藝大は攻めてねぇ。教授はゴミだ!等とさんざん吹聴していたが、それは天下に己が無知を吹聴しているに過ぎなかった。
無知はコワい。
しっかり調べ、自分で見たこと、聞いたこと以外はしっかり批判できないとドつぼにはまる。
藝大にはなかなかもって素晴らしい先生がしっかりいる。教授はゴミだゴミだというのは簡単。どこがごみなのかしっかり批判できないところには生産的でなくなる。ただの不満たらたらたらちゃんになるだけ。
教授の保守的なところ、具体的には先例踏襲で新しいことに踏みきれないところなどは確かに批判できるが、その彼らの学問に対する厳密さ、科学的に、客観的に論証できないことには言及しないといったところにはその深い美意識を感じさせられる。その造形の、教養の深度はなかなかのものである。
藝大では最強だと思っていた俺だが、井の中の蛙だった。
たとえるなら、今の俺はフリーザの時の悟空だとして、ほかの藝大生はたいてい天下一舞踏会の、ヤムチャとかが結構強かった時代のメンバーで、俺は天狗になっていたら、俺なんかよりもめっちゃ、ちゃ~ら~、へっちゃら~強い、セルゲームやマ魔人ブウクラスの時代のメンバーばかりの世界があることを知った。教授は強い。確かに強い。その強さを押し測られるだけの強さが身に付いたということなのか。すごい人間のすごさがわかるには、当人が強くないといけないのかもしれない。
当人自身が強くなることが一番のスカウタ―なのかもしれない。
また消費する・されるの関係について。
世の中のほとんど全てが消費する・されるの関係だ。都合のいい時に、都合よく消費されあう。それを互いに求めあう。
ここで消費されない関係とはいったいどういうものなのかという考えが起こる。
一番に思いついたことはメロスのような友情、掛け値なしの友情ということだ。
さらに家族間のつながり。
つまり、打算なき人間関係はその消費の関係を凌駕するのだ。
あかちゃんを抱く母親に打算はない。本能がすべて消費するされるの関係だと仮定したら、一切すべての、経済、モノの移動、諸々すべてが消費する・されるの関係で捉えられる。
また
ものの考え方の批判が人格の否定であると思われていることだ。
ものの考え方は人格ではない。藝術作品が作者の人格ではないように。
それを勘違いしているから互いに批判できなくなる。傷つけあうことを恐れていては何も始まらない。
がんがん互いのエステティクスを激しくぶつけあって、血管浮き出るくらいに、口角に唾し合いながら議論する。その後に、そいつとふつーに何もなかったかのように一緒に飯を食いに行く。俺ならそうする。
望まれるのは欧米型思考。
これっておかしい?
ただぶつかることを恐れて、なぁなぁにしてきた結果が原発やその他もろもろのすべての“歪み”につながっている気がしてならない。
もっと激しくぶつかりあおう!もっと互いを批判しあおう!
なぁ、そう思はないか、諸君!
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