2013年1月23日水曜日

英語が手段になった時

英語が目的である分には英語学習の本筋は見えこない。

地平線の先の狐を見る為には英語が手段とならなくてはならない。

最近、へーゲルの『美学』(竹内敏雄訳、岩波書店)を読んだが、半分くらいしかその意味が理解できなかった。そのため、グーグル先生などを駆使して、ネットに上がっている先輩諸氏の方々のブログなども閲覧してみたが、なんだかんだまさし、でまだまだハテナ感がとれなかった。

わからない時はウィキペディア。(これ鉄則)

たまたまヘーゲルの日本語ウィキの下方にある、外部リンクでスタンフォード哲学事典のサイトにバシルーラされてみた。

してみて思った事。

あ、ここに答えがあった。(ぼくの、ぼくだけのかもしれないけどもぼくの答え、求めていたものは確かにここにあった。)

かなりの分量であるが、これが一番自分の理解にしっくりきた。

これは一般にも使える勉強法かもしれぬからここに記しておく。とりあえず、今日からわからない不明瞭な事は、ウィキ日本語→英語版→からのスタンフォードの流れで行こう。

大方の哲学用語の基礎知識はこのスタンフォード辞書を読めば事足りる。当然、勉強するということはノートを取りながら読む、書く、聞く、ということだから、メモを取りながら読み進んでいく方がよろしい。

まぁ、いってみれば、これが世界の第一線で闘う際に押さえるべき初期装備なのだから装備しない訳にはいかない。



ヘーゲル美学の項目をしこしこと読み進め、とりあえず読了する頃にはかなりの英語力が付いていた、というのは適切ではない。今まで溜まっていた英語の能力が花開いたといった感じだ。日の目見ぬうちにも醸造された努力のマグマは、必ず、噴火するのだと改めて再確認した。それは普遍の真理であるから、やはり努力は、ブロードウェイト同じく、the show must go onせねばならない。


今日もちょっとした調べもので、Mughal paintingを調べていた時に、あぁ、まじで、英語を読んでいる感覚が消える感覚、いうなれば、センター英語をめっちゃ集中して解いているあの感覚がずーっと続いた感じがリアルに実地に続く感覚があった。意味が英語のままわかる。それはセンターでも普段の日常でも経験できる事だが、英語学習そのものが目的であるセンターは囲いのある四角いジャングル、いうなれば決められたルールの中で闘うボクシングに近い。英語が手段になった時、スタンフォードは囲いのないリアルガチ生存競争のジャングルで感じる全能力の萌芽といった得も言われぬ歓びをもたらしてくれる。とはいえ、喜んでいるうちはまだガキなのかもしれない。

歓びの消えた先に真の理解が待っている、と先学者は声高にかたるかもしれない。けれども、ぼくは孔子主義者であるから、学びて時にこれを習う、また楽しからずや!でいい。それで満足だ。


詠める、

目的とし英語が 手段になりし Mughal painting 読みし 涙溢るる 合掌



(参考文献)
http://plato.stanford.edu/entries/hegel-aesthetics/
http://en.wikipedia.org/wiki/Mughal_painting


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