知覚すると同時に、背景と奥行きの区別を付ける。また光は電磁波の集合に過ぎないため脳内で明るさ・色・質感の補正も行われ、様々な手がかりと制約条件を用いて光強度データを環境照明・表面方位・表面反射率に切り分ける逆問題を解いた結果、表面の明るさを知覚する(同書、p.66.)。また物体表面の質感の知覚において、照明や形状などの情報を用いた高次な計算ではなく、網膜像における単純な統計的性質のみから光沢感や透明感などが知覚される(同書、p.66.)等、低次の情報処理から、高次の情報処理に至るまで複数の水準の処理が、質感の感覚を担っている。その間においても「コップ」に関する語彙検索(同書、6.5 語彙アクセス)が行われ、心内辞書の概念層、レンマ層、形式層の三層モデル(同書、p.93.)で「コップを上げ下げする」と心内で言語産出し、「コップ」という対象を言葉で認識し、内発性注意(同書、7.3 内発性,外発性注意)で意思決定を下し、行為に移す。手を伸ばす動きについても複雑な行程を取る。運動制御の計算論では通常、軌道決定・座標変換・制御の3段階を経て、運動指令(特定の力を出せという指令)が生成される(村上、pp.134-135.)。それぞれの決定や変換のモデルとしては躍度最少モデル、トルク変化最少モデル、終点誤差分散モデル(同書、pp.138-139.)が挙げられ、上記モデルで説明され得る適切な最短距離と適切な力加減で「コップ」まで手を伸ばし、掴み、上げ下げする。私たちは幼少の頃に少なくとも一回はコップを倒し、牛乳をテーブルの上にぶちまけたことがあるはずだが、このこととマエストロたちの初期の拙い筆運びとは同じ学習の途上にある(田中、3.1.2 運動のシステム制御)。当然、学習とはそうした基本的動作だけに限られたものだけではない。ターナーとペッペルによれば、ことばや数計算といった潜在能力を開発するには社会・文化的文脈を必要とするが、そうした文脈の中で学習されるのは何も特殊技能や伝達能力に限ったことではなく、覚醒、定位、注意、動機づけ等の基本的能力もまた学習されると言う(レンチュラー[ほか]、p.54.)。
 学習とは技能の獲得であり芸術の語源に通じる。そもそも学習という行為自体が所与にしてある特定の目的を持つ。特定の目的意識を持ってそれを実現しようとする行為は先に示した芸術の要件を満たす。それゆえに「コップの上げ下げ」という行為も、「見る」・「聞く」・「話す」・「読む」と言う行為もマエストロの筆致と同じく芸術である。当然両者には美的な意図にも、結果としてもたらされる産物の美的質(佐々木、美的質/美的範疇)にも隔たりはあるが、その行為が芸術であるか否かには関係がない。一般的には芸術と見なさない「コップの上げ下げ」のような行為をも芸術とみなす利点については第四章で説明する。上記から目的や意図を持って行う人間の営みには芸術が介入する。では意図しない芸術についてはどうであろうか。次章ではそのことを考える。

















第三章 意識的/無意識的

 意図的とは意識的に置換可能であり覚醒状態における精神状態の一つである。一般的な精神状態には覚醒状態の他に睡眠状態がある。覚醒状態においては日常のルーチンワークに見られる半自動的な「認知制御」と新奇な状況下で柔軟な対応を行う「実行制御」があり(田中、 第五章 5.1 認知制御とは)、その中において注意散漫状態と注意集中状態とがある(同書、p.55.)。上記に示したように前者の注意集中状態下に為される行為は意図的であるため芸術が作用する。
 では注意散漫状態における芸術を考えてみる。注意散漫状態にあっても覚醒していれば無意識に何らかの体勢を保っているということがある。直立であれ座位であれ保持しているバランスや姿勢があればそこには芸術が介入している。マクロな意識的状態におけるミクロな無意識的状態においても芸術は介入している。例を挙げる。意図的に散歩に出かけた場合、その途中で注意散漫状態になった場合においてもそれはマクロ的視点からは芸術が働いており、また散歩中における注意散漫状態といったミクロな視点においても「見る」、「聞く」等の五官は常に周囲の環境に対してある特定の働きを為している。さらには意識的な注意である選択的注意なしにほとんど完全にカテゴリー分類すらしている(田中、p.51-53)。芸術は意識せずとも無意識的に為される。つまり、意図的な芸術の前提として無意識の芸術が先行的に存在している。
 無意識的な随意運動以外の無意識の、とりわけ認識や心内レベルにおける芸術について例を挙げながら考察する。非言語脳固有の無意識的思考に概念の記号化を伴って為される思考はその加速器である言語(大橋、pp.196-199.)を用いているため、それを伴った思考それ自体が既に芸術の産物であると言える。ニーチェは「言語という牢獄のなかで思考することを拒否するとすれば、思考をやめなくてはならない」と述べ、ヴィトゲンシュタインも「私の言語の限界は世界の限界を意味する」と述べ(ピンカー、2004b、p.134.)、双方とも言語と思考の不可分性に言及している。また藤井によれば、感情も「それが意識上に現れた瞬間には、すでに情動とそれに関係する文脈情報が無意識下の認知メカニズムによって評価され、それに対応する特定の『感情』という言語ラベルがきちんと決定されて」(藤井、2009、p.157.)おり、「このプロセスは私たちそれぞれの脳の中で時間をかけて形成する創造的なプロセス」(同書、p.157.)であるという。上記のことからも感情は芸術を経由した産物であると言える。さらにはターナーとペッペルによる人間の神経系の特質として「世界について確かな、筋の通った、一貫した、まとまりのある、予測力の高いモデルを構成しようとする強い動因がそなわっている」という指摘や、アイベスフェルトにおける、人間の知覚が緊張と緩慢の間で適切な情報処理を施し「スーパーサイン」を作り出す、という指摘からも人間は無意識的に自身を取り巻く環境に対してある規則や秩序を見いだす芸術を行う。
 ここでは具体的な例として、カクテルパーティー効果を挙げる。これは注意集中状態における早期選択モデルであり、それゆえに意図的であるから芸術の要件を満たすわけだが、その状態において無意識的に自分の興味関心のある情報に反応するケースがある(田中、pp.56-58.)。これは自分が常日頃意識していることはある程度意識せずとも芸術が働くボトムアップ的注意(同書、p.238.)の一例である。勿論、このケースは直立し、カクテルのバランスを保ちながら、相手と対話を行うといった複合的マルチタスク的芸術を行使した状態でのことである。無意識の芸術は別タスクにおける注意集中状態においても、また注意散漫状態においても見受けられる。つまり覚醒状態においては意図的か否かを問わず何らかの芸術がデフォルトとして働く。
 次に睡眠状態における芸術を考える。疲労回復や良き眠りを意図して行う睡眠マクロには芸術であり、その睡眠の前段階として寝るに相応しい場所を見つけることや入眠時の体位の調整も勿論芸術である。睡眠時においても寝返りや身の安全を図る無意識の芸術は作用している。大きな音や強い光、寒暖の差といった外的環境の変化が生じれば目を覚まさずともそれに応じた対処を取り、極端な場合には覚醒して意図的対処を取る。上記から人間は常に行住坐臥芸術を成す主体である。
 意識的、無意識的芸術という概念から敷衍して自己=私は私であると世界を認識する主体、の有無の観点からの芸術も考慮する。自己意識の有無に関しては鏡に移った像が他の動物ではなく自分であるとわかるか否かを見るミラーテストがある。これをクリアする動物はゴリラ、オランウータン、壮年期のチンパンジーとハトが挙げられるが、この基準を満たさないサルや幼いチンパンジー、老いたチンパンジー、ゾウ、及び、ヒトの幼児には自己認識としての意識がないと言うことになる。また、ジュリアン・ジェインズによれば意識は近年の発明であり、初期の文明に生きた古代ギリシア人や旧約聖書を生んだヘブライ人も含めて意識がなかったとして(ピンカー、2003a、p.200.)おり、デネットもこの説に共感を示し、意識とは『概して文化的進化の産物であり、幼い頃の訓練を通じて脳に伝授される』もので、『ミームの複雑にして巨大な集合体』である」という(同書、同頁)。またジャッケンドフとブロックによれば意識には専門的な意味で他に3つに分けることができるとするが、本稿は以下学問研究の場で最も頻繁に使われる意味である自己認識としての意識について論じていく。前提として自己の有無で芸術という概念をとらえようとするならば、現在私たちが目にする初期文明の品々は芸術ではないということになりかねない。もし意識(自己)なき彼らの仕業を自己ありきの仕業に包括するのであれば、芸術とはヒト科ヒト亜科という生物学的な意味での人間の為す仕業という意味に改めければならないだろう。
 引き続き、意識的/無意識的といった二項対立をメタ認知でとらえることのない、できない(とされる)自己なき段階の思春期以前及び幼児・乳幼児の芸術を考察する。自己なき状態における覚醒状態においては自己はなくとも志向性を伴う意識的芸術を為す。自己なき無意識の芸術においても自己ある無意識的芸術においても為される仕業は同様である。結果として、自己に対してメタ認知できるかどうかの違いがあるだけだ。乳幼児が母親に向かって這うことや喃語は学習のプロセスであり、また極限的には受精後間もない初期の胎児期にまで学習の兆候を見て取ることができる(梅本、2001;入来、第三章 3.2.3 韻律の特性)ことや、新生児の生態学的自己確認(村上、意識の発達)及び、月齢の低い乳幼児に心の基本的な物体や人間、道具についてのカテゴリーが存在することを示す発見からも自己の確立以前の状態においても、先の定義上芸術は為される(ピンカー、2004a、p.116.)。乳幼児の視覚的、音的選好やごっこ遊びにおける物語の創作と理解のはじまりは芸術が自己認識より早く存在することを示す(ピンカー、2004c、p.251.)。一度明瞭な自己が生じた瞬間以降の現象世界は自己ありきの意識/無意識の世界に移行するというだけで、それ以前の自我なき/ないとされ得る状態と為している芸術に変わりはない。為すこと、及び為していることをメタにとらえられるか否かの違いであり、自己なき芸術はメタ認知なき無意識の芸術に等しい。自我の有無、意図的/非意図的、意識的/無意識的に関わらず学習という芸術が人間には生得的に所与に、ダーウィンの言葉を借りれば「ある技能を獲得しようとする本能」(ピンカー、2003a、第三章 ヒトは動物より多くの本能をもつ)としてプログラミングされている。













第四章 因果律/カテゴリー

 生得的な段階から学習が付与されているのは人間だけに限られたことではない。カテゴリー分類を行う存在は人間以外にもハトで確かめられているが、芸術というカテゴリーは芸術というカテゴリーを認識できる主体があってこそはじめて存在し得る。自己があろうとなかろうと、意識的であろうとなかろうと芸術という概念及び、それを認識する主体の存在がなければ芸術も芸術カテゴリーも共に存在し得ない。対象が認識されてこそはじめてその対象が知覚されるのである。先に言及した無意識における芸術である学習が特定の目的や望ましい状態を志向すると考えることそれ自体がある事象とある事象とを結びつける人間に特有の因果希求性に基づく。絵画や彫刻、詩、ダンス等の非なるものの中から同一カテゴリーを見いだす概念操作は、ヒトに特有な認知機能があってこその仕業である。概念とは弁別・カテゴリーからの発達である。二者間を分ける弁別、類似条件に対応する般化、丸覚えに相当するロット弁別、対象が有する特徴の要素を分類する多型カテゴリーと徐々に抽象度が高くなり、諸概念の中でも最も抽象的な操作が必要な部類に入る認知機能である関係概念、また機能概念、自然概念、抽象概念といった「ヒト特異的認知機能」に至る。((入来、第6章 概念形成と思考)。
 芸術はカテゴリー認識としてヒトとしての人為を起点とする。絵画や彫刻、詩、音楽、建築といった知覚的に全く類似しない対象を機能の共通性に基づいて分類することは先の機能概念(同書、p.139.)のおかげである。芸術を定義する上でしばしば言及される表現説(ステッカー、p.156-158.)、形式主義(同書、p.158-162.)、美的機能説(同書、p.162-166.)、反本質主義(同書,p.166-169.)、歴史的機能主義(同書、p.181-184.)といった分類等も関係概念と機能概念が前提としてある。現在の芸術定義の諸問題は、人間の神経系的特質に由来するプロトタイプ理論に基づいた家族的類似概念(同書、pp.186-188)の必然的拡張化の過程にその原因を求めることができる。芸術の概念はいまや細分化され「単一の概念は無い」と主張するゴールドマンは、アートワールドの構成員たちが集団化し、人々もその間を様々に移動するので芸術の核となる共通見解も、日常的用法についても合意はなく、芸術と言う共通概念は存在せず、各集団、個人で相対的な芸術概念を持っている、と言う。ゴールドマンの考えは正しい。だが、また違った角度からその事実を分析すれば、共通の芸術概念は存在しないのではなく、芸術概念は全領域への拡散過程の中で美術という概念ではとらえられなくなったといった方が適切だ。
 とりわけ美術とはその概念作用を18世紀に自覚し拡張してきた歴史である。マーティンディールは「あらゆる芸術形態は、しだいに装飾性を増し、感情を帯びるようになり、やがてその様式から、心を刺激する潜在力がなくなってしまう」ということをあきらかにした(ピンカー、2004c、p.252.)。ドーミエの風刺画は巧みにそれを示す(ウィキペディア、アカデミック美術、批判と遺産)。さらにそうした場合、その様式そのものに目が向けられ、その時点で新たな様式が取って代わる。これは慣れであって人間の神経系的特質に由来している。人間は反復する刺激や予期した刺激よりも予期しない新奇な刺激に熱心に反応する(レンチュラー[ほか]、p.52.)。こうした美術史のサイクルは後世からの編集と同時代の観客側との慣れ、及び喝采を浴びたい芸術家側の双方から生じる要請が背後にある(ピンカー、2004c、p.252.)。美術史とは機能概念による美術概念拡大の一途を辿る歴史である。旧来の美術に対して最も斬新な刺激をもたらしたものがダダイズムであり、美術という枠組みを意識的に拡張したのがデュシャンであった(Dutton、Chap.8 Ⅷ)。彼以降アートは美的であることを放棄し、観衆を当惑させ、感情をそこねるところまで多様化を極める(ピンカー、2004c、pp.255-257.)。ダントーが芸術界(Danto、1964)と評した後に「芸術は哲学となることによってその役割を終えた」と語ったのは美術としての芸術が最終的にカテゴリーの分類という概念操作となったからに他ならない。芸術とは「あるべき姿かたちの探求」であるとともに「あるべき姿かたちの探求」のカテゴリー(田中、 2.2.10 物体カテゴリーの表現)でもあるのだ。勿論、本稿で芸術を心内領域や生得的レベルまでカテゴリーを拡張でき得るのは様々な芸術史の変遷を経てきたからである(Danto、1998)。
 第一章から第四章にかけて、人間が世界を認識し干渉するためには芸術の関与がなければならないということを見てきた。芸術概念をマクロからミクロまでありとあらゆる人間の営み全てに拡張することは芸術とは何かという命題を詳細に吟味する素地を生み出す。芸術とは人間の営みの全領域を包括するその礎である。ある物や事柄はそれが生み出されるまでに様々な芸術を経る。世界はありとあらゆる芸術の網の目で覆われており、芸術とは何か、という命題はその現象に絡む一つ一つの網の目を紐解くに等しい。
 しばしば美学芸術学で語られる何がアートかという命題は近年クラスター理論による分析が盛んであり、ある事物が美術としてのアートであるか否かに関してはそれが美術としてのアートであるために寄与するいくつかの特性に言及され、その特性をいくつ満たすかにおいてアートとしての芸術を特徴付けようとする。ディヴィスのように一定の基準を満たす個数を設ける(松永、p.29.)にしてもその個数は恣意的になる。またガウトやダットンのクラスターの場合分けにみられるようにクラスターの種類に関しても恣意的になる。さらに松永の主張する芸術、非芸術の境界を明確に区別するクラスタ定義(同書、7 クラスタ定義)においても作品に対する判断は知覚のされ方、理解のされ方、個人的偏向、特定の芸術運動への親しみや過度の知識、飽きなど、さまざまな要素に左右されるため、やはり個人の趣味生を脱し得ず恣意的な要素は残る。またアートであるために寄与する特性の度合いの強弱においても恣意性が伴うため客観的なパラメーターを定めづらく、いずれも砂山のパラドクスを脱し得ることは難しい。本稿はそうした問題解決の糸口を提案する。本稿はクラスター理論の特性の項目全てを上記の定義上芸術と見なし、ある事物がどういう芸術のクラスターであるかを吟味し比較することを提起したい。テクネーに由来するわざ、アルスから抽出される知、アートを強調する作品、冒険的精神(佐々木、p.35.)、またガウトのクラスター理論の10の要素、及びダットンのクラスター理論の12の要素が提起する選言的定義(ステッカー、p.168.)の要素それぞれひとつひとつが既に何らかの人為を経たものであり、芸術なのである。既に芸術であるものの組み合わせで定義できるのはそれがどういう芸術であるか否かだけだ。そうしたことが共通に理解されれば議論の対象となる事物や作品がいかなる特性を持つかについてより冷静で客観的な議論が可能となる。クラスター理論が本当の意味でその強みを発揮するのは芸術であるか否かを決めることではなく、それがどういう芸術なのか否かを吟味するときである。全てを芸術が関与した事柄と見なした上で、その芸術がハイアートなのか大衆芸術なのかを事細かに分析し具体的な要素に還元させることにこそクラスター理論はその真価を発揮する。理想化認知モデルに基づいた芸術の多様なメンタルモデル間の生産性なき議論の応酬はここらで終わりにしよう。人為の網の目にフォーカスを合わせ、紐解き、レイヤーの種類と数を精査し、より具体的にどのような芸術であるかを考察すれば不毛な議論に費やす時間を有益な対話に費やすことができるだろう。天才性や神聖、美的価値を付与されないものは芸術でないとする者は、そう「考えたい」からか、もしくははそう「考えてしまう」世界観を持っているからなのかもしれないが芸術の定義は時代によって変わってきたし、それはこれからも変わり続けるだろう。ステッカーによれば、個々人の芸術観とは、あるものが芸術であるかそうでないかの分類に関してその人がもっている信念の総体である(ステッカー、p.189.)、というわけだが、そうしたなかにおいても歴史的現在には歴史的現在に相応しい定義がある。現在の芸術定義は生産関係の網の目(吉野、ニュートンの林檎と粉ミルク)の中でこそとらえられるべきなのだ。本章は芸術概念の拡張が芸術定義において美学芸術学に貢献できることを示した。次章では芸術概念の拡張が倫理道徳的及び昨今の環境問題に関して利点を持つことを説明する。





第五章 芸術網

 人間の認識の前提として人間存在には必ず芸術が関与している。人間が存在するということは必ず何らかの人為の網を経ておりこれらからは逃れることができない。言語はその最たる一例である。人間は世界を芸術なくしては認識することはできず(ピンカー、2004b、第12章 言語の影響力)、また世界に介入することもできない。一般的な意味での自然は本稿上存在し得ない。自然はいかようにしても認識される場合に人為を経由しているためである。自然を認識する際にも眼球の動きやカテゴリーの分類、また言葉(象徴機能を持つ記号列(単語)を、限定された順番(文法)で結合して、森羅万象との対応をつけるシステム)(入来、p.82.)で世界を区切る等、無意識的に芸術はなされていることは先の章で確認した。そのため、そうした神経系で生成される活動は人為を経由した産物であると言える。現在と同時に過去も未来もまた芸術を介さなければ考えることはできず、それはこれからも変わることはないだろう。
 本稿もう一つの目的は、芸術を美術でなく技術や技能といった人間の営みとしての人為に原点回帰させることにある。人類史としての芸術網を背負わせ人間自身が自ら芸術を為す主体であると自覚することは生き甲斐ある生活を送る上での一助となる。その意味において本稿は先に言及した人間が人間同士互いに好意を尽くし支え合う社会モデルとしての「人間分子の関係、網目の法則」(吉野、p.88.)及び、人間は誰しもがクリエイティブな芸術家であるとするボイスの社会彫刻概念(ハーラン、1986)の擁護を心内領域への芸術概念の拡張という認知科学よりの観点から行ったものである。本稿の芸術の再定義により人間は名実ともに芸術を為す主体であることを認めざるを得ず、必然的に芸術の持つ両義性を背負わされることになる。先駆概念である芸術ということばをあえて用い続ける意味はここにある。芸術は毒にも薬にもなる。細部にわたる自己省察によって自らが芸術を為す主体と悟った者(シュタイナー、第一章 人間の意識的行為)は芸術にまつわる膨大なコンテキストを自らで背負い、人間の自己決定権に基づき自らのカテゴリー操作で芸術を用い自由な仕業を責任をもって自覚的に為すようになる(エンデ、p.71-72.)。実践を通じて認識を変え、自らの仕業を異化し続けることは世界を異化し続けることと密接に繋がる(大江、1988、第三章~第五章)。認識や心の内側にまで芸術を拡張することは、他者の痛みを心内で創造する慈悲の心を創造的な芸術行為に変える。ボイスが語るように、人間は知性で考えるため経験できるようにする必要があり、それが起点となった上で、認識を変えるという自己変革を経る。それを経ることで人間は創造的な存在であると肌で知ることになる(エンデ、p.178-179.)。私たちは生まれる以前から母の胎内に間借りし、栄養と酸素を送られながら、時折モーツァルトを聴かされては愛の声をかけられ、温かく庇護されて胎児の世界( 三木、1983)を送る。医師や産婆の手を借りて世界に生まれ、父や母、兄弟、祖父母、仲間、地域の中で様々な者の芸術に囲まれながら育つ。言語や文化、倫理道徳といった生きる指針を学び成長し、自らも周囲の環境に対し相互に芸術を授け合う。私たちの為すいかなる些細な仕業も神経可塑性レベルで影響を与え合い、心に痕跡を残し合う(ピンカー、2004a、第5章 学習力が高まるという誤解)。ファスラーによれば、いかなる地域の人間も遠近を問わず、個人、集団、神話、宗教、政治、美、科学といった様々にネット化された関連のなかでしか生きることはできず、生き残ることもできない(ボルツ・ミュンケル、pp.116-119.)と言う。また「人間は何らかの人工的環境を構築するだけでなく、その生を可能とする環境に従属しており、したがって、究極的にあらゆる種類の人工的環境に従属している。」(同書、p.109.)とも語る。思考や概念、行動様式は周辺の記号や制度といった環境から形作られたものであり、その意味においてその人間の価値観もまた周囲の環境による芸術の産物である。
 また芸術を認識や学習、本能レベルにまで拡張することは芸術を為す主体を人間以外の存在にまで拡張することに他ならない。他の存在の環世界(ユクスキュル、1998;入来、第四章 動物の音声コミュニケーション)がどのようなものであるか推測の域をでない(ネーゲル、1989)が、異化を伴った人間原理を前提とした人為のカテゴリー操作を用いることで人間もまた他の生命の中の一つに過ぎないことを認識し、人間以外の存在を芸術網の中に組み込むことは昨今の「地球環境複合問題」(佐倉、p.5.)に対する取り組みに「生命への畏敬」に準じた新たな視点を投げかける。他の生命と共に生きるなかで生命を肯定することは、無益な殺生を避け、人間に内観を促し、科学と力任せの加速に基づく文明の発展に歯止めをかけ、真に価値あるものを悟らせる(Wikipedia, Reverence for Life)わけだが、ここでの生命という言葉を芸術を為す存在と言い換えてもいいだろう。芸術はカテゴリー操作を伴う人為にしか始まり得ないが、その前段階として、猿為、鳥為、魚為、虫為、植物為、バクテリア為等々、数多の存在の幾世代に渡る小さな芸術の因果がある。人間だけでなく他の生命、他の存在なくしては私たちは存在することができないと認識することは環境問題だけでなく人類の抱える貧困や飢餓、戦争といった諸問題にとって一つの良き指針となるはずだ。上記の事柄について自覚的になれればなれるだけ精神的向上心を持って、ただ生きるのではなく、善く生きることを心懸けるような生き方に繋がるだろう。かつてドストエフスキーが美は世界を救うと語ったが、芸術網もまた世界を救う一つの概念足り得るだろう。本稿を通じて人は三千年を解く術を身に付ける。


















結論

 本稿は芸術定義の原点回帰とそれに伴う概念拡張が美術の定義であるクラスター理論の補強を促すことと共に人類全体の福祉の向上に貢献できることを示した。芸術とはひとえに「あるべき姿かたちを探求する」カテゴリーであり、人間が人間である限り欠くことのできない学習と因果律と生産関係とに密接に繋がった人間存在そのものである。芸術という現象は神に選ばれし人間だけに限ったものではない(入来、第一章 総論ー霊長類知的脳機能の進化)が、その出発点として、やはり人間の「あるべき姿かたちを探求する」主体である人為としての自己、またそれに至らないまでもそれに準ずる認識を通さなければ存在し得ないということを確認した。 言語(ピンカー、2004a、p.146.)や文化、学問は人間の芸術の産物として世代ごとに作り変えられながら受け継がれる。これをニュートンは巨人の肩と形容した。数学は数の芸術であり、科学は自然法則を導きだす芸術である。そして美術は先にも説明した通り多種多様なコンテキストを含んだ美しい芸術である。美は美を生み、存在は存在を生む。本稿もまたそうした意味でボイスが語った世界を変革する小さな作品のひとつであり(エンデ、pp.164-170.)、存在の連鎖に包摂されるわけだが、芸術の終焉に相応しい記念碑的芸術作品でもある。人間の存在は神経可塑性レベルで必ず相互に影響を与え合う。人間は必ず人為と人為の網の目に連なりその為す仕業は善きにしろ悪しきにしろ鎖となって後世に伝わる。人生は短いが芸術は永い。19世紀に生きた詩人の言葉を借りれば、芸術とはまさに人間が存在し生きた証なのであろう。


謝辞

 本研究を進めるにあたり、荒唐無稽にさえ思える本テーマにおいても真摯に毎週ご指導を賜った指導教員の松尾大教授に感謝致します。また学内で出合うたびに懇切丁寧に議論してくださった川瀬智之准教授をはじめ、心技体に渡り序破急の大切さを温かくご指導してくださった剣道の高橋享教授、またデザインを通じ人間はみな芸術家であると思い至らせてくださったデザイン科の藤崎圭一郎准教授、脳科学に興味を抱かせてくださった解剖学研究室の布施英利准教授にこの場を借りて並々ならぬ感謝を申し上げます。また適切な批判をいただいた金子智太郎助手、論文執筆に際し有意義な情報をくださった松永伸司先輩、そして温かく、時にシニカルに見守ってくださった同芸術学科の同輩、先輩、後輩、また時折興味深いアドバイスをくださった大浦のマスターに感謝致します。そして何よりも、いつも自分を支えてくれた母に感謝します。
















参考文献
〔和文献〕
甘利俊一監修、深井朋樹編(2008)『シリーズ脳科学 第1巻 脳の計算論』東京大学出版会
甘利俊一監修、田中啓治編(2008)『シリーズ脳科学 第2巻 認識と行動の脳科学』東京大学出版会
甘利俊一監修、入来篤史編(2008)『シリーズ脳科学 第3巻 言語と思考を生む脳』東京大学出版会
甘利俊一監修、岡本仁編(2008)『シリーズ脳科学 第4巻 脳の発生と発達』東京大学出版会
甘利俊一監修、古市貞一編(2008)『シリーズ脳科学 第5巻 分子・細胞・シナプスからみる脳』東京大学出版会
甘利俊一監修、加藤忠史編(2008)『シリーズ脳科学 第6巻 精神の脳科学』東京大学出版会
伊藤左紀(2010)「選言的定義としての芸術クラスター理論の妥当性について」『北海道大学大学院文学研究科研究論集』第10号 pp.35-48. 参照URL http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/44597/1/ITOU.pdf(2013年12月3日現在)
インゴ・レンチュラー、バーバラ・ヘルツバーガー、デイヴィッド・エプスタイン編(野口薫・芋阪直之監訳)(2000)『美を脳から考える 芸術への生物学的探求』新曜社 
ウィキペディア、「アカデミック美術」参照URL http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E7%BE%8E%E8%A1%93 (2013年12月3日現在)
ウィキペディア、「自然主義的誤謬」参照URL http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%87%AA%E7%84%B6%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%9A%84%E8%AA%A4%E8%AC%AC (2013年12月2日現在)
ウィキペディア、「ディビッド・チャーマーズ」 参照URL http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BA (2013年12月5日現在)
梅本堯夫(2001)『顔認知の生得的特異性』Human Development Research vol.16 参照URL http://www.coder.or.jp/hdr/16/HDRVol16.7.pdf (2013年12月3日現在)
大江健三郎(1988)『新しい文学のために』岩波書店
大塚晴郎(2003)「芸術の自立性と、その制度化について」仏教大学大学院紀要第31号 2003年3月 参照URL http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DO/0031/DO00310L193.pdf (2013年11月30日現在)
カント(宇都宮芳明)(1985)『永遠平和のために』岩波書店
カント(篠田英雄訳)(2004)『純粋理性批判(上)』岩波書店
カント(篠田英雄訳)(1996)『純粋理性批判(中)』岩波書店
カント(篠田英雄訳)(1994)『純粋理性批判(下)』岩波書店
カント(篠田英雄)(2011)『判断力批判(上)』岩波書店
カント(篠田英雄)(2012)『判断力批判(下)』岩波書店
カント(篠田英雄)(1996)『プロレゴメナ』岩波書店
ゲーテ(相楽守峯訳)(2007)『ファウスト』第二部 岩波書店
川畑秀明(2012)『脳は美をどう感じるかーアートの脳科学』ちくま新書
北澤憲明(2010)『眼の神殿 「美術」受容史ノート』ブリュッケ
佐倉統(1992)『現代思想としての環境問題ー脳と遺伝子の共生』中央公論社
佐々木健一(1995)『美学事典』東京大学出版会
サマセット=モーム(行方昭夫訳)(2010)『月と六ペンス』岩波文庫
ジル=ボルト=テイラー(2008)『ジル=ボルト=テイラーのパワフルな洞察の発作』(TED TALK) 参照URL http://www.ted.com/talks/lang/ja/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight.html
ジル=ボルト=テイラー(竹内薫訳)(2012)『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』(新潮社)
新村出編(1998)『広辞苑』岩波書店
スティーブン=ピンカー(椋田直子訳)(2003)『心の仕組みー人間関係にどう関わるか(上、中、下)』NHKブックス (脚注においては上巻をa、中巻をb、下巻をcと表記する)
スティーブン=ピンカー(山下篤子訳)(2004)『人間の本性を考えるー心は空白の石版か(上、中、下)』NHKブックス (脚注においては上巻をa、中巻をb、下巻をcと表記する)
トマス=ネーゲル(永井均訳)(1989)『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房
中村元訳(1978)『ブッダのことば ―スッタニパータ―』岩波書店
西田幾多郎(1994)『善の研究』岩波書店
ノルベルト=ボルツ・アンドレアス=ミュンケル編(壽福眞美訳)(2009)『人間とは何か ーその誕生からネット化社会まで』法政大学出版局
フォルカー・ハーラン, ライナー・ラップマン, ペーター・シャータ(伊藤勉 [ほか]
訳)(1986)『ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻』人智学出版社
福沢諭吉(2004)『学問のすゝめ』岩波書店
藤井直敬(2009)『つながる脳』エヌティティ出版
藤井直敬(2013)『拡張する脳』新潮社
三木成夫(1983)『胎児の世界ー人類の生命記憶』中央公論新社
ミヒャエル=エンデ(丘沢静也訳)(1996)『エンデ全集16 芸術と政治をめぐる対話』岩波書店
村上郁也編(2010)『イラストレクチャー認知神経科学ー心理学と脳科学が解くこころの仕組み』オーム社
ヤーコブ=フォン=ユクスキュル・ゲオルク=クリサート(日高敏隆・羽田節子訳)(2005)『生物から見た世界』岩波書店
ヨースタイン=ゴルデル(池田香代子訳、須田朗監修)(1996)『ソフィーの手紙 ~哲学者からの不思議な手紙』日本放送出版協会
吉野源三郎(1982)『君たちはどう生きるか』岩波書店
ルドルフ=シュタイナー(高橋巌訳)(1987)『自由の哲学』イザラ書房
ロバート=ステッカー(森功次訳)(2013)『分析美学入門』勁草書房
ロバート=ヘンライ(野中邦子訳)(2013)『アート・スピリッツ』国書刊行会
ロマン=ロラン(豊島与志雄)(2003)『ジャン・クリストフ』岩波書店

〔欧文献〕
Arthur C. Danto (1964) the Artworld, The Journal of Philosophy,volume 61 American Philosophical Association Eastern Division Sixty-First Annual Meeting (Oct.15,1964), 571-584.
Arthur C. Danto (1998) After the End of Art, Princeton University Press
Arthur C. Danto(1974) The Transfiguration of the Commonplace,The Journal of Aesthetics and Art Criticism, Volume 33,Issue 2 (Winter,1974), 139-148.
Arthur C. Danto(1998) the End of Art: A Philosophical Defense, History and Theory. Vol.37, No.4, Theme Issue 37: Danto and His Critics: Art History,  Historiography and After the End of Art (Dec.,1998), pp.127-143, Blackwell Publishing for Wesleyan University
Denis Dutton (2006) Naturalist Definition of Art, The Journal of Aesthetics and Art Criticism 64-3 summer
Denis Dutton(2009)The Art Instinct:Beauty, Pleasure, and Human Evolution,  Bloomsbury Press
David Clowney (2011) Definitions of Art and Fine Art’s Historical Origins, The Journal of Aesthetics and Art Criticism 69:3 Summer 2011
Joseph Margolis (2010) The Importance of Being Earnest about the Definition and Metaphysics of Art, The Journal of Aesthetics and Art Criticism 68:3 Summer 2010
Lauren Tillinghast (2003) The Classificatory Sense of “Art”, The Journal of Aesthetics and Art Criticism 61:2 Spring 2003
Larry Shiner(2003) The Invention of Art: A Cultural History, University of Chicago Press
Rebecca Allison (2002) The Guardian, Wednesday 11 September 2002 02.13 BST http://www.theguardian.com/uk/2002/sep/11/arts.september11(2013年12月3日現在)

Wikipedia, Reverence for Life, http://en.wikipedia.org/wiki/Reverence_for_Life (2013年12月3日現在)


〔映画〕

高畑勲監督(2013)『かぐや姫の物語』畑事務所


〔漫画〕

井上雄彦(1998)『バガボンド』講談社

手塚治虫(2004)『火の鳥』講談社 




*注

「この問いによって目指されているゴールとは、ひとつの原理を発見することーすなわち、あらゆる芸術作品をひとつにまとめ、かつ、それを芸術でない他のあらゆるものから区別するための、ひとつの原理を発見することーなのだ。」(ステッカー、p.149.)
 しぜん【自然】①(ジネンとも)おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま。あるがままのさま。(「ひとりで(に)」に意で副詞的にも用いる)②ア〔哲〕〔physisギリシア・naturaラテン・natureイギリス・フランス〕人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態。超自然や恩寵に対していう場合もある。イ おのずからなる生成・展開を惹起させる本具の力としての、ものの性(たち)。ウ 山川・草木・海など、人類がそこで生まれ、生活してきた場。特に、人が自分たちの生活の便宜からの改造の手を加えていない物。また、人類の力を超えた力を示す森羅万象。エ 精神に対し、外的経験の対象の総体。すなわち、物体界とその現象。オ 歴史に対し、普遍性・反復性・法則性・必然性の立場から見た世界。カ 自由・当為に対し、因果的必然の世界。③人の力では予測できないこと。ア 万一。イ (副詞として)もし。ひょっとして。(新村、p.1174.)
 すがた【姿】①体つき・身なりなど形あるものの全体的な外見・様子。風采。風体。          ②(抽象的なものも含めて)全体的なありさま。③歌論で、「心」(内容)・「詞」(用法)対して、一首の歌として表現された全体の形。歌の風体。(新村、p.1418.)
 かたち【形・容】感覚、特に視覚・触覚でとらえ得る、ものの有様(ただし色は除外)。①外見に現れた姿。かっこう。②中身や働きに対して、外形。形式。③様子。④顔だち。容貌。容姿。(新村、p.514.)
 そんざい【存在】①ある、または、いること。および「あるもの」。動詞の表す内容のうち、その場で動かず時間の経過する状態。「有ゆう」とも。②〔哲〕(beingイギリス・Seinドイツ)①実体と属性とに分かれ、前者は基体・本体のようにそれ自体で独立にあるが、後者は前者に付帯して依存的にある。また、実体には自然的・物的なものと、意識的なもの、さらに超自然的で非感覚的なものとがある。②判断の主語と述語とをつなぐ繁辞(copulaラテン)としての「ある」。→繋辞(新村、p.1586.)
 ある・べき そうあるはずの。しかるべき。適当な。(新村、p.98.)
 とうい【当為】〔哲〕〔Sollenドイツ〕「あること」〔存在〕および「あらざるをえないこと」(自然必然性)に対して、人間の理想として「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する。当為にはある目的の手段として要求されるものと、無条件的なものがあり、カントは道徳法則は後者であると考えた。新カント学派は真・善・美等の規範的価値を超越的価値を超越的当為とした。不許不。ゾルレン。⇄存在・不可不(新村、p.1869.)
 「美しいを表す belles と善を表すbonum は仲間のようだ。実は、美と善を評価するそれぞれの脳は、脳活動レベルでも共通性を見いだすことができる。」(川畑、p.43.)や「『うまい』と『うつくしい』のそれぞれの感覚は、脳活動レベルでもまた共通している部分が多い。」(同書、同頁)、さらには「小さな愛情と美とのあいだにも脳神経科学的な共通性は見うけられるのだろうか。答えは、やはりイエスである。」(川畑、p.44.)という認知科学的な知見からも倫理的であることと、美的であることと、快的であることとは脳活動レベルでは共通な状態であり、望ましい、とはこの共通部分の活性化と密接に繋がっている。
 数学、自然科学、チェス、将棋、囲碁、ゲーム等。既存の制約・ルールの中で創造性を発揮する。
 G. E. Moore の自然主義的誤謬に対する批判は諸説ある(wiki、自然主義的誤謬、ムーアに対する批判)が、筆者も「よい」が「よい」のみでしか定義できないとは考えない。
 たんきゅう【探求】物事の真の姿をさぐって見きわめること。(新村、p.1687.)
 人口知能開発等を行うコンピューターサイエンス、認知心理学、進化心理学、心の哲学、言語学、神経科学など、さまざまな知見が活かされるのだ。このアプローチの根底にある考え方は、人間の心身にはーそしてその進化、認識構造、知覚構造にはー芸術を説明するような側面がある、というものだ。その側面を探求することで、芸術という概念や、わたしたちにとっての芸術の価値、そして、作品の起源や文化的変化といった文脈から独立した再現能力・表現能力などが解明される、というわけである(ステッカー、pp.25-26.)。本稿はこの立場で進めていく。
 第一章で言及した佐々木の後者の美術としての芸術。 
 絵画だけに限らず彫刻や音楽、詩、スポーツ、サーカス等、第一章で示した名詞的カテゴリーにおいて万人が真似のできないスキルの錬磨や冒険的精神を伴う仕業。
 視線計測の結果から絵画の専門家は全体を、一般人は局所を見る傾向にある(川畑、p.27.)こと、また音楽に関しても専門家は楽曲を一般人よりも厳密に聞き分け、その感動の割合も度合いも大きい。
 ソシュールは「茫漠たる概念の無限平面」の内含する区分(単位)を音(つまり言葉の葉)と対応させつつ切り出す過程とし、村上陽一郎は「連続的多様体をどのように「分節」するか、それをどのように「組織化」するか」という切り口を示している(大橋、p.174.)。
 リベットの実験が有名であるが(村上、pp.194-195.)、本稿では芸術であるかどうかの基準として自由意志の存在は議論せず、無記の立場をとる。
 「注意には大きく分けて、2種類の方式で向けられる。1つは内発性注意(endoggenous attention)で、被験者が意思によって意図的に制御する。…略…この方式は、目的指向的(goal-directed,goal-oriented)、またはトップダウン(top-down)の注意制御と呼ばれることもある。もう1つは外発性の注意(exogenous attention)で、意図にかかわらず、画面周辺に呈示されるフラッシュや、均質な背景に一つだけほかとは大きく異なる要素があるときのように、顕著な刺激に強制的に注意が向けられてしまう場合がこれにあたる。これは刺激駆動的(stimulus-driven)またはボトムアップ(bottom-up)の注意制御とも呼ばれる。」(村上、p.112.)
 集中状態における無意識は主客身分の境地(西田、第一章 純粋経験)である。脳科学的知見からするフローと定義して注意集中状態であるとする。
 「 思考を含む脳内情報の制御機構は、感覚運動制御機構が連続的あるいは段階的に発展したもの」(入来、p117.)という作業仮説は他の生物との連続性に基づく新しい人間観の構築に繋がっていくことが期待されている(同書、第五章 思考の基盤となる脳内情報操作の神経機構)。
 神経系の特質として13の項目を挙げる。1.情報処理は、個々のニューロンの水準ではプロクルステス式である。2.情報処理は断定的である。3.差異を登録するよう設計され新しい、予期しない刺激に熱心に反応する傾向がある。4.神経系の活動は根本的に統合を目指す。5.神経系の活動は情動的でなく能動的である。6.神経系は予測的である。7.人間の情報処理は階層的に体制化されている。8.脳の処理は本質的にリズミカルである。9.脳活動は自己報酬的である。10.脳は自己省察的性質を持っている。11.神経系の働きは社会的である。12.人間の情報処理は大脳半球的に特殊化されている。13.人間の情報処理はカロジェネティックとして記述できる(レンチュラー[ほか]、pp.51-56.)。
 私たちの知覚は秩序を求め、それを楽しむ。この傾向は、一部分は私たちの脳の情報処理能力に限界があることによる、一般原理であるように思われる。短期記憶は1秒あたり16ビットを処理する能力をもつと思われる。それ以下では退屈だと知覚され、それ以上だと緊張を与える。私たちはパターンの規則を発見し、入ってくる情報の量を減らすための「スーパーサイン」をつくろうとする(レンチュラー[ほか]、p.5.)。
 無意識状態における三上(馬上、枕上、厠上)等でインスパイアーとしての閃きが生じることが多々ある。
 テイラーは、脳卒中により脳機能がデフォルトで正常に作動しなければ言語理解や発話、数概念の理解に支障が生じ、世界を認識すること自体が困難になることを報告している(テイラー、pp.118-120.、p.124.)。
 一つ目は「自己を内包する世界についての心的モデルを構築すること」、あるいは「自分自身の理解の様態を内省的に見直すこと」といった思索活動であり、「生き、目覚め、認識していること」という先に提示した覚醒状態における自己認識である。二つ目はフロイトが意味する意識と無意識の区別、及び神経系が行う膨大な情報処理への情報へのアクセスである。そして三つ目がクオリアを意味する直覚である(ピンカー、2003a、p.201-204.)。またチャーマーズが指摘する、哲学的ゾンビ、構造的コヒーレンスの原理、構成不変の法則、汎経験説に関しての意識における芸術定義に関しても引き続く本稿第三章、第四章を参照せよ。
 乳幼児の遊び、会話、また小学生の作文や描画等、日常生活全般において上記の定義上の芸術が見受けられる。
 言語能力とは言語を学習する生得的なメカニズムであり、それは人間の遺伝子に組み込まれたヒトの生物学的特徴である。また文化的能力と学習能力においても多くの面であらかじめ遺伝的に組み込まれているため人間は「白紙(タブラ・ラサ)」で生まれてくるわけではなく、特定の刺激と刺激配置を知覚できるように調整され、学習に伴って特定の反応を行うようになる(川畑、p137.;ピンカー、2004a、p.125.;レンチュラー[ほか]、p.19;入来、第8章 付録:言語と生成文法理論 8.2.2 生成文法の目標)。
 学習という意味での芸術は、ヒトが近年到達した進化の頂点で獲得したものではなく、きわめて単純な生命を除けばほとんどの動物が学習する(ピンカー、2003a、第三章 盲目のプログラマー、本能と知能より抜粋)。例としてスズメ目鳴禽類(入来、第四章 4.3.2 鳥の歌の脳神経科学)、チンパンジー(同書 第7章 コミュニケーションと社会ーチンパンジーの認知発達からみた社会的相互交渉の進化)、ニワシドリ(川畑、p107.)、及びハト(同書、pp.108-111.)の学習をここでは挙げる。
 概念カテゴリーがすべて社会的構築物ということではなく、対象カテゴリーについて考える以前から、なんらかの現実生を持っていたという結論を認知心理学社は出している(ピンカー、2004b、p.125.)。
 学習を積んだハトは初めて見る印象派とキュビズム絵画を区別することができる。つまり、~らしさというカテゴリーを弁別できる(川畑、pp.109-111.)。
 18世紀以前には美術としての芸術はなく、ものとして存在してはいたが、概念としては存在していなかった(Shiner、2003)。これは「非風非幡」や「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」といった禅問答的命題に相当するためこれ以上吟味しないが、理解を明瞭にするために例を挙げるならば、万有引力や相対性理論、ゴッホ絵画の美等が発見される前、された後の世界観に近いだろう。
 「人間には『因果律の要求』本能がある.とDu Bois-Reumondは考える.現実世界には森羅万象の存在を,ただそこにあるとおり,ありのままに受け入れるのではなく,そのありのままの背後にある成り立ちの原理を知ろうとする.その存在の,期限,目的,理由,意義,など,そこに『因果性の連鎖』を見つけ出そうとするというのである.…略…つまり『階層Nの現象は,階層N-1でおこるこの現象によって引き起こされる』とか,『階層Nの現象は,階層N+1のこの現象を引き起こすべき要因となっている』などという説明によって,その現象を“わかった’’つもりになるのではないだろうか.」(入来、p.14.)
 「ヒト以外の動物にはない,ヒトに特有な認知機能である“‘概念作用’は,世の中の多くの事象の数々を,区別し,分離して,「同一である」と認める機能である。現在経験しているある事象を、過去に出合った経験と『同じである』と再認識することだけでも,それは概念的な認知機能であると言える.過去の事象は,現在の事象と,厳密な意味では決して同一ではありえないにもかかわらず,それをあたかも同一であるかのように’’見なして”いるからである.このように”概念”とは,厳密には同一ではありえないものを同一と『とりあえず見なす』という,ある種の「暫定性」を前提とし,要素間の類似性と同一性の境界における『曖昧性』を内包する。」(入来、p.10.)とあるが、この「曖昧性」の保持が芸術と美術を混同する原因になっている。
 ガウトは「通常の判断」によって芸術の規準とされるであろう特性として、以下の十項目を挙げる。(i)美しさ、優美さ、優雅さといったポジティブな美的特性を備えていること(ii)感情を表現していること(iii)知的な挑発であること(iv)形式的に複雑であり、かつ一貫性があること(v)複雑な意味を伝達する能力を持っていること(vi)個人的なものの見かたを提示していること(vii)創造的想像力の行使であること(独創的であること)(viii)高度な技術の所産である人工物ないしパフォーマンスであること(ix)既存の芸術形式(音楽、絵画、映画等)に属していること(ⅹ)芸術作品を作ろうとする意図の所産であること(松永、p.27.)
 ダットンはクラスターの要素として 1,Direct Pleasure 2.Skill or Virtuosity 3.Style 4.Novelty and Creativity 5.Criticism 6.Representation 7.”Special”Focus 8.Expressive Individuality 9.Emotional Saturation 10.Intelectual Challenge 11.Art Traditional and Institutions 12.Imaginative Experience の12項目を挙げている(Dutton、2006)。
 ダミアン・ハーストが911同時多発テロの際に二機の航空機がワールドトレードセンターに突撃する様子を「"visually stunning work of art”」(The Guardian, Wednesday 11 September 2002 02.13 BST)と賞賛し非難を受けたが、これも無条件で様々な要素を含有するアマルガムである芸術を一つの要素でくくろうとしたがゆえに起きた誤解が元になっている。また、ガウトやダットンのクラスター理論においてもこうした類いのテロ、ひいては原爆投下や強制収容所といったものまで美術としてのアートに寄与する特質を数多く持ってしまうため、人道に対する罪と美術としてのアートとを差別化することが十分にできなくなる。
 「ヒトとチンパンジーの間の2%に満たない遺伝子情報の違いを『質的違い』とみなすか『量的違い』とみなすかは、それを判断する人間のもつ価値観や世界観に大きく依存している」(入来、p.114.)という記述もまた類似的な問題として参考としたい。
 乳児期におけるコミュニケーション不足は乳幼児の生死にかかわる(藤井、2013、p.109.)。
 認識が神経系の産物であることを示す典型的事例として錯視、空耳などが挙げられる。
 記号を用い理解することは歴史に連なることを意味する。過去・未来の宇宙像、及びミクロな世界等も前述の思考の礎である言語や記号、また望遠鏡や顕微鏡、加速器といった科学テクノロジーとしての芸術を用いねば観測することも語られ得ることもできない。ガリレオの言葉を借りれば自然という書物を読むにあたっては数という芸術を用いねば理解できないということである。
 ボルツ・ミュンケル、Ⅳ ネットワーク化あるいは「諸関連ー人間とその社会的構造」 2〔ネット化〕
 「現在的なもののなかに将来的なものはもはや含まれてはいない。人間と自然は時間の創造物であり、したがって、すでに分ちがたく相互に結びついている。時間の不可逆的な特性を探求する度合いに応じて、我々を取り巻くダイナミックな秩序の理解に近づき、他の生物すべてがいかに相互作用のネットにはめ込まれているのか理解するようになる。」(イリヤ・ブリコジーヌ、コンスタンテイン・フォン・バールレーヴェンと語る、「フランクフルト評論」文芸欄、二〇〇二年二月五日)(ボルツ・ミュンケル、2003、p.92.)
 「我々はここからどこへ向かおうとしているのか。答えは単純だ。我々は、覆いを取り除かなければならない。眼前にあるゴールは、複雑さを理解することだ。これを達成するには、構造と位相を超越し、連鎖に沿って生じているダイナミズムに焦点を合わせなければならない。ネットワークこそ、複雑さの骨格であり、我々の世界を活性化するさまざまな過程に至るハイウェイなのだ。」(アルバート-ラスロー・バラバシ(二〇〇二年)『環ーネットワークの新しい)科学』、ケンブリッジ、二二五頁)(ボルツ・ミュンケル、2003年、pp.92-93.)
 「三千年を解くすべをもたない者は 闇のなか、未熟なままに その日その日を生きる ーゲーテ」(ヨースタイン・ゴルデル、冒頭)
 ポアンカレは言う。「科学者たちは役に立つから自然を研究しているのではない。それが喜びであるから研究するのであり、美しいから喜ぶのである。もし自然が美しくなければ、それは知るに値しないし、自然が知るには値しなければ、人生とは生きる価値のないものに成り下がってしまう……つまり部分の秩序が調和することによって生じる、そして純粋な知性だけが知ることのできる、深遠な美を言っているのである……したがって、この特別な美を、宇宙の調和の感覚を探求することによって、ちょうど芸術家が自らのモデルの造形の中から絵を完全たらしめ、人格と命を与えるものを選択するように、この調和にもっともふさわしい真実を選択することができるのである。」(レンチュラー[ほか]、p.219.)
 そうだ、おれはこの精神に一身を捧げる。知恵の最後の結論はこういうことになる、自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、これを享受するに値する人間といえるのだ、と。従って、ここでは子どもも大人も老人も、危険にとりかこまれながら、有為な年月を送るのだ。おれもそのような群衆をながめ、自由な土地に自由な民と共に住みたい。そうなったら、瞬間に向ってこうよびかけてもよかろう、留まれ、お前はいかにも美しいと。この世における俺の生涯の痕跡は、幾千代を経ても滅びはすまい。―このような高い幸福を予感しながら、おれはいま最高の瞬間を味わうのだ(ゲーテ、pp,462-463.)。

 ヘンライ、pp.179.Chap.16 芸術家であること―手紙による作品評



サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ(淀川長治風)



2014年(あー、もう2014かぁ、ほんとときのすぎゆくままに、ジュリーだよなぁ。)1月18日センター試験に失敗しても俺みたいになんとかなるよ、ってことを記す日。


一ノ瀬健太 :-;}

0 件のコメント:

コメントを投稿