2011年4月11日月曜日

白洲正子展覧会

 はぁ、落ち着いたのでやっと書ける。

 日月山水図屏風の前に一時間くらいずっと佇んでいた。会期の初めに行ったからだいぶ空いていて、国宝を独り占めできたのは何とも心持がいいものだ。

 東日本大震災を経験した直後であったから、ニュートラルな状態で見ることは難しかったが、そこはまぁ、その時々の状態で美術品は顔を変えるから、まぁ、それはそれで楽しもうというスタンスで見た。大まかに言って、その風景は山の中まで入ってくる津波にしか見えない。

 作者は何を表現したかったのだろう?作家のアンチミテに迫るのが藝術学の腕の御見せ所なので、まぁ、腕、見せちゃおっかな。

 ひとえに、この作品は宗教画である。人生について述べたものである。アナクロニズム的分析で大いに結構である。古典はアナクロニズムで応えてよい。なぜならそれは永遠であり、かつ現在の音であるからだ。

 波は人生の荒波である。あらがうことのできぬ、覚悟を持って受け入れねばならないもの、時の流れの表象である。時間は戻すことができぬ。ただ流れるだけである。逝くものはかくの如きか昼夜を問わず。論語は当時の必読書。作家も読んでいたに違いない。

はたまた、これは波ではないのかもしれない。雲の上のてん淡の世界なのかもしれない。

 一つの世界に四季が同時図的に描かれている。右から春夏秋冬とかんたんには巡らない。時計のように円を描く様にしてまた春に戻る。夏の後に冬ではない。環を描いていると思うのが妥当であろう。

 また遠近の破たん。夏の新緑の手前の緑の山、緑しょうの深さが際立つ。手前に木はない。奥に行けばいくほど細かく書かかれる。山は神々の象徴、この作品には四つの神々の表情が表わされている。滝も然り。神々が宿るとされるものである。人間と神の変わり変わらぬ姿がそこに描かれている。年年歳歳花相似たり。歳歳年年人同じからず。松の常緑樹が永遠の螺旋階段を髣髴させる。

 祈りたくなるものを描き連ねてみたら、こんな作品ができた。太陽に、月に手を合わせる。そんなふうにして造られた作品なのではなかろうか。

 祈りとは小林秀雄の、無常ということの中に出てくる、なま女房が抱いていた感情である。祈りとは自己を見つめることである。自己を見つめた祈りだけが、神に届く。神の不在に耐えることができた者だけが祈るに値する。

 これは自己を知る鑑である。人生哲学に満ちた宗教画である。


 本日の歳費;計597円 やせ過ぎと逢う人逢う人に言われた為に、とりあえず現状は、一日700円で生きていくことにしました。

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