2011年11月28日月曜日

当たり前のこと、自戒含め。自分含め。

Twitterやフェースブックはダスマン製造機である。いいかい、君、そんな暇があったら、仏典や聖書、とりわけ岩波文庫をなんでもいいから読みなさい。

所詮、携帯を持った猿がTwitterやフェースブックやmixiをやったところで猿のマスカキにしか過ぎないのだから。

いいですか、みなさん、SNSは使うべき人間が使って初めてSNSになるんです。

みなさんのような歴史も知らないようなくそお猿さんがそんなのを使ったって、はっきり言いますが、なんにも意味ありません。凡人が得意げに何かつぶやいたって何になりますか。誰がどこにいるとか、何を食ったか、そんなのどうだっていいじゃあありませんか。それよりももっと大事なのは自分と向き合う事です。自分を見つめる時間を持つ事なんです。それができずに何がなうですか!ばかたれ!かばちたれ!

かばちたれて、つぶやくひまがあったら、黙って、沈黙して、そのエネルギーを深く自分の内なる世界に潜る事に使いなさい。

呟くな。人と交わるな。



まず初めに、自分と交われ。


Twitterもフェースブックもmixiも人糞製造機でしょう。




共に気をつけよう。



会いにいくよ。ヤックルという名のフェラーリに乗って。

現代における崇高な悟り、当たり前の事の再確認。

あぁ、やっとわかった!わかったぞ!

最近独りになる時間を取る事が難しかった事もあって、沈潜の時間が取れていなかった。



やぱり、僕の充実する時間っていうのは、、、やっぱり独りのときの時間の気がする。

僕は独りが好きだ。やっぱり僕は独りが好きだ。

独り閑かに詩を詠んだり、画を描いたり、お茶やお酒を飲むのが好きなんだ。


そして深くこの世の悲しみに思いを馳せ、人類を変えてやるといったドンキホーテ的な悩みに諦念を感じつつ、静かに流れる悠久の時間に独り揺蕩うのが好きだ。

ソローや李白、古のロマンチストと対話するのが好きだ。尚友と話している時間が僕にとっての一番の贅沢で充実した時間だ。

大きい音は嫌いだ。静かな鳥のさえずりこそ我に真に相応しきもの。しずかな夜の呼吸が我を穏やかな瞑想へと誘う。この時間が好きだ。


独りはいい。独りはいい。象のように、犀の角のように、独り我が道を歩む。それが僕の好きな行いなのだ。


もう少しで冷凍された2年が終わる。あともう少し、喧騒にまみれようかしらん。

2011年11月19日土曜日

最近気づいたこと

ぼくは人のいい人間が好きです
ぼく自身も品のいい人間になろうと日夜努力をしています。

僕は電車内での音漏れとか、携帯電話とか、階段を登る時に大きな音を出して登るとか、くしゃみする時に手を抑えないとか、ゲップを平気でするとか、箸で食器をひきづるとか、iPadを強く叩きすぎるとか、まぁ、簡単に言えば、気配り、メタ認知ができない人とは、いうなれば、自分が周りから視えていない人はそんなに好きではなく、自分もそんな人間にならない様にしていた。

自分は昔良くゲップをしていた。それを強制して、人前ではしない様にしていた。する時にはあえてしていた。ゲップをする前にするぞあ、ーと意気込みながらしていた。意気込みながらするのとむいしきえでするのとでは雲泥の差である。

と、まぁ、そんな感じで最近まで過ごして来たわけであるが、~ここに来て変化がおとづれた。

あえてゲップをすることを普段から行っていたために、なんと、~無意識来的にげっぷをするようにまた、逆戻りしてしまっていた。また品のない人間になっていたのだ。

これが弓の名人、もしくは能役者の技の技法なら素晴らしい忘我な境地ではあるがことげっぷということになると話は変わってくる。げっぷに守破離はない。

あるとすれば、仙人のみであろう。人からそう思われ様が関係ないのだそんな次元の低い世界に仙人は生きていないから。無我。赤ちゃん、それが仙人なのである。



ということで、これからげっぷには気をつけて行きたい。

もしぼくが人前でげっぷをしていたら、注意してください。今のげっぷはわざとですか?それとも天然ですか?と。

2011年11月16日水曜日

しょうがいとアート

しょうがいとアートのお手伝いをした。本学の学長と山田洋次監督との対談などがある。

しょうがいをもつアーティストがドビュッシーに影響を受けた海n
の作品も展示されるとの事である。

そのお手伝いにいった。

かんがえたことというか、普段から思っている事。

しょうがいしゃをーとくべつあつかいすることについてとそのしょうがいということばについてだ。

しょうがいということばはドイツ語のように、がい、ということばの音のもつニュアンスがとても強く聞いていて脅威的な、心の平安を脅かされる、いうなれば焦り、緊張、よくいえば、鼓舞といった感じか、そんな強い印象を受けることばである。

発音することが憚れるニュアンスを始めからもつネガティブなことばであるのかもしれない。障害ということばから、障がいへ。さてその次はなんじゃらほい。

私自身としても障害ということばは滅多に使わない。障がい者ということばもそんなにすきではない。ハンディキャップというほうが言葉のもつ音感がいいと思う。だがそれでもまだ足りない気がする。障がいに対抗できるカウンターパートとまではいかないが、それに変わる新たな言葉を私は探している。だれかあったらおしえてくだちい。


また、障がい者、これ以降は彼ら、とする。彼らといって区切ることもおかしいかもしれないが、それは普段から人間をカテゴライズするのはよくするのでそれはおっけいである。他のものたちといった、ロスト的なノリである。


彼らをを取り上げてアートと結びつけることは是か否か、それは難しい質問だが、常にそういった、存在があるということに目を向けることは大切なことで、それはなにも、障がいというものではなくても、貧困、飢餓、差別、といったものも含めて、すbwtwのイシューにつながっていることだ。

そしてアウトサイダーアートはたしかにゾクッとするものがあるが、こないものもある。一般的な藝術家と同じ様に、ただ、あるがままの自分の感性を信じればそれでいいのだ。うん。


やりたいやつはやればいいし、やりたくないやつはやらなきゃいい。それが結論だ!!!うん!!!これでよし!!!

どっちかってったあやったほうがいいかもね。感動があればね。

彼らに対する時の自分も中での第一原則。一、かれらと彼ら以外を区別しない。普通に扱うということ。彼らがどういった状態なのかを把握した上で。

もしじぶんが彼らだったら、間違いなく社会の中に溶け込みたいと思う。落語の阿保の抜作や太郎冠者のように、人と交わりたいと思う。フーコーの狂気の歴史以前の
いうなれば黒澤明が描く共存の形として彼らと接したいと思う。どですかでん。白痴。答えはすでにでている。あとはいかにうごくか、それだけ。わたしは彼らに対して他のー健常者ーと同じ態度で付き合うことを旨としている。
彼らが嫌なことをすれば嫌だというし、いやな彼らにとは付き合いたくない。いいやつとは友達になるし、いやなやつとは友達にはなりたくない。ふつう。これを目指す。というか目指していない。融通無碍。

中学生の頃に特別クラスの子と仲がよかった。一緒に昼休みには卓球をやった。よだれがたらたら垂れていて、それを拭いたてで僕に触ってくる。僕は普通によけず、気にも留めないふりをしていた。友達はいつも、きたなくないの?ときく。たしかにそうかもしれないが、何故かよけたくなかったのだ。なうしかとか、マザーテレサとか、なんかおそらく、エボシとか、なんかそこらのヒロイズムに浸りたかったのかなと今では思う。jよけることが彼らお拒絶を意味するかのようにも思えた。

今、逆に考えるには、彼らを普通として扱うのなら、自分の友達がもしおなじようによだれを拭いた手で触ってきたら、おそらく俺は身をのけぞると思う。つまり、態度が異なっている。おんなじ扱いではなくなっている。

うーん、難しい。


だが、基本原則は常に、汝隣人を愛せ、だ。自分がしてもらいたいように相手と付き合うこと、これを旨とすることはいつでも忘れちゃいない。うん。


結論、融通無碍。臨機応変。ケースバイケース。

2011年11月13日日曜日

本日の真理

余暇社会(ベーシックインカム)にならない限り日本に民主主義が根付くことはまずないでしょう。

ぴよぴよ受験生たちの会話を聞いて;日本史やめたとか、世界史捨てたとか、童貞や処女じゃないんだから、そんな簡単に捨てられるかってんだよ。捨てらんねえよ!とらざるを得ねぇんだよ!日本に生まれたんだろ!?良くも悪くもどっちも学べ!もう、生まれちまった悲しみなんだよ!引き返せないんだよ。若者よ、日本を背負え!二つに一つだよ。人間になるか、ケータイを持った猿になるか。

2011年11月12日土曜日

アートパス2011 序文

目下遍く天下の若き藝術家志望なる学生を鑑みるに是非にともいわんとすることがある。お前ら本気で藝術やってんのか!?と。マジで!ガチで!ゲイジュツをやっているのか!と。幕末の志士の気迫で、安土桃山の絵師の覚悟でお前らは本当に描いているのか!?彫っているのか!?と。自分は本気でレオナルドに、ミケランジェロになるんだ!と蠢く源力でやっているのかと自問してもらいたい。誰も言わないから吾輩が述べる。君たちが描いているものは、モラトリアム絵画である。と。それも院つきの。君たちが彫るもの、撮るもの、パフォーマンスするものはなんだってすべてがモラトリアム藝術なのである。だから君たちの作品は面白くないのだ。

2011年11月11日金曜日

てれぱす!!!

眠眠眠。

ここ数日で寒くなってきましたね。風邪を引かぬようにお身体ご自愛ください。

万博含め、最近考えていることは美術館と博物館の境界についてです。

経年劣化における朽ちる美の展示と、珍奇な物と人が人を呼ぶ現象との汽水域に右往左往する有象無象な我らに乾杯!

万博から、いやそれ以前からも人間は何も変わってはいないのかもしれない。


人間って面白っ!!!


もっと対話があってもいいのかもしれない。

先生のパワーポイントを家でも閲覧したいな。前期の水野先生みたいな感じで。

1.テレフォノパシー;もし自分が行き交う無数の電波をキャッチすることができたらきっとこんな感じで聞こえることだろう。自分もテレパスの能力を持っているので人の考えていることが聞こえてきてしまうが、人ごみにいったときもこんな感じで聞こえてくる。よくテレビドラマで照テレパスの能力者が人ごみにいくと会話が混線して頭が疲れるため人ごみにはあまり近づかなくいというが、あれは嘘だ。私自身は人ごみに行くと、ノイズだらけになってむしろ会話が聞き取りづらくなり、単なるノイズ、いうなればクセナキスのような音楽になったようにして聞こえるから、そんなに疲れないのだ。ただその混線した状態から特定の会話だけに集中して聞こうとするのは集中力を要するからけっこう疲れるということはある。

2011年11月8日火曜日

子規

子規に比べたら今の俺の文学に対する態度、及び藝術全般に対する態度は児戯に等しい。すなわちクズだ。俺。ジョブズに顔向けできたものじゃない。。。人に自分の大切な時間を奪われてるってのに、、、あまりに自覚的であるのに奪われている。。。無自覚で奪われるってのよりも相当たちが悪い。。。


子規の魂を我がものに。


真夜中に テレビのダラみ 子規がこと 我が姿勢には 血を吐き鳴くや

2011年11月5日土曜日

でもこれってあーと?

天才とは素材を使って素材の様々な可能性の調和を図り、現実的な利害を超えた喜びを観客に与えることができる特別な能力のことである。

目的無き合目的性、カント、美の条件

ヒューム、man of taste 趣味人は美を共有できる。重要なのは経験と教育、例として品位を欠くものはイスラム美術とローマンカトリック美術、ひゅーむいはく。

イチジクに食欲を感じて美しいと思ったらアウト、ルーベンスに性欲を抱いて見たらあうと、ゴーギャンにタヒチ旅行に行くのもいいなと思って見たらアウト、ってわけだ。

個人の利害とは結びつかない特殊な反応をもたらすもの、藝術の定義

クライブ・ベル、えどわーど、ばろー くめんとぐりーんばーぐ

ベル、内容ある形式が大事まんブラザーズ、藝術は日常の生や政治とは一切無縁のもので泣けばならない。

ばろー君、心理的な距離が大事マンブラザーズ。今風にいう想像力の自由な戯れのこと、カント曰くのね。

はまるtぃあ 宿命的な運命

アリストテレス 悲劇とは人間的な弱さゆえに過ちを犯していpしまった良き主人こ痛が壊滅的な結果に向かって行く姿を示すものであろうとかんがえること。

ごんぶりっちくん、西洋美術史とはより生き生きとした現実描写をめぐる研究である。

とますあきなすくん、美とは、神性、あるいは統一性神の本質、あっるおは、超越的な特性。あらゆる美術品は神の特性への強い憧れがなくてはならない。

世界の創造者、デミウルゴス、ぷらとん。

ホーレス、うぉるぽーる、藝術の三美神、詩作、絵画、造園、造園家けいぱびりてぃ、ぶらうん あんどれ、る、のーとる、ルイ14世のお抱え庭し。

かんとの崇高、巨大な人工物がもたらすものしんりてきなはたらき。

ワーグナー、バルジファル、憐れみを通じて賢人となる無垢なる愚者

ジョージ、でぃっきー 美術とはある特定の社会制度、美術界の為に行動する個人ないしは人々が鑑賞の対象として候補にあげてもよいものとして認知した人工物。簡単にいって、アートワールドの住人が認定したものであるならそれはアートであるということ。

だんとー、美術の世界、アート認定の文脈はアーティストと鑑賞者が互いに把握することのできる社会的文化的な文脈があるゆえに理論なのだ。ダントー君の結論、一つのオブジェとしての美術作品はある意味を具現化しているのだがそれが、美術作品として成立すべき解釈なくしては、ないものも美術作品とはなり得ない。

だんとーの批評の定義、批評がなすべきことは意味を特定し、その意味がどの様に具現化されているのかを解説することである。

京都から帰ってきました。

団体戦は終わりこれからは個人戦の始まりだ。

アトリエもなくなる。集まりも少なくなり、毎日顔を合わせる機会も今よりもグンと格段にすくなくなる。

これからは各自が光栄ある孤立なのだ。

各人が、互いに自分の、自分だけにしか歩めない道を進む。ある者は歩きで、ある者は走り、ある者は新幹線で、そしてある者はどぶの中を匍匐前進するのかもしれない。。。自分はそうだった。今でもそうだ。



エネルギーをTwitterやフェースブックに取られないようにしよう。くだらない講義に俺の貴重な時間を奪われないようにしよう。


すてい、はんぐりー、すてい、fーりっしゅ!!!!なのだ!これいいのだ!