2011年3月22日火曜日

地震、一段落して

  

 地震が一段落してきた様相を示している。いまだコンビニやスーパーでは品薄な商品もところどころ見受けられるが被災地以外では普段の日常が戻りつつあるというのが実感としてある。テレビ欄がその好例である。テレビ欄が昨日今日、やっと元に戻った。これからは消費税2パーセント増、所得税2パーセントの日常の世界が待っている。停電との付き合い方、省エネとの付き合い方も時間が示してくれるだろう。

 今日は地震の時に考えていた、その当時の状況下では公開できなかった、今でも若干躊躇するかんはある、その当時考えてメモしていたことをここに記しておく。思い浮かんじゃったんだからしょうがない。思いやりと表現のエッジの狭間に苦悩した証でもある。

 
まず原発がおかしい、はじめにセシウムが検出されたときに考えていたこと;シコシコこすっていたら、ちんちんからセシウムが出てきたとばかり、ビックリしたが、分析の結果、それはカルピスであることが判明した。被ばくのリスクは無いが、妊娠のリスクは一般的成人男性よりも高濃度の為、妊娠のリスクが高い。

地震発生初期の悲惨な映像ループがえんえんとメリーゴーランドのように流さ続けていたころ、大規模な火災映像に驚嘆しながら考えたこと;結局今の俺には、ビール飲みながら魚肉ソーセージ食うしかできねぇや。ある種のワールドカップを見ている時に感じるような、みんなで同じものを見るといった一体感、ある種の“祭り”を楽しんでいたのかもしれない。それはたぶん、ほとんど多くの非被災地、軽微被災地の人間なら誰しもが感じたことなのではないかと思う。電車が止まって動けなくなった時にも多くの人がある種の“修学旅行”の気分に浸っていたのではないだろうか。翌日は土曜日だし、なんとかなるか的なものを感じていたのではなかろうか。非日常を“楽しん”でいたのでは? 
 
 花粉症でグロッキー状態、されど放射線よりはマシ。マシだが花粉症の方が実は大変なのでは?当人にとっても、今の科学では花粉症の潜在的リスクが未測定なのでは?

 被災した人を慮り過ぎてツイ―ト内容が地震関係に限定されてしまう。またそれをいたわる優しい内容に縛られてしまった。それはわるいことではないと思う。共感するのはとってもいいことだから。ただそれで多様性がなくなって、被災者をいたわってない人を責めたりするのはなんか違う印象を持った。たぶんそいつもそいつなりに心配してると思うよ。各人の生活は各人の生活。思ったまま、感じたままをつぶやくのがいいかも。と感じ始めたのが3日ぐらい経ってから。

 生き抜きは大事。本当に大事。テレ東がカウントダウンテレビやアニメを放送しているのは、やっぱり大きな癒やしになったと思う。幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになる。

 同じ内容を放送すると被る。だから放送局ごとに分担ってすごくいいと思った。挙国一致ってすごいじゃん。これから次の被災に向けて準備ができるかが課題。

 ユーモアと藝術、KYは必要。寛容の精神が一番大事。心ない意見もあるかもしれないが、本物の悪意は限りなくゼロに近いと思う。ただ思ったこと、感じたことを表現せずにはいられない人たちがいるってことは忘れないようにしよう。そして人を意図的に傷つけるようなものは必ず淘汰されるってこともお忘れなく。そんな戯言はだれも相手にしないから。人間の良心を信じよう。

 一万人の安否不明は、不明ってだけで、実際はそのほとんど多くが生きていると勝手に解釈していたが、、、ちがうのか?ここは日本だろ?先進国だろ?まじか!?  とはじめに思っていたが、22日の現在死者・行方不明者は2万を超えている。ありえないだろ!?というのが今も変わらない認識。そして現にあることに戦慄を覚える。
 
 人ごとだと思っていたニュージーランド。ちょっと人ごとだと思っていた今回の地震、一万の死者となったら、もう人ごとじゃないな。まじで。当事者として行動しよう。できる限りの痩せ我慢をしよう。とりあえず3000円募金。俺の1週間の食費。

 ブラックジョークをいえるのは家が流され家族を亡くした人だけなのか、まったく被災していない人間はなにもジョークをいえないのか。想像力、思いやりと表現欲のその狭間。桶狭間。
 
 センターの一点と津波の一メートル、紙一重。なにが人生を分けた?運命って?宿命って?神って何だ?

 落ちたことと被災したこと、どっちがダメージがデカいと比べることはできないかもしれないけど、六浪を経験したものとして言わせてもらえれば、被災した方がダメージがでかいだろ。だって受験なら何回も挑戦できるけど、なくなった人は戻ってこないんだから。想い出の家だってないんだから。被災のダメージの方が50000倍はデカイ。

 仕事休みになってうれしいなってやつぜったいいるよな。

 4階建てのビルが水浸しになるって、いったい…


 以上のようなことを考えていた。明日は地震後のツイッターで自分が震災をどのようにふるまったかを分析してみる。

 本日の歳費;ミックスサラダ105、牛乳123 計228円 也

2011年3月21日月曜日

いただきます

 さっそく毎日やると言っていたブログを一日でほっぽり出してしまった。ダメ人間だなぁ。まァ、いっか。自由人ってことだ。プラス思考、プラス思考。

 ただどんな偉大な業績も勤勉から生まれていることは決して忘れないように自戒としてここに書いておこう。ブラインドタッチを早く覚えたい、だいぶ打つのがはやくなってきたがブラインドタッチのできる人に比べれば全然俺の打つ早さなんて大したことないんだよな。よっしゃ、早く打てるようにしないとな。努力、努力。

 友人宅で夕食を御馳走になる。やはりうまい。友人は毎日あんなおいしい家庭料理を食べているのかと思うと羨ましい。となりの芝生は青く見えるのか?まぁ、いい。とにかく、確かにうまかった。料理のうまい人はけっこう見えないところまでしっかりとこだわっていて、適当に食べているとそのこだわりを見失ってしまう。料理を食べる人間はそのこだわりを見抜かなければならない。それを見抜ける人物を美食家という。食にかんしては今、自分が何を食べているのかを意識して食べることは義務だと思う。目で味わい、鼻で味わい、舌で味わう。味わいつくすことがその食とそれを作ったものに対しての礼儀である。さらに命を喰らっていると自覚して食す。感謝が自然と生まれる。食べられる命への感謝、料理を作ってくれた人への感謝、料理されるまでの、今食べられるに至るまでの、そこに至るまでのすべてに感謝していただく。いただきますをいう。そして、ごちそうさまをいう。

 今日、食べたのはアスパラ、ニンジン、チーズを肉で巻き、トマトソースかケチャップ?で味付けしたもの。これがまたうまいんだ。豆腐とジャガイモの味噌汁、味噌汁にはその家のすべてが詰まっているというのが私の持論である。そして、肉が食べた瞬間に溶けるまでじっくり煮込まれた、すべての野菜にしっかりと火が通っていた煮物、レンコンがその中でも歯ごたえを担当していた。ちりめんじゃこをかけたホウレンソウ。白と緑の対比に新緑と歯の生えたばかりの赤子をイメージさせられた。歌があった。詩があった。栄養と見た目、味、お仕舞いの緑茶、さらにはリンゴの紅茶まで、利休かと思わせるくらいのホスピタリティーの連続だった。すべてが計算された藝術作品といっていいだろう。やっぱり料理も藝術に間違いない。友人の母は感動を生みだす藝術家である。

 うまし!御馳走様でした。帰りには煮物やメロンパンをいただき本当に至れり尽くせりだった。

 ありがとう。ごちそうさまでした。

 本日の歳費;バス代210円、アルフォート、ホワイト105円 計315円也。

2011年3月18日金曜日

地震が起きた

 新潟に帰っていたから、パソコン環境が悪く、毎日やると言っていたブログ宣言がこうも簡単に破られてしまった。破られてしまったがそれもまた人間だ、わかっちゃいるけどやめられない。なんどでも復活すればそれでいい。感じたことを感じたままに。それを続けるだけ。一度ブログを書くと止まらなくなるから、やめておいた。書けば止まらなくなるのが生まれながらの表現者の僕なのでする。だからタイムリミットを決めてもあまり意味がない。マッハでやろうとするが、そのマッハがずーっと続くだけ、ある意味で凄いが、まぁ、そんな奴はざらにいることだろう。よっしゃ、いい訳はいい。とりあえず今日は5分で書き終わらしてみる。それもまた練習だ。

 新潟から東京に帰ってきた直後に地震が発生した。なんか揺れがいつもとちがう感じがしたから、まっはで二階からジャンプ。今は大学の寮に住んでいる。そとからこの揺れを感じていた。けっこう揺れるなと腕組をしながら、そろそろおさまるか、、、、と思っていたら、、、、ミシミシシッとますます揺れが激しくなり、木々はしなり、大地は轟音をけたたましくあげ始めた。この世の終わりに思えた。これは嘘でなくその時は本当に一瞬、うん、正確にはこの世の終わりってこんな感じなのかなぁ、と、とりあえず倒壊の心配のない屋外の安全なところから、そんなことを感じたから、ここに書いておく。あとで東京が震源地からはある程度の距離にあり、宮城県沖が震源で、栗原市が震度7とあったから、俺が感じたこの世の終わり感以上にそうとうのものを感じていたんだろうなと思う。近くにいた親子、寮生かな?の女の子と母がいて、母親が娘の頭を抱きしめて揺れに耐えていたのがリアルドラマぽかった。目の前にはガタガタガタビシ!ビシ!ギギギギゴゴゴとずいぶん昔に建てられた寮が軋む。まさか、、、とは思ったが倒壊しなくてよかった。後で聞くと寮は倒壊に対しては最強だということが業者の調べで分かった。ぼくはその揺れの瞬間、なにもせずに地震に揺られているのもなんだから大地に両手をあて、地震の力、大地の力を吸収した。グラグラの実の能力者ってきっとこんな感じなんだろうな、ということも考えていた。しばらく五分間くらいはこわくて中には入れなかったが、地震のニュースを見て震度7だと知った時には大いに驚いた。その時にはこれから起こる事象がなんなのか、まったく見当もついていなかった。ただ、ただ、でかいな、という非日常があっただけだった。

はぁ、15分すぎてっし!今日はここまで。

2011年3月6日日曜日

新潟

 最近、帰省しています。パソコンがとっても重くて書くのも一苦労。絶対10分で仕上げるぞ。ほいっ!

 今日は立ち読みの帰りに川沿いをちゃりで帰路に着く。ほんの200メートルの距離だけこいで走る。

  その途順、不意に襲われる。新潟へのなんともいえない愛情。この悠久の、黄河と比べれば、ちいさな、ちいさな信濃川に新潟の、地方都市特有のちょっと盛ってる感とか、東京から帰ってきてるから感じるある種の都貴族感とか、ここ新潟で骨を埋めるのか、とか、やはり男子たるもの夢は大きくてっぺんを目指そうかとかいろんな感慨深いものが浮かんでくる。友人たちはみな就職してこの町で、この街で働いている。家庭をもっている。中学校の友人たちは名も知らぬ企業で働いている。とび職や、配管工で糊塗を得ている。東京の有名大学や新潟大学へ行った者たちはそれなりに地元で有名な企業で働いている。医者もいる。今、川沿いで遊んでいるあんながきだった俺たちが今ではみんな子どもを持ってる。自立してる。食っていってる。思えば遠くへきたもんだ。今では女房子どももち、思えば遠くへ来たもんだ。この先まだまだいつまでか、生きていくのであろうけど、生きていくのであろうけど、と中也を口ずさんでみる。われは天才か。詩とは諳んぜられて初めて血肉になるというのが余の持論である。読んだだけでは足りないのである。そうして家庭を持った友人たちは子どもを持ち、その子どもが大きくなって、小学校に入り、中学校に入り、不良になったり、優等生なったり、ふつうの子になったり、いじめられたりして、高校に入り、そんなこんなで、じいさん、ばあさんが死に、子どもが就職して、家庭を持って、そうして日が出て、また夜が来て、命のバトンをつなぐんだねぇ。名もなき人間たちの名も泣きドラマ、父さんは昔不良だった、マラソン大会で一等だった、母さんは高校時代、マドンナだった。どうでもいい、くそったれな、くそったれだけど最高に輝いたイカした思い出に、余は勝手にいたく感動し、涙を浮かべながら、ひとり恥ずかしいとは思いながらも、こう叫ばずにはいらなんだ。

新潟ぁぁぁああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあ!!!

 そうしたら、川沿いの高層マンションに跳ね返ってきてやまびこ現象が起きた。おぉ、すげぇ、こんなことが起きんだと感心した。遊んでいた子どもたちがこっちをめっちゃ見ている。へへ、お兄ちゃん、すげえだろ?

 名もなき人々と、名もなきふるさとに乾杯!

 本日の歳費;130ちーずけーき、165ふらいどちきん 計295円 也

2011年3月4日金曜日

Then fall, Kakuzo!

みんなのいっちーこと、一ノ瀬健太が昨日感じたこと。

かくいう私も呼び出されてます。学校から出頭命令が来ています。でも今はバカンスの最中なので、大学に行くことができません。そのへんは大学もわかってくれてるんでありがたいです。いや、東京に呼んだら呼んだで、二次試験でなんかされたら困るってのもあるのかもしれない。


話を整理しよう。


1、親から、もしくは受験生本人からの苦情が来た。

なんで苦情が来るのだろうか?受験生に今ここの学生が何を感じ、何を考えているかを伝えることがどうしてだめなことなのだろうか。たとえ仮にだめなことで、不謹慎であったとしても、それじゃあ、ほかの大学でやってることはなぜ、毎年許されているのだろうか?立教や東大の予想問題のお下品さに比べれば俺たちの配ったものは皇族御用達くらいにお上品な感じがする。おそらく数の問題、規模の問題ではないのか。チャップリンが、一人殺せば、殺人だが千人殺せば英雄だ、ではないのか。東大や、立教の予想問題はよくて、東大新聞、慶大新聞、早稲田新聞とかはよくて、おれたちの手紙がよくないその理由は?また他大学の受験を見てきて、なぜ藝大は受験日にそういうことをやってないのか?なぜ、やらないのか、そしてなぜやってはいけないのか?いろんなことが頭をよぎる。たぶん一番の理由は先例がないから。やっても人数がそんなにいなくてマルティテュードな感じになってかっこ悪いから。だろう。それと、教員にとっては面倒なことになりたくないからだろうと予想される。だって試験のごたごたとか面倒じゃん。それはわかるよ、わかるけどさぁ、でも、ここは教育機関なんだからさぁ、それくらいのリスクはとろうよ

受験直前にそんなものは見たくない。

配ってる内容を言いながら配った。無理やり受け取らせてもいない。ナーバスになってる人にそんなの読ませるな。だったら見なければいい。無理やり見せてはいないし、だったら表に使用上の注意をよく読み個人の判断でお読みください、とでも書いておくべきだったのか。それが藝大生のやるべきことか?

さらに、もし付き添ってきていた親からの苦情だった場合、受験会場に親が付いて来るってどういうこと?子どもは親のペットじゃねえ!考える一人の人間だ。かわいい子には旅させろや!ほかの他大学の受験会場でも思った。受験生、保護者待機場所ってなんか違和感を感じた。日本、どこかおかしくね?

仮にもし内容が不謹慎だとしたら、どこが不謹慎なのだろうか。そこをよく聞く。徹底的に不謹慎なところを聞く。聞いてみてから判断する。相手に理があったらすぐに反省する。

藝術のエッジってねぇ、いつも空気読まないんだぜ。へへ、知ってた?そんなことくらいここを受ける学生なら知っておくべき。

さらに、ここは何の大学なのか?東京古典美術史研究大学なのか?それとも表現のエッジについて学ぶ、東京藝術大学なのか?また藝術学科の学生だから呼び出しを食らって注意されたのか、先端だったり、油画だったらセーフだったのか。学科によってセーフ、アウトがあるってのもなんかおかしい気がする。

また、表現の自由は、日本国憲法
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

で保障されている。、、、、、はず。藝大が治外法権なら話は別か、、、。

ダメダメ星人ばっかりだと息苦しいなぁ。

もしそんなことばかり気にしてたら、この国ではデモなんて絶対起きないね。お上大好きっ子の集まりだね。思考停止は相変わらず。

藝大は炭鉱のカナリアを育てるところでしょ。カナリアを殺して何してんの?本末転倒だね。


大学側の対応としては、

学生の表現の自由ですから。

の一言で一括すべきだったね。学生の表現の足を引っ張るべきではない。どうせモンスターペアレントだろ。こんな学生のいるところですから、それがいやでしたら、ほかの大学をお受けくださいでいいだろ。

むしろ大学の前でそういったものを配らないほうが“おかしい”のでは。健全なのはこっちでしょ!表現の自由は行使してこそ権利たる。行使しない権利は腐る。腐ってからでは遅いのだ。


2、    たぶん、成績開示の点数を使ったことが問題なのかも。

しかし、以前に受けた公式回答としては、個人の責任で、学校の外でやる分には問題がないということだった。だから学校の前ではあるけれども、学校の外だ。公道だと思うんだけど違うんかなぁ。からセーフ。違ったら謝る。いつでも豹変する準備はできている。



羊頭狗肉?





学長挨拶
 東京藝術大学は、我が国唯一の国立総合芸術大学として、創立以来の自由と創造の精神を尊重し、我が国の芸術文化の発展について指導的役割を果たすことを基本目標とし、芸術に関する教育研究の最高水準を維持し続けています。この120余年続く誇りある伝統を振り返るにつけ、歴代教職員、ならびに同窓生の並々ならぬ努力、各界の皆様方の御尽力に深甚なる敬意と心からの感謝を捧げたいと存じます。
 さて、第二期目となる学長就任に際して、私は次の点を重要視したいと考えています。一つはこれまで新鮮な芸術をリヤカーに積み、様々なところへ運ぶ行商人の役割を果たすべく努力してきましたが、今後は、芸術を発信し広めるとともに帰りの荷台には街で醸成された芸術を持ち帰るなど、社会連携を含めた双方向の関係を構築することです。
 次に東アジアにおける芸術教育や芸術大学間の交流促進です。2007年度の本学創立120周年記念事業に際し、日中韓11大学の学長による共通メッセージ「藝術宣言」を表したことを契機に、新たな交流を築くとともに、東アジアから世界へ向けて芸術文化を発信するという新たな試みをスタートしました。200912月には日中の芸術系大学が北京に集まり「日中芸術教育シンポジウム」を開催するなど、東アジアとの芸術交流は確実に広がりつつあり、今後はこうした交流をさらに推進していきたいと考えています。
 今年度の入学式において、私は996名の新入生に対して、中国の古代文字で「響(きょう)」ひびくという文字を揮毫し贈りました。「響」は器を中心に左右の人々が向かい合い、支え合っている姿を表しており、高い志を持つもの同士、お互いに向き合い、尊敬し合い、学び合うことで、響き合うことが可能となるという意味が込められています。
 
また、「響」には郷という文字が入っており、故郷に帰る、原点に戻る、つまりは伝統を重んじるという意味が込められています。学生のみなさんには、この両方の気持ちを持って実り豊かな学生生活を送っていただき、それぞれの歩む道に自身の未来を創造することを期待しています。
 本学の誇りある伝統を重んじるとともに、東アジアで育まれた多様な音楽や美術といった伝統文化と向き合い、尊敬し合い、学び合うことで、新たな響きを奏でていかなくてはなりません。「響」に込められた双方向性や伝統を重んじる心を本学の大きな指針とし、今後ますます邁進し続けて参ります。
         平成224
                                   東京藝術大学学長

学長の笑顔がいい!すごくいいね!ナイススマイル!学長のスマイルなら2円で売れる!マックで。

東京藝術大学の使命と目標
 東京藝術大学は、その前身である東京美術学校、東京音楽学校の創立以来120余年間、我国の芸術教育研究の中枢として、日本文化の伝統とその遺産を守りつつ、西欧の芸術思想及び技術を摂取、融合を図り幾多の優れた芸術家、中等教育から高等教育に亘る芸術分野の教育者・研究者を輩出してきました。
 こうした歴史的経緯を踏まえ、我国唯一の国立総合芸術大学として、創立以来の自由と創造の精神を尊重し、我国の芸術文化の発展について指導的役割を果たすことが、東京藝術大学の使命であると考えています。
 また、この使命の遂行のため、下記のことを基本的な目標としています。
・世界最高水準の芸術教育を行い、高い専門性と豊かな人間性を有した芸術家、芸術分野の教育者・研究者を養成する。
・国内外の芸術教育研究機関や他分野との交流等を行いながら、伝統文化の継承と新しい芸術表現の創造を推進する。
・心豊かな活力ある社会の形成にとって芸術のもつ重要性への理解を促す活動や、市民が芸術に親しむ機会の創出に努め、芸術をもって社会に貢献する。



学部長挨拶
美術学部長 池田政治
 本学美術学部は、美術、工芸、デザイン、建築、芸術理論、文化財保存などの領域を備えた美術の総合学部として、これまで多くの優れた人材を輩出してきました。創立から120年余りという長きにわたり、それぞれの専門性の質を高めていくとともに、より自由で幅のある芸術表現を追求する環境の整備に努めており、これは本学における貴重な財産のひとつといえます。
 2004年にスタートした国立大学の法人化以降、開かれた大学像と、大学としての個性が求められるようになりました。本学においても、創立120周年記念事業で様々なプロジェクトが年間を通して全学的に立案実行され、これらの企画を進行するなかで、「伝統の重要性、創作の力、最新の技術とメディアの融合、社会との連携」などの重要性が改めて認識されました。また、グローバリズムという潮流のなかで、交流協定締結校(姉妹校)の数もここ数年増加し、国際的な学術連携も年ごとに深まっています。
 いうまでもなく本学は「個人の表現」に立脚しており、このことが本学部の独自性の原点といえます。しかしながら、共同プロジェクトや、地域・企業・国際社会との連携といった新たなフェーズを迎えたことによって、活躍の場は従来の枠を超えて新たな可能性へと広がりはじめています。
 このことをふまえて、本学部では、専門性の違いを超えた複合的な可能性を求めて、教育と研究に取り組んでいきます。

芸術学科
学科・専攻概要
 芸術学科は、1949(昭和24)年、新制の東京藝術大学美術学部が発足した際に、旧制の東京美術学校に設けられていた師範科に代わって設置されました。東京美術学校は成立当初から、日本近代における美術史や美学の研究について重要な貢献をしてきました。新制大学の成立にあたって、こうした美術に関わる学問分野が独立して芸術学科となったのです。
 成立当初から、芸術学科の目的は美術理論・実技兼備の人材の養成にあり、この基本方針は、現在に至るまで堅持されています。その一方で学科の組織は、美学・美術史の充実に重点が置かれるかたちで整備され、また美術解剖学等の美術に関連する諸学科がその周辺に設けられました。こうした体制の下、芸術学科はこれまで、美術館学芸員、美術批評家、研究者、ジャーナリスト等、美術に関わる幅広い分野に、多くの優れた人材を送り出してきました。
 こうした歴史を踏まえ、今日の芸術学科は、作品の制作を体験し、美学、美術史学を通して美術を中心とする諸芸術に関する認識を深めることで、理論的分析や解釈をもって多様な芸術の分野に貢献できる人材の育成を、その教育理念としています。

苦情にはこう答えるべきだね。
大学案内をよくお読みください。と。


まぁ、たぶんおれの書いたやつだね。問題なのは、そうとしか思えない。そんな気がする。まぁ、いいや。たぶん、やす、明日はおれの尻拭いだけどがんばって。わるいね。答案の点数は個人に開示されたもの、といわれると思うけど、さっきのとおり弁解頼むね。予備校が開示を読んで対策を立てるのはよくて、受験生がそれを見てはいけない理由も聞いといてね。

あとはまかせたよぉおおお。たぶん、ぜったい、おれの尻拭いだね。いやぁ、攻めたつもりなかったんだけどなぁ。

まとめ:

大学は受験生を“お客様”かもしくは“こども”としてとらえている。ひょんなことですぐに傷つく純真無垢子ちゃん、としてとらえている。そして俺たちは受験生を“学生”、ともに学びあう可能性のある同志、つまりお互いを高めあえるような仲間としてとらえている。その初期設定、パラダイムから意見が違ったのかもしれない。バカの壁が根っこにあるかもね。それにへんなことに巻き込まれて研究時間を奪われるってのもあるからだろうね。

藝の世界は厳しい。それは藝術学科、古典美術史研究学科でも、どこの世界でもおんなじ。ミュージシャンでも、野球選手でもどこの世界でもおんなじ。狭き門なんだから。現役のやつもいれば、6年かかるやつもいる。それがこの世界だろ。その覚悟がないやつなんていたら、むしろ邪魔だろ。そんなびくびくちゃんが入ってきたところで何になんの?俺は税金の無駄だと思う。クーリエにでもなったら大変でしょ。人類の遺産を護らなきゃいけないんだから、強盗とかきたらどうするわけ?的確な判断できるの?今はびくびくちゃんでも、大学に入ってから、肝っ玉母ちゃんになるっていうのかな。それは牙が生えてからここに入ってきても遅くはないんじゃないかな。むしろそっちのほうがいい。浪人してでも学びたいと思えるような覚悟がなければこの世界にいるべきじゃぁないね。何でもかんでも人のせいにする人間は美しくない。美しい人間だけが美に携わっていい。人は己を美しくして初めて美に近づく権利を有する。この言葉を誰が語ったかわからないような輩は藝大にはいりません。藝大は牙の生えていないお嬢ちゃんのくるところではないねぇ。えぇ。だから受験生に過敏に反応しすぎるのは逆に受験生に対して媚びている気がする。たしかにうちの学科の大きな特徴が媚美犬だから、媚びることに関してはみな一流なのかもしれない。過度な保護は本当のやさしさではない。シマウマばかりに気を使ってライオンを無視してる気がする。天地は仁ならず。本物のやさしさは常に厳しいのだ。ぼくは厳しいですよ。誰よりも。それは相手を共に学び、高めあう仲間として扱うからです。最後は誰も助けてはくれないねぇ、えぇ、自分ひとりで感じ考え、そうしてたどり着く真理が、自分だけの真理があるからです。それを本物の真理というんです。それは誰かのせいにする人間には永久に手には入りません。どんなにお金があったってだめなものはだめです。自分のたまごは自分で孵す、そんな人間になってください。そんな人間を育ててください。おかあさん、おとうさん、いいですか、あなたですよ、あなたに言ってるんです。子どもは考える葦です。あなたと同じ、もう18なんでしょう。それ以上でしょう。自立した一個人として扱ってあげてください。知識も何もない救いようのないどんな馬鹿でも、一人で感じ、考えてる、そんな存在なんですから。

だから、

そんなものを見ただけで“動揺”して落ちちゃうくらいならそいつはそっちのほうが幸せだよ。だってさ、たぶん、そいつは大学に何を求めて入ってくるのかな?楽しい楽しい大学生活でしょ、たぶん。バイト、合コン、旅行、きっとそいつはそういうもの目当てで入ってくるんでしょ。かつ学歴狙いでしょ。本物の藝術ってどぎついよ。トラウマになっちゃうよ。だから早くお逃げなさいな。10年セラピーに通うことになっちゃう前に。そんな子でしょ。どうせ“動揺”する子って。どうせ。いいよ、それでも、ぜんぜん、かまわないよ。人生は自由だ。それは認めよう。だから君の人生設計に文句は言わない。だがね、ここはそんな思い出作りとか、就活に強いからとかいう理由で入ってくる人間のくるところじゃないねぇ。そんなやつが入ってきたって、本物の表現とは?表現のエッジとは何ぞや?と学問の真髄に触れる前に、きっと就活して、フツウに卒業していくと思うよ。だからそんなやつは早めにあきらめさせたほうがいいねぇ。早めに引導を渡してあげたほうがいいねぇ。そしてあきらめないやつなら、またきっと現れる。出てくる。そんなやつらと俺は学びたいねぇ。えぇ、そうじゃないか、諸君。俺は自分の発言には全責任をとるよ。名前を隠して、陰から攻撃するようなことは絶対にしないよ。リスクをとらない言論に意味を見出さないよ。苦情があるのなら名前をだして俺に直接言ってくれよ。堂々と受けるよ。そしてこちらに非があればすぐに豹変するからね。約束するよ。今の大半の学生はこもって影から愚痴を吐くだけだねぇ。牙を抜かれた、いや、牙の生えていない、ミューミュー猫ちゃんしか、大学は要らないのかねぇ?そんな腰抜け、腑抜けしか求めてないのかねぇ。牙を持った獅子こそ共に学びあうべき仲間なんじゃないのかねぇ。厳然とした美意識、プリンシプルを持った、星の友情を結び合えるような、そんな怪物を胸に飼ってる奴と切磋琢磨したいねぇ。その意味において、そんな媚びた受験ばっかしてるから“学級委員のいい子”ちゃんしか入ってこなくなったんだねぇ。えぇ、そうじゃないか、諸君。沈黙は現状肯定だからね。わたしは違うっていっても、通じやしないねぇ。リスクをとっての表現でなきゃ何も伝わらないねぇ。そういうことも学んでいないのかねぇ。今の学生は。えぇ、そうだろ?そうじゃないか、諸君。

恥を知ろうじゃないか、諸君、一緒に!


みんなのいっちーこと、一ノ瀬健太が昨日感じたことでした。

Et tu Geidai....


我が畏友、山崎泰行君が昨日感じたこと。


結論:批判すべきは大学の対応でも、苦情を寄せた人間でもない。

今日の話し合いの概要(参加者:教授三名、助手一名)
まず、何を配ったか聞かれたので、配ったものを一式見せて、趣旨が受験生の応援で、結構がんばって作ったことを伝えた。
出来に関しては、「けっこー凝ってるじゃん(笑)」ということで褒めてもらった。で、おれらが応援のつもりでやっていて悪気が無いことは理解してもらった。
で、苦情の件に話は移り、今回配ったことによって受験生が”動揺”してしまったという苦情がきたとのこと。ただ、苦情を寄せたのが親なのか受験生なのかはわからないらしい。ということで、「君たちは応援する意図でやったかもしれないけど裏目にでちゃったね」と言われた。で苦情が来てしまうと、入試運営上の問題が発生したということになり対応せざる得ないということで、わざわざ実行犯を呼んで話を聞かなきゃいけなくなったということ。先生が言うには、「きみたちがやったことを頭ごなしに否定するつもりはない」ということ。ただ、受験生を動揺させてしまったのは事実だから注意しているということだった。で、おれらが配ったちらしの内容を見て、受験生が動揺しそうな箇所をいくつか指摘される。その指摘に関しては納得。実際、配ったちらしの内容に関して言うと、いっちーのとおれのは受験生を単純に応援する意図を超えている部分があったし、とくにおれの文章は受験生に見せてどうすんのよ、と思われる部分も多々あり、おれはすごーく反省。完全に文章に関しては配慮が足りなかった。

ただ、内容の配慮が足りないからダメって言われてるのか、そもそも配るという行為自体がダメだって言われてるのかが、すごーくあいまいな状態だったので、配る行為そのものが悪かったのかどうかを聞いてみた。

で、ここからが重要な内容。

配る行為そのものは悪くない。ただし、配ったことで”動揺”してしまった子がいた。受験当日ですごく緊張していて、精神的にも追い込まれていて、そういうときに俺らの行為がそういう子を動揺させてしまった。実際こう聞くと、確かにかわいそうな気がする。で、大学側としてはそういう子にもベストな状態で試験を受けてもらいたいとのこと。だから、試験の公平性を確保するためにも、おれらみたいな学内の人間が今回みたいな行為をして、そういう精神的に弱い子を動揺させてしまうと、それはその精神的に弱い子を守るために、おれらの行為を止める必要が出てくると言われた。なるほど、試験の公平性を確保するため、と言われると納得。精神的に弱い子を守るというのも納得。先生に「子供たちはまもらなくちゃダメ」と言われたのも納得。

で、他の大学ではもっと過激なことをやってるけどなんで芸大はダメ?という点に関して。

他大であれば、学生が勝手にやったことです、と苦情を一蹴することもできると思う。じゃあ、芸大はそれができないのか?やっぱり人数の問題がある。芸大芸学を受験する人というのは、受験生であってもすでに身内みたいなもので、一件の苦情も見逃せない。それは情みたいなもので、精神的に弱い子でも守ってあげたいという情が働くということ。コミュニティは小さければ小さいほど情による縛りが強くなる。これも、まぁ納得。

ということで、なんとなく納得し、「もし来年も配りたかったら相談してね」と言われて、帰途に着く。



で、帰途いろいろ考える。なんか違和感がのこったので。

まず、はじめに思ったのが、やっぱり大学がそこまでして受験生を守るのはおかしい!過保護だろ!ということ。これはいっちーにも電話で話した。おれらがやったことはあくまで応援だし、その行為が否定されたわけではないけど、受験生を守るためという理由で実質的にストップがかかったというのはおかしいのではないか。大学は過剰に保身に走り、学生の表現の自由を奪っている!他の子と条件が同じなんだから、精神的に弱い子がそれで落ちてもしょうがないだろ!とも思った。

でもでも、さらに考えると、そうも言えない気がしてきた。精神的に弱い子を振るいにかけて落とすっていうのはどうなの?精神的に弱い子を守るってべつに悪いことではない。そういう子を大事にしてあげて社会で活躍できる場を見つけてやるってのも大学としてありじゃない。それは、普通の総合大学ではできにくいことかもしれない。芸術という分野に興味を持つ子は感受性が豊かで繊細な子が多くて、そういう子は精神的には弱い子が多いのかもしれない。そういう子の才能を伸ばしてあげられる大学はなんかけっこーいい大学な気がするし。精神的に弱い子を芸大から排除するってのは、弱者を排除するってことかもしれないとも思い始めた。

でも違和感は消えない。

何がおかしいのか?大学の対応は、弱者を守ろうとする、という意味がある。多分、というか当然苦情が来たから対応したということではあるけど、苦情を一蹴せずに、わざわざ注意したということは、少しは受験生、子供たちを守りたいという気持ちはあるのだと思う。その点を考えると大学の対応を一方的に批判できない。でも違和感。
今回の事実は、
「入試の日に学生を応援するビラを配ったら、苦情が来て大学に注意された。」
今回、大学がおれらを注意したことにはある程度妥当性があって納得できる。ということは、この苦情に問題がある。
例えばおれが精神的に弱い子だとして、試験とかチョー緊張して、心臓破裂しそうで、いつもの実力が出せないし、ちょっとのことですぐ動揺しちゃう子であるとする。で、入試の日に先輩がビラ配ってて、それに動揺したとして、試験で実力が出せなかったとする。そのとき、どう考えるか。
「おれってなんて精神的に弱いんだろう。あんなビラなんかに動揺して...もっと強くならなきゃだめだ」
これが普通な気がする。でも、今回苦情が来たってことは、
「おれってなんて精神的に弱いんだろう。でもあいつらがビラなんて配ってなければ動揺なんてしなかった。苦情いってやる」
と考えたってこと。これがおかしいでしょ。こういう人間的な「弱さ」が蔓延っていることがおかしい。なんか失敗した時に外のせいにする、社会のせいにする、そういう風潮の象徴が今回の件な気がする。

今回のおれらの行為が”善”か”悪”か、というのはすごく主観的な問題で、ある人にとっては”善”だしある人にとっては”悪”かもしれない。ただ、受験生を応援するという行為が許されない社会っておかしいよね。すごくおかしい。

これが今回のおれの違和感。

だから、今回の件で大学の対応を批判することは難しいと思う。
大学は、緊張しーでちょっとのことで動揺してしまう精神的に弱い子(その精神的な弱さを外のせいにせず自分で強くなろうとしている子)が実力をちゃんと発揮できるようにと配慮しているわけだから、そのことは批判できない。ただ、苦情を寄せたのは自分の精神的弱さを他人のせいにする、人間的に弱い人なんだけどね。




我が畏友、山崎泰行君の昨日感じたことでした。

2011年2月27日日曜日

つぶやくことの意味

 
 おっはー!今日も元気に生きようぜぇ!題名のない音楽界を聞きながら。



 人はなぜつぶやくのか?昨日はいろいろな知識を頭に詰め込む日だった。家から一歩も出ずにただただ、知識の吸収、見聞を広める有意義な時間だった。溜まった一週間の新聞をオールチェックしたり、ゴミ捨て場にあった本を読んだり、とある科学の超電磁砲を一気に全部見たりした。そんな時間の中でひとはなぜこうもつぶやくのかということが分かった気がした。

 それはたぶん、以前にも説明した通りつぶやかなければならない状態になるからなのだ。あるものに触れた時に“あぁ、あれ”ともののあはれを感じた時に人は体の中にわき起こった感動を体の外に出さなければ気が狂ってしまう、そんな状態になるからだ。感じ入る対象は何だっていい。カラスだって、ピアフだって、初音ミクだってなんだっていい。ゴッホでも、ルノアールでも、隆でもなんだっていい。新聞の記事でも、ラノベでも、人は共鳴することを止めることはできない。いうなれば人は歌うことから逃れることはできない。ツイッターばっかりやっているとこいつ閑人なんじゃないかと思われるんじゃないかと思って、一日につぶやく回数を自分に制限していたが、それは間違っていた。それはつぶやくことを制限するのではなく、それは歌うことを制限していたにすぎなかったのだ。つぶやきに飲み込まれることは本末転倒である。それはこれからも禁欲的でありたいが、それと同時に歌うことに関しては無制限に折りにふれたときに、ところどころで詠んでいきたい。よく歌を詠む人間は心やさしき風雅な人間である。そんな風流な酔興な詩人になりたい。朝日新聞の歌壇、俳壇欄読んでいてそんなことを思った。そして今それを読んでいるのが世界で自分一人なんじゃないかという感覚にも襲われた午後一時。みんな、つぶやくだけじゃなく、もっと歌を歌ったり、詠んだりするようになればいいんじゃないかなぁ。
 
 またラノベについて。ラノベ、ラノベとバカにしていた自分がいたが、けっしてラノベはラノベそれ自体で劣っているわけではない。ただ安易な初期設定だけで話が進んでいくところがちょっと軽かった感じがして、明治、大正、昭和文学の臭いが大好きなぼくとしては、“名もなき拒否反応”みたいなのがありまして、いうなれば、ルーズベルトの一番やってはいけない恐れ、恐怖をもっていたわけで、いうなれば、食わず嫌いってなわけで、ハッとさせられたのは、最近の若者は、最近若者は、とかいうおっさんに限って若者のこと全然知らないってことなんだなってことだ言うことに気付いた。人間は人間なのである。一括りにできるものではない。ってことで、だから、それを知っているぼくはステレオタイプが大好きで、日本人の男は海外では全然モてないとか、ドイツ人はみんな無愛想だとか、中国人はみんながっついているとかね。安易な簡単なステレオタイプ、だいすきなんだよねぇ。もっとも火のないところに煙は立たないというから、あながち完全な嘘でもなく、つまり、日本人は謙虚だというのは、日本に来た外国人が謙虚な日本人に会い、それに感動した比率がたしかに多かったということであろう。常に大事なのは比率なのである。日本人にも傲慢な奴はゴマンといる。ゴーマンかましてよかですか?はたくさんいるが、その率は確かに低いんだろう。ドイツ人“イタリア人”の様に明るい野郎がたくさんいるが、全体の比率として無愛想な奴が多いからそう思われるんだろう。中国人にしても然り、孔子の子孫だっている。謙虚な奴もいることでしょう。傲慢な奴もいることでしょう。それが人間なんです。それが多様性なんです。ぼくの大好きなね。だから最近の若者、若者って言ってるうちは、メディアに踊らされてるんだね。モンスターペアレントもしかり、いい親だらけだよ。ふつうの親だらけだよ。読んでる君の家の様に。ふつうなんだよ。医者も、先生も、親も、中国人も、みんな普通なんだよ。基本的に。ただ人間はおりにふれ、珍しいものを見た時には感動してしまうから、それがものすごく印象に残ってしまって、結果、ステレオタイプが形成されて、自分の真理を見失ってしまう。大切なものがどっかいって舞うよ。ってことになる。自戒自戒。

 ということでこれもごたぶんにもれず、ラノベもそうなのである。昨日はとある科学の超電導砲を一気に全部見たわけだが、やっぱ面白かった。ハルヒも、らきすたも、けいおんも面白かった。今まで見てきた。オタクだから、それを好む人がオタクだからという理由で勝手に変なもの、珍奇なものと思ったらあかんね。とりあえず、食べる。食べてみる。しっかり咀嚼して味わってみる。原住民にだされた虫の料理も笑顔で喜んで食べる。丸飲みにせず、口中で味わう。特大いも虫の口の中でむっちゅっとつぶれる感覚を味わう。鼻で息をする。そうすると、あれ!なんかクリーミーな感じがする、なんかちょっとうすいクリームシチュウみたいな?といってまた、もう一個食べる。原住民もぼくらもみんな笑顔で楽しくワイワイ。それが本物の“理解されるよりは理解されることを”である。アッシジの聖人が述べた誓いの言葉である。これこそがあるべき藝術鑑賞なのかとおもわれる。そしてただ、もし口に合わない時は遠慮すればいいだけのこと。決して相手を貶めず、ただ自分の口に合わないと言えばいいだけのことである。貶めて、蔑視する必要はない。どんな時にも相手に対する敬意を忘れてはならない。それがあれば何をやったって、何を見たって、何を聞いたって、うまくやっていけるであろう。
 
 ラノベにはラノベの真理の語り方がある。純文学には純文学の真理の語り方がある。どちらも“もののあはれ”を生み出してくれる。涙が寄り添ってくれる。それにかわりはないのだ。

 人は歌わずにはいられない。いいものはいい!と誰かに伝えたい!叫びたい!ただ体の中のこの感動を外の世界に出したい。そう思わずにはいられない。

 あぁ、神様!この世界の多様性に

ありがとう

 やべ、文末、ありがとう作戦にはまりそうだ、、、


 本日の歳費:金麦170ぜいたくしちまった、サバ水煮100、じゃがりこアンチョビ128、サンマ蒲焼100、銀座カリーパン88 計586円 也