2012年8月18日土曜日

ひさしぶりぶりざえもんのぶろぐ

何か目に付いたのでブログを更新して見た。今はツイッターとフェースブックを同期させてそっちをメインに更新している。

安易な承認欲求をフェースブックで見たしている。しかし、SNSの安易な承認欲求に満足している人間は作家にはなれない。作家は安易に満足に走っちゃいいものはつくれたものじゃない。無視されて足蹴にされて、ツバを吐きかけられてこそいい作品もできる。

安易に自らの欲望を吐き出して昇華させていては作品にどうしても深みが出てこない。

作家はSNSから距離を置くくらいの方がいいのだ。

作家は時間差で社会の喧騒の出来事を知った方が乙というものだ。

SNSには慎重でありたい。。。とか言ってる奴が写真め!っちゃあっぷしてんじゃねえよ!ってはなしなんだけどね。。。





近々本出すんでよろしく!(^∇^)

2012年6月3日日曜日

昨晩のばっちとのシシュンポジウム

昨晩のバッチと話した興味深い話を整理してみる。


まず、バッチの説

芸術とは、感性のアレゴリーである、とするのがバッチの芸術の定義。
アレゴリーとは精神的事物を外界に表現というプロセスを経て表象することである。

上記の定義を当てはめてみると、芸術作品とは感性のアレゴリー作品となる。

ばっちにとって表現とは、過程そのものであり、完成した作品を表象(作品)と呼ぶとする立場をとる。ので完成した作品でなければ表象作品とは呼べないことになる。つまり未完の作品はばっちにとっての芸術作品ではなくなる。その作品を未完ととるか否かは場合によるが、一般的にここでは完成か否かを決めるのは作者であると仮定して話を進める。

作家が何らかの精神事物、ここからは分かりやすくする為に具体例を挙げていくが、たとえば、燃え上がる怒りを表したいと思った時に、その瞬間から表現となる。何ら描いていなくても表現となる。赤を使おう、とおもった瞬間も表現である。それをカンバスに塗り付けている間、それからずっと作品が完成するまではずっと表現である。であるから作家が完成するまでに何らかの理由で死んでしまったら、藝術作品とはなり得ないことになる。

未完でも芸術作品となりうるというのが自分の立場である。だからこのバッチ説には何らかの修正が必要な気がする。後期ミケランジェロの創りかけの作品がアートワールドでアートとして流通していればそれはアートと認めざるを得なくなる。全美術史とアートワールドを無視して理論を展開すればそれはそれで問題ない。そもそもどんな理論を掲げようと当人の勝手だというのが自分の立ち位置である。それならバッチ説も何ら問題ないわけである。であるが、ばっちはアートワールドに生息したいというからここは優しくてかっこいい先輩の情けで修正を試みるわけである。

バッチ説においては、創作物のプロセス全体を表現と呼び、表象を完成に求めようとするが、プロセス内においても表象は生じるとしたほうが妥当かつ有効かもしれない。作家が芸術的メディアにライプニッツの意味内容を施せば、それはそれで、その瞬間、それで表象と呼んでいいと思う。線を引き続けている間は表現と表象が入り交じる汽水状態となるということである。線を引き終わった後でその線は表象となる。もちろん、未だ完成していないのならそれはプロセスの中にあるから表現でもある。

端的に言えば、藝術作品とは、小規模な表象の集合が大いなる表象の全体を形作るということである。とすればバッチ説は破綻せず難なく広範な有効説になるはずである。

これからの課題としては、表現と表象の定義についてさらなる吟味が必要である。


バッチ君。どうであろうか。

2012年5月20日日曜日

美学演習課題 岡本太郎について


月曜三限 美学演習課題                  教員 松尾大
                                   
        岡本太郎展をみることの不可能性について

                 美術学部 藝術学科 3年 一ノ瀬健太

 死人に口なし、とはよく言ったものであの岡本太郎ですら死んで時が久しく経ってしまっては、その彼の作品も後出しジャンケンで追従を常とする卑怯者たちに利用されざるを免れ得ない。
 自分もこの展覧会に実際に言ってきてみたわけだが、太郎の精神は微塵も発揮されていなかった。そこに爆発はなかった。完全に太郎いわくの法隆寺化していた。それはなぜかと言われれば、私自身がそれを如実に体験したからである。近代美術館に入って一番はじめのコーナーに岡本太郎作の彫刻作品、《ノン》というものがあった。その作品がこちらに手を観音開きに開き、あたかも触ってくれ、触ってくれ、というものだったから、逡巡はしたが、岡本太郎がその著書や言行の中で私の作品は壊れてしまってもかまわない。触りたいなら触らせてやれ。と主張していたのを思い出し、自信を持ってその作品の掌に自分の掌を合わせてみたら、すぐにそばで見ていた係の人が止めに入ってきた。太郎が触ってもいいというから触ったのに、注意されるのには少なからず違和感を感じた。
 作品は作者が死んだ後には、作者の手を離れてしまう。その典型的な例だろう。もしある偉大な作家が自らが死した後に作品を月と6ペンスのように燃やしてくれ、と遺言したところで、彼の作品は人類の大いなる遺産だからとかなんとか、もしくは遺族に膨大な利益誘導やらなんやらが行われて、きっと美術館かオークションにかけられてどこかに収蔵されてしまうに違いない。

 また、別のこと。キュレーター、批評家というものはやはり寄生虫たることを免れ得ない。主任研究員も椹木野衣さんも、この課題の文章を書いた永瀬恭一さんも美術に寄生する醜悪とは言わないまでも、虫である。ということを自覚されていなかったら自覚された方がいい。作家でない美術関係者はどこかに申し訳なさを感じて美術に従事すべきだ。とは言い過ぎか。主任研究員も批評家もどこか脛に傷を持って批評し合っていると一度確認した方がいい、というかしてみたい。おそらく誰も本音は言わないだろうけれども是非一度聞いてみたい。働きたくないけど喰っていく為に仕事をせねばならない。しかし美術の仕事に就きたい。しかし作家にはなれない。喰わねばならない。そうこうしているうちに作家たることをあきらめた後に批評家になる。キュレーターになる。そうこうしているうちに後だしジャンケンしかできぬようになるわけだ。
 しかし、否定的に今まで彼らを批判しているように見えたかもしれないが、結論から言って私は大方は今のまま、それでいいと思う。誰しもが超人になれたらいいのだが、誰しもが超人になれるわけではないからだ。それに虫などの分解者なくしては生態系はうまく回らない。生態系とは一般社会である。
 虫、虫いってはいるが、かくいう美術そのものが社会の中の大きな寄生虫であると言ってもいいだろう。社会の大いなる無駄を担う大いなる寄生虫が美術や芸術であるから、それに寄生したところでたいして変わらないだろう。ダンゴムシであれ、バクテリアであれ同じ分解者である。荘子的な意味での大いなる無駄を遊ぶ寄生虫、それこそが芸術の本分である。であるからして、この主任研究員もこれで金を稼いで喰っている。椹木さんも、永瀬さんもそれに寄生して生きている。かくいう私も美術という社会の大いなる無駄に寄生して生きている。それはまさにコペル君いわくの生産関係の一部分を形成しているから、無駄ではあるが大いに必要な無駄なのである。それをリダンダンシーとある人は呼ぶかもしれない。


まとめ だから、みみっちくはあっても、太郎を後世に伝えることもいいでしょう。そしてその伝え方に違和感を唱えるのもいいでしょう。太郎がどこにいたって結局はかまわない。別に美術館の中にいても、パビリオンの外にいても、鑑賞者の中にいればそれで太郎はいいはずだ。私がいえるのはただ、ただ脚下照顧、自分の足下に太郎がいるということそれだけだ。

2012年5月15日火曜日

三日坊主!

マットカッツをせっかくじっせんしようとしてみたのに、早くも三日で失敗してしまった。 めげずにこれからやり直し! よっしゃまた一日いっぱい本読むでぇ!!

2012年5月10日木曜日

えせーおぼえがき

たにんのし、ょうがいをはんだんするときわたしはつねに、さいごがどうであったかを見る。また、私の生涯の努力の主たる目的も最後がよくあること、つまり、平和で静かであるということだ。 キケロは、哲学を極めるとは死の準備をすることにほかならない、と言った。 自分のおめでたさに満足し、さいごまでそれにきづかないようでいられるなら、狂人といわれ、さげすまれても、賢いためにイライラしているよりはましだ。 行為においては無気力で、言葉だけ哲学者めいた人を私は憎む。 判断力を伴わない学問が何になるか。 合体させなければならない。知識で魂を濡らすのではいけない。染み込ませなければならない。そのままにほおっておくほうがずっとましだ。知識は真剣な剣である。力の弱い、使い方を知らないひとにもたせると、そのひとを妨げ、その人を助け、傷つける。だからなにもまなばないほうがよかった。 思い切って賢くなれ。すぐにとりかかれ。行いを改めることに時を延ばす者は、急流の水が枯れるのを待って渡ろうとする田舎者と同じだ。河は相変わらず流れ、そして永久に流れ続けるだろうから。 よし。とりま、一日のノルマ達成!この調子この調子。

2012年5月9日水曜日

マット・カッツの30日間

きのうにっきをつけたことがきえている。。。ほぞんあいなかったからなのかな。。まぁいいや。 とりま、きのうここにかいたことは、これから一ヶ月間なにかをしようということだ。とりま、一日一冊でもなんでもいいから読んだ本をツイッターエースブックにあげる。 美学辞典を一章読む。西洋美術史の教科書を一章読む。などだ。 もちろんブラインドたちは毎日継続だ。これだけはまじでがちにものにしたい!!! 一ヶ月間1667文字書けば一ヶ月後には一冊の本ができる。 実に素晴らしい教えではないか! きえないおゆにここにこうかいのかくにんをおこなう。

2012年5月7日月曜日

本、完成したなり。

とりな本完成したなり。 あとはどうやって出版するかなり。 でんしょもいいけどやっぱりうもれるなり。みんなによんでもらいたいなり。おかねもほしいなり。 とりま、学費を稼ぎたいなり。あわよくば留学の資金にもしたいなり。 さらにあわよくば、これで2億円近く稼ぎたいなり。これで隠居するなり。 夢の南の島暮らし計画なり。 ふんわぁ!夢は大きくなり。 でも一にも二にも多くの人に読んでもらいたいなり。 でもやっぱりお金も欲しいなり。 俗世はやっぱり生きづらいなりぽー!