2012年5月20日日曜日

美学演習課題 岡本太郎について


月曜三限 美学演習課題                  教員 松尾大
                                   
        岡本太郎展をみることの不可能性について

                 美術学部 藝術学科 3年 一ノ瀬健太

 死人に口なし、とはよく言ったものであの岡本太郎ですら死んで時が久しく経ってしまっては、その彼の作品も後出しジャンケンで追従を常とする卑怯者たちに利用されざるを免れ得ない。
 自分もこの展覧会に実際に言ってきてみたわけだが、太郎の精神は微塵も発揮されていなかった。そこに爆発はなかった。完全に太郎いわくの法隆寺化していた。それはなぜかと言われれば、私自身がそれを如実に体験したからである。近代美術館に入って一番はじめのコーナーに岡本太郎作の彫刻作品、《ノン》というものがあった。その作品がこちらに手を観音開きに開き、あたかも触ってくれ、触ってくれ、というものだったから、逡巡はしたが、岡本太郎がその著書や言行の中で私の作品は壊れてしまってもかまわない。触りたいなら触らせてやれ。と主張していたのを思い出し、自信を持ってその作品の掌に自分の掌を合わせてみたら、すぐにそばで見ていた係の人が止めに入ってきた。太郎が触ってもいいというから触ったのに、注意されるのには少なからず違和感を感じた。
 作品は作者が死んだ後には、作者の手を離れてしまう。その典型的な例だろう。もしある偉大な作家が自らが死した後に作品を月と6ペンスのように燃やしてくれ、と遺言したところで、彼の作品は人類の大いなる遺産だからとかなんとか、もしくは遺族に膨大な利益誘導やらなんやらが行われて、きっと美術館かオークションにかけられてどこかに収蔵されてしまうに違いない。

 また、別のこと。キュレーター、批評家というものはやはり寄生虫たることを免れ得ない。主任研究員も椹木野衣さんも、この課題の文章を書いた永瀬恭一さんも美術に寄生する醜悪とは言わないまでも、虫である。ということを自覚されていなかったら自覚された方がいい。作家でない美術関係者はどこかに申し訳なさを感じて美術に従事すべきだ。とは言い過ぎか。主任研究員も批評家もどこか脛に傷を持って批評し合っていると一度確認した方がいい、というかしてみたい。おそらく誰も本音は言わないだろうけれども是非一度聞いてみたい。働きたくないけど喰っていく為に仕事をせねばならない。しかし美術の仕事に就きたい。しかし作家にはなれない。喰わねばならない。そうこうしているうちに作家たることをあきらめた後に批評家になる。キュレーターになる。そうこうしているうちに後だしジャンケンしかできぬようになるわけだ。
 しかし、否定的に今まで彼らを批判しているように見えたかもしれないが、結論から言って私は大方は今のまま、それでいいと思う。誰しもが超人になれたらいいのだが、誰しもが超人になれるわけではないからだ。それに虫などの分解者なくしては生態系はうまく回らない。生態系とは一般社会である。
 虫、虫いってはいるが、かくいう美術そのものが社会の中の大きな寄生虫であると言ってもいいだろう。社会の大いなる無駄を担う大いなる寄生虫が美術や芸術であるから、それに寄生したところでたいして変わらないだろう。ダンゴムシであれ、バクテリアであれ同じ分解者である。荘子的な意味での大いなる無駄を遊ぶ寄生虫、それこそが芸術の本分である。であるからして、この主任研究員もこれで金を稼いで喰っている。椹木さんも、永瀬さんもそれに寄生して生きている。かくいう私も美術という社会の大いなる無駄に寄生して生きている。それはまさにコペル君いわくの生産関係の一部分を形成しているから、無駄ではあるが大いに必要な無駄なのである。それをリダンダンシーとある人は呼ぶかもしれない。


まとめ だから、みみっちくはあっても、太郎を後世に伝えることもいいでしょう。そしてその伝え方に違和感を唱えるのもいいでしょう。太郎がどこにいたって結局はかまわない。別に美術館の中にいても、パビリオンの外にいても、鑑賞者の中にいればそれで太郎はいいはずだ。私がいえるのはただ、ただ脚下照顧、自分の足下に太郎がいるということそれだけだ。

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