2013年5月19日日曜日

現代アートが終わりとか言ってる奴wwwワロタwww!!!

現代アートについて岡田としおさんが語るユーチューブ動画を見て、とても参考になり、考えさせられた。

アート(主に西洋の文脈に基づいた、歴史に基づくコンテキストを有している、主に造形美術品(当然、近年のメディアアートを含む))の定義は、作家が芸術系大学を出ているか、どうか、と、なおかつ、歴史に則って自分の作品をカタク(論理武装で、ペダンティックに)説明できるか、どうか、と、そして、お金持ちなハイソな人たち(アートワールドの住人含む)の所有欲を巧くくすぐることができているかどうか、で決まるのだな、ふぅ、と思った。

(反論の余地のない)現代アートとは、現代に生きるアーティストが、上の3つの要素を満たす作品を造ることである。それが出来ていれば、とりま、現代アートと言っていい。

それが出来ていないものは、アートであるが、(現代)アートではない、ということになる。

ぼくもアートワールド(芸術生態系)の住人(まぁ、ランク的に言えば、ダンゴムシクラスかな。たとえを挙げれば、人間クラスは、ジェフ・クーンズさんとか、ダミアン=ハーストさん、これらは、まぁ、王様クラスだね。人間の中でも。村上隆さんとかは、公爵クラスか、まぁ、草間弥生ちゃんさん、とかも正直クイーンと言っても良い感じがする。著名な大学教授やギャラリストでも公爵、まぁ、ロザリンドクラウスとか、正直批評家にも王クラスはいる。まぁ、皇帝は、アートワールドにはいないのかもしれない。)だから、批評にはもう半ば飽き飽きしている。これ以上、ぼくの中に塩は溶けない飽和水溶液状態だ。まぁ、溶けるものは小林秀雄くらいか。したり顔で他人のふんどしで相撲を取る批評家にはあまり与しない。正直、批評もアートシーンもどうでもいい、というのがハナモゲラ、意味等無く、ハナモゲラである。つまり、てきとーにどうにでもなってくれ、とりあえず、自分が穏やかに暮らせれば現代アートがどうなろうと、


Apres moi le déluge !




とりま、人間ってのは表現の場所が無いと鬱屈して”黒々とした得体の知れないもの”が溜まってきて、発散したくなってくるから、白魔法としてなかば、灰色魔法として放出したくなるから、みながみなが百家争鳴で議論しあう、ある者は的外れな人格攻撃のなべのふたで、ある者は本質をぐさりと突く怜悧な思考のナイフで、みながみなバトルロワル。それでいいじゃん。みながみんな、いいたいこといってさ。みんなでガス抜きしあってさ、その中で建設的な議論が産まれればそれに越したことは無いし、いっかい、一斉にアートワールドの住人が、みんなで同時に2ちゃんスレに書き込みすれば何かがうまれるはず、トゥギャッターのまとめにくくられるようなハブ的な人が中心になって議論が形成されていくだろうけど、素人のガヤガヤがないと、盛り上がらないし、その熱量が無いと最後の真理の扉は開かないような気がするわけね。


アートワールドのダンゴムシにとっては何が現代アートか否か、ってのは、ほんっと、正直、心の底から、どうでもいい話で。それよかは汗水流して型を作っている海洋堂のスタッフや、動画担当アニメーターを尊敬している。とはいえ、ぼくにできない難しいことばを用いて内輪だけに通じる文法で、むしろ、そっちの方がオタク的で、そっちのほうが専門的な知識を有するからニワカが繁殖できない場でありそう?、まぁ、批評している批評家も正直、心の底では尊敬してたり、して、まぁ人間の心は欧州事情と同じで複雑怪奇だ。何が現代アートか語るよりもぼくはベーシックインカムの方がプライオリティーが高い。そっちの動向の方が5億倍気になる。

若手自称アーティスト(ぼくは彼らをアーティストと思っています)がよく集まって何か話し合うってのも、めっちゃ、すーぱー超超マルティテュードだから、意味はあることなのであろうけれども、なんか、やることがないからやっていて、鬱屈した者をとりあえず、だしとけ、みたいな。ミニミニ宗教の集会っぽくて、これもぼくの体質に合わない。各人が各人で掘り下げ、各人が各人の指針を持っていれば、正直どっちだっていいし、芸術うんぬんかんぬんを定義してやりがいを見つけている人がいれば、それはそれで素晴らしい白魔法だから、存分にやってください。ってわけ。

ソクラテスたちだって、云々かんぬんしていたのだから、それをとやかくいうつもりもない。だから、何度でもぼくはいうが、正直、アートとかどうだっていいのだ、これでいいのだ。ハナモゲラ。酒が飲めれば、それでいい。あー、ソクラテスとか絶対2ちゃんねらーだったっつーの。んで、プラトンは絶対同人誌超擁護してるよぉ!彼らは秋葉原と親和性が高かったのだ。ギリシアと秋葉原は螺旋階段の同一ポイントの上と下の関係に過ぎない。もちろん、秋葉原の方が真理の階段に近いほう。上か下かはどうでもいい。中心か周縁かもどっちだっていい。扉に近い方、そんだけ。

ぼくはボードレールを読むし。タモリがぼくの師匠であるから、赤塚不二夫でいたいだけだ。そして、お前の判断力批判的な趣味は何かと問われたら、アニメや同人誌の方が感情を揺さぶってきますから、そちらの方が好きですし、ぼく当人としてはやっぱり、そっち系のほうと親和性が高いのであります。

結局、何が言いたいのかというと、単なるブラインドタッチの練習なので有りました。

ちゃんちゃん/


”得たいの知れない黒々としたもの”について知りたい方、人間藝術家宣言をお勧めします!!!

あじゃじゃしたー!

追記;んで、休日にはモーツァルトの41番、クライバーのやつ、聴いてりとね、あぁ、芸術特有のクオリアってのがあって、エヴァを見ている時に感じる、クオリアと、モーツァルトの41番のクオリアと、レニーのブラームスの交響曲第一番のクオリアってのはやっぱり、質が異なるわけであって、みんなちがってみんなよくはあるんだけれども、その違いがあるってことと、それに上位、下位、高級、低級って、クオリアに価値を付けるのも、人間の営みなのね。差別は感情で、特権階級の優越感で芸術は進歩、それがダメなら変容、してきたわけだから。その価値の呪縛から自由になれた時にはじめて、エヴァはベートホーヘンと肩を並ばせることが出来るわけね。だけど、それを同列に並べていいのかって言う問題と、それをどうして並べていけないのか、っていいう問題があり、つまり、俺は何がいいたいかっていうと、芸術の感動の、クオリア、芭蕉的なものもあれば、ジャッカス的なものも、あって、ガンダムもあれば、ショパンもあって、それが個人に与えるインパクトの少なくとも二つのパラメター、質と威力、閾値でも可能、があるし、パラメーターは二つだけでなく3つでも、4つでも、それ以上でもいいってこと。

この質は等価でない、てことと。イコールならばベートーヴェンとエヴァはまったく同じってことになるから、問題、問題っていうのもおかしいが、それは制度(受容者、ラカン、作者の死とかも含めて、含めるけれども、それも正直どうでもいいが)の側にある。

そ、端的に言えば、その作品に高級な神を感じるか、ってことだ。

つまり、もっと簡単に分けると、手塚治虫、さらに詳細に迫れば火の鳥とベートーヴェンは近い。

エヴァと、ボードレールは近い。

芭蕉と、カニングは近い、的な、近さ。

わかるかな〜、わっかんねえだろうな〜/

2013年4月19日金曜日

眠れぬ夜のために

ここ二週間、毎夜12時から、カール・セーガンのコスモスを一話見てから床に入っていた。

姫神調の音楽から始まるこの物語のおかげでコスモを感じながら毎夜安眠できている。


ちゃかすのではなく、真剣に、ともすると電次郎的なイロモノ枠としてのエンターテイメント科学に陥らず、王道を歩み、本質に迫る素晴らしい番組である。

もし諸君が科学に対して、何かカタクてつまらないものというイメージを有していたら、甚だ残念なことと言わざるを得ない。理由はとても簡単で、そう、それはとっても、もったいないことだからだ。ただそれに尽きる。科学の本質を知らずして生きるのは人間に産まれた甲斐の40%近くを損している。確実に。ぼくはそう思っているんだから仕方ない。科学は無くても生きられるかもしれないが、科学は君を放っておいてはくれないのだ。

とはいえ、君の科学嫌いを君の生得的遺伝子に帰着せしめるつもりは毛頭無い。君と科学との出会いが不幸なかたちであったと容易に想像できるからだ。人間には知ることの楽しみがある。アリストテレスの語ったこの真理だけは客観的と言っても差し支えない。もし君がいい意味での出会いを経験していたなら、今頃科学は君の最大の友であったはずだ。科学の本質は一緒にいるだけで楽しくなるところにある。気をつかう必要も無い。

君が今まで科学に対して食わず嫌いで不幸な人生を歩んできたのなら、それはそれで仕方の無いことで、虚数時間からのビッグバンはエントロピーが増大していく方向にしか進んでいかないから、何度悔いたって意味が無い。後は喰うか、喰わざるか、それだけの問題だ。おおかた君が科学を嫌いな理由は受験のための科学を学んだ弊害に由来しているとぼくはよんでいる。安心されるがよい。そうした星の運命を呪う前に、この番組が作られた星の運命を祝福すればそれで事足りる。何も穴を二つ掘って呪う必要などない。運命は帰られる。観察と省察と一歩踏み込む好奇心で。

ぼくは苦悩を突き抜けた人類を全肯定する。ベートーヴェンの交響曲第5番と第7番を聴きながら。

http://www.youtube.com/watch?v=5Z2AnfStRSM

2013年4月18日木曜日

人間藝術家宣言!のお知らせ

みんなぁ、ぼくの本がでてるよ!

読んでね!損はさせません!

何か感想あったらお待ちしてます。



一ノ瀬健太

http://www.amazon.co.jp/Kindle%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2/s?ie=UTF8&field-author=%E4%B8%80%E3%83%8E%E7%80%AC%E5%81%A5%E5%A4%AA&page=1&rh=n%3A2250738051%2Cp_27%3A%E4%B8%80%E3%83%8E%E7%80%AC%E5%81%A5%E5%A4%AA

2013年2月16日土曜日

備忘録/本

最近読んだ本、忘れぬうちに

⑴エレガントな宇宙
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%AA%E5%AE%87%E5%AE%99%E2%80%95%E8%B6%85%E3%81%B2%E3%82%82%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%8C%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%82%92%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%B3/dp/4794211090

⑵アート・スピリット ロバート・ヘンライ
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4/dp/433605410X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1361014140&sr=1-1

⑶ゼロ年代の想像力 
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%83%B3%E5%83%8F%E5%8A%9B-%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%AF%E6%96%87%E5%BA%AB-JA-%E3%82%A6-3-1/dp/4150310475/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1361014201&sr=1-1

⑷リトルピープルの時代
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E5%AE%87%E9%87%8E-%E5%B8%B8%E5%AF%9B/dp/4344020243/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1361014237&sr=1-1

⑸こんな日本をつくりたい
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%AA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84-%E7%9F%B3%E7%A0%B4%E8%8C%82/dp/4778313259/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1361014268&sr=1-1

⑹能 −鑑賞入門−/ビデオ

⑺酒との出逢い 
http://www.amazon.co.jp/%E9%85%92%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%87%BA%E9%80%A2%E3%81%84-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%98%A5%E7%A7%8B/dp/416721721X/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1361014357&sr=1-1


とりま以上。

2013年1月29日火曜日

卒展 2013

卒展の感想を記す。


これは自分が感じたことを連ねる勝手気侭な似非エセーである。独断と高慢と偏見で描かれたルポルタージュと思ってもらいたい。


まずはじめに、やっぱり卒展は面白い。一年を通じて、自分が巡ったどの展覧会よりも、やっぱり圧倒的に面白い。六本木であろうが、銀座であろうが、西美、近美、東博、現美であろうが、やっぱりこの時期のこの展覧会が一番面白くて好きだ。


昨日と今日で、都美館、芸大校内の全作品をコンプリートしたったwww。作品側にあるポートフォリオ、ならびに各課展示で一カ所に集められているポートフォリオも網羅した。

ぼくは見ないともったいない貧乏根性があるから、作品もポートフォリオもあれば必ず見る。


ぼくの鑑賞の仕方はおそらく参考にはならない。芸術学に属する人間としては失格と思われる帰来もあるかもしれないが、それは、至って簡単でただ勝手に見て、勝手に感じるだけだからである。コンテキストがどうだとか小難しい話などはひとまずどこかに放棄してただ感じ入る。黙って作品に向き合う、それだけだ。

眼前にある作品と対峙すれば、そうこうする内数秒も立たぬうちに作品の仕事量が見えてくる。ぼくの勝手な解釈だから定かではないにしろ、その仕事量を前にして作品に込められた情念を想像するのがとても心地いい。勝手にハチクロの甘酸っぱさを作品に投影して作者の熱血と怠惰な四年間を脳内リピートして感慨に耽る。



めっちゃ知っている人、ちょっと知っている人、顔だけ知っている人、まったく知らない人、その他諸々の作品を見て回って、自分の中で批評する。批評とは価値判断であるから、自分の中でA+、A、A−、B+、、、、をつける。目利きは判断する事から逃げてはいけないから、自分の全存在を賭けて判定を下す。あちらが本気で挑んでくるからこっちも本気で批評する。言い訳はしない。こっちもあっちも。だから、こちらはただ感じた事に嘘はつかず価値判断を下すのみだ。ちなみにぼくは仕事量の多い作品が好きだ。

ぼくは、努力は認められず、結果が全ての世界においてもやはり仕事量は嘘をつかない、という勝手な信念を価値判断のひとつの指標にしている。


作品はただ佇みもの言わず雄弁に語る。その沈黙に報い芸大にいるからこそ感じられる膨大なコンテキストを読み込む。そこに滲み出てくる葛藤を勝手に把握し、ポートフォリオを読み、また再度、卒制作品を見る、読む、聴く。耳を澄ませば不在の作者の声がこだまする。



棟と棟の遊覧中にふいにとある情景がフラッシュバックした。今は真っ裸のイチョウの木々に緑が繁茂する季節、その下で発砲まみれになっていた彼らが、四年という歳月を経て、自己と対峙し、己が持てるすべてを作品に叩き付けた。


黄色の衣を脱ぎ、今は裸に見えるその木々の枝々にはぽつぽつと次世代の芽が息吹いている。これからまたすぐ上野に花が咲く。さうして散る頃にまたスチロールの粉が舞うのだろう。四季を四期繰り返し学生は同じ空間を壁画の上に壁画を重ねるように生々流転する。


卒制には魂が宿る。作品の良かれ悪しかれを問わず作家の為した息づかいの来歴が込められるから、納得は如実に滲み出て観者に伝わる。やり切った感のある作品、無い作品、どれもがみな四年間の集大成でありファウスト的痕跡と見なされる。卒制の中には明らかに自分から逃げた作品もあるし、当然、闘い抜いた作品もあるが、いずれにせよ、それらは同じ四年である。素晴らしいのはどちらも言い訳せずに、背中で語るに徹していることである。この点に関しては皆何とも潔い。



総合工房との上から下へ。5階から見渡す景色に藝祭の面影が蘇る。

眼前の天心の森はいつも見守っていてくれた。



入学して春、この世をば我が世とぞ思ふ上野の桜、と詠み、桜吹雪の中、勝利の美酒に酔い痴れ、人生のピークを迎えた。夏、夏休みなんていらねぇよ、夏。強制労働の名のもと夜遅くまで仲間と音楽をかけながら神輿を作り、サンバを経験して芸大生として一人前を迎える。君も踊れる夏の季節に、楽しめ一瞬をそれこそ真の人生だ。秋から冬にかけて、ハネムーンも終わりを迎えアートパスがやってくる。作ることにも腰が据わり冬。かじかむ手で石を、木を削る。鞴の神様、漆の神様、ありとあらゆる科の神様に感謝を捧げ真の伝統に触れる。芸術とは神事であり、神事に酒は欠かせぬものと肌で知る。ふきのとうより早く新級展を行い、退任展を経て今度の卒展を迎える。年々歳々花相似たり。芸大の一年サイクルとは大方こんなものだろう。その間にも絶えず講評に追われたり、追われなかったり、岩絵具、シリコン高かったり、バイトしたり、しなかったり、恋人ができたり、できなかったり、徹夜したり、単位落としたり、教職諦めたり、同じ科でぎくしゃくしたり、しなかったり、そうこうしてるうちにATM(あっという間)で気付けば四年が経って、追いコンで毎年、わかっているにもかかわらず、インフルエンザが蔓延して、わかっちゃいるけど止められない、これって芸術と同じなんだよね。


卒制とは、一種の死であり、生である。卒制とは産まれ直す恰好の契機である。

生まれ変わりのけじめ、しかと見届けさせていただき、しかと己が身を省みる絶好の機会とさせてもらった。



院に行く者、行かぬ者、就職する者、せぬ者、すべての人生が生ある限り続く。


自戒として、自分にアドバイス。




作り続けなさい。働いても、働かずとも、作り続けること。

自分に厳しく、自分と闘う時間を毎日幾分でも作りなさい。

蟻のように、小さく一歩一歩、象のように歩みなさい。




卒業生に幸あれ。



追記:

⑴自分が入学した年のはじめての卒展で見た作家の大半が今年院を卒業した。

そんなに記憶力がある方ではないが、それにしても多くの作品を覚えていて、比較する事ができた。これが芸大生にしか味わえない特上のクオリアであり、とても贅沢に感じた。

全く変わらず、ブレず同一の作品を造り続けるもの、ちょっとした作風の変化を取り入れるもの、また新しく作風を一新させるもの、そうした諸々の変化の比較をすることができたのに芸大特権を感じた。

⑵横浜バンクアート帰りには必ず中華街で中華を食べるといったことをしていたが、今年からそれができなくなったのが少々残念ではあった。

⑶精神が聞く耳を持っているレベルにある状態で、鬱な方々、及び鬱な小学生、中学生、高校生、大学生、主婦、サラリーマン、おじいちゃん、おばあちゃん、まぁ、結局、誰でもに卒展を見てもらえたら、あぁ、こんな意味不な生き方があるんだぁ、と生きる意味の無さと有りさを伝える事ができるのではないか。だって意味わかんない事ばっかしてんじゃん、あいつら、それに命かけてるて!

作品そのものが人生のちゃらんぽらんさを融通無碍に語られれば救える命がちょっとはあるかも。意味不な作品を意味不と捉えれば誰彼の人生すべてに意味がなく、だがしかし、その意味不な作品に意味を認められたら自分の人生に意味が湧く。

⑷ひとつ、ただし、卒制で逃げた人間はまたいつか闘わねばならない時が来る。それだけは言える。そして、ここで闘い切った人間にもまた戦わねばならぬ時が来る。クリムトの黄金の騎士なり、人生は戦いなり。ただし、今回闘い切った人間には次の戦いの時に少しだけ経験値が実感できる。違いはそれだけであるが、それが積み重なった時にその差は歴然と揺るがしがたいものとなる。

⑸あと、なんかあったけど忘れた。また思い出したら、書くべし。





平成25年 1月29日(火) 一ノ瀬健太








2013年1月23日水曜日

英語が手段になった時

英語が目的である分には英語学習の本筋は見えこない。

地平線の先の狐を見る為には英語が手段とならなくてはならない。

最近、へーゲルの『美学』(竹内敏雄訳、岩波書店)を読んだが、半分くらいしかその意味が理解できなかった。そのため、グーグル先生などを駆使して、ネットに上がっている先輩諸氏の方々のブログなども閲覧してみたが、なんだかんだまさし、でまだまだハテナ感がとれなかった。

わからない時はウィキペディア。(これ鉄則)

たまたまヘーゲルの日本語ウィキの下方にある、外部リンクでスタンフォード哲学事典のサイトにバシルーラされてみた。

してみて思った事。

あ、ここに答えがあった。(ぼくの、ぼくだけのかもしれないけどもぼくの答え、求めていたものは確かにここにあった。)

かなりの分量であるが、これが一番自分の理解にしっくりきた。

これは一般にも使える勉強法かもしれぬからここに記しておく。とりあえず、今日からわからない不明瞭な事は、ウィキ日本語→英語版→からのスタンフォードの流れで行こう。

大方の哲学用語の基礎知識はこのスタンフォード辞書を読めば事足りる。当然、勉強するということはノートを取りながら読む、書く、聞く、ということだから、メモを取りながら読み進んでいく方がよろしい。

まぁ、いってみれば、これが世界の第一線で闘う際に押さえるべき初期装備なのだから装備しない訳にはいかない。



ヘーゲル美学の項目をしこしこと読み進め、とりあえず読了する頃にはかなりの英語力が付いていた、というのは適切ではない。今まで溜まっていた英語の能力が花開いたといった感じだ。日の目見ぬうちにも醸造された努力のマグマは、必ず、噴火するのだと改めて再確認した。それは普遍の真理であるから、やはり努力は、ブロードウェイト同じく、the show must go onせねばならない。


今日もちょっとした調べもので、Mughal paintingを調べていた時に、あぁ、まじで、英語を読んでいる感覚が消える感覚、いうなれば、センター英語をめっちゃ集中して解いているあの感覚がずーっと続いた感じがリアルに実地に続く感覚があった。意味が英語のままわかる。それはセンターでも普段の日常でも経験できる事だが、英語学習そのものが目的であるセンターは囲いのある四角いジャングル、いうなれば決められたルールの中で闘うボクシングに近い。英語が手段になった時、スタンフォードは囲いのないリアルガチ生存競争のジャングルで感じる全能力の萌芽といった得も言われぬ歓びをもたらしてくれる。とはいえ、喜んでいるうちはまだガキなのかもしれない。

歓びの消えた先に真の理解が待っている、と先学者は声高にかたるかもしれない。けれども、ぼくは孔子主義者であるから、学びて時にこれを習う、また楽しからずや!でいい。それで満足だ。


詠める、

目的とし英語が 手段になりし Mughal painting 読みし 涙溢るる 合掌



(参考文献)
http://plato.stanford.edu/entries/hegel-aesthetics/
http://en.wikipedia.org/wiki/Mughal_painting


2013年1月20日日曜日

むさびいったったwww

東京に来て初めて他大の卒展に行ってきた。

結論からいって、めっちゃ面白かった。芸大ブランドにかまけている人間は知らず知らずの内にぐさりと後ろからやられているのだろう。駄馬も十賀すれば麒麟に及ぶ。

武蔵野美の卒展、全体的に面白かった。油画の部屋を壊すっていう展示が印象に残っている。そして、芸文、視覚、9号館の展示もとても興味深かった。

芸大でいうところの芸術学科的ポジションに相当するのが芸文で、その学科の論文も全部目を通してきた。それを見て思った事は、あぁ、本当に芸大はクラシックな大学なんだな。ということだ。

彼らの中でクラシックな時代、中世だったり、ルネサンスだったり、まぁ、端的に言えば近代以前を研究テーマにしている人はほぼ皆無であった。いるにはいたが、ロマネスク建築とモネの睡蓮を掛け合わせたものだったり、セザンヌ作品の構図分析などがその例で、芸文の大方はやはり現代志向であった。

自分の実感としては、ムサビの芸文は、芸術学科とデザ科と音環を足して3で割ったような学部だと思った。これは自分で言うのもなんだが実に巧い表現だと思う。入念なリサーチで”新書”を一冊仕上げる、それがムサビ芸文の卒論だ。

それにしても、会場にいる、女の子顔面偏差値が芸大よりも圧倒的に高かった。是非とも一度、今まで一度も経験した事のない合コンなるものを三千世界の烏を殺してでもしてみたい。


他大見学、とっても勉強になりました。

いやぁ、設備すごすぎ。

追記:ムサビの芸文の卒論を閲覧する事ができるのに、芸大の芸術学の卒論を卒展でみることができないのはちょっとおかしいと思った。自分のたちの年には自分たちの卒論も卒展時にはぜひとも見られるようにしておきたいと思った。



文責 一ノ瀬健太

文責っていうの、一回使ってみたかったんだよね。なんかかっこいいね。