2011年3月4日金曜日

Then fall, Kakuzo!

みんなのいっちーこと、一ノ瀬健太が昨日感じたこと。

かくいう私も呼び出されてます。学校から出頭命令が来ています。でも今はバカンスの最中なので、大学に行くことができません。そのへんは大学もわかってくれてるんでありがたいです。いや、東京に呼んだら呼んだで、二次試験でなんかされたら困るってのもあるのかもしれない。


話を整理しよう。


1、親から、もしくは受験生本人からの苦情が来た。

なんで苦情が来るのだろうか?受験生に今ここの学生が何を感じ、何を考えているかを伝えることがどうしてだめなことなのだろうか。たとえ仮にだめなことで、不謹慎であったとしても、それじゃあ、ほかの大学でやってることはなぜ、毎年許されているのだろうか?立教や東大の予想問題のお下品さに比べれば俺たちの配ったものは皇族御用達くらいにお上品な感じがする。おそらく数の問題、規模の問題ではないのか。チャップリンが、一人殺せば、殺人だが千人殺せば英雄だ、ではないのか。東大や、立教の予想問題はよくて、東大新聞、慶大新聞、早稲田新聞とかはよくて、おれたちの手紙がよくないその理由は?また他大学の受験を見てきて、なぜ藝大は受験日にそういうことをやってないのか?なぜ、やらないのか、そしてなぜやってはいけないのか?いろんなことが頭をよぎる。たぶん一番の理由は先例がないから。やっても人数がそんなにいなくてマルティテュードな感じになってかっこ悪いから。だろう。それと、教員にとっては面倒なことになりたくないからだろうと予想される。だって試験のごたごたとか面倒じゃん。それはわかるよ、わかるけどさぁ、でも、ここは教育機関なんだからさぁ、それくらいのリスクはとろうよ

受験直前にそんなものは見たくない。

配ってる内容を言いながら配った。無理やり受け取らせてもいない。ナーバスになってる人にそんなの読ませるな。だったら見なければいい。無理やり見せてはいないし、だったら表に使用上の注意をよく読み個人の判断でお読みください、とでも書いておくべきだったのか。それが藝大生のやるべきことか?

さらに、もし付き添ってきていた親からの苦情だった場合、受験会場に親が付いて来るってどういうこと?子どもは親のペットじゃねえ!考える一人の人間だ。かわいい子には旅させろや!ほかの他大学の受験会場でも思った。受験生、保護者待機場所ってなんか違和感を感じた。日本、どこかおかしくね?

仮にもし内容が不謹慎だとしたら、どこが不謹慎なのだろうか。そこをよく聞く。徹底的に不謹慎なところを聞く。聞いてみてから判断する。相手に理があったらすぐに反省する。

藝術のエッジってねぇ、いつも空気読まないんだぜ。へへ、知ってた?そんなことくらいここを受ける学生なら知っておくべき。

さらに、ここは何の大学なのか?東京古典美術史研究大学なのか?それとも表現のエッジについて学ぶ、東京藝術大学なのか?また藝術学科の学生だから呼び出しを食らって注意されたのか、先端だったり、油画だったらセーフだったのか。学科によってセーフ、アウトがあるってのもなんかおかしい気がする。

また、表現の自由は、日本国憲法
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

で保障されている。、、、、、はず。藝大が治外法権なら話は別か、、、。

ダメダメ星人ばっかりだと息苦しいなぁ。

もしそんなことばかり気にしてたら、この国ではデモなんて絶対起きないね。お上大好きっ子の集まりだね。思考停止は相変わらず。

藝大は炭鉱のカナリアを育てるところでしょ。カナリアを殺して何してんの?本末転倒だね。


大学側の対応としては、

学生の表現の自由ですから。

の一言で一括すべきだったね。学生の表現の足を引っ張るべきではない。どうせモンスターペアレントだろ。こんな学生のいるところですから、それがいやでしたら、ほかの大学をお受けくださいでいいだろ。

むしろ大学の前でそういったものを配らないほうが“おかしい”のでは。健全なのはこっちでしょ!表現の自由は行使してこそ権利たる。行使しない権利は腐る。腐ってからでは遅いのだ。


2、    たぶん、成績開示の点数を使ったことが問題なのかも。

しかし、以前に受けた公式回答としては、個人の責任で、学校の外でやる分には問題がないということだった。だから学校の前ではあるけれども、学校の外だ。公道だと思うんだけど違うんかなぁ。からセーフ。違ったら謝る。いつでも豹変する準備はできている。



羊頭狗肉?





学長挨拶
 東京藝術大学は、我が国唯一の国立総合芸術大学として、創立以来の自由と創造の精神を尊重し、我が国の芸術文化の発展について指導的役割を果たすことを基本目標とし、芸術に関する教育研究の最高水準を維持し続けています。この120余年続く誇りある伝統を振り返るにつけ、歴代教職員、ならびに同窓生の並々ならぬ努力、各界の皆様方の御尽力に深甚なる敬意と心からの感謝を捧げたいと存じます。
 さて、第二期目となる学長就任に際して、私は次の点を重要視したいと考えています。一つはこれまで新鮮な芸術をリヤカーに積み、様々なところへ運ぶ行商人の役割を果たすべく努力してきましたが、今後は、芸術を発信し広めるとともに帰りの荷台には街で醸成された芸術を持ち帰るなど、社会連携を含めた双方向の関係を構築することです。
 次に東アジアにおける芸術教育や芸術大学間の交流促進です。2007年度の本学創立120周年記念事業に際し、日中韓11大学の学長による共通メッセージ「藝術宣言」を表したことを契機に、新たな交流を築くとともに、東アジアから世界へ向けて芸術文化を発信するという新たな試みをスタートしました。200912月には日中の芸術系大学が北京に集まり「日中芸術教育シンポジウム」を開催するなど、東アジアとの芸術交流は確実に広がりつつあり、今後はこうした交流をさらに推進していきたいと考えています。
 今年度の入学式において、私は996名の新入生に対して、中国の古代文字で「響(きょう)」ひびくという文字を揮毫し贈りました。「響」は器を中心に左右の人々が向かい合い、支え合っている姿を表しており、高い志を持つもの同士、お互いに向き合い、尊敬し合い、学び合うことで、響き合うことが可能となるという意味が込められています。
 
また、「響」には郷という文字が入っており、故郷に帰る、原点に戻る、つまりは伝統を重んじるという意味が込められています。学生のみなさんには、この両方の気持ちを持って実り豊かな学生生活を送っていただき、それぞれの歩む道に自身の未来を創造することを期待しています。
 本学の誇りある伝統を重んじるとともに、東アジアで育まれた多様な音楽や美術といった伝統文化と向き合い、尊敬し合い、学び合うことで、新たな響きを奏でていかなくてはなりません。「響」に込められた双方向性や伝統を重んじる心を本学の大きな指針とし、今後ますます邁進し続けて参ります。
         平成224
                                   東京藝術大学学長

学長の笑顔がいい!すごくいいね!ナイススマイル!学長のスマイルなら2円で売れる!マックで。

東京藝術大学の使命と目標
 東京藝術大学は、その前身である東京美術学校、東京音楽学校の創立以来120余年間、我国の芸術教育研究の中枢として、日本文化の伝統とその遺産を守りつつ、西欧の芸術思想及び技術を摂取、融合を図り幾多の優れた芸術家、中等教育から高等教育に亘る芸術分野の教育者・研究者を輩出してきました。
 こうした歴史的経緯を踏まえ、我国唯一の国立総合芸術大学として、創立以来の自由と創造の精神を尊重し、我国の芸術文化の発展について指導的役割を果たすことが、東京藝術大学の使命であると考えています。
 また、この使命の遂行のため、下記のことを基本的な目標としています。
・世界最高水準の芸術教育を行い、高い専門性と豊かな人間性を有した芸術家、芸術分野の教育者・研究者を養成する。
・国内外の芸術教育研究機関や他分野との交流等を行いながら、伝統文化の継承と新しい芸術表現の創造を推進する。
・心豊かな活力ある社会の形成にとって芸術のもつ重要性への理解を促す活動や、市民が芸術に親しむ機会の創出に努め、芸術をもって社会に貢献する。



学部長挨拶
美術学部長 池田政治
 本学美術学部は、美術、工芸、デザイン、建築、芸術理論、文化財保存などの領域を備えた美術の総合学部として、これまで多くの優れた人材を輩出してきました。創立から120年余りという長きにわたり、それぞれの専門性の質を高めていくとともに、より自由で幅のある芸術表現を追求する環境の整備に努めており、これは本学における貴重な財産のひとつといえます。
 2004年にスタートした国立大学の法人化以降、開かれた大学像と、大学としての個性が求められるようになりました。本学においても、創立120周年記念事業で様々なプロジェクトが年間を通して全学的に立案実行され、これらの企画を進行するなかで、「伝統の重要性、創作の力、最新の技術とメディアの融合、社会との連携」などの重要性が改めて認識されました。また、グローバリズムという潮流のなかで、交流協定締結校(姉妹校)の数もここ数年増加し、国際的な学術連携も年ごとに深まっています。
 いうまでもなく本学は「個人の表現」に立脚しており、このことが本学部の独自性の原点といえます。しかしながら、共同プロジェクトや、地域・企業・国際社会との連携といった新たなフェーズを迎えたことによって、活躍の場は従来の枠を超えて新たな可能性へと広がりはじめています。
 このことをふまえて、本学部では、専門性の違いを超えた複合的な可能性を求めて、教育と研究に取り組んでいきます。

芸術学科
学科・専攻概要
 芸術学科は、1949(昭和24)年、新制の東京藝術大学美術学部が発足した際に、旧制の東京美術学校に設けられていた師範科に代わって設置されました。東京美術学校は成立当初から、日本近代における美術史や美学の研究について重要な貢献をしてきました。新制大学の成立にあたって、こうした美術に関わる学問分野が独立して芸術学科となったのです。
 成立当初から、芸術学科の目的は美術理論・実技兼備の人材の養成にあり、この基本方針は、現在に至るまで堅持されています。その一方で学科の組織は、美学・美術史の充実に重点が置かれるかたちで整備され、また美術解剖学等の美術に関連する諸学科がその周辺に設けられました。こうした体制の下、芸術学科はこれまで、美術館学芸員、美術批評家、研究者、ジャーナリスト等、美術に関わる幅広い分野に、多くの優れた人材を送り出してきました。
 こうした歴史を踏まえ、今日の芸術学科は、作品の制作を体験し、美学、美術史学を通して美術を中心とする諸芸術に関する認識を深めることで、理論的分析や解釈をもって多様な芸術の分野に貢献できる人材の育成を、その教育理念としています。

苦情にはこう答えるべきだね。
大学案内をよくお読みください。と。


まぁ、たぶんおれの書いたやつだね。問題なのは、そうとしか思えない。そんな気がする。まぁ、いいや。たぶん、やす、明日はおれの尻拭いだけどがんばって。わるいね。答案の点数は個人に開示されたもの、といわれると思うけど、さっきのとおり弁解頼むね。予備校が開示を読んで対策を立てるのはよくて、受験生がそれを見てはいけない理由も聞いといてね。

あとはまかせたよぉおおお。たぶん、ぜったい、おれの尻拭いだね。いやぁ、攻めたつもりなかったんだけどなぁ。

まとめ:

大学は受験生を“お客様”かもしくは“こども”としてとらえている。ひょんなことですぐに傷つく純真無垢子ちゃん、としてとらえている。そして俺たちは受験生を“学生”、ともに学びあう可能性のある同志、つまりお互いを高めあえるような仲間としてとらえている。その初期設定、パラダイムから意見が違ったのかもしれない。バカの壁が根っこにあるかもね。それにへんなことに巻き込まれて研究時間を奪われるってのもあるからだろうね。

藝の世界は厳しい。それは藝術学科、古典美術史研究学科でも、どこの世界でもおんなじ。ミュージシャンでも、野球選手でもどこの世界でもおんなじ。狭き門なんだから。現役のやつもいれば、6年かかるやつもいる。それがこの世界だろ。その覚悟がないやつなんていたら、むしろ邪魔だろ。そんなびくびくちゃんが入ってきたところで何になんの?俺は税金の無駄だと思う。クーリエにでもなったら大変でしょ。人類の遺産を護らなきゃいけないんだから、強盗とかきたらどうするわけ?的確な判断できるの?今はびくびくちゃんでも、大学に入ってから、肝っ玉母ちゃんになるっていうのかな。それは牙が生えてからここに入ってきても遅くはないんじゃないかな。むしろそっちのほうがいい。浪人してでも学びたいと思えるような覚悟がなければこの世界にいるべきじゃぁないね。何でもかんでも人のせいにする人間は美しくない。美しい人間だけが美に携わっていい。人は己を美しくして初めて美に近づく権利を有する。この言葉を誰が語ったかわからないような輩は藝大にはいりません。藝大は牙の生えていないお嬢ちゃんのくるところではないねぇ。えぇ。だから受験生に過敏に反応しすぎるのは逆に受験生に対して媚びている気がする。たしかにうちの学科の大きな特徴が媚美犬だから、媚びることに関してはみな一流なのかもしれない。過度な保護は本当のやさしさではない。シマウマばかりに気を使ってライオンを無視してる気がする。天地は仁ならず。本物のやさしさは常に厳しいのだ。ぼくは厳しいですよ。誰よりも。それは相手を共に学び、高めあう仲間として扱うからです。最後は誰も助けてはくれないねぇ、えぇ、自分ひとりで感じ考え、そうしてたどり着く真理が、自分だけの真理があるからです。それを本物の真理というんです。それは誰かのせいにする人間には永久に手には入りません。どんなにお金があったってだめなものはだめです。自分のたまごは自分で孵す、そんな人間になってください。そんな人間を育ててください。おかあさん、おとうさん、いいですか、あなたですよ、あなたに言ってるんです。子どもは考える葦です。あなたと同じ、もう18なんでしょう。それ以上でしょう。自立した一個人として扱ってあげてください。知識も何もない救いようのないどんな馬鹿でも、一人で感じ、考えてる、そんな存在なんですから。

だから、

そんなものを見ただけで“動揺”して落ちちゃうくらいならそいつはそっちのほうが幸せだよ。だってさ、たぶん、そいつは大学に何を求めて入ってくるのかな?楽しい楽しい大学生活でしょ、たぶん。バイト、合コン、旅行、きっとそいつはそういうもの目当てで入ってくるんでしょ。かつ学歴狙いでしょ。本物の藝術ってどぎついよ。トラウマになっちゃうよ。だから早くお逃げなさいな。10年セラピーに通うことになっちゃう前に。そんな子でしょ。どうせ“動揺”する子って。どうせ。いいよ、それでも、ぜんぜん、かまわないよ。人生は自由だ。それは認めよう。だから君の人生設計に文句は言わない。だがね、ここはそんな思い出作りとか、就活に強いからとかいう理由で入ってくる人間のくるところじゃないねぇ。そんなやつが入ってきたって、本物の表現とは?表現のエッジとは何ぞや?と学問の真髄に触れる前に、きっと就活して、フツウに卒業していくと思うよ。だからそんなやつは早めにあきらめさせたほうがいいねぇ。早めに引導を渡してあげたほうがいいねぇ。そしてあきらめないやつなら、またきっと現れる。出てくる。そんなやつらと俺は学びたいねぇ。えぇ、そうじゃないか、諸君。俺は自分の発言には全責任をとるよ。名前を隠して、陰から攻撃するようなことは絶対にしないよ。リスクをとらない言論に意味を見出さないよ。苦情があるのなら名前をだして俺に直接言ってくれよ。堂々と受けるよ。そしてこちらに非があればすぐに豹変するからね。約束するよ。今の大半の学生はこもって影から愚痴を吐くだけだねぇ。牙を抜かれた、いや、牙の生えていない、ミューミュー猫ちゃんしか、大学は要らないのかねぇ?そんな腰抜け、腑抜けしか求めてないのかねぇ。牙を持った獅子こそ共に学びあうべき仲間なんじゃないのかねぇ。厳然とした美意識、プリンシプルを持った、星の友情を結び合えるような、そんな怪物を胸に飼ってる奴と切磋琢磨したいねぇ。その意味において、そんな媚びた受験ばっかしてるから“学級委員のいい子”ちゃんしか入ってこなくなったんだねぇ。えぇ、そうじゃないか、諸君。沈黙は現状肯定だからね。わたしは違うっていっても、通じやしないねぇ。リスクをとっての表現でなきゃ何も伝わらないねぇ。そういうことも学んでいないのかねぇ。今の学生は。えぇ、そうだろ?そうじゃないか、諸君。

恥を知ろうじゃないか、諸君、一緒に!


みんなのいっちーこと、一ノ瀬健太が昨日感じたことでした。

0 件のコメント:

コメントを投稿