2011年12月2日金曜日

おたく文化論、推敲なしVer.

おたくとはウルトラコンテキスト文化である。その三文字には驚くほどの情報が凝縮されている。そして、そのおたく文化はたしかに日本から生まれねばならなかった必然を内包している。 侘び、さび、やおい、萌え。日本人のその感性のなんと淡く深きものかと思わせるハイコンテキストな感受性の表出。日本人は曖昧な気持ち、感情を曖昧なまま甘受し、共有することができる。ことばで表現できないのならば、その感情、表象的な複雑な感情をその複雑なままで扱うことができる。日本のハイコンテキストなことばは非常に恣意的で排他的な要素を併せ持つわけで、しかし、それでいて、一旦中に入ってしまえば、驚くほどの阿吽の呼吸で対話することもできる。何を言わずともある程度分かり合えるツーカー文化を享受できるのだ。リービ英雄ですらその壁の前で何度も侵入を阻まれたのもうなづける。芭蕉の蝉の声は源氏物語をミミズのはったような文字で綴られた原文をスラスラと読み進めることのできる西洋人よりも、渋谷の109で顔を真っ黒に染めて、蹲踞で戯れ、たむろする、漢字すら読むのもままならぬお馬鹿女子高生の方が遥かに染み入るのだ。おたくとはまず持って非常に日本的なものなのである。

 

だが安心してもらいたい。なぜなら人間であれば誰しもが共通してもっているであろう理性と本能的なフェティシズムと禁忌性と幼児趣味、そして収集癖でおたく文化というものを説明できるのも確かだと思う。言語の恣意性は多かれ少なかれではあれ、しっかりと国境を超える。 

 

日本でおたく文化が広く親しまれるのは本当の意味でこどもに優しい社会だからであろう。表にでて来ない幼児虐待を計算に入れてもおそらく、欧米などと比較すればこどもの虐待は驚くほど少ないように思われる。それは日本が7歳まではこどもは神様のものといった考えといった日本の伝統的なこどもに対する価値観が作用しているからであろう。あっちにおいてはロリータ趣味はナボコフで顕在化するの知れないが、日本はもっと早い。宇治拾遺物語に既にこどもにいたずらする坊さんたちの姿が描かれているのだから。 
 

日本人は総じて子供っぽい国民だと世界から言われている。それでよろしい。ネオテニー社会なのである。こどものわりにはずいぶんと腰が重いということも多々あるが。。。総じて童べの時には童べの如く振舞えばよろしいのである。日本はそれでいい。もっともっとこどもであるべきだ。

 

長くなった。おたく文化の説明に入ろう。

 

おたく文化とは、異性に対しての諦めの媚態にも似たフェティシズムである。日本においても今のところやや、やはり今でもおたくに対する偏見の目は否めないだろう。ただそれも電車男以降はやはりだいぶ見る目も変わってきているし、おたくに対する偏見もだいぶなくなってきたと思う。というのも、元祖おたくはおたく道を突っ走るその姿勢は何も変わらなかったが、ややおたくたることに引け目を感じていた層が、おたくたる事を恥どころか、誇りにさえ、むしろ、おたくがある種のステータスを得るまでになってきた事から、周りの"ふつー"の人々がおたくたることをカミングアウトせずまでも、生活の中の一つの要素、いうならば、本や衣服といった、レベル、いや、もう少し収集癖っぽいもの、名画のポストカードくらいのコレクション、切手や鉄道模型レベルか、くらいの世間の好奇の目にさらされる様なら慣らされたといった具合かもしれない 。つまり、普通の彼氏、彼女の、旧来までならドン引き、または"ヒく"くらいだったおたくたちがカミングアウトし、以外に周りにいて、それが結構普通なんじゃね。むしろ。くらいなイメージを巻き起こすことに成功し、それがいいスパイラルを描くこととなり、おたくが身近にあふれる、結果、更に隠れおたくがカミングアウト、つまり、社会の中で認知される、結果、またおたくが身近なものになり、、、、といった相乗効果が起きたということがおたく受容の背景にある。それと、世代交代、いうなればガンダム世代が社会の中枢になってきたということもあろう。それは手塚漫画の影響を受けた世代がマガジンの専務になっていたり、鳥山明の編集者だったDr.マシリトこと鳥嶋さんも今では集英社の専務であるわけで、そうした社会構造の変化もまたおおいなるおたく受容のドライブ装置をになっている。 
 
さらには、先にも少し述べた様におたくは自由の拡散も行うのだ。おたくはある種の業の肯定も行う。貧乳、片親といったネガティブなステータスを一気にポジティブステータスにしてくれるのだ。悲劇のヒロイン、コゼットやソーニャを持ち出すまでもなく、否、それらの悲劇の主人公は実社会においていかばかりかもポジティブステータスに貢献せなんだ。彼女等世界文学のヒロインも生きやすい社会の効用の観点ではこなたにすら及ばないのだ。水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる。もはや今では読書すらエネルギーを消耗する面倒な作業なのだ。今では本を読むことはそれだけでものすごくエネルギーを使うことなのだ。岩波文庫は風前の灯火なのである。いや、というよりはハイカルチャーとなってしまったのである。大審問官を読むよりもジャンクリストフを読むよりも、らき☆すたを見る方が楽なのだ。そうなのだ。これでいいのだ。悲しいけど、これ、時代のせいなのよね。
 
侘び、寂び、萌え、やおい、 いずれも不足を想像力を補って解釈する。いずれも不足を充足させるバックコンテキスト文化なのである。リア充ということばも不足を、傷を舐め合うかの様な自己卑下文化のエッセンスなくしては味わうこともできないであろう。日本人的謙遜と江戸っ子譲りの自虐ユーモア、それこそが文化的に醸造され、その結果、今では、日本のクールなおたく文化となるにいたるわけである。
 

アニメは線が本質。日本画の本質は線であると大観は言った。

 

余白にイメジを読み込まずして漫画は読めぬ。

 

そしてアニミズム。 
 

 

この大いなる三本柱の結果もたらされたものがアニメであり、ジブリはアニメのモナリザであろう。 
 

 

おたくは日本の文化の精髄なのだ。 

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