卒展の感想を記す。
これは自分が感じたことを連ねる勝手気侭な似非エセーである。独断と高慢と偏見で描かれたルポルタージュと思ってもらいたい。
まずはじめに、やっぱり卒展は面白い。一年を通じて、自分が巡ったどの展覧会よりも、やっぱり圧倒的に面白い。六本木であろうが、銀座であろうが、西美、近美、東博、現美であろうが、やっぱりこの時期のこの展覧会が一番面白くて好きだ。
昨日と今日で、都美館、芸大校内の全作品をコンプリートしたったwww。作品側にあるポートフォリオ、ならびに各課展示で一カ所に集められているポートフォリオも網羅した。
ぼくは見ないともったいない貧乏根性があるから、作品もポートフォリオもあれば必ず見る。
ぼくの鑑賞の仕方はおそらく参考にはならない。芸術学に属する人間としては失格と思われる帰来もあるかもしれないが、それは、至って簡単でただ勝手に見て、勝手に感じるだけだからである。コンテキストがどうだとか小難しい話などはひとまずどこかに放棄してただ感じ入る。黙って作品に向き合う、それだけだ。
眼前にある作品と対峙すれば、そうこうする内数秒も立たぬうちに作品の仕事量が見えてくる。ぼくの勝手な解釈だから定かではないにしろ、その仕事量を前にして作品に込められた情念を想像するのがとても心地いい。勝手にハチクロの甘酸っぱさを作品に投影して作者の熱血と怠惰な四年間を脳内リピートして感慨に耽る。
めっちゃ知っている人、ちょっと知っている人、顔だけ知っている人、まったく知らない人、その他諸々の作品を見て回って、自分の中で批評する。批評とは価値判断であるから、自分の中でA+、A、A−、B+、、、、をつける。目利きは判断する事から逃げてはいけないから、自分の全存在を賭けて判定を下す。あちらが本気で挑んでくるからこっちも本気で批評する。言い訳はしない。こっちもあっちも。だから、こちらはただ感じた事に嘘はつかず価値判断を下すのみだ。ちなみにぼくは仕事量の多い作品が好きだ。
ぼくは、努力は認められず、結果が全ての世界においてもやはり仕事量は嘘をつかない、という勝手な信念を価値判断のひとつの指標にしている。
作品はただ佇みもの言わず雄弁に語る。その沈黙に報い芸大にいるからこそ感じられる膨大なコンテキストを読み込む。そこに滲み出てくる葛藤を勝手に把握し、ポートフォリオを読み、また再度、卒制作品を見る、読む、聴く。耳を澄ませば不在の作者の声がこだまする。
棟と棟の遊覧中にふいにとある情景がフラッシュバックした。今は真っ裸のイチョウの木々に緑が繁茂する季節、その下で発砲まみれになっていた彼らが、四年という歳月を経て、自己と対峙し、己が持てるすべてを作品に叩き付けた。
黄色の衣を脱ぎ、今は裸に見えるその木々の枝々にはぽつぽつと次世代の芽が息吹いている。これからまたすぐ上野に花が咲く。さうして散る頃にまたスチロールの粉が舞うのだろう。四季を四期繰り返し学生は同じ空間を壁画の上に壁画を重ねるように生々流転する。
卒制には魂が宿る。作品の良かれ悪しかれを問わず作家の為した息づかいの来歴が込められるから、納得は如実に滲み出て観者に伝わる。やり切った感のある作品、無い作品、どれもがみな四年間の集大成でありファウスト的痕跡と見なされる。卒制の中には明らかに自分から逃げた作品もあるし、当然、闘い抜いた作品もあるが、いずれにせよ、それらは同じ四年である。素晴らしいのはどちらも言い訳せずに、背中で語るに徹していることである。この点に関しては皆何とも潔い。
総合工房との上から下へ。5階から見渡す景色に藝祭の面影が蘇る。
眼前の天心の森はいつも見守っていてくれた。
入学して春、この世をば我が世とぞ思ふ上野の桜、と詠み、桜吹雪の中、勝利の美酒に酔い痴れ、人生のピークを迎えた。夏、夏休みなんていらねぇよ、夏。強制労働の名のもと夜遅くまで仲間と音楽をかけながら神輿を作り、サンバを経験して芸大生として一人前を迎える。君も踊れる夏の季節に、楽しめ一瞬をそれこそ真の人生だ。秋から冬にかけて、ハネムーンも終わりを迎えアートパスがやってくる。作ることにも腰が据わり冬。かじかむ手で石を、木を削る。鞴の神様、漆の神様、ありとあらゆる科の神様に感謝を捧げ真の伝統に触れる。芸術とは神事であり、神事に酒は欠かせぬものと肌で知る。ふきのとうより早く新級展を行い、退任展を経て今度の卒展を迎える。年々歳々花相似たり。芸大の一年サイクルとは大方こんなものだろう。その間にも絶えず講評に追われたり、追われなかったり、岩絵具、シリコン高かったり、バイトしたり、しなかったり、恋人ができたり、できなかったり、徹夜したり、単位落としたり、教職諦めたり、同じ科でぎくしゃくしたり、しなかったり、そうこうしてるうちにATM(あっという間)で気付けば四年が経って、追いコンで毎年、わかっているにもかかわらず、インフルエンザが蔓延して、わかっちゃいるけど止められない、これって芸術と同じなんだよね。
卒制とは、一種の死であり、生である。卒制とは産まれ直す恰好の契機である。
生まれ変わりのけじめ、しかと見届けさせていただき、しかと己が身を省みる絶好の機会とさせてもらった。
院に行く者、行かぬ者、就職する者、せぬ者、すべての人生が生ある限り続く。
自戒として、自分にアドバイス。
作り続けなさい。働いても、働かずとも、作り続けること。
自分に厳しく、自分と闘う時間を毎日幾分でも作りなさい。
蟻のように、小さく一歩一歩、象のように歩みなさい。
卒業生に幸あれ。
追記:
⑴自分が入学した年のはじめての卒展で見た作家の大半が今年院を卒業した。
そんなに記憶力がある方ではないが、それにしても多くの作品を覚えていて、比較する事ができた。これが芸大生にしか味わえない特上のクオリアであり、とても贅沢に感じた。
全く変わらず、ブレず同一の作品を造り続けるもの、ちょっとした作風の変化を取り入れるもの、また新しく作風を一新させるもの、そうした諸々の変化の比較をすることができたのに芸大特権を感じた。
⑵横浜バンクアート帰りには必ず中華街で中華を食べるといったことをしていたが、今年からそれができなくなったのが少々残念ではあった。
⑶精神が聞く耳を持っているレベルにある状態で、鬱な方々、及び鬱な小学生、中学生、高校生、大学生、主婦、サラリーマン、おじいちゃん、おばあちゃん、まぁ、結局、誰でもに卒展を見てもらえたら、あぁ、こんな意味不な生き方があるんだぁ、と生きる意味の無さと有りさを伝える事ができるのではないか。だって意味わかんない事ばっかしてんじゃん、あいつら、それに命かけてるて!
作品そのものが人生のちゃらんぽらんさを融通無碍に語られれば救える命がちょっとはあるかも。意味不な作品を意味不と捉えれば誰彼の人生すべてに意味がなく、だがしかし、その意味不な作品に意味を認められたら自分の人生に意味が湧く。
⑷ひとつ、ただし、卒制で逃げた人間はまたいつか闘わねばならない時が来る。それだけは言える。そして、ここで闘い切った人間にもまた戦わねばならぬ時が来る。クリムトの黄金の騎士なり、人生は戦いなり。ただし、今回闘い切った人間には次の戦いの時に少しだけ経験値が実感できる。違いはそれだけであるが、それが積み重なった時にその差は歴然と揺るがしがたいものとなる。
⑸あと、なんかあったけど忘れた。また思い出したら、書くべし。
平成25年 1月29日(火) 一ノ瀬健太
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