2011年4月21日木曜日

届く言葉

 昨日の油画創作の授業で行った“教授批判”パフォーマンスをやって、はぁ、またやってしまった。

 と落ち込んでいたら、油画の友人から、スカッとしたよ。と言われて、めっちゃうれしかった。最近の藝大生は、俺も含めてだが、なんか攻めてない感がある。いつから藝大生はリアギャルドになったんだろうか。俺が周りを知らないだけってのもあるかもしれないがもっと教授と闘ってもいいと思う。いや、闘うべきだろ。互いのエステティクスの本気のぶつかり合いがあるべきだ。ぶつかりあったまま調和する、まさしく太郎の言うところの対極主義である。ぶつけあう方が当然のはずだ。まさしく藝術の、表現のエッジを追求する大学なんだから。自分の美学を闘わせない学生は藝大で学ぶ資格はないねぇ。えぇ、そうだろ?派手に喧嘩しようじゃないか。教授と、同志と、そして自分自身と。

 自分のしたことは一部の油画の人だけにとっての、すっきりだと思ってはいたが、今日、まったくちがった方面の油画の人、あんまりしゃべったことはないが、面識はあった人からも、よかった、すっきりした。と言われた。油画のみんなに嫌われたかなと思っていたから、うれしかった。ひとりでもわかってくれる人がいれば、それで十分なんじゃないか、それだけで、やる甲斐は十分あるということを強く認識できた。

 
 まとめ;岡本太郎的な“なんだこれは!?”と思わせるような、藝術とは到底言えないような藝術作品を造ることを目標にしない人がいる。そしてそれはいてもいい。いや、むしろいなきゃいけないのかもしれない。多様性を護るためにも。そういったものを造れ!と、それは強制されるべきものではない。そうだ。公共の福祉に反しない限りにおいてそれは憲法で保障される。個人の幸福追求権は絶対的に守られるべきものだ。

 そして、そこからさらに議論を一歩進めてみよう。

 “何だこれは!?”を表現することを目標にしていない人も造り続ける。なぜか?

 それは、尽きつめれば、なぜ人は造り続けるのだろうか?という命題に突き当たる。人類有史以来解決されない難問。それはなぜ表現するのか、のにも繋がる命題。もうレオナルドがあるのに、ミケランジェロがあるのに、どうして造るのか。そして、また、どうして新しいものを造り続けようとするのだろうか?

 それは、きっと、新しいものが見て見たいからだ。というのが一つの答えであろう。

 昨日、坂口先生ご自身がそうおっしゃっていたように。

 つまり先生自身も新しいものが見たいとはっきり言っていたのだ。俺に“藝”がなかったのも悪かった。あの短時間で自分の考えていることを正確に伝える藝を俺は持っていなかった。それは認めざるを得ない。だから坂口先生と俺の間で、言葉の定義が若干ずれていた。“なんだこれは!?”を先生は新しさ、ではなく、強烈な違和感をもたらすもの、かもしくは、それに準ずる感動と解釈されたに違いない。だからこそ、先生は僕は“なんだこれは!?”を目指してはいないとおっしゃったのだろう。実際には先生自身も新しさは目指している。そうおっしゃっていた。

 話を元に戻す。藝術作品は造ってみた時に、初めて藝術の女神が微笑む。それは造ってみなければわからない。微笑むと思って造ってみたら、怒り顔だったり、怒り顔だと思って造ってみたら微笑んでいたりと、いろんな顔を見せてくれる。そこが面白いから造るのであろう。造ってみなければわからないから、造り続けるのであろう。人間に好奇心がある限り、新しいもの見たさから逃れることはできない。表現するということは、伝えたい気持ち、コミュニケーションしたい気持ちの高ぶりから始まる。自分の感じた“なんだこれは!?”を誰かに伝えたい。他人にも、自分自身にも。全宇宙への咆哮は誰にも止められない。それが表現するということだ。理由などなくても、ただ描きたい。呟きたい。彫りたい。そんな時が突然ガっと!くる時がある。みんなあることだろうが。

 ここで一度メタレベルにものを考えて見る。

 切り口は藝大について。藝大の存在意義はなんであろうか?それは今まで造られたもの、既存の藝術的なものの焼きまわしを造るための機関なのであろうか?確かに保存科学、文化財保護等、人類の遺産を後世に語り継ぐ偉大な仕事をになっている側面もある。とりわけ、それが藝術学科の主な仕事であろう。セクショナリズムには反対だが、今はわかりやすいように敢えて科分けして論じる。藝大には他の側面もある。油画や日本画、彫刻、デザイン、建築そして先端の存在意義はなんであろうか?失われゆく古典を語り継ぐことであろうか?いや、そうは思えない。それも大事なことではあるが、それ以上に、それはやっぱりどう考えても、伝統を学び、その先にある創造の精神に重きが置かれるはずだ。天心はそこを目指した。世界の大人物と対等に渡り合える藝術の日本代表を生み出すことこそが本学の存在意義である。世界で渡りあう藝術家とはつまり、やっぱりぶっ飛んだ新しいものを造る藝術家のことであろう。もちろん人格者である必要も出てくる。全人間的に素晴らしい人間、そこを目指して行こうぜ!諸君!一緒に!という感じであろう!

 であるから、やっぱり、新しいものを目指さなければならないのだ。新しいものとは“なんだこれは!?”と遍く多くの人々に痛烈に、強烈に嫌ったらしくて不快な真実を突き付けるような、従来のパラダイムを一変させるような、そんな価値観の倒錯を誘発させるような藝術作品のことだ。それを造らねばならないのだ。本学に籍を置く者は。新しいもの、つまりは“何だこれは!?”を追求することこそが本学の義務なのである。
 
 付け足しておくが、そんな“古い”ものからも時に新しいものが生まれたりもするから、何とも言えないのが藝術のこわさだ。藝術の懐はあまりにも深い。深すぎる。ディープブルー。先が読めない。博打と何も変わらない。だからこそ“何だこれは!?”が生まれるのかもしれない。ただこちら側から新たなものが生まれる可能性は極めて低い。

 そして“何だこれは!?”が生まれる為には“何だこれは!?”じゃないものがなければならないのはいうまでもない。そしてそれを、その“古い”ものの役目を担うのが旧世代の、歴史を造ってきた者たち、いうなれば教授たちなのだ。彼らの屍を俺たちが超えていかねばならない。彼らを殺すことこそが俺たちの役目だ。

 教授は壁になれ。壁が高ければ高いほど、より“新しいもの”が生まれいずる。

 坂口先生の作品について;車に苔が生えているのなんかは面白いと思った。ランドスケープアートはちょっとだけなんだこれは!?とも思った。映像作品は問題外でまったくもって面白くなかった。全体として面白くなかったのは先生の講義の藝がなかったからかもしれない。その点は先生に責任があろう。面白くないという言葉が悪ければ伝わってこない、か、アートワールドと何のかかわりもない田舎のおばあちゃんにも届くアートではなかったのは間違いないってことは確か。そして自分にとっても。お互いに怠惰に理解されることを望むよりも、理解することを望みあった方が創造的なんだな。うん、そうだ。

 もっとも彼らを殺し、乗り越えていくのが俺たちの仕事なので、敢えて否定しなければならないという時もある。敢えてではあるが。もし本当になんだこれは!?と思った時には正直にすごいと言う。たとえ悔しくて、言わなくても、すごいと思ってる時にはたぶん、俺は黙ってると思う。だって自分に嘘は付けないし、口に出せば嘘になるから。




 とりあえず、油画のみんな!守破離やっとけ!レオナルド描けるかい?ブーグロー描けるかい?レオナルドの模写が完璧にできる人間だけが次のレオナルドになれるんだぜ!レオナルドのミクロ描写法を学べ!自分の血肉にしろ!そしてその技法を使って、なんか、なんでもいい、もうめっちゃ変な構図で人物画描いてみろ。レオナルドでなくてもいい。自分の感性にぐっ!とくるものから学べ!自然から学べ!

 創造とは模倣だよ。模倣の果てにはいつだって真の理解が待っている。そして模倣は掛け算。レオナルド×ピカソができたら、もう誰もが認めざるを得ないだろ。誰もが“なんだこれは!?”って思わざるを得ないよ。うん。

 まとめのまとめ;わかりやすく言うならば、“なんだこれは!?”とは“新しいものがもたらす感動”のことである。



 そして、結局、努力!努力!努力!だね。

  

 本日の歳費;6450円 教科書でかかったな。

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