2011年11月16日水曜日

しょうがいとアート

しょうがいとアートのお手伝いをした。本学の学長と山田洋次監督との対談などがある。

しょうがいをもつアーティストがドビュッシーに影響を受けた海n
の作品も展示されるとの事である。

そのお手伝いにいった。

かんがえたことというか、普段から思っている事。

しょうがいしゃをーとくべつあつかいすることについてとそのしょうがいということばについてだ。

しょうがいということばはドイツ語のように、がい、ということばの音のもつニュアンスがとても強く聞いていて脅威的な、心の平安を脅かされる、いうなれば焦り、緊張、よくいえば、鼓舞といった感じか、そんな強い印象を受けることばである。

発音することが憚れるニュアンスを始めからもつネガティブなことばであるのかもしれない。障害ということばから、障がいへ。さてその次はなんじゃらほい。

私自身としても障害ということばは滅多に使わない。障がい者ということばもそんなにすきではない。ハンディキャップというほうが言葉のもつ音感がいいと思う。だがそれでもまだ足りない気がする。障がいに対抗できるカウンターパートとまではいかないが、それに変わる新たな言葉を私は探している。だれかあったらおしえてくだちい。


また、障がい者、これ以降は彼ら、とする。彼らといって区切ることもおかしいかもしれないが、それは普段から人間をカテゴライズするのはよくするのでそれはおっけいである。他のものたちといった、ロスト的なノリである。


彼らをを取り上げてアートと結びつけることは是か否か、それは難しい質問だが、常にそういった、存在があるということに目を向けることは大切なことで、それはなにも、障がいというものではなくても、貧困、飢餓、差別、といったものも含めて、すbwtwのイシューにつながっていることだ。

そしてアウトサイダーアートはたしかにゾクッとするものがあるが、こないものもある。一般的な藝術家と同じ様に、ただ、あるがままの自分の感性を信じればそれでいいのだ。うん。


やりたいやつはやればいいし、やりたくないやつはやらなきゃいい。それが結論だ!!!うん!!!これでよし!!!

どっちかってったあやったほうがいいかもね。感動があればね。

彼らに対する時の自分も中での第一原則。一、かれらと彼ら以外を区別しない。普通に扱うということ。彼らがどういった状態なのかを把握した上で。

もしじぶんが彼らだったら、間違いなく社会の中に溶け込みたいと思う。落語の阿保の抜作や太郎冠者のように、人と交わりたいと思う。フーコーの狂気の歴史以前の
いうなれば黒澤明が描く共存の形として彼らと接したいと思う。どですかでん。白痴。答えはすでにでている。あとはいかにうごくか、それだけ。わたしは彼らに対して他のー健常者ーと同じ態度で付き合うことを旨としている。
彼らが嫌なことをすれば嫌だというし、いやな彼らにとは付き合いたくない。いいやつとは友達になるし、いやなやつとは友達にはなりたくない。ふつう。これを目指す。というか目指していない。融通無碍。

中学生の頃に特別クラスの子と仲がよかった。一緒に昼休みには卓球をやった。よだれがたらたら垂れていて、それを拭いたてで僕に触ってくる。僕は普通によけず、気にも留めないふりをしていた。友達はいつも、きたなくないの?ときく。たしかにそうかもしれないが、何故かよけたくなかったのだ。なうしかとか、マザーテレサとか、なんかおそらく、エボシとか、なんかそこらのヒロイズムに浸りたかったのかなと今では思う。jよけることが彼らお拒絶を意味するかのようにも思えた。

今、逆に考えるには、彼らを普通として扱うのなら、自分の友達がもしおなじようによだれを拭いた手で触ってきたら、おそらく俺は身をのけぞると思う。つまり、態度が異なっている。おんなじ扱いではなくなっている。

うーん、難しい。


だが、基本原則は常に、汝隣人を愛せ、だ。自分がしてもらいたいように相手と付き合うこと、これを旨とすることはいつでも忘れちゃいない。うん。


結論、融通無碍。臨機応変。ケースバイケース。

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