久々に風呂に入った。かれこれ人と会わないことに都合を付けて一週間は風呂場の敷居をまたがなかった。
最近は卒業と帰省の季節もあってか、寮にいる男子はめっぽう少ない。いるにはいるのだろうが、まったく音がしない。ただのっぺりとした影のみが生活しているのかと考えるとすこし恐い。時折聞こえるピアノの音を聞いては、これも黒い影が弾いているのかと思えばこれはこれですこぶるおかしい。影はショパンが好きらしい。
うぐいすが鳴いている。出たり入ったり、こうして毎年、春が暮れる。
よし。誰もいないのだからと、いいことに風呂場に酒を持ち込んだ。白い瓶に入った日本酒と味のあるおちょこでひとり温泉気分に浸るのがその赴である。
やはり、風呂場は電気が消えている。誰もいない。絶好の機会である。ひとりなに気兼ねなく気軽に飲むのがいい。下手に気を使うのは億劫だ。ともすれば相手にもこの酒をやらねばならぬ。それは惜しい。
一通り身体を清め、湯船につかる。ここは男子寮である。影たちの陰毛のごときものが浮いている。勿論気にしない。影であるのだから、それは毛のように見える影である。
立ち霞む湯船の中で、おちょこに酒をつぐ。
酒の香りが辺りを包む。余はご満悦である。口をとがらしふちに口を付けようとする。
その束の間、鼻腔に予期せぬものが通った。
また酒とは異なる上品な薫りである。シャンプーではない。
余は、はっと気付いた。
男子風呂は大きな梅の木の近くにある。期せずしてこのサプライズは余を天壌無窮の王とさせた。余が王であるならば、何も遠慮はいらぬ。窓を開けたとてかまうまい。余は窓を大きくあけて梅の精も風呂に招いてやることにした。
お酌をさせるには絶好の相手である。人ならぬ梅の女神なら、苦しくない。注がせるは不届きではあるがこんな機会は滅多にないであろう。
精に注がれた梅の香りを飲む。ここに詩が生まれて、画ができた。
霧で霞む淡き白の蒸気の世界にはらはらとまた白い梅の花びらが二、三舞う。梅の精はどうやらひとりではないらしい。
花びらは余の杯をかすめた。
舞いに舞った花びらは湯船に入る。湯船の中をぷかぷかと漂う。余の頭もそれにつられてゆらゆらたゆたう。今日は酔いが回るが少し疾い。
このまま、酔いが回って湯船の中で死んでしまって、毎年この時期になると、余の噂で持ちきりになるのも悪くないか、と鈍い頭で考えた。
その時の死亡診断書の死因の欄にはただ、風流、とだけ書いてくれるのも悪くない。
そうこう飲むうちに梅の香りの前に酒が尽きた。夢もどうやらここまでである。
後腐れしないのが通人だ。さっと引き上げ、すでに身は脱衣場の板の上だ。
蒸気を宿す身体をバスタオルで拭く。
余は振り向きはしない。ローマの休日にはならぬ。それでは粋ではない。せっかく通人ぶったのだから最後まで通人を演じきらねばならぬ。ザ・ショー・マスト・ゴー・オンである。
部屋に戻ってまたもう一度髪をよく拭く。
かがんだ肩越しにはらはらと舞う精がいた。聞けば余と共寝がしたいと部屋までついてきたそうである。
その花びらを丁重に両の手で包み床に連れ行く。今宵は彼女を枕の下に眠らんとす。
春眠は暁を覚えてはおらぬだろう。
「枕くさw!Σ(゚д゚;) ヌオォ!?」(草枕のパロディ)一ノ瀬健太 より
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