午後5時、jr原宿を降りると、目の前に天野岩度があった。あぁ、丹下健三のあの辺りもここも7年後にはどのように変わっているのか、楽しみになった。
友人がレスリー・キーさんの写真に写っているかもしれないとのことで、gyreにいく。その途順、道行く人の香水を数々嗅いだ。その途中に、おしゃれなbuglugのポスターを見た。なるほど、さすがタケノコ族を排出した街だ。活気がある。だが、若干ハイソ化しつつある。藤子ヘミングがまだ若かりしころの表参道はけっこう木だらけねこはいだらけだったというが、今ではしゃれおつなブランド通りになりにけり。
冨の過多は素晴らしいと思った。やっぱり金が集まる所には虚飾とか見栄とかあいまって美しいもの、驚きに溢れたもの、完璧なものができて、集う。が、先ほどの去年の冬にいた鉄橋下の、めっちゃ冷たい中、地面に落ちた白いご飯を食べていたホームレスはいずこに、と思いながら、美しいものを見つめ、自分も堀越二郎とたいしてかわらない人間なのだなぁ、と業の肯定と談志で合理化して道を歩いた。
竹下通りを絵画を鑑賞するように歩いてみると楽しい。動く絵画は素晴らしい芸術作品だ。道行く美女に声を掛けられずとも目を合わせることはできる。目が合う。ドキッと!する!どきんちゃん!!!道を歩きながら、ヴェネツィア絵画を眺めるように歩く。でかくて細密。どこを見ても楽しめる。フォーカスを還ればいくらでも楽しめる。ヴェロネーゼが眼前にある。ここはアカデミア美術館/。
普通の絵画では味わえない、アブラモヴィッチのような見つめるアート体験をできる。また美女だけではない、道行くお洒落なファッションは見ていて飽きない。なるほど、洒落乙なかれらあってこその原宿なのだと、感心した。おしゃれは勇気がいる。洒落乙になればなるだけ自身を背負う。
突き抜ける洒落乙は覚悟を伴うからこっちも見ていて爽快で潔いい。洒落乙な奴らがたむろってタバコをすっていたのだが、しっかり喫煙コーナーでたむろっていたのはなぜか尾崎的な物足りなさを感じた。喫煙スペース以外で吸えば腹立たしいし、それ以外の場所で吸っていてもなんだかものたりない。hope springs eternal in the human breastってことである。
まだ竹下通りは続く、エバーノートで歩きながら心眼でメモを取っていたから、けっこう溜まっている。心眼コンパイルプログラマーになった気分で獲ったのを機能のように思い出す。メモを取ったのは昨日だ。いえすたでいわんすもあ。
道行く美女とウハウハしたい。うはうはするには金が入る。金はもちろん手段である。ウハウハするための手段である。みんな金が欲しいのだ。さうして金の他には何も欲しくはないのだ。漱石。金を稼ぐことは大変である。暮らすことも大変である。その中で飛び出るにはもっと大変である。道横の白のランボルギーニは努力の象徴、ステータスシンボルなのだ。シンボル、大日本人、r100である。
そうこうするうちにgyreについた。写真は撮れなかったけれども、世界にはあれだけの美男美女がたくさんいるんだなと改めて思った。結構世界には美男美女は多い。
顔は鍛えられなくても、身体は鍛えられるのだなぁ、とも。
最近ゲイのイケメンが盲腸オペを拒否して伝説になったが、そうした美しい男たちの写真がたくさんあった。男の身体って結構美しいのだ。普段あまりそうした視点で見ないから、新鮮であった。あぁ。ヴァニタス!あぁ、はかないねぇ、そこにある屈強な身体も、豊満なボディも、ボディコンも、バブリーも、みんなみなよぼよぼのおじいちゃんおばあちゃんになって、認知症になって消えてゆく。ある者は三島の道を辿る。50億年後には地球は蒸発。1兆年後には、電子だけが舞い、暗黒の宇宙は延々と空間だけを拡張していく。『人間藝術家宣言!』にもこんなことかいたっけ。つまり、そう、ファウスト!ってことなのだ。現代のバロック絵画を見せてもらった。構図とかもろルーベンスだったしね。あぁ、はかない、はかない。『東京物語』の水戸黄門もやったことのある初老の俳優くらいに、あぁ、はかない。はかないねぇ。
香水のにおいを嗅ぎながら渋谷駅に向かう。今日は寮生が金王八幡宮でライブをするというからそれを見に行くのだ。
竹下通りには、腰掛け椅子がジェットコースターのように長く伸びている。あそこに腰をかけてナンパしたり、道行く人のファッションを眺めるのもずいぶんと乙だろう。はぐれぐもみたいに、おねぇちゃん、あちきと遊ばない?っていってみたでやんす。
竹下通りはミニミニ凱旋門通りを目指すのか?だが街路樹が道を覆えるほどにその幅は本家本元と比べて狭い。今においてもまだ畢竟上滑りの外化を続けるのか。と思ったが、近現代建築が人類みな同じ様相ということを考えると、もはや近代は超克したのかなぁと、思いつつ、新しい、凝縮したシャンゼリゼ通りがあってもいい。日本版一カ所ぎゅうぎゅうシャンゼリゼ通り、それもありかと思った。
近代の枠組みでとらえている自分のエピステーメーが時代遅れになっているのだ、あれはきっと新しい形なのだ、外化を血肉にした開花なのだ、と思ったが矢先、明治安田生命ビルを通ると、あぁ、、、やっぱり、まだまだ漱石越えられてねぇ。。。とちょっぴり残念な心持ちになった。真似するのはいい。パラッキオ、いいでしょう。だけどもだっけど、もう少しこって欲しい。ヴァチカンといわねども、せめて中堅君主の城の門構えくらい装飾をこったほうがいい。うちっぱなしは正直前園さんのいじめよりダサイ。明治の岩崎のほうがよっぽど洒落乙だ。
遠くにヒルズを見つめる六本木通りの幅くらいあれば凱旋門になれるが、この通りにはオフィスビルばかりだ。
六本木通りをすすむと、マックスマラという店がある、なんか語感がエロいな、とチラ見しつつ歩く。歩く。
西洋人の顔立ちに憧れるのは、文化的なものなのか、また生物学的に優れているからなのか、いかなる文化圏でも鼻が大きく、しっかりしている人が美と尊ばれるのは科学的コンセンサスを得ている。文化的生物学的時代精神的な諸々の要素がコンプレックスになって僕らは彼らを、すべての芸術が音楽に憧れるように憧れる。美しいことだけは間違いない。今もぼくたちは明治の延長にいる。いや、明治よりずっと以前からそうだったのかもしれない。
美と金は密接に結びつく。美と権力も密接に結びつく。ぼくもそうした世界に入りたい。入って抜けたい。また抜けては入りたい。自由、これには結局金がいるのだ。自由であることには金が手段として必要だから気をつけないと奴隷になる。あぁ、レミゼラブル!
道を歩くと、綺麗な顔立ちをしたオーラ高らかに纏う叶姉妹的な女性とすれ違う。ふむ、中学校の時に美しかった少女はそうそうに授かり婚をした。彼女等と今すれ違った彼女のまとうオーラの違いとはいったいなんであろうか。生まれか?家柄か?それとも美しいものに触れ続けた美の絶対時間が、オーラを纏わせるのか、目が光っている。あの光の源は一体なんだ?たべもの?いい食べ物を食べると目が光るのか?それとも人の美しい所に目をやるとオードリーヘプバーンみたいに目が光るのか?美しい文章、一流の文学、音楽、映画、絵画、演劇、それに触れ続けた時間なのかしらん?将来彼女のようなひとたちと遊んでみたいなぁ。と思いながら、魂のありかをさぐる友人の寮生のライブを見に行きました。
とってもおもしろかったです。
結局、秋葉原が7年後までになんとか、ホコ天を大規模に復活させることができないかな、ということに落ち着いた。以前のようにエアガンを撃つまでエスカレートする事態になるかもしれないが、清濁会わせ飲まなければそもそも人が楽しむことなんてできやしない。命の危険があってこそディオニソスなるものに気合いが入る。つきでろぼぼんになるためには涵養、寛容、それが一番大大事マンブラザーズ!
竹下通りもいいが、秋葉原のホコ天の大大大規模な復活を望む。
10月15日 台風直撃前日
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