毎年この季節になると脳裏をよぎるのは鬱屈としていた浪人時代。
受験に失敗して早一月が経とうとしている。巷は活況。東京に進学した友人たちが都落ちなどと称し、地方に帰ってくる季節。毎年、毎年、この大型連休には大雨を祈るも、俺の願いなど露知らず、毎年決まって天気は快晴!本日天気晴朗れども波高しと、毎年のようにつぶやいていた。
毎年、毎年、この憂鬱な季節をいかに乗り切るかこれが肝心だった。
策などない。ただ、黙ってこの季節が過ぎ行くのを家でテレビを見ながらじっとして舞っているだけ。
毎年毎年、ただ、この季節には歌を詠む。
ともがみな 我より偉く 見ゆる日よ
ジャンプ買い来て 独りたしなむ
啄木の気持ちが痛いほどよくわかる。そんな連休。
またさらに、親は我に浪人すれとて、我を生みしや?と与謝野晶子を思い出しもする。
余はまさに、秋山兄弟も、啄木も晶子も知らぬものの天下である。教養はむしろ、今の日本を生きる者にとっては邪魔なものなのかもしれない。教養は大学受験の邪魔をする。
そんなルサンチマンたっぷりのゴールデンウィークを毎年のように送ってきた。
そんな呪縛から自由になったのが去年から。今年もその呪縛から解き放たれてはいるものの、こんどはまたちがった呪縛が俺を縛る。人間は常に自由になればまた新たな呪縛に身をさらすことになるわけか。ま、人生ってそんなものかね。うん。
最近の考えていること、感じたこと。列挙。
児童の心理、ええ、そうです。そんなものは大人が作った勝手な妄想です。勝手に理屈を付けて説明しているだけです。子どもの心、大人も含めて、人間の心がそんな簡単な方法で説明できるわけがないじゃないですか。人間のこころに科学が迫れるわけがないじゃないですか。なぁ、そうだろ、諸君!
人間のこころは人間のこころだけしか迫ることができないんです。
津波で死んだ人と、あの日西日本のどこかで交通事故で死んだ人とでは、後者の方が“悲しい”気がする。一斉に死ぬことで薄まる悲しみ。一斉に死ぬことで消える顔。個性。2万人死亡が一件、ではなく一人死亡が2万件。
そして、津波で死ぬよりも自殺で死ぬ事の方が圧倒的に多いという、この国の目の当たりの事実。当たり前のことだからもうニュースにすらならない。津波よりも“重くて長引く”日常の死。
当たり前になれば誰も関心を持たなくなる。同化する社会。そんなのは大昔から言われてたこと。大江健三郎が大昔から言ってること。目指すは異化する、異化し続ける、活かし続ける、そんな社会。
あ!わかった!藝術は原発よりも危険でなければならないんだ!
要するに、これからは日が昇ったら起きて、日が沈んだら眠るようにすればいいってことか!…あれ?当たり前のことなんじゃ?ないか?
欲望が欲望を生産する。とドゥルーズは語ったが、コンビニも、テレビ付き最新携帯も、原発も、みんな、みんな欲望の生みだしたもの。我ただ足るを知る、そんな社会の始まりの出来事…にはならない気がするなぁ。
もっともっとがモットーな世間から、
どうぞどうぞがごもっともーな社会へ。
津波のような“出来事”が人と人との手によって行われるのが戦争。自然災害なら許せることも、人為では、この恨みはらさでおぐべきか!となる。
ネットがある限り、民主国家同士の戦争は、まずないっしょ。
と、思っているうちに軍靴の音が背後から。
ま、こんなかんじかな。
2011年5月2日月曜日
2011年4月29日金曜日
思へば遠くへ来たもんだ
中学校から英語を始めて、受験英語に嫌気がさして、手を伸ばしたのは武士道と茶の本。もちろん原書。そしてシェークスピアにどっぷりハマった20代のはじめ、あぁ、思えば遠くへ来たもんだ。
シェークスピアだけではない。アメリカ独立宣言を暗記したり、武士道を暗記したり、聖書の一節を暗唱したり、その他もろもろの英語の名分を暗記した。
というのも動機は至って不純であった。コンプレックス。誰も俺を見てくれない。大学には落ちる。女にはもてない。日本の女は目が悪い。もののわかる女は才能に惚れると言うのに。日本の女はビッチばっかりだ。やっぱ。欧米人の金髪のちゃん姉にはかなわないでしょ!日本人にもててもいみないし。そういった酸っぱいブドウ理論に凝り固まっていたあの懐かしき苦き日々が今もつい昔のように思われる。まぁ、い。それも我が人生だ。とにかく欧米人にもてたかった!あの完璧な朝日に薫る黄金の産毛をぜひぜひみたかった。渡辺一夫がいっていた完全な美の基準がこの世にはあるという話。
欧米において引用は教養の印。どれだけ引用ができるかが勝負の決め手。外交も視野に入れておく。俺が新渡戸や天心や漱石、鴎外にならずして誰がなると言うのだ?
そんなこんなで続けてきた英語。一日海外ドラマを12時間見続けた毎日。コーヒーを飲みまくりながら見たあの名画の数々。英語を学ぶと共に人生も学ばせてもらった。映画から人生は学べる。人生は映画を模倣する。一ノ瀬健太談。
そして俺も遂にここまで来た。思えば遠くへ来たものだ。
今では英語を下手に読む。思えば遠くへ来たもんだ。帰国子女が空気を読んで下手に英語を読むという話を聞いたことがあったが、そんなバカなことがあるか!と思っていたら、
なんと実際に英会話のクラスでわざと下手に英語を話している自分に気付いてびっくり仰天!した!
ついに俺もここまで来たか。
英語続けていてよかった。ほっ(*^_^*)。
それと、俺って、めっちゃ勉強すると頭が痛くなったり、風邪を引いたりするというのが、俺の成長のバロメーター。あぁ、頭痛い。左後頭部。また左脳の能力アップなう!
語学は暗記だよ。これは真理。暗記暗記暗記。
すてい・はんぐりぃ!すてい・ふぅりっしゅ!
2011年4月27日水曜日
暗室
写真実習でカラープリントをした。
暗室に入ると、そこは目を閉じても、閉じなくても変わらない闇の世界。一切が闇。文字通り目を開けようが開けまいが関係のない世界。
少しづつ少しづつ、目が慣れても何も変わらない。白黒のプリントの部屋は“明るい”。それはカラープリントの世界を知る前は、その世界はかなり暗闇だったのに。カラーの世界は白黒よりも暗い闇の世界。
すこし時が経つと、目は見えなくとも、脳が勝手に補正して手が見えてくる。これはもちろん、自分の想像力がもたらした幻影。だがそれがなかなか頼もしい。視覚障碍者の世界の一端に触れた気がしたが、実際の全盲の視覚障碍の人に聞いてみたところ、実際に目に見えるものはいつも薄茶色のクリームの世界が見えると言っていたのを思い出した。
印画紙という特殊な紙、ほんと蛍光塗料の明るさでもダメになってしまう紙をつかってプリントをする。
まてよ、写真の現像とプリントに就いてここで簡単に触れておく。写真の現像とはとり終えたフィルムをシートみたいな状態な感じにする作業のことをいう。プリントとは実際に俺たちが手に取って見る状態のことを指す。
印画紙も何も見えない暗闇の中でやりとりするから手と手が触れ合う。相手の手が冷たかったり、温かったりしてひやっとする。
本当に真っ暗だからちんちんを出してもわからない。事実に今日はちんちんを3回も出したが誰も気づいていなかった。
暗闇は人を大胆にする。
光が見えることのありがたみを肌でリアルに痛感した日だった。
11530円 ICレコーダー、豚骨ラーメン グレープフルーツジュース ホットケーキ
暗室に入ると、そこは目を閉じても、閉じなくても変わらない闇の世界。一切が闇。文字通り目を開けようが開けまいが関係のない世界。
少しづつ少しづつ、目が慣れても何も変わらない。白黒のプリントの部屋は“明るい”。それはカラープリントの世界を知る前は、その世界はかなり暗闇だったのに。カラーの世界は白黒よりも暗い闇の世界。
すこし時が経つと、目は見えなくとも、脳が勝手に補正して手が見えてくる。これはもちろん、自分の想像力がもたらした幻影。だがそれがなかなか頼もしい。視覚障碍者の世界の一端に触れた気がしたが、実際の全盲の視覚障碍の人に聞いてみたところ、実際に目に見えるものはいつも薄茶色のクリームの世界が見えると言っていたのを思い出した。
印画紙という特殊な紙、ほんと蛍光塗料の明るさでもダメになってしまう紙をつかってプリントをする。
まてよ、写真の現像とプリントに就いてここで簡単に触れておく。写真の現像とはとり終えたフィルムをシートみたいな状態な感じにする作業のことをいう。プリントとは実際に俺たちが手に取って見る状態のことを指す。
印画紙も何も見えない暗闇の中でやりとりするから手と手が触れ合う。相手の手が冷たかったり、温かったりしてひやっとする。
本当に真っ暗だからちんちんを出してもわからない。事実に今日はちんちんを3回も出したが誰も気づいていなかった。
暗闇は人を大胆にする。
光が見えることのありがたみを肌でリアルに痛感した日だった。
11530円 ICレコーダー、豚骨ラーメン グレープフルーツジュース ホットケーキ
2011年4月25日月曜日
いたいやつら
始まりは常にイタイ奴等から始まる。
歌を詠んだ明治の人たちは短歌や俳句の会をつくった。
今考えれば事実にいたい奴等の集まりだ。
だが、今日、藝大の絵画棟5階に集まった奴等もまた本当にいたやつらだと思う。
俺も含めてだが。
最近、ガチで自分のやっていることを語ることがかっこ悪いという風潮がある。人いかに生きるべきか?藝術とはなにか?真理とは何か?などについて本気で議論している奴等を俺は周りで見たことがない。そう思っていたのは自分の世界が狭かったからで、実はガチで議論している奴らはごく少数だが生息している。今日はその集まり。
俺を含め6人だけのラウンドテーブル、うち二人は顔みしりを連れて行ったわけで、時間通りに行ったら、俺を含めて4人しかおらず、早くも痛い雰囲気が漂い始めていた。
とりあえず席に就き、世間話をするまでもなく、なぜこの会を開いたのかの説明を聞き、一気に本丸に突入した。
途中から来た人が二人いて、感じてること思ってることを存分に語り合った。地震についてのこと、寛容論、炭鉱のカナリア、藝術の為の藝術はもはや、存在しえない。認識の木の身を食べたのなら。今現在の絵画の最高峰は放射性物質を用いた顔料で児童ポルノを描くということだと話した。油画がさいきんふつうになっていて、もっとばかであるべきだとも語った。
つなみでみんなしんじゃった。びわこでふたりしんじゃった。など表現のエッジについて語り合った。
むやみに優しい社会が今の社会の姿であるということを認識しあった。慮り過ぎて表現ができない。人を傷つけることを極度に恐れる社会。トゥナイトやめちゃイケのしりとり侍が強制終了になる社会。
やっぱり表現は人を傷つける方が面白い。
守破離、歴史は学ぶべき?学ばないべき?模倣の果てには真の理解がある。美は経験。毎日美に触れ続けることが大事。油画がつまんないは大間違いであった。しっかりと面白い奴がいる。
今の美の、藝術の基準は誰が決める?とりあえずはニューヨークの金持ちギャラリストが目下の権威である。金が今の権威である。金が権威はいつの世も同じであるなぁ。
などなど、今の最高の藝術は井上雄彦である。かれはドカベンから学んだ。学んでない人間はいないのかも、チンパンジーの画、象の画、藝術の軸について熱く語り合った。
実に面白かった。今日来たやつらが明日の藝術界を担っていくのだなと思った。
あそこにいた者たちが、俺たちが、俺が世界を背負っていくのだ。
外野は黙ってな!耳ある者は聴け!でなくば去れ!
これから定期的に開いていくらしいので、新婚さ~ん、いらっしゃ~い!
今日の歳費;3342円 うち本代2035円也 新歓1000円 ちゃ、ぽかり
歌を詠んだ明治の人たちは短歌や俳句の会をつくった。
今考えれば事実にいたい奴等の集まりだ。
だが、今日、藝大の絵画棟5階に集まった奴等もまた本当にいたやつらだと思う。
俺も含めてだが。
最近、ガチで自分のやっていることを語ることがかっこ悪いという風潮がある。人いかに生きるべきか?藝術とはなにか?真理とは何か?などについて本気で議論している奴等を俺は周りで見たことがない。そう思っていたのは自分の世界が狭かったからで、実はガチで議論している奴らはごく少数だが生息している。今日はその集まり。
俺を含め6人だけのラウンドテーブル、うち二人は顔みしりを連れて行ったわけで、時間通りに行ったら、俺を含めて4人しかおらず、早くも痛い雰囲気が漂い始めていた。
とりあえず席に就き、世間話をするまでもなく、なぜこの会を開いたのかの説明を聞き、一気に本丸に突入した。
途中から来た人が二人いて、感じてること思ってることを存分に語り合った。地震についてのこと、寛容論、炭鉱のカナリア、藝術の為の藝術はもはや、存在しえない。認識の木の身を食べたのなら。今現在の絵画の最高峰は放射性物質を用いた顔料で児童ポルノを描くということだと話した。油画がさいきんふつうになっていて、もっとばかであるべきだとも語った。
つなみでみんなしんじゃった。びわこでふたりしんじゃった。など表現のエッジについて語り合った。
むやみに優しい社会が今の社会の姿であるということを認識しあった。慮り過ぎて表現ができない。人を傷つけることを極度に恐れる社会。トゥナイトやめちゃイケのしりとり侍が強制終了になる社会。
やっぱり表現は人を傷つける方が面白い。
守破離、歴史は学ぶべき?学ばないべき?模倣の果てには真の理解がある。美は経験。毎日美に触れ続けることが大事。油画がつまんないは大間違いであった。しっかりと面白い奴がいる。
今の美の、藝術の基準は誰が決める?とりあえずはニューヨークの金持ちギャラリストが目下の権威である。金が今の権威である。金が権威はいつの世も同じであるなぁ。
などなど、今の最高の藝術は井上雄彦である。かれはドカベンから学んだ。学んでない人間はいないのかも、チンパンジーの画、象の画、藝術の軸について熱く語り合った。
実に面白かった。今日来たやつらが明日の藝術界を担っていくのだなと思った。
あそこにいた者たちが、俺たちが、俺が世界を背負っていくのだ。
外野は黙ってな!耳ある者は聴け!でなくば去れ!
これから定期的に開いていくらしいので、新婚さ~ん、いらっしゃ~い!
今日の歳費;3342円 うち本代2035円也 新歓1000円 ちゃ、ぽかり
2011年4月24日日曜日
人をうらやましがることについて
人をうらやましがることがあるか?
うん。めっちゃ、ある。あるというか、もう、毎日うらやましがってばかり。
もっとかっこよく生まれてたら、ジョニー・デップになってたら、もっとお金持ちの家に生まれてたら、ビルゲイツがお父さんだったら、もっと才能があったら、レオナルドのような才能があったら…。
人をうらやましがるのはある意味で本能だ。共感する力と同義なものなのかもしれない。その人が感じているものを、その人を見ることによって、自分も体験する。例えばこんな感じ。きれいなおねぇさんを連れて、うまいものを食べてる野郎なんかみると、もうほんと腹の中で紅蓮の妬みのマグマが煮え立つよ。そしてこう思う。なぜ俺じゃないんだ?
妬み、嫉み。僻みがこの世を構成する、と我が師匠美輪明宏がおっしゃっていたが、まさしくその通りだ。とくにビジネスや、恋愛などの場において、リアルな利害が絡む場においては、その“真理”がよく顔を出す。いやぁ、実に人間って“穢い”ものなんだよねぇ。
だがそれは、裏をかえせば“生きるエネルギー”の裏返し。おいしいものを食べた時の無常の喜び。好きな人と一緒にいる時の胸の高鳴りと感動、しあわせ~。。。ぽわわわ~ん。。。などなど。それ自体としてはどれも素晴らしいものもの。ただそれが奪い合いになった時に、足るを知るの均衡が破れた時に、それが穢いものになる。
嫉妬をするのはよくない。と一般的に言われているが、俺はおおいにしてもいいと思う。
ただ、うらやましがることにもルールがある。
うらやましがるのは、それだけではネガティブなものにも思われがちかもしれないが、裏を返せばそれは、それだけ向上心が強いことの裏返しともとれる。美意識が高いのかもしれない。自分のあるべきかたちを求めてる結果がそういった形で心の中に表れるわけだ。こんなのはわたしじゃない。あぁ、あの人がうらやましい。どうせ私なんて…といった負のスパイラルになる羨望は決して建設的でない。これは悪いうらやましがりのパターン。
うらやましがるということと、憧れるということは紙一重である。人によっては同じ意味でこれらの言葉を使っているかもしれないが、俺自身としてはやっぱり、憧れるという言葉には羨ましがるという言葉よりもポジティブな印象が入る。人をうらやましがるのではなく、憧れればいのだ。いうなれば憧れることはいいうらやましがりのパターンなのだ。
おおいにうらやましがるべきだ。
ただ大事なのはその後で、なんの努力もしていないのに、大きな成果を求めるのはやっぱり違う。羨ましいなと思わせる人間はその裏で、血の滲むような努力をしているケースがほとんどである。よくよく聞いてみれば、幼いころに両親をなくしていたり、例を挙げるなら、トランペット奏者では一日何時間も練習して、口から血が出ても吹き続けたりしたり、売れっ子マンガ家は、もうほんとうにボロボロになるまでも筆をとり続けたりしている。楽して成功パターンなどこの世にはない。この世には正負の法則なるものがある。これも美輪さんの受け売りの法則であるが、簡単にいえば、ノーリスク・ノーリターン。ハイリスク・ハイリターンということ。
話が広がり過ぎる~~~。うわ~~~ん(+o+)
話を戻す。つまり、簡単にまとめると、人をうらやましがることは、その人の努力などの後ろにある目に見えないもの、その人が背負ってるものにも、目を向けて、その人の努力までも背負ってやろうとする覚悟を持った者だけが、その人を羨ましがられるということである。
そして、そういったうらやましがりができたときには、あら不思議、それは憧れるということになっている。
何の脈絡もなく、ただその人を妬むうらやましがりは、想像力がないねぇ。その人を貶めることは自分も貶めることになる。その人の努力を含めた、目に見えないところまでを想像したうらやましがりは実に素晴らしい、憧れといったものになる。
まとめ;自分に甘えた妬み、嫉み、僻みがうらやましがることであり、自分に厳しく、自分を磨き続けることを誓った妬み、嫉み、僻みを憧れること、というのである。
憧れることへのワンポイントアドバイス;自分の宿命は受け入れること。自分の来歴に敬意を持つこと。宿命とは、変えられないこと、もの。親だったり、性別だったり、国や、環境だったり。運命は変えられる。自分の宿命を受け入れて、そこから、さぁ、どうするか、ということが運命である。
だから俺は、毎日色んな人をうらやましがってる。その人の目に見えないところを想像しながら。
自分が五体満足であることに、日本に生まれたことに、この顔に生まれた事に、男に生まれたことに、今まで健康で生きられていることに、この才能に、色んな様々なことに感謝しながら。
計564円也 (納豆、ねぎ、たこやき、肉団子、)
うん。めっちゃ、ある。あるというか、もう、毎日うらやましがってばかり。
もっとかっこよく生まれてたら、ジョニー・デップになってたら、もっとお金持ちの家に生まれてたら、ビルゲイツがお父さんだったら、もっと才能があったら、レオナルドのような才能があったら…。
人をうらやましがるのはある意味で本能だ。共感する力と同義なものなのかもしれない。その人が感じているものを、その人を見ることによって、自分も体験する。例えばこんな感じ。きれいなおねぇさんを連れて、うまいものを食べてる野郎なんかみると、もうほんと腹の中で紅蓮の妬みのマグマが煮え立つよ。そしてこう思う。なぜ俺じゃないんだ?
妬み、嫉み。僻みがこの世を構成する、と我が師匠美輪明宏がおっしゃっていたが、まさしくその通りだ。とくにビジネスや、恋愛などの場において、リアルな利害が絡む場においては、その“真理”がよく顔を出す。いやぁ、実に人間って“穢い”ものなんだよねぇ。
だがそれは、裏をかえせば“生きるエネルギー”の裏返し。おいしいものを食べた時の無常の喜び。好きな人と一緒にいる時の胸の高鳴りと感動、しあわせ~。。。ぽわわわ~ん。。。などなど。それ自体としてはどれも素晴らしいものもの。ただそれが奪い合いになった時に、足るを知るの均衡が破れた時に、それが穢いものになる。
嫉妬をするのはよくない。と一般的に言われているが、俺はおおいにしてもいいと思う。
ただ、うらやましがることにもルールがある。
うらやましがるのは、それだけではネガティブなものにも思われがちかもしれないが、裏を返せばそれは、それだけ向上心が強いことの裏返しともとれる。美意識が高いのかもしれない。自分のあるべきかたちを求めてる結果がそういった形で心の中に表れるわけだ。こんなのはわたしじゃない。あぁ、あの人がうらやましい。どうせ私なんて…といった負のスパイラルになる羨望は決して建設的でない。これは悪いうらやましがりのパターン。
うらやましがるということと、憧れるということは紙一重である。人によっては同じ意味でこれらの言葉を使っているかもしれないが、俺自身としてはやっぱり、憧れるという言葉には羨ましがるという言葉よりもポジティブな印象が入る。人をうらやましがるのではなく、憧れればいのだ。いうなれば憧れることはいいうらやましがりのパターンなのだ。
おおいにうらやましがるべきだ。
ただ大事なのはその後で、なんの努力もしていないのに、大きな成果を求めるのはやっぱり違う。羨ましいなと思わせる人間はその裏で、血の滲むような努力をしているケースがほとんどである。よくよく聞いてみれば、幼いころに両親をなくしていたり、例を挙げるなら、トランペット奏者では一日何時間も練習して、口から血が出ても吹き続けたりしたり、売れっ子マンガ家は、もうほんとうにボロボロになるまでも筆をとり続けたりしている。楽して成功パターンなどこの世にはない。この世には正負の法則なるものがある。これも美輪さんの受け売りの法則であるが、簡単にいえば、ノーリスク・ノーリターン。ハイリスク・ハイリターンということ。
話が広がり過ぎる~~~。うわ~~~ん(+o+)
話を戻す。つまり、簡単にまとめると、人をうらやましがることは、その人の努力などの後ろにある目に見えないもの、その人が背負ってるものにも、目を向けて、その人の努力までも背負ってやろうとする覚悟を持った者だけが、その人を羨ましがられるということである。
そして、そういったうらやましがりができたときには、あら不思議、それは憧れるということになっている。
何の脈絡もなく、ただその人を妬むうらやましがりは、想像力がないねぇ。その人を貶めることは自分も貶めることになる。その人の努力を含めた、目に見えないところまでを想像したうらやましがりは実に素晴らしい、憧れといったものになる。
まとめ;自分に甘えた妬み、嫉み、僻みがうらやましがることであり、自分に厳しく、自分を磨き続けることを誓った妬み、嫉み、僻みを憧れること、というのである。
憧れることへのワンポイントアドバイス;自分の宿命は受け入れること。自分の来歴に敬意を持つこと。宿命とは、変えられないこと、もの。親だったり、性別だったり、国や、環境だったり。運命は変えられる。自分の宿命を受け入れて、そこから、さぁ、どうするか、ということが運命である。
だから俺は、毎日色んな人をうらやましがってる。その人の目に見えないところを想像しながら。
自分が五体満足であることに、日本に生まれたことに、この顔に生まれた事に、男に生まれたことに、今まで健康で生きられていることに、この才能に、色んな様々なことに感謝しながら。
計564円也 (納豆、ねぎ、たこやき、肉団子、)
2011年4月23日土曜日
if
もし私が勇気ある藝術科だったなら、津波の被災地に現地入りして、津波で死んだ人の顔のどアップ写真を2000人以上撮って、それを以て各地を回って、津波のように迫力ある展示をしたのに。
もし私が勇気ある藝術家だったなら、20㌔圏の検問を突破して、カーチェイスして、そんでもってヘリとかにも空から追われたら、ふんどし一丁で“どうして自分の故郷に帰ることが罪になるんだろう?”という大きな垂れ幕をもって社会や世間に訴えるのに。
はぁ、勇気ねえなぁ、俺。
ツイッターでつぶやく前に、ここに書いてからつぶやくようにしよう。そうすれば自分のつぶやいた内容が見やすくなる。
自分の表現をとりあえず目に見える形にする!約束だ!自分!一日10ページの打ち込み作業。早起きしてやるぞ!それしかない!今の俺にできることは。
そうか気付いたぞ!被災地にできることなんとかって、結局自分が善く生きることに尽きるじゃないか。朝早起きしたいのにできない人は、早起きをすることが被災地の人のためになる。いってる意味わかんないかな?わからなければ説明するけれども、説明するのも野暮なもんだ。とりあえず自分で考えてくれ。自分の表現が、それが救いになるのであるならば、いちはやく完成させろってことだよ!きみが怠ければ怠けるだけ、救いが遠のくのだから。
そうだ!よっしゃ!自分の表現をまずは完成だ!
ICレコーダー買うべし!なう!
もし私が勇気ある藝術家だったなら、20㌔圏の検問を突破して、カーチェイスして、そんでもってヘリとかにも空から追われたら、ふんどし一丁で“どうして自分の故郷に帰ることが罪になるんだろう?”という大きな垂れ幕をもって社会や世間に訴えるのに。
はぁ、勇気ねえなぁ、俺。
ツイッターでつぶやく前に、ここに書いてからつぶやくようにしよう。そうすれば自分のつぶやいた内容が見やすくなる。
自分の表現をとりあえず目に見える形にする!約束だ!自分!一日10ページの打ち込み作業。早起きしてやるぞ!それしかない!今の俺にできることは。
そうか気付いたぞ!被災地にできることなんとかって、結局自分が善く生きることに尽きるじゃないか。朝早起きしたいのにできない人は、早起きをすることが被災地の人のためになる。いってる意味わかんないかな?わからなければ説明するけれども、説明するのも野暮なもんだ。とりあえず自分で考えてくれ。自分の表現が、それが救いになるのであるならば、いちはやく完成させろってことだよ!きみが怠ければ怠けるだけ、救いが遠のくのだから。
そうだ!よっしゃ!自分の表現をまずは完成だ!
ICレコーダー買うべし!なう!
2011年4月21日木曜日
届く言葉
昨日の油画創作の授業で行った“教授批判”パフォーマンスをやって、はぁ、またやってしまった。
と落ち込んでいたら、油画の友人から、スカッとしたよ。と言われて、めっちゃうれしかった。最近の藝大生は、俺も含めてだが、なんか攻めてない感がある。いつから藝大生はリアギャルドになったんだろうか。俺が周りを知らないだけってのもあるかもしれないがもっと教授と闘ってもいいと思う。いや、闘うべきだろ。互いのエステティクスの本気のぶつかり合いがあるべきだ。ぶつかりあったまま調和する、まさしく太郎の言うところの対極主義である。ぶつけあう方が当然のはずだ。まさしく藝術の、表現のエッジを追求する大学なんだから。自分の美学を闘わせない学生は藝大で学ぶ資格はないねぇ。えぇ、そうだろ?派手に喧嘩しようじゃないか。教授と、同志と、そして自分自身と。
自分のしたことは一部の油画の人だけにとっての、すっきりだと思ってはいたが、今日、まったくちがった方面の油画の人、あんまりしゃべったことはないが、面識はあった人からも、よかった、すっきりした。と言われた。油画のみんなに嫌われたかなと思っていたから、うれしかった。ひとりでもわかってくれる人がいれば、それで十分なんじゃないか、それだけで、やる甲斐は十分あるということを強く認識できた。
まとめ;岡本太郎的な“なんだこれは!?”と思わせるような、藝術とは到底言えないような藝術作品を造ることを目標にしない人がいる。そしてそれはいてもいい。いや、むしろいなきゃいけないのかもしれない。多様性を護るためにも。そういったものを造れ!と、それは強制されるべきものではない。そうだ。公共の福祉に反しない限りにおいてそれは憲法で保障される。個人の幸福追求権は絶対的に守られるべきものだ。
そして、そこからさらに議論を一歩進めてみよう。
“何だこれは!?”を表現することを目標にしていない人も造り続ける。なぜか?
それは、尽きつめれば、なぜ人は造り続けるのだろうか?という命題に突き当たる。人類有史以来解決されない難問。それはなぜ表現するのか、のにも繋がる命題。もうレオナルドがあるのに、ミケランジェロがあるのに、どうして造るのか。そして、また、どうして新しいものを造り続けようとするのだろうか?
それは、きっと、新しいものが見て見たいからだ。というのが一つの答えであろう。
昨日、坂口先生ご自身がそうおっしゃっていたように。
つまり先生自身も新しいものが見たいとはっきり言っていたのだ。俺に“藝”がなかったのも悪かった。あの短時間で自分の考えていることを正確に伝える藝を俺は持っていなかった。それは認めざるを得ない。だから坂口先生と俺の間で、言葉の定義が若干ずれていた。“なんだこれは!?”を先生は新しさ、ではなく、強烈な違和感をもたらすもの、かもしくは、それに準ずる感動と解釈されたに違いない。だからこそ、先生は僕は“なんだこれは!?”を目指してはいないとおっしゃったのだろう。実際には先生自身も新しさは目指している。そうおっしゃっていた。
話を元に戻す。藝術作品は造ってみた時に、初めて藝術の女神が微笑む。それは造ってみなければわからない。微笑むと思って造ってみたら、怒り顔だったり、怒り顔だと思って造ってみたら微笑んでいたりと、いろんな顔を見せてくれる。そこが面白いから造るのであろう。造ってみなければわからないから、造り続けるのであろう。人間に好奇心がある限り、新しいもの見たさから逃れることはできない。表現するということは、伝えたい気持ち、コミュニケーションしたい気持ちの高ぶりから始まる。自分の感じた“なんだこれは!?”を誰かに伝えたい。他人にも、自分自身にも。全宇宙への咆哮は誰にも止められない。それが表現するということだ。理由などなくても、ただ描きたい。呟きたい。彫りたい。そんな時が突然ガっと!くる時がある。みんなあることだろうが。
ここで一度メタレベルにものを考えて見る。
切り口は藝大について。藝大の存在意義はなんであろうか?それは今まで造られたもの、既存の藝術的なものの焼きまわしを造るための機関なのであろうか?確かに保存科学、文化財保護等、人類の遺産を後世に語り継ぐ偉大な仕事をになっている側面もある。とりわけ、それが藝術学科の主な仕事であろう。セクショナリズムには反対だが、今はわかりやすいように敢えて科分けして論じる。藝大には他の側面もある。油画や日本画、彫刻、デザイン、建築そして先端の存在意義はなんであろうか?失われゆく古典を語り継ぐことであろうか?いや、そうは思えない。それも大事なことではあるが、それ以上に、それはやっぱりどう考えても、伝統を学び、その先にある創造の精神に重きが置かれるはずだ。天心はそこを目指した。世界の大人物と対等に渡り合える藝術の日本代表を生み出すことこそが本学の存在意義である。世界で渡りあう藝術家とはつまり、やっぱりぶっ飛んだ新しいものを造る藝術家のことであろう。もちろん人格者である必要も出てくる。全人間的に素晴らしい人間、そこを目指して行こうぜ!諸君!一緒に!という感じであろう!
であるから、やっぱり、新しいものを目指さなければならないのだ。新しいものとは“なんだこれは!?”と遍く多くの人々に痛烈に、強烈に嫌ったらしくて不快な真実を突き付けるような、従来のパラダイムを一変させるような、そんな価値観の倒錯を誘発させるような藝術作品のことだ。それを造らねばならないのだ。本学に籍を置く者は。新しいもの、つまりは“何だこれは!?”を追求することこそが本学の義務なのである。
付け足しておくが、そんな“古い”ものからも時に新しいものが生まれたりもするから、何とも言えないのが藝術のこわさだ。藝術の懐はあまりにも深い。深すぎる。ディープブルー。先が読めない。博打と何も変わらない。だからこそ“何だこれは!?”が生まれるのかもしれない。ただこちら側から新たなものが生まれる可能性は極めて低い。
そして“何だこれは!?”が生まれる為には“何だこれは!?”じゃないものがなければならないのはいうまでもない。そしてそれを、その“古い”ものの役目を担うのが旧世代の、歴史を造ってきた者たち、いうなれば教授たちなのだ。彼らの屍を俺たちが超えていかねばならない。彼らを殺すことこそが俺たちの役目だ。
教授は壁になれ。壁が高ければ高いほど、より“新しいもの”が生まれいずる。
坂口先生の作品について;車に苔が生えているのなんかは面白いと思った。ランドスケープアートはちょっとだけなんだこれは!?とも思った。映像作品は問題外でまったくもって面白くなかった。全体として面白くなかったのは先生の講義の藝がなかったからかもしれない。その点は先生に責任があろう。面白くないという言葉が悪ければ伝わってこない、か、アートワールドと何のかかわりもない田舎のおばあちゃんにも届くアートではなかったのは間違いないってことは確か。そして自分にとっても。お互いに怠惰に理解されることを望むよりも、理解することを望みあった方が創造的なんだな。うん、そうだ。
もっとも彼らを殺し、乗り越えていくのが俺たちの仕事なので、敢えて否定しなければならないという時もある。敢えてではあるが。もし本当になんだこれは!?と思った時には正直にすごいと言う。たとえ悔しくて、言わなくても、すごいと思ってる時にはたぶん、俺は黙ってると思う。だって自分に嘘は付けないし、口に出せば嘘になるから。
とりあえず、油画のみんな!守破離やっとけ!レオナルド描けるかい?ブーグロー描けるかい?レオナルドの模写が完璧にできる人間だけが次のレオナルドになれるんだぜ!レオナルドのミクロ描写法を学べ!自分の血肉にしろ!そしてその技法を使って、なんか、なんでもいい、もうめっちゃ変な構図で人物画描いてみろ。レオナルドでなくてもいい。自分の感性にぐっ!とくるものから学べ!自然から学べ!
創造とは模倣だよ。模倣の果てにはいつだって真の理解が待っている。そして模倣は掛け算。レオナルド×ピカソができたら、もう誰もが認めざるを得ないだろ。誰もが“なんだこれは!?”って思わざるを得ないよ。うん。
まとめのまとめ;わかりやすく言うならば、“なんだこれは!?”とは“新しいものがもたらす感動”のことである。
そして、結局、努力!努力!努力!だね。
本日の歳費;6450円 教科書でかかったな。
と落ち込んでいたら、油画の友人から、スカッとしたよ。と言われて、めっちゃうれしかった。最近の藝大生は、俺も含めてだが、なんか攻めてない感がある。いつから藝大生はリアギャルドになったんだろうか。俺が周りを知らないだけってのもあるかもしれないがもっと教授と闘ってもいいと思う。いや、闘うべきだろ。互いのエステティクスの本気のぶつかり合いがあるべきだ。ぶつかりあったまま調和する、まさしく太郎の言うところの対極主義である。ぶつけあう方が当然のはずだ。まさしく藝術の、表現のエッジを追求する大学なんだから。自分の美学を闘わせない学生は藝大で学ぶ資格はないねぇ。えぇ、そうだろ?派手に喧嘩しようじゃないか。教授と、同志と、そして自分自身と。
自分のしたことは一部の油画の人だけにとっての、すっきりだと思ってはいたが、今日、まったくちがった方面の油画の人、あんまりしゃべったことはないが、面識はあった人からも、よかった、すっきりした。と言われた。油画のみんなに嫌われたかなと思っていたから、うれしかった。ひとりでもわかってくれる人がいれば、それで十分なんじゃないか、それだけで、やる甲斐は十分あるということを強く認識できた。
まとめ;岡本太郎的な“なんだこれは!?”と思わせるような、藝術とは到底言えないような藝術作品を造ることを目標にしない人がいる。そしてそれはいてもいい。いや、むしろいなきゃいけないのかもしれない。多様性を護るためにも。そういったものを造れ!と、それは強制されるべきものではない。そうだ。公共の福祉に反しない限りにおいてそれは憲法で保障される。個人の幸福追求権は絶対的に守られるべきものだ。
そして、そこからさらに議論を一歩進めてみよう。
“何だこれは!?”を表現することを目標にしていない人も造り続ける。なぜか?
それは、尽きつめれば、なぜ人は造り続けるのだろうか?という命題に突き当たる。人類有史以来解決されない難問。それはなぜ表現するのか、のにも繋がる命題。もうレオナルドがあるのに、ミケランジェロがあるのに、どうして造るのか。そして、また、どうして新しいものを造り続けようとするのだろうか?
それは、きっと、新しいものが見て見たいからだ。というのが一つの答えであろう。
昨日、坂口先生ご自身がそうおっしゃっていたように。
つまり先生自身も新しいものが見たいとはっきり言っていたのだ。俺に“藝”がなかったのも悪かった。あの短時間で自分の考えていることを正確に伝える藝を俺は持っていなかった。それは認めざるを得ない。だから坂口先生と俺の間で、言葉の定義が若干ずれていた。“なんだこれは!?”を先生は新しさ、ではなく、強烈な違和感をもたらすもの、かもしくは、それに準ずる感動と解釈されたに違いない。だからこそ、先生は僕は“なんだこれは!?”を目指してはいないとおっしゃったのだろう。実際には先生自身も新しさは目指している。そうおっしゃっていた。
話を元に戻す。藝術作品は造ってみた時に、初めて藝術の女神が微笑む。それは造ってみなければわからない。微笑むと思って造ってみたら、怒り顔だったり、怒り顔だと思って造ってみたら微笑んでいたりと、いろんな顔を見せてくれる。そこが面白いから造るのであろう。造ってみなければわからないから、造り続けるのであろう。人間に好奇心がある限り、新しいもの見たさから逃れることはできない。表現するということは、伝えたい気持ち、コミュニケーションしたい気持ちの高ぶりから始まる。自分の感じた“なんだこれは!?”を誰かに伝えたい。他人にも、自分自身にも。全宇宙への咆哮は誰にも止められない。それが表現するということだ。理由などなくても、ただ描きたい。呟きたい。彫りたい。そんな時が突然ガっと!くる時がある。みんなあることだろうが。
ここで一度メタレベルにものを考えて見る。
切り口は藝大について。藝大の存在意義はなんであろうか?それは今まで造られたもの、既存の藝術的なものの焼きまわしを造るための機関なのであろうか?確かに保存科学、文化財保護等、人類の遺産を後世に語り継ぐ偉大な仕事をになっている側面もある。とりわけ、それが藝術学科の主な仕事であろう。セクショナリズムには反対だが、今はわかりやすいように敢えて科分けして論じる。藝大には他の側面もある。油画や日本画、彫刻、デザイン、建築そして先端の存在意義はなんであろうか?失われゆく古典を語り継ぐことであろうか?いや、そうは思えない。それも大事なことではあるが、それ以上に、それはやっぱりどう考えても、伝統を学び、その先にある創造の精神に重きが置かれるはずだ。天心はそこを目指した。世界の大人物と対等に渡り合える藝術の日本代表を生み出すことこそが本学の存在意義である。世界で渡りあう藝術家とはつまり、やっぱりぶっ飛んだ新しいものを造る藝術家のことであろう。もちろん人格者である必要も出てくる。全人間的に素晴らしい人間、そこを目指して行こうぜ!諸君!一緒に!という感じであろう!
であるから、やっぱり、新しいものを目指さなければならないのだ。新しいものとは“なんだこれは!?”と遍く多くの人々に痛烈に、強烈に嫌ったらしくて不快な真実を突き付けるような、従来のパラダイムを一変させるような、そんな価値観の倒錯を誘発させるような藝術作品のことだ。それを造らねばならないのだ。本学に籍を置く者は。新しいもの、つまりは“何だこれは!?”を追求することこそが本学の義務なのである。
付け足しておくが、そんな“古い”ものからも時に新しいものが生まれたりもするから、何とも言えないのが藝術のこわさだ。藝術の懐はあまりにも深い。深すぎる。ディープブルー。先が読めない。博打と何も変わらない。だからこそ“何だこれは!?”が生まれるのかもしれない。ただこちら側から新たなものが生まれる可能性は極めて低い。
そして“何だこれは!?”が生まれる為には“何だこれは!?”じゃないものがなければならないのはいうまでもない。そしてそれを、その“古い”ものの役目を担うのが旧世代の、歴史を造ってきた者たち、いうなれば教授たちなのだ。彼らの屍を俺たちが超えていかねばならない。彼らを殺すことこそが俺たちの役目だ。
教授は壁になれ。壁が高ければ高いほど、より“新しいもの”が生まれいずる。
坂口先生の作品について;車に苔が生えているのなんかは面白いと思った。ランドスケープアートはちょっとだけなんだこれは!?とも思った。映像作品は問題外でまったくもって面白くなかった。全体として面白くなかったのは先生の講義の藝がなかったからかもしれない。その点は先生に責任があろう。面白くないという言葉が悪ければ伝わってこない、か、アートワールドと何のかかわりもない田舎のおばあちゃんにも届くアートではなかったのは間違いないってことは確か。そして自分にとっても。お互いに怠惰に理解されることを望むよりも、理解することを望みあった方が創造的なんだな。うん、そうだ。
もっとも彼らを殺し、乗り越えていくのが俺たちの仕事なので、敢えて否定しなければならないという時もある。敢えてではあるが。もし本当になんだこれは!?と思った時には正直にすごいと言う。たとえ悔しくて、言わなくても、すごいと思ってる時にはたぶん、俺は黙ってると思う。だって自分に嘘は付けないし、口に出せば嘘になるから。
とりあえず、油画のみんな!守破離やっとけ!レオナルド描けるかい?ブーグロー描けるかい?レオナルドの模写が完璧にできる人間だけが次のレオナルドになれるんだぜ!レオナルドのミクロ描写法を学べ!自分の血肉にしろ!そしてその技法を使って、なんか、なんでもいい、もうめっちゃ変な構図で人物画描いてみろ。レオナルドでなくてもいい。自分の感性にぐっ!とくるものから学べ!自然から学べ!
創造とは模倣だよ。模倣の果てにはいつだって真の理解が待っている。そして模倣は掛け算。レオナルド×ピカソができたら、もう誰もが認めざるを得ないだろ。誰もが“なんだこれは!?”って思わざるを得ないよ。うん。
まとめのまとめ;わかりやすく言うならば、“なんだこれは!?”とは“新しいものがもたらす感動”のことである。
そして、結局、努力!努力!努力!だね。
本日の歳費;6450円 教科書でかかったな。
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