2011年12月6日火曜日

the QuintEssence of D'arte

ダントーさん、ごめんなさい。

一ノ瀬健太

"藝術とは、もののあるべき姿を探究することである。
そして、その究極の意味において崇高な涙をもたらすものである。"

藝術とは“人間が人間である限りあり続けるもの”である。それはつまり人間が、真だとか善だとか、美だとかだのといった、あるべき姿、あるべき存在の仕方を探究する限りにおいては決して逃れることができない代物だからだ。藝術とはまた別の意味において言えば、“あるべき存在を批評し、そしてそれを実地に行うこと”にほかならない。だから、その意味において天才的な藝術家とは“極めて自分に忠実であり続ける”ことを実地に行い続けた者たちのことなのだ。

ダントーさん、ごめんなさい。だから藝術は終わらないんです。

今も昔も、そして、これからも。

藝術とは、人間がこの世界において認識され得る全事象を相手にする際に必ず通さねばならないフィルターである。人間は藝術を通してしか世界に介入することができない。だから人間は生まれながらにして藝術家であるといっていい理由がここにある。いや、ともすれば生まれる以前から藝術家であるといっていいのかもしれない。それが人為であれ、自然であれ、あるべき姿に落ち着いてしまっているからだ。胎児はある種のあるべき姿である。精子も、卵子もあるべき姿をとっている。受精もまたあるべき姿である。誕生する瞬間にも、以前にも、そして死した以降にも、あるべき姿は所与のものとして人間に与えられている限り、つまり人間が人間であり続ける限り、人間は藝術家たりうることから逃れることはできない。認識の木の実の効用が続く限り、また世界を包む物理法則がある限り、我々は藝術という名の原罪を背負わされてしまっているのだ。我々はシェリーの雲雀ではない。自我、つまり世界を認識する“わたし”という主体といった現象がある限りにおいて、我々は皆、藝術家という業を背負った犯罪者なのである。

まずはじめに藝術を定義するに当たり、可能な限り藝術という言葉を中立的に眺めて見る必要がある。藝術をもっとニュートラルなものとして捉えることが藝術を定義する上でのはじめに行う肝要な作業なのである。藝術という言葉そのものが一般的に持つ真、善、美、感動といった諸々の事象から一旦、藝術自身を開放しなければならない。ある一つの純粋なオブジェとして私たちは藝術を考えることから始めてみよう。
一般的に言って、ことばはニュートラルたり難い。おそらく、ことばそのもの自体はシニフィアンレベルにおいては、口にする上での気持ちよさ、つまりパピプぺポやママと発音する際に感じられるある種の身体的な気持ちよさ等はあるかもしれないが、ことばや文字自体は意志伝達、または絵画からに、その出所を求めることができるから、意識的にそれを異化し、意味の意味から引っぺがした時に、つまり記号を記号として見たときにのみ、極めて限りなくニュートラルなものとなる。だが、ことばはその存在自体が社会と密接な繋がりを持つものであるから、発話された瞬間にその社会に、つまりその言語が用いられている交通領域内において、その社会のコンテキストを帯びてしまう現状がある。たとえば、原発ということばは今の日本においてはその好例だろう。それは何も原発や東電だけではなく、数学でもいいし、みかんでも、薔薇でも、なんだっていいだろう。そのことばに対するイメージ、心象は人それぞれによって感じ方は大いに異なるが、それが主観的なものであれ、客観的なものであれ、間主観的なものであれ、ことばが背負う文脈があるということは共通理解としての基盤を持つ。数学という概念自体には善も悪もない。だがそれでも、ある人はそのことばを聞いただけで頭が痛くなったり、吐き気をもよおしたりもする。ある人はそれは非常に美しいものだ、という反応をする。数学という極めて抽象的なことばの指標でさえも極めて恣意的な反応を喚起する文脈を背負っているのだ。

ここで少し例を挙げて、さらに細かく分け入って見よう。

東京大学 東京工業大学 東京学芸大学 東京電気大学 東京藝術大学

――といったことばが現在既に社会で流通している。このようなことばたちを考察するに当たり忘れてはならない条件は、これらのことばを取り扱う上で、全般的に言えることだが、私が背負う文脈から可能な限り忠実に自分の独断と偏見の限界を見定めてこれらのことばの持つニュアンスを考察するということだ。それを認識した上で、これらのことばを考察してみると、これらのことばたちはいずれも多かれ少なかれ文脈に絡めとられている、いうなれば雁字搦めになっていることばたちである。一つずつ見ていこう。ここに挙げた全ての大学の冠には、まず東京という言葉がついている。この東京という言葉自体が既にニュートラルなものではない。華の都、眠らない街といった、東京にこびりつく雑多で多様なイメージがそこに読み込まれる。東京という地名自体が東(ひがし)、都(みやこ)という二つの文字から構成されているし、その一文字一文字が持つイメージもまたある。東京大学は東京という地名と、大学という研究機関の名称との連なりにしかすぎないのに、多くの文脈がその背後に潜み読み込まれてしまう。人はそれをやれ最高学府だの、受験勉強の歪んだエリートたちの魔窟だのと、あるものは尊敬、あるものは羨望といった主々折々のイメージを抱く。さらに東京という地名を除いたとて、東京工業大学や東京学芸大学における工業や学芸に関しても、半ば既にポジティブなイメージが付随している気がしなくもない。工業に付随する精密なイメージ、愚直で真剣なエンジニアが日夜研究に勤しむ等や自由学芸、人文主義的な総合知としてのリベラル・アーツ等、大学の名を冠する位置にあるくらいなのだからいかようにもポジティブな価値をもたらざるを得ない、とこちらが読み込んでしまうのはいた仕方のないことなのかもしれない。それでは、東京電機大学の電気はどうであろうか、東京と大学とということばをやや強引に引っぺがして再度考察した時に、これは限りなくニュートラルな性質を帯びている気がしなくもない。電気や磁力といった科学的なことばは、それが客観性をより重んじる学問領域たるが故に総じて、その学問領域を構成することばも自然とニュートラルになり得るべきものなのかもしれない。ただし、科学という言葉自体がすでにポジティブなイメージを有しているのは周知の事実であろう。科学が持つ客観的な真実性は万人にとっての称賛を得ているのは否めない事実だ。しかし、科学的な名称がすべて中立性を帯びるかといえばそれは別問題で懐疑的にならざるを得ない。たとえば二酸化炭素なども物質としてはニュートラルなはずであるのに、地球温暖化の昨今はやはり、ネガティブなイメージを有している感は否めない。窒素やホウ素であれば限りなくニュートラルに近づいていけるかもしれないが。おそらく、科学的な事象として、冷徹な眼をもって、それらの物質、事象を扱った時にのみ物質や事象の名称がニュートラルになるのである。つまり、科学的に物事を見つめるといった志向性をともなった初期設定のような態度を持たずしては水素もヘリウムもやはり日常生活の中においてはニュートラルたりえることは困難なのだ。
ここまで長々と説明したことには訳がある。ことばを日常生活の中でニュートラルに扱うことは難しいということを確認したうえで重要なのは、今までに見てきたこれら一連のことばを用いることで、藝術ということばをより対照的に見ることができるということである。これにより、普段、日常の中で恣意的な、あまりに恣意的な語用をされている藝術ということばの本質が浮き彫りになってくる。つまり藝術ということばは今まで挙げた一連のことばたちよりも、さらにそのことばの持つポジティブの度合いが恐ろしく強いということだ。つまり、藝術ということばそれ自体が持つ背景の文脈に、真だったり、善だったり、美だったり、さらにはレオナルドだったり、ミケランジェロだったり、シェークスピアだったり、モーツァルトだったり、といったものを含んでいる為に必然的にポジティブな意味をその宿命として背負ってしまったわけである。また歴史の重層として近年ではラスコーだったり、縄文土器だったり、便器だったり、スーパーマーケットの箱だったりしたものなども先の遺物に堆積した挙句、藝術ということばは、さらにいっしょくたにごちゃ混ぜにされて真空的圧縮的凝縮を行われてしまった結果、我々はその藝術という対象をいつからか意識的か、無意識的かに、扱うに扱いにくいものとしてしまい、それを吟味、総括しながらも、その多義的な面倒臭さを保留してきたままに藝術ということばを運用しているのである。それがあって今も、その定義はアートという名の亡霊になって世界を彷徨っているわけなのである。
だからこそ、911が極めて素晴らしい藝術であるという発言まで飛び出してくる結果にまでなる。911が藝術であると語る人を見る時に感じる強烈な違和感があるのも藝術ということばをニュートラルなものではなく、ある程度先に挙げた社会的な文脈を背負わせたもの、とりわけポジティブなものとして認識しているからに他ならない。もし、仮に藝術ということばをニュートラルな意味で、もっともこのことばがニュートラルたり得難いものではあることに目をつぶった上でだが、“もののあるべき姿を探究すること”だと割り切ってこの現象を見る時に、確かに9.11は原理主義側にとっての“あるべき姿”であると考えることも可能ではないのか。いや、いうなればアウシュビッツやヒロシマも当時のナチスやアメリカにとっての“あるべき姿”であったと考えてもなんら差し支えないのかもしれないのではないか、という疑問が残る。藝術ということばに対する信頼、信仰が強ければ強いほど益々、この藝術ということばを歴史的な人道的な犯罪に適応し難いのではないのだろうか。だが、ここでの藝術の使用も、これが創作の中や風化しつつある過去においての使用だと話が変わってくる。たとえば、眉間を正確に打ち抜くゴルゴ13の狙撃は藝術的だ、とか、ワイルドのサロメの接吻は藝術的だ、とか、日露戦争時の日本海海戦のT字戦法は藝術的だ、といった時に比較的、というか、素直に納得をもって藝術ということばを使用することができる。先の911やアウシュビッツやヒロシマに藝術ということばを使えない、使いづらいのはその非人道的行為が未だ鮮明な記憶として残っているかつ、一般的なポジティブな意味を持つ文脈の意味で藝術を使用した時にもたらされるある種の人道的犯罪行為の肯定感が生じてしまい、記憶の未だ風化せぬ渦中の人たちにセカンドレイプしかねない慮りの感情が先立ってしまうからだ。
ここで問題となるのが“あるべき姿”ということである。“あるべき姿”は無数にある。その“あるべき姿”が乱立し、対立するとするならば、共通する“あるべき姿”というものは存在しないものなのだろうか。これはギリシャ時代から脈々と連なるアポリアである。おそらく、この“あるべき姿”が無数にあることと、共通する“あるべき姿”は両立可能である。薔薇は美しいし、ひまわりも、タンポポも美しい。花束はさらに美しいのだ。“あるべき姿”は無数ではあるがそのそれぞれの花の美しさに感動を覚えることは共通なのだ。
もし無理なことではあるが藝術を可能な限りニュートラルなものとして見た時には、藝術は今よりも細かく見ることができるようになる。感動する藝術はいい藝術であり、感動をもたらさない学生や初心者のタッチままならぬ藝術はつたない藝術であると言えるようになる。今まで、こんなのは藝術ではない。とされていた学生の作品を非藝術から“詰めがあまい”藝術として藝術の中に位置づけることが可視的認知的に可能となる。人を不幸にさせる犯罪的なわるい藝術もあり、空想的サロメ藝術と現実的サロメ藝術などなど、その藝術のカテゴライズが細分可能となる。藝術をニュートラルに捉えようとすればするほど、だが益々“あるべき姿”が重きを増してくる。
藝術ということばはそれ自体が理想を追い求めるという意味を孕んでいるから、藝術は必然的に藝術であるという同語反復的な、つまり藝術ということばそのもの自体が藝術ということばそのものででしか説明できない極めて特殊なことばなのである。またさらに藝術ということばの反対語が藝術であるということもより一層この藝術ということばをミステリアスで多義的なものにするのに拍車をかける。たとえば哲学を定義する際には哲学という言葉を用いてはならないように、多かれ少なかれ、あることばを定義する際にはその説明され得ることばを用いて定義してはならないのだがこの藝術ということばはその前提条件を超えてしまう。藝術ということばは万人が万人にとって真であり、善であり、美であるといったある種の主観的真理を通した客観的真理と、か、または客観的真理を通した主観的真理とを同時並行的に扱わなければならないから話がややこしくなるのだ。そして人が互いに相手の感動を尊重すれば尊重する程話は袋小路へと誘われ、行き着く先は独我論の迷宮なのである。だから藝術という言葉は定義しづらく常に対立を醸し出すのだ。美意識と美意識、批評と批評とが火花を散らして蠢きあえば論争になるのは必定である。ともすれば小学生に藝術とは何かと問われたら、その答えとして、藝術とは“満員電車の小競り合い”である、と答えても本質は外してはいないだろう。藝術という場では恐るべきかな、“あるべき姿”は対立しつつ調和するという禅問答めいたものが成りたってしまうのだ。
今現在用いられている社会通念的一般的な意味での藝術は“個人的なイデアの追求が他者のイデアと合致したもの”つまりもっと端的に言えば、共感し得る“人為を介した感動”であるといっていいだろう。ここでいう感動とは、ほんの少しの感情の揺れ動きを含めたものであっても差し支えないが、ここでは、感動とはもっと極めて強い意味での感動、つまり鑑賞者が涙するほどまでの感動ととってもらえればよりわかりやすいものと思われる。そして、共感し得る“人為を介した感動”という藝術の定義のもとでは現代アートのほとんどがこの定義からこぼれおちてしまいかねないということも覚えておかなくてはならないだろう。少なくともアートワールドの住人達、この世界に巣喰う寄生虫たちも含めて、には決して目をそらしてはならない事実である。現代アートは観念的なものを追求するあまり感動を放置しすぎてしまった。“もののあるべき姿”の先に感動が存在しているのなら、感動を置き去りにした現代アートはその究極の意味においては、藝術ではないといっていいのかもしれない。現代アートから感じる嘘臭さは感動の放棄を鑑賞者に感じさせるからで、現代アートが藝術や鑑賞者に対して横綱相撲をとらず、けたぐりやはっそう飛びばかりで感動を狙っているのは一種の逃げだと鑑賞者、とりわけ老若男女の市民に思われて、その結果彼らが離れて行ってしまっても、鑑賞者を見る目が無いなどと責めることなど一体誰ができるというのだろうか。感動のない藝術は果たして藝術といっていいのだろうか。
藝術は究極的な意味で、その藝術という言葉の果てに感動がある。突き詰めた“もののあるべき姿”という極められた存在は不可侵性を帯びるから、人は人自身や行為、人が作り上げたものでさえも、感動した時にはこれ以上ない称賛の形容詞として、ブラヴォー!や、まじすげぇ、、や鬼ヤバ!、さらには、それ以上の絶賛の表現として、神だ、、とか、藝術的だ、、と口ずさまずにはいられないのだ。神なき藝術はあり得るが、感動なき藝術はその究極の意味においてはあり得ない。藝の極みとしての不可侵性が人為を超えたものとしての神または宣長的なカミの領域を感じさせ、それがその当人にとっての掛け値なしで絶賛できる唯一無二の素晴らしいものとしての認識としての神またはカミが念頭にあって、得も言われぬ感動=神またはカミ、という図式が自覚的であれ、無自覚的であれ、当人の中で成り立っているという動かしがたい事実がある。それゆえに一般的に神と感動はその感覚的な領域において親和性が極めて高いといっていい。感動は万人が万人にとっての素晴らしい体験である。この感動という一点においてのみ全人類は客観的真理を把持することができる。感動している主体は感動している瞬間には一切の利害を超えた境地にいるから一切の民族や宗教や言語、とりわけその身体性すらもその感動する主体に関知することはできない。この感動という一点においてのみ、プロタゴラスも沈黙せねばならないのだ。それ以外の一切のことは永遠のオープンエンドな二項対立命題のジレンマを持つアポリアであり、プロタゴラスの好きに語らせよう。
人間が世界の全事象に介入する上での基盤として藝術は存在している。つまり、すべての人為の背後に藝術はエッセンスとして含まれているのだ。それがコギャルのデコレートメールであれ、ビジネスマンのプレゼンのパワーポイントであれ、唐の詩人であれ、色覚異常のオランダの画家であれ、推敲や構成を伴うものには藝術がいつもその裏に潜在している。その背後にいつも隠れている藝術が時折り表だって現れる分野がある。それが一般的にアートといわれる分野なのである。藝術はその藝術という言葉自体が如実に表れるもの、または分野としての結果としてアートという分野があるのだ。それゆえにアートと藝術という言葉は時に同じ意味として使うことが場合によっては生じてしまう為に、混同する事態もあり、それがきっかけとなって更なる混同が起きてしまう。もっともわかりやすい形で藝術が藝術たる分野、それが詩、絵画、彫刻、建築、音楽である。もののあるべき姿がそのまま現前として、いうなれば剥き出しのままに藝術が藝術として立ち現れてくれる、立ち現れやすい分野なのである。すべての人間の行為、営みを藝術は被膜のように覆っている。ただその膜から大きく突出し、あたかも膜をやぶり顔をだしてこちらを覗いているのが先に挙げた、詩や小説、絵画などといった、いわゆる文学や音楽、造形美術の分野なのである。
批評するにも藝術が背後に隠れている。表現するにも背後に藝術は隠れている。模倣にも、自然美にも、天才や、趣味、レトリックにも、解釈にも、コミュニケーションにも、無意識にも藝術は隠れている。真にも、善にも、美にも“もののあるべき姿”が隠れていることに変わりはないから、必然的にその存在自体に藝術がまとわりついてくるのだ。だから藝術は紛らわしいのだ。その藝術ということばを使う時には注意が必要でもあるし、注意など必要としないのだ。

なぜなら、藝術とは


“宇宙全体が記憶する創造的な理想を追い求める存在現象”


だから。

Q.E.D.


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