毎年この季節になると脳裏をよぎるのは鬱屈としていた浪人時代。
受験に失敗して早一月が経とうとしている。巷は活況。東京に進学した友人たちが都落ちなどと称し、地方に帰ってくる季節。毎年、毎年、この大型連休には大雨を祈るも、俺の願いなど露知らず、毎年決まって天気は快晴!本日天気晴朗れども波高しと、毎年のようにつぶやいていた。
毎年、毎年、この憂鬱な季節をいかに乗り切るかこれが肝心だった。
策などない。ただ、黙ってこの季節が過ぎ行くのを家でテレビを見ながらじっとして舞っているだけ。
毎年毎年、ただ、この季節には歌を詠む。
ともがみな 我より偉く 見ゆる日よ
ジャンプ買い来て 独りたしなむ
啄木の気持ちが痛いほどよくわかる。そんな連休。
またさらに、親は我に浪人すれとて、我を生みしや?と与謝野晶子を思い出しもする。
余はまさに、秋山兄弟も、啄木も晶子も知らぬものの天下である。教養はむしろ、今の日本を生きる者にとっては邪魔なものなのかもしれない。教養は大学受験の邪魔をする。
そんなルサンチマンたっぷりのゴールデンウィークを毎年のように送ってきた。
そんな呪縛から自由になったのが去年から。今年もその呪縛から解き放たれてはいるものの、こんどはまたちがった呪縛が俺を縛る。人間は常に自由になればまた新たな呪縛に身をさらすことになるわけか。ま、人生ってそんなものかね。うん。
最近の考えていること、感じたこと。列挙。
児童の心理、ええ、そうです。そんなものは大人が作った勝手な妄想です。勝手に理屈を付けて説明しているだけです。子どもの心、大人も含めて、人間の心がそんな簡単な方法で説明できるわけがないじゃないですか。人間のこころに科学が迫れるわけがないじゃないですか。なぁ、そうだろ、諸君!
人間のこころは人間のこころだけしか迫ることができないんです。
津波で死んだ人と、あの日西日本のどこかで交通事故で死んだ人とでは、後者の方が“悲しい”気がする。一斉に死ぬことで薄まる悲しみ。一斉に死ぬことで消える顔。個性。2万人死亡が一件、ではなく一人死亡が2万件。
そして、津波で死ぬよりも自殺で死ぬ事の方が圧倒的に多いという、この国の目の当たりの事実。当たり前のことだからもうニュースにすらならない。津波よりも“重くて長引く”日常の死。
当たり前になれば誰も関心を持たなくなる。同化する社会。そんなのは大昔から言われてたこと。大江健三郎が大昔から言ってること。目指すは異化する、異化し続ける、活かし続ける、そんな社会。
あ!わかった!藝術は原発よりも危険でなければならないんだ!
要するに、これからは日が昇ったら起きて、日が沈んだら眠るようにすればいいってことか!…あれ?当たり前のことなんじゃ?ないか?
欲望が欲望を生産する。とドゥルーズは語ったが、コンビニも、テレビ付き最新携帯も、原発も、みんな、みんな欲望の生みだしたもの。我ただ足るを知る、そんな社会の始まりの出来事…にはならない気がするなぁ。
もっともっとがモットーな世間から、
どうぞどうぞがごもっともーな社会へ。
津波のような“出来事”が人と人との手によって行われるのが戦争。自然災害なら許せることも、人為では、この恨みはらさでおぐべきか!となる。
ネットがある限り、民主国家同士の戦争は、まずないっしょ。
と、思っているうちに軍靴の音が背後から。
ま、こんなかんじかな。
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