やっぱり早起きをしよう。
明日から。ダイエットと同じで試されるのは意志だ。
もう誰かの藝術をうんぬんする前に自分の藝術を目に見える形にしよう。誰かと話をするときに自分のポートフォリオがないのはなんだか申し訳ない。他人のふんどしで相撲をとっているわけではないがそれに近い感じもしないが、なんだかこう釈然としない。俺はレオナルドだから、ウオーモ・ウニベルサーレ、つまり万能人だからこうズバッとした作品がなかった。レオナルドには絵があった。ミケランジェロに彫刻があった。自分を如実に表現できる媒体を持つことは戦略的に、この場合、売れるためだとか、より相手と深く議論する為だとかいう場合にはけっこう重要なことである。
今日の出来事、油画の絵画創作の授業に出た。ぜんぜんつまらなかった。これは本当のこと。油画の授業だから、きっとぶっ飛んだ授業に違いないと勝手に勘違いしていた俺がバカだった。大いなる時間の無駄とまでは言わないまでも、他の授業よりも比べて極めてつまらない授業だった。ずーっと暗い中で教授の作品のスライドを見るというものだった。やっぱり授業というものは議論ができることこそ意味があると思う。質問、議論できない授業はやっぱりどう考えてもゴミだ。そしてそんなサンデルのような授業が曲がりなりにもできない者は教壇から降りるべきであろう。あ、そうか、つまらない教授、彼らの存在意義は無視される為にあるのだ。そうか、そうだったのだ。優秀な学生は授業をさぼる。それは歴史が証明済み。間違っているのは私の方だった。彼らに素晴らしい授業を期待する方が間違いなのだ。それは明治時代から全く変わらないのだから。そしてそれは藝大でも一緒。変わらない。ディスカッションの時間を30~40分とるといっていたのに実質4,5分しかとられていないのはやっぱりダメだろう。あんたのクソつまらない作品を見るために俺の貴重な時間を割いた訳ではない。その多くの受講者の中にいる本物の画描き、自分と戯れるのではなく、自分と闘っている学生と議論する為に行ったのだ。それをよう、それをだよ、まったく。ぜんぜん攻めてねぇよ。パリかどっかの街角をず~っと映す作品も、やっぱもう“古い”よ。時代遅れだよ。だってそれはジョン・ケージの焼き直しにしか見えないもん。岡本太郎いはくの藝術じゃあないね。
最後の質問時間に最近油画がつまらないのは先生の授業がぜんぜん面白くないからだ。といって、先生とちょっと喧嘩した。つまらないというのは俺の感性が悪いみたいなことをいわれた。確かに軽率な発言だったかもしれない。それにつまらないとただいうのは簡単で幼稚であるし、先生自身は岡本太郎のような“何だこれは!?”的なものを目指してはいないといっていた。だが新しいものは見て見たいとも思ってるとも言っていた。
講義が終わった後、先生との喧嘩を見ていた友人にそのことを聞いたところ、俺の発言は創造的でないと言われた。そしてそういったその子にじゃ、先生の作品は面白かった?と聞いたら、そうでもないといい、ただそういうものがあってもいい。といっていた。確かにあってもいい。ただその考え自体もすでに当たり前の“常識”になっている。みんなちがって、みんないい。そんなの当たり前だろ。ここは藝大なんだから、自分の感じたことを感じたままに表現する場なんじゃないのか?その子も面白くはなかったということには同意しているわけであった。ただその子はとても“優しい”子だから人を批判することが苦手でオブラートに包んで、彼を擁護しつつも、やぱりつまらなかったということが言外に推察された。
先生の作品をつまらないというのは創造的でなかったか。たしかに創造的でなかったかもしれない。抽象的な言葉で、具体性がない。確かにそれを言ったらそこで議論が終わってしまうかもしれない。ただ、理由だってしっかりとある。それは今日の坂口先生の作品がどこかで見たことがある感が漂っていたということである。わからない。先生がオリジナルでそれを模倣した人の作品を俺が見たのかもしれないから真相はわからないが、私のつまらないとする理由はロウいはくの制度理論とダントのアートワールドとそして、藝術というものの家族的類似から説明ができる。つまり、先生の藝術が既にある程度の藝術的なものであり、かつそれがすでにアートワールドから認定されているような藝術を髣髴とさせたからである。先生自身がアートワールドの住人、しかも相当な市民権ステータスを持っている住人であることもある。模倣と創造性は紙一重なのは重々承知之合点承知の助!やっぱり二番煎じは藝術の世界では面白くはない。つまり、つまらないのだ。先生には嘘は付けても、自分には嘘を付けない。
そうして火照る頭を帰りの電車の中で覚ましつつより深くさっきのことを考えた。そう考えると、もう、藝術の残された余白は犯罪しかなくなってしまう。こんなの藝術じゃねぇ!と人に言われるようなものは行きつけばそこにならざるを得ない。痴漢という名のパフォーマンス、強姦という名のパフォーマンス、殺人という名のパフォーマンス、オウム真理教、911、原爆、アウシュビッツと云う名のパフォーマンス等々…に行き着いてしまうが、そんなのはそもそも藝術ではない。仮に何かを伝える、その手段が藝術であったと定義したとしても、そのようなものを藝術という言葉で定義したくはない。藝術はそれ自体の言葉がポジティブな意味を持っているから、それはあたかも正義や人権、と云ったもののように中立な言葉ではありえない。原発だってニュートラルではない。コトバとか、布とかいったものは中立的である。だから、そう考えた時にもう藝術でやり尽くされた感は確かにあるなってのは思う。藝術の新たな分野はいったいどこにあるのだろうか?藝術のエッジは今いったい?今のところ、児童エロまんがだと思う。実写はアウトだろうな。やっぱり。人が不幸になるものはやっぱり違う。うん。
またもどって、自分の発言が創造的な発言ではなかったかと考えて見る。確かにもし俺たちが二人で議論していたなら、そうであったかもしれないが、すくなくとも、今言ったことを説明する時間があれば、まずその時点で創造的であるから、友人の発言は仮像となる。そして、あの場にいた油画の学生へのなんでもいっていいんだよ。教授と喧嘩しようぜ!といった意味でのメッセージともなっているから、俺の発言はやはり、創造的であったように思う。
聞く耳ある者は聴け!でなくば去れ!という訳である。
今日も発見。一日1000円運動は無理して一日1000円使わなくてもいいんだ、ということを学んだ。
また、一日食費1500円使える人がいたら、それはもう“勝ち組”を名乗っていいと思う。まじで。まじでうらやましい。
本日の歳費;822円也 内訳;かれーまるしぇ、もずく、ねこふーど、おちゃ、ちーずどっぐ、さんまのかんづめ。
2011年4月20日水曜日
2011年4月19日火曜日
風邪は引かぬがよきにはからえ
風邪は引かない方がいい。引いたって何の得もない。計画していたこともやる気がなくなって何にもできないし、人にも迷惑をかけることになる。それよりなにより辛い。やっぱ辛い。生きてることそのものがつらいことだけど、風邪はやっぱりつらいものだ。
健康は失ってそのありがたさに気付く。それは身近なもののありがたさに通じる。当たり前のもがある幸せ。家族の健康、蛇口から水、電気、電車の運行、などなど。当たり前の当たり前な毎日のルーチンワークが世界を繋いでいる。コぺル君曰くの人間分子網目の法則、マルクスいはくの生産関係に感謝。自分はエリートとしてこの生産関係に参与していきたい。
いやぁ、今日は2カ月ぶりにおなかいっぱいになったな。おなかいっぱい食べられる幸せ。まじで感謝だ。すた丼、肉飯増し、820円也。ファンの子と一緒に食べた。ファンの子とは最近一緒によくたべるなぁ。昨日はファンの子と寿司を食べた。最近食費が1000円近い。一日500円はやっぱ、よくないね。毎日同じものばかり食べることになってしまう。毎日パスタはやっぱり飽きる。しかも毎日同じ具。三種類かそこらのローテーションで回すからすぐにやっぱり飽きがくる。塩コショウしても、酢を入れたりしても焼け石に水、マヨネーズを入れてもダメなものはダメだ。飽きには勝てない。去年は一日千円でやっていたが、最近になって500円にしていたが、これも限界に来た。やっぱり“食”は大いなる人間の喜びの一つだ。津波で明日死んでしまうかもしれない。今、日本は経済を回すべきだ。消費は美徳だ。と自分を正当化しつつ、毎日うまいものに舌鼓を打つ。一日食費1000円使える人間はもう、ほんと、まじで幸せだよ。ほんと。生まれてきてよかったと心から思わなきゃそれは罪だね。
早稲田、高田馬場はその校歌の示す通り“都の性欲”と化していた。まったく最近の若者ときたら、合コンしか頭にないのかよ。まったく。最近の若者ときたら、まったく、性欲の固まりだなぁ、まったく携帯を持ったサルだよ。
えぇ、そうです。嫉妬です。うらやましいなぁ。うんうん。若いっていいねぇ。今が青春!楽しめ!今が君が春!若いっていいねぇ!いやぁ、じつにいい!傍若無人!傲慢っていいねぇ!
ゴッホの手紙のように感じたこと、思ったことを書きとめておこう。
本日の歳費;すた丼820、 ジャスミン茶103、諸経費300 計1223円也!
健康は失ってそのありがたさに気付く。それは身近なもののありがたさに通じる。当たり前のもがある幸せ。家族の健康、蛇口から水、電気、電車の運行、などなど。当たり前の当たり前な毎日のルーチンワークが世界を繋いでいる。コぺル君曰くの人間分子網目の法則、マルクスいはくの生産関係に感謝。自分はエリートとしてこの生産関係に参与していきたい。
いやぁ、今日は2カ月ぶりにおなかいっぱいになったな。おなかいっぱい食べられる幸せ。まじで感謝だ。すた丼、肉飯増し、820円也。ファンの子と一緒に食べた。ファンの子とは最近一緒によくたべるなぁ。昨日はファンの子と寿司を食べた。最近食費が1000円近い。一日500円はやっぱ、よくないね。毎日同じものばかり食べることになってしまう。毎日パスタはやっぱり飽きる。しかも毎日同じ具。三種類かそこらのローテーションで回すからすぐにやっぱり飽きがくる。塩コショウしても、酢を入れたりしても焼け石に水、マヨネーズを入れてもダメなものはダメだ。飽きには勝てない。去年は一日千円でやっていたが、最近になって500円にしていたが、これも限界に来た。やっぱり“食”は大いなる人間の喜びの一つだ。津波で明日死んでしまうかもしれない。今、日本は経済を回すべきだ。消費は美徳だ。と自分を正当化しつつ、毎日うまいものに舌鼓を打つ。一日食費1000円使える人間はもう、ほんと、まじで幸せだよ。ほんと。生まれてきてよかったと心から思わなきゃそれは罪だね。
早稲田、高田馬場はその校歌の示す通り“都の性欲”と化していた。まったく最近の若者ときたら、合コンしか頭にないのかよ。まったく。最近の若者ときたら、まったく、性欲の固まりだなぁ、まったく携帯を持ったサルだよ。
えぇ、そうです。嫉妬です。うらやましいなぁ。うんうん。若いっていいねぇ。今が青春!楽しめ!今が君が春!若いっていいねぇ!いやぁ、じつにいい!傍若無人!傲慢っていいねぇ!
ゴッホの手紙のように感じたこと、思ったことを書きとめておこう。
本日の歳費;すた丼820、 ジャスミン茶103、諸経費300 計1223円也!
2011年4月16日土曜日
奇跡の発見
奇跡の発見!!…をしたと思った。鳥獣人物戯画を上げ写しという技法で模写する授業中にたまたま書いていた象の場面が上げ写しによって描かれていたのではないか!?という発見をした。と云うのもその場面の汚れの部分が自分が模写する際に写し撮る紙のしみ出す墨の汚れの部分と一致していたからだ。ダッシュで研究室の扉をノックするも専門家たる教授はおらず、助手さんにそのことを報告した。はやく教授にあってそのことを報告したい、というか真偽を発見したいという気持ちでいっぱいだった。いやぁ、取材の嵐か、これだけで一生飯が食えるかもしれないと思っていた。助手さんをお呼びして、確認してもらった。いちおう、教授とお話しする前には自分で調べてから報告した方がいいと言われた。しかしそんな文献がどこにあるのかも知らないし、そんな時間すらももったいない、時は一刻を要するのだ!と思っていた。その日はほかの教授も見当たらず、おずおずと家に帰った。その日はそれ以上筆を入れることはできなかった。
家でネットで鳥獣人物戯画を調べて見ると、あれ?!汚れがなかった。なぜだ?オリジナルの高額なレプリカをコピーしたのではないのか?どこを調べてもそんな染みや汚れはどこにも見当たらない。あれれ。
う~ん、なんか不安になってきたぞ。
翌日、自分の墨を引いた部分がその下写しの紙に沁みていることが自分の実験で確認された。がっくしくると同時に、大発見をしたと大興奮で研究室に向かった自分が何とも恥ずかしくなってきた。功を焦った人間には他のものの言葉は届かないのだと思った。自分の研究を横取りする為にそうやって時間稼ぎか何かをしているのではないかと勘繰ったりもした。結局そんなことはなかったわけだが、急いては事をし損ずるということを学んだ。あやうく大恥をかくところだった。ま、かいたってもよかったけどね。それが若さなんだから。とも思った。過ちてはすなわち、改めざるにはばかることなかれ。なわけだ。
それともうひとつの大発見は、このブログで面白いことを書こうとすると更新が遠のくということだ。書いたからには面白くてはならないというのが心の奥底にあった。読んだ人が何らかの得るものがなければならないものにしようとしていた。結果、更新が滞る始末となる。だから発見した。毎日、何にもなくとも、ただ、単純に家計簿としてこのブログを使えばいいのだと思った。たんたんにその日使った金額を、金額だけをアップする日を造りたいと思った。根っからのエンターテイナーなボクチンにそれができるかが大きな分水嶺だが今日あたりか、次回にでも、すっと、家計簿だけで終わる日を作りたいなとも思う。やっぱり何かを書くというのは暇がないとできない作業であるなと思った。
私は閑人である。天才は閑人でなければならないのである。平成の天下の逸民とは余がことである。
計1563円 ワイン、びーふめんちかつ、ねぎちゃーしゅー、らーゆたかなぱすたのぐ、ぱすた、あんどーなつ いずれもおかずは40パーセント引き。
あぁ、腹いっぱいうまいもんが食べたいなぁ。
家でネットで鳥獣人物戯画を調べて見ると、あれ?!汚れがなかった。なぜだ?オリジナルの高額なレプリカをコピーしたのではないのか?どこを調べてもそんな染みや汚れはどこにも見当たらない。あれれ。
う~ん、なんか不安になってきたぞ。
翌日、自分の墨を引いた部分がその下写しの紙に沁みていることが自分の実験で確認された。がっくしくると同時に、大発見をしたと大興奮で研究室に向かった自分が何とも恥ずかしくなってきた。功を焦った人間には他のものの言葉は届かないのだと思った。自分の研究を横取りする為にそうやって時間稼ぎか何かをしているのではないかと勘繰ったりもした。結局そんなことはなかったわけだが、急いては事をし損ずるということを学んだ。あやうく大恥をかくところだった。ま、かいたってもよかったけどね。それが若さなんだから。とも思った。過ちてはすなわち、改めざるにはばかることなかれ。なわけだ。
それともうひとつの大発見は、このブログで面白いことを書こうとすると更新が遠のくということだ。書いたからには面白くてはならないというのが心の奥底にあった。読んだ人が何らかの得るものがなければならないものにしようとしていた。結果、更新が滞る始末となる。だから発見した。毎日、何にもなくとも、ただ、単純に家計簿としてこのブログを使えばいいのだと思った。たんたんにその日使った金額を、金額だけをアップする日を造りたいと思った。根っからのエンターテイナーなボクチンにそれができるかが大きな分水嶺だが今日あたりか、次回にでも、すっと、家計簿だけで終わる日を作りたいなとも思う。やっぱり何かを書くというのは暇がないとできない作業であるなと思った。
私は閑人である。天才は閑人でなければならないのである。平成の天下の逸民とは余がことである。
計1563円 ワイン、びーふめんちかつ、ねぎちゃーしゅー、らーゆたかなぱすたのぐ、ぱすた、あんどーなつ いずれもおかずは40パーセント引き。
あぁ、腹いっぱいうまいもんが食べたいなぁ。
2011年4月13日水曜日
男はつらいよ
寅さんを見た。男はつらいよ、純情篇。
帰る場所があるとおもうから、おりゃいつまでたっても一人前になれねんだ。と寅さんが何度も言っていたが、帰る場所があるからこそ一人前になることもできる。それを教育学者のジョンボールはセキュアベース、安全基地理論とした。子どもが好奇心旺盛な性格になるには親が笑顔で送り出し、何かあったら帰ってきな。という態度が子どもの冒険心を育むらしい。たしかに理性で理解ができる。辻褄が合う。だからその理論をアプライすれば、寅さんはいつでも帰ってくる場所があるからこそ、いろんな所へ旅をすることができるのである。
しかし、初めの空撮のシーンとかは見づらくて、なお、ヘリコプターの影は映ってるわで、なんか素人っぽいというか、適当という感じがした。まぁ、寅さんだから、いいのかとも思った。
やっぱ、義理と人情の世界ってのもやっぱいいね。日本の悪しき風土病と、日本の最高に誇れることはやっぱ表裏一体だね。大阪が一番治安が悪いのに、かつそれで一番優しい街だということも、アメリカがキャプラの国であることと、戦争の国であることとも同じことなのかな。
今回のシーンのベストは、はじめの方の子連れ女と寅さんが一緒の部屋に泊まるシーンと、最後の方のシーン、ある長崎の漁村のオヤジの後ろ姿が沁みた。寅さんに出てくる人は、決める時には、みんな痩せ我慢をする。リアルな現実と同じなんかなぁ。
あぁ、寅さんって、ほんと痩せ我慢の人なんだな。
計735円 也 +薬代500
帰る場所があるとおもうから、おりゃいつまでたっても一人前になれねんだ。と寅さんが何度も言っていたが、帰る場所があるからこそ一人前になることもできる。それを教育学者のジョンボールはセキュアベース、安全基地理論とした。子どもが好奇心旺盛な性格になるには親が笑顔で送り出し、何かあったら帰ってきな。という態度が子どもの冒険心を育むらしい。たしかに理性で理解ができる。辻褄が合う。だからその理論をアプライすれば、寅さんはいつでも帰ってくる場所があるからこそ、いろんな所へ旅をすることができるのである。
しかし、初めの空撮のシーンとかは見づらくて、なお、ヘリコプターの影は映ってるわで、なんか素人っぽいというか、適当という感じがした。まぁ、寅さんだから、いいのかとも思った。
やっぱ、義理と人情の世界ってのもやっぱいいね。日本の悪しき風土病と、日本の最高に誇れることはやっぱ表裏一体だね。大阪が一番治安が悪いのに、かつそれで一番優しい街だということも、アメリカがキャプラの国であることと、戦争の国であることとも同じことなのかな。
今回のシーンのベストは、はじめの方の子連れ女と寅さんが一緒の部屋に泊まるシーンと、最後の方のシーン、ある長崎の漁村のオヤジの後ろ姿が沁みた。寅さんに出てくる人は、決める時には、みんな痩せ我慢をする。リアルな現実と同じなんかなぁ。
あぁ、寅さんって、ほんと痩せ我慢の人なんだな。
計735円 也 +薬代500
2011年4月11日月曜日
白洲正子展覧会
はぁ、落ち着いたのでやっと書ける。
日月山水図屏風の前に一時間くらいずっと佇んでいた。会期の初めに行ったからだいぶ空いていて、国宝を独り占めできたのは何とも心持がいいものだ。
東日本大震災を経験した直後であったから、ニュートラルな状態で見ることは難しかったが、そこはまぁ、その時々の状態で美術品は顔を変えるから、まぁ、それはそれで楽しもうというスタンスで見た。大まかに言って、その風景は山の中まで入ってくる津波にしか見えない。
作者は何を表現したかったのだろう?作家のアンチミテに迫るのが藝術学の腕の御見せ所なので、まぁ、腕、見せちゃおっかな。
ひとえに、この作品は宗教画である。人生について述べたものである。アナクロニズム的分析で大いに結構である。古典はアナクロニズムで応えてよい。なぜならそれは永遠であり、かつ現在の音であるからだ。
波は人生の荒波である。あらがうことのできぬ、覚悟を持って受け入れねばならないもの、時の流れの表象である。時間は戻すことができぬ。ただ流れるだけである。逝くものはかくの如きか昼夜を問わず。論語は当時の必読書。作家も読んでいたに違いない。
はたまた、これは波ではないのかもしれない。雲の上のてん淡の世界なのかもしれない。
一つの世界に四季が同時図的に描かれている。右から春夏秋冬とかんたんには巡らない。時計のように円を描く様にしてまた春に戻る。夏の後に冬ではない。環を描いていると思うのが妥当であろう。
また遠近の破たん。夏の新緑の手前の緑の山、緑しょうの深さが際立つ。手前に木はない。奥に行けばいくほど細かく書かかれる。山は神々の象徴、この作品には四つの神々の表情が表わされている。滝も然り。神々が宿るとされるものである。人間と神の変わり変わらぬ姿がそこに描かれている。年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず。松の常緑樹が永遠の螺旋階段を髣髴させる。
祈りたくなるものを描き連ねてみたら、こんな作品ができた。太陽に、月に手を合わせる。そんなふうにして造られた作品なのではなかろうか。
祈りとは小林秀雄の、無常ということの中に出てくる、なま女房が抱いていた感情である。祈りとは自己を見つめることである。自己を見つめた祈りだけが、神に届く。神の不在に耐えることができた者だけが祈るに値する。
これは自己を知る鑑である。人生哲学に満ちた宗教画である。
本日の歳費;計597円 やせ過ぎと逢う人逢う人に言われた為に、とりあえず現状は、一日700円で生きていくことにしました。
日月山水図屏風の前に一時間くらいずっと佇んでいた。会期の初めに行ったからだいぶ空いていて、国宝を独り占めできたのは何とも心持がいいものだ。
東日本大震災を経験した直後であったから、ニュートラルな状態で見ることは難しかったが、そこはまぁ、その時々の状態で美術品は顔を変えるから、まぁ、それはそれで楽しもうというスタンスで見た。大まかに言って、その風景は山の中まで入ってくる津波にしか見えない。
作者は何を表現したかったのだろう?作家のアンチミテに迫るのが藝術学の腕の御見せ所なので、まぁ、腕、見せちゃおっかな。
ひとえに、この作品は宗教画である。人生について述べたものである。アナクロニズム的分析で大いに結構である。古典はアナクロニズムで応えてよい。なぜならそれは永遠であり、かつ現在の音であるからだ。
波は人生の荒波である。あらがうことのできぬ、覚悟を持って受け入れねばならないもの、時の流れの表象である。時間は戻すことができぬ。ただ流れるだけである。逝くものはかくの如きか昼夜を問わず。論語は当時の必読書。作家も読んでいたに違いない。
はたまた、これは波ではないのかもしれない。雲の上のてん淡の世界なのかもしれない。
一つの世界に四季が同時図的に描かれている。右から春夏秋冬とかんたんには巡らない。時計のように円を描く様にしてまた春に戻る。夏の後に冬ではない。環を描いていると思うのが妥当であろう。
また遠近の破たん。夏の新緑の手前の緑の山、緑しょうの深さが際立つ。手前に木はない。奥に行けばいくほど細かく書かかれる。山は神々の象徴、この作品には四つの神々の表情が表わされている。滝も然り。神々が宿るとされるものである。人間と神の変わり変わらぬ姿がそこに描かれている。年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず。松の常緑樹が永遠の螺旋階段を髣髴させる。
祈りたくなるものを描き連ねてみたら、こんな作品ができた。太陽に、月に手を合わせる。そんなふうにして造られた作品なのではなかろうか。
祈りとは小林秀雄の、無常ということの中に出てくる、なま女房が抱いていた感情である。祈りとは自己を見つめることである。自己を見つめた祈りだけが、神に届く。神の不在に耐えることができた者だけが祈るに値する。
これは自己を知る鑑である。人生哲学に満ちた宗教画である。
本日の歳費;計597円 やせ過ぎと逢う人逢う人に言われた為に、とりあえず現状は、一日700円で生きていくことにしました。
2011年4月9日土曜日
スタンド・アローン
ネット環境が復活した。だいたい10日間くらい、オフラインが続いた。学校や公共空間にあるネットを使ってはいたが、自分の部屋にネット環境がないのはやっぱり不便だ。
だが不便ではあるが得るのものもあった。このご時世、自分でオフライン化、スタンドアローン化するのは強固な意志がない限り難しい。一日に一回少なからず何らかの電子機器を使って連絡のやり取りを行っている。もしくはつぶやいている。このご時世にネットから離れることの何とも難しいことか。
だが俺はこの不便を経験してみて便に気付いた。
おもったこと、それは別にツイッターやフェースブックをしなくても基本的になんにも不自由しないことだ。やはり諸連絡などのメールは必須の感があるが、それすらも電話があれば事足りる訳である。いうなれば電話があればあとは何もいらない。
便利は不便。不便は便利。有用の無用。無用の有用。老子・荘子。車はめっちゃ便利だが、道が整備されていないと何も使えない。ほんのちょっと縁石に乗り上げただけで使えなくなる。結果、13000円を払ってレスキューを呼ぶことになることもある。あぁ、あんときはまじでもったいなかった。要らない出費だったなぁ。と経験から語る。ほんのちょっとの不注意、面倒がりが、事故につながる。はぁ、まぁ、人を轢かなかっただけ、もうけものだと自分に言い聞かせた。言い聞かせまくった。
大切なものは、結局、めっちゃ身近にあるんやよね。要らない情報が洪水の津波の中では有用な情報に見えてまうんだよね。自分で舞ってることに気付けないんだよね。てんてこ舞いになってるのは自分ではわからない。同時代のドグマに似ている。後から時が立ってみないと見得ないものなんだ。自分ではリテラシーあるぶってても、やっぱり一度スタンドアローンにならないと見得ないものがあるね。ほんと大切な、本当にいる情報って、必要な情報って、手の届く範囲にあるものなんだね。道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む。論語、だね。
自分の半径3メートルに真理あり。半径0メートルにすべてがある。心臓の中にすべてはある。
ネット環境復活、されど振り回されぬようにしよう。ここに訓告として、戒めとして記す。
だが不便ではあるが得るのものもあった。このご時世、自分でオフライン化、スタンドアローン化するのは強固な意志がない限り難しい。一日に一回少なからず何らかの電子機器を使って連絡のやり取りを行っている。もしくはつぶやいている。このご時世にネットから離れることの何とも難しいことか。
だが俺はこの不便を経験してみて便に気付いた。
おもったこと、それは別にツイッターやフェースブックをしなくても基本的になんにも不自由しないことだ。やはり諸連絡などのメールは必須の感があるが、それすらも電話があれば事足りる訳である。いうなれば電話があればあとは何もいらない。
便利は不便。不便は便利。有用の無用。無用の有用。老子・荘子。車はめっちゃ便利だが、道が整備されていないと何も使えない。ほんのちょっと縁石に乗り上げただけで使えなくなる。結果、13000円を払ってレスキューを呼ぶことになることもある。あぁ、あんときはまじでもったいなかった。要らない出費だったなぁ。と経験から語る。ほんのちょっとの不注意、面倒がりが、事故につながる。はぁ、まぁ、人を轢かなかっただけ、もうけものだと自分に言い聞かせた。言い聞かせまくった。
大切なものは、結局、めっちゃ身近にあるんやよね。要らない情報が洪水の津波の中では有用な情報に見えてまうんだよね。自分で舞ってることに気付けないんだよね。てんてこ舞いになってるのは自分ではわからない。同時代のドグマに似ている。後から時が立ってみないと見得ないものなんだ。自分ではリテラシーあるぶってても、やっぱり一度スタンドアローンにならないと見得ないものがあるね。ほんと大切な、本当にいる情報って、必要な情報って、手の届く範囲にあるものなんだね。道は近きにあり、しかるにこれを遠きに求む。論語、だね。
自分の半径3メートルに真理あり。半径0メートルにすべてがある。心臓の中にすべてはある。
ネット環境復活、されど振り回されぬようにしよう。ここに訓告として、戒めとして記す。
藝大生代表式辞
藝大生代表式辞
諸君、入学おめでとう。
年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからずという言葉の通り、未曽有の震災が来ても、春が来れば上野に桜は咲きます。毎年この時期に諸君のように目を燦々と輝かせた夢に、希望に満ちた溢れた新藝大生がここ上野に咲き乱れます。そして毎年のように30倍の過酷な倍率をくぐり抜けてきた、君たちでさえ、その多くが実はたった一人の天才を磨くための石に過ぎない。と発破をかけられます。ここにいる全員が周りを見渡し、あぁ、こいつらって俺を磨くための石なんだと、全員が毎年のように思います。強い自信、傲慢、実にいい!最高だ。若いっていいねぇ。そんな矜持に満ちた藝大生が藝大をつくってきたし、今もこれからもつくっていくのですね。
秘すれば・花。秘せざれば・花・なるべからず。
花が、桜がなぜ美しいか?みなさん、知っていますか?、、、それはですねぇ、それは散るからなんです。みなさんが今この場で咲き誇れるのも散っていったもの達がいるからです。みなさんはその散っていったもの達を胸に秘め、これから、今まで以上に、より一層の精進を続けていかねばなりません。みなさんは散っていったもの達のことについて言及する必要はありません。ただ胸に秘め、自分だけの自分にしかできない藝術を示せばいいんです。散って本望だったと、みなさんは彼らに引導を渡せばいいんです。
千利休はかつてこうい言いました。野に花のあるが如くに。
天に星、地に花、人に愛、と世界には美しい調和の形があります。みなさんにはこれから大きな使命があります。それは今、この生まれ変わろうとしている日本中のすべての人に想像力を駆使して“もののあるべきかたち”を示すことです。それは星を見せることです。ホタルを見せることです。人に愛を届けることです。藝術という素晴らしい花を使って、人々にこの世の美しさを、感動を伝え、みんなを幸せにしてあげてください。
美に近づくには自分自身を美しくしなければなりません。いつも心に花を咲かせ、そして君の、君たちの花を、少しでも多くの人の心の中に咲かせてあげてください。日本を背負って、これからの日本に、世界に、花を咲かせることこそが君たちの仕事です。
どうぞ、美しい花をこころに咲かせる、美しい藝大生になってください。
入学、おめでとう。
諸君、入学おめでとう。
年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからずという言葉の通り、未曽有の震災が来ても、春が来れば上野に桜は咲きます。毎年この時期に諸君のように目を燦々と輝かせた夢に、希望に満ちた溢れた新藝大生がここ上野に咲き乱れます。そして毎年のように30倍の過酷な倍率をくぐり抜けてきた、君たちでさえ、その多くが実はたった一人の天才を磨くための石に過ぎない。と発破をかけられます。ここにいる全員が周りを見渡し、あぁ、こいつらって俺を磨くための石なんだと、全員が毎年のように思います。強い自信、傲慢、実にいい!最高だ。若いっていいねぇ。そんな矜持に満ちた藝大生が藝大をつくってきたし、今もこれからもつくっていくのですね。
秘すれば・花。秘せざれば・花・なるべからず。
花が、桜がなぜ美しいか?みなさん、知っていますか?、、、それはですねぇ、それは散るからなんです。みなさんが今この場で咲き誇れるのも散っていったもの達がいるからです。みなさんはその散っていったもの達を胸に秘め、これから、今まで以上に、より一層の精進を続けていかねばなりません。みなさんは散っていったもの達のことについて言及する必要はありません。ただ胸に秘め、自分だけの自分にしかできない藝術を示せばいいんです。散って本望だったと、みなさんは彼らに引導を渡せばいいんです。
千利休はかつてこうい言いました。野に花のあるが如くに。
天に星、地に花、人に愛、と世界には美しい調和の形があります。みなさんにはこれから大きな使命があります。それは今、この生まれ変わろうとしている日本中のすべての人に想像力を駆使して“もののあるべきかたち”を示すことです。それは星を見せることです。ホタルを見せることです。人に愛を届けることです。藝術という素晴らしい花を使って、人々にこの世の美しさを、感動を伝え、みんなを幸せにしてあげてください。
美に近づくには自分自身を美しくしなければなりません。いつも心に花を咲かせ、そして君の、君たちの花を、少しでも多くの人の心の中に咲かせてあげてください。日本を背負って、これからの日本に、世界に、花を咲かせることこそが君たちの仕事です。
どうぞ、美しい花をこころに咲かせる、美しい藝大生になってください。
入学、おめでとう。
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