2011年8月23日火曜日

ユンゲラー!ユリゲラー!デューラー!

寓意があまり好きではないのはそれが一種のこじつけに見える時が多々あるからだ。それとまた同時に寓意が好きなのは、その解釈がみごとにぴったりはまってそれ以外の解釈を拒絶するぐらいの一切の排他的な暴力を振うといった全能感に浸れることができるからだ。フロイトで一切の寓意が終わりを迎えた。ある意味でフロイトは寓意界のニーチェであった。すべてのものがすべて意味を持つようになり、すべてのものが全て意味を失った。性的なものは一切の解釈に意味を与える。それはあまりにも身体レベル過ぎて、そしてまた実際には、作者か、またその作品が、そうした性的な寓意を意図しないにしても、そのことに関して、それに反対するにも憚られ、かつそれが無意識のあらわれと言われれば、もう議論にはなりえない。棒があればファルス、穴があればヴァギナ。一切の情報が性に意味を付与され、寓意は終わりを迎えた。
象徴と寓意は紙一重である。実際、私自身その正確な意味を捉えてはいない。ただ何となくその意味を一般的なレベルに敷衍して、還元して、また経験的に運用している。だから今回の寓意という言葉も象徴という意味も多分に入ることもあるだろう。寓意の集合は象徴を包括する。
私たちの興味を絶えず引いてやまない作品は常に謎を秘めている。モナリザの微笑みは永遠に謎だ。謎が謎を呼ぶ。リザは今もルーブルのピラミッドの下で私たちにその微笑みを送っている。女もまた然り。女も常に謎だ。それゆえに男たちはその神秘のヴェールを剥がそうとするがいつも失敗に終わる。謎は一つの魅力である。サムソンの髭である。錬金術である。すべてに意味が付与されている、かに見えるがその付与された意味が謎だからこそ、またさらに一層の魅力を持ち、その魔力は私たちを惹きつけてやまなくなる。それが寓意の髄である。意味のわかりやすい、わかっていると思っている寓意はそのわかりやすさゆえに簡単に受容されてしまう。自由、平等、博愛、妬み、嫉み、僻み、とりわけ、西洋の寓意画のほとんど全てがキリスト教の7つの大罪や、その美徳についてのものであろう。だいたいはそれで読み解ける。
読み解けない寓意は好きでもあり、嫌いでもある。万人が万人自分だけの寓意があるとするのなら、それが現代アートであろう。コンセプチュアルアートは実は寓意の系譜に属している。読み解けない寓意は自分の知識の少なさを痛感させられると共に、新たな謎解きの喜びも与えてくれる。寓意をほぐす喜びはまたなんともいえぬ喜びでもあり、それは古典絵画であっても現代美術であっても私の頭、心の働きがとても似通っているのを感じる。読み解ける寓意は家庭に、読み解けない寓意は美術館に。
前置きはここまでにしよう。私が今回論じる作品はアルブレヒト・デューラーの三大版画のうちの一つ『メランコリア』である。実際、この三大版画の全てが寓意のオンパレードなためどれを選ぶか迷うが、ここはこの頬杖を付く有翼の女性にルネサンスの天才の残した寓意を紐解いてもらおうかしらん。
この作品のすべてのオブジェに寓意が込められていると言われている。デューラーがそういったのではないから、真相はわからないが、この作品は先に述べたようにリザと同一に見るものを謎で誘惑し続ける。一目見て、わからない。作家が何を表現したかったのか。わからない、だが惹きつけられる。それはただ単に技術だけのものなのか。ただ技術的に優れているから惹きつけられてやまないのだろうか。デューラー作品は一度見たら逃れることはできない。その細密な描写は日常生活における網膜以上に細かく一目見たものの心の網膜に残像を焼きいれる。友人にはこの作品が何を意味しているかわからないという。私には友人の言っている意味が全く分からなかったからだ。私にはこの作品が意味していることが一つにしかとることができない。この寓意は私にとっては暴力的解釈を求める。一切の多様性を拒絶する寓意作品なのである。
先に言っておこう。この作品でデューラーは何を表現したかったのか。それは以下の文章の通りだ。

世界って何だ?
神って何だ?
人間って何だ?

この作品はこの世界の不思議、神の不思議、人間の不思議を果敢に追求した作品なのである。細部を見ていくことにしよう。
有翼の女性は頬杖をついている。これはメランコリア、憂鬱気質を表し、悩みやすい性格、天才気質を表わしている。ラファエロのアテネの学堂でもミケランジェロがモデルとされている手前の男はこのポーズをとっている。凡人の悩みなどちいせいちいせい。燕雀いずくんぞこうこくの志をしらんや。この世の瑣末な悩みなど凡人に任せて私は高尚なこの世界の真理を考察しようではないかという表れでもある。
目を凝らせばわかるが、数々の至る所に人間の顔らしきものが描かれている。人面魚といった具合に乱れていたり、凝縮されていたり変形されている為判別がつきにくいが、それでもやはり人なのである。点が三つあれば人に見えるのだという科学データもあるが、それを考慮に入れたとしても、あの超絶技巧を持つ天才が間違えて意味のないところに不必要な点を打つのかどうかは微妙な線である。故意か否か真偽はいずれにせよ、私にとってはこの顔は人間がに世界を見る時は人間を通してしか世界を見ることができない、つまり環世界ということを表わしているようにしか思えてならない。人間原理とでもいおうか、とにもかくにも、まず人間があって世界が始まるという考えである。人間なくしては一切の事象は存在しないのである。それをかれはさまざまな顔を描くことで表現したかったのである。もちろん、多面体にあるとされる顔に関しても、当時のレオナルドの手記にも壁に顔を垣間見ることの重要性と、そちらの壁の沁みの方が下手な画家の作品を見るよりもよっぽどいいとさえまで言っている。それをデューラーは人づてで聞いたのかもしれない。それが画面至る所に現れる人の顔の寓意である。
また後ろの砂時計は言わずと知れた命のはかなさの象徴である。メメント・モリである。そしてそこにはバロックの先駆けでもあるカウぺ・ディエムすら垣間見ることができないか。天秤は正義を。魔法陣はこの世界の数学という絶対的な秩序を表わしている。数学なくしてサンタ・マリア・デルフィオ―レはなかった。ピエロもいなかった。数学という絶対的秩序に神を見いだし、その神を探究せんとする気概が中央人物の持つコンパスに見てとれる。画面下に転がっている道具類は飽くなき人間の技術の向上を意味し、球体は神の図形を表わす。円以上に完璧な図形。球は神の図形である。中央人物横の天使は過去の自分である。追憶の彼方、時間とはなにか。自分とはなにか。ゴーギャンよりも300年早くに描かれた我らどこから来て、どこへ行くやら。球の横の拘束具はこの世への拘束である。海の向こうの彼岸へは肉を持っていては踏み入れることはできない。ただ頭の中だけはそこにいくことができる。霊と肉。プラトンのイデア論をこの絵画は宿す。従順に縮こまり、まるまる犬、それは自分が奴隷となっていることにも気付かぬ無自覚な奴隷の寓意であろうか。しかしその無自覚な奴隷はドストエフスキーの小説で描かれるまで待たなくてはアナクロニズムになるというのだろうか。しかし、それは古いのではなく永遠なのだ。自覚なき奴隷は古代ローマにもいたし、16世紀のイングランドにもいたし、19世紀のロシアにもいた。そして21世紀の日本にもいる。そう考えると、多面体の中にいる人間はあるべき理想の自分の姿であり、それをその下に転がっているハンマーで打ち砕き出現させろと言っているのかもしれない。中央人物の腰に下げている鍵は目の前に横たわる自分の無限の可能性を表わしている。墨子悲糸である。一度染めてしまった色はもう戻らない。それがかな悲しくて墨子は泣くのである。決定と決別。可能無限は日々減ぜられていく。画面奥の彗星はヨハネ黙示録によれば世紀末に訪れるこの世の終末を表わしていると同時に、その彗星を囲むようにあるのは虹であり、虹はマリアの象徴であり、調和、再生も意味する。実にまさしく正反対のアンビヴァレントなものが一挙に同居している典型である。この世は生があって死があり、死があって生がある。男、女、山上の垂訓のように悲しみもあれば喜びもあり、嘆き悲しむ時があれば、歓喜の踊りがある。聖・サンフランチェスコの祈りにもまた同様な記述がある。陰と陽。老子。老子がこの時代、晩期ルネサンスにも足がかかる時代に読まれていたことは不思議ではないが、そういった話はあまり聞かない。中国の古典が欧州で広く読まれるようになるのはバロックに入ってからだが、ひょっとするとマニエリスムのバロックにも入るこの時代に、老子を読んでいた、すくなくとも読んだ人と交流があったというのはマクシミリアン1世の宮廷サロンを考えればあったとしても不思議ではないはずだ。いや、かりに読んでいなくともそれは人間であれば誰しもが感じることであろう。今よりもより一層死が身近だった時代に、肉の牢獄に囚われていてもなお、イデアの世界、この世の崇高な真理を探究しようとしていたことは疑いがないだろう。彗星はともすれば「初めに光りあれ」の寓意なのかもしれない。画面中央のビッグバンから時間がこちらに向けて流れてくるのがわかる。天使も年をとる。とするならあの海か、湖の所に見える、島か大陸に住む住人はユートピアに住む原初な人間たちなのであろうか。ルソーがいった未開な社会。憐れみに満ちた民が住んでいるのか、いはば、ゲーテの自由の大地に自由な民が溢れているのか、そうした事柄がアナクロニックに溢れてくるのは、デューラーの意図的な操作なのか。アナクロニックではなくともあの町はトマス・モアのユートピアであろう。だがしかし、これもアナクロニズムである。トマス・モアの出版は1516年、ラテン語での出版であった。デューラーのこの作品は1513から1514の間に作られた。優れた藝術家は時代の先を行くが、それはあまりに先を行きすぎる為に戻ってしまうことが多々ある。原点回帰ということだ。気付けば古典にいてしまう。それがこのデューラーの「メランコリア」である。実にアナクロティックな解釈ですらこの作品には追いつけない。アナクロティックな解釈を要求する作品であるのに。追いつけないがこの作品が何を表現したかったのかだけはわかる。実に不思議な作品である。最後に言おう。何度も言おう。この作品が最も表わしたかった寓意、それは、人生の謎であり、不思議だ。端的に言おう。つまり、、、

世界って何だ?
神って何だ?
人間って何だ?

ということである。

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