2011年6月10日金曜日

久々のあっぷ

自分は自己顕示欲の塊だと核心を突かれた時にはグサッときました。たしかに今自分は何者でもない。これから自己投企していくしかないのだなと思いました。有名になりたい。俺を見てくれ。俺を見てくれ。では誰も見てはくれないのだ。おっしゃる通りでした。

限りなく無私であろうとしつつも、完全な無私にはなりえないのかなとも思いました。来歴やベルグソンのいうような記憶=魂から思考のパラダイムが逃れられないとも思いました。先生と話すことで自分が見えました。うすうす気づいていたことですが、自分は世界の痛みよりは自分のささくれを第一に考える人間だということです。いいこちゃんぶっても、やはり世界の痛みに耳をすませるよりも、自分のしあわせを第一に考える男なのだと痛感しました。イエスにはなれないということを痛感しました。はぁ、なんて穢い存在なのでしょうか。草枕な気分です。

努力!努力!努力!自分と闘って個性を掴み取りたいと思いました。戯れるのではなく。

また消費されることについても考えさせられました。

この世界のたいていのものごとが消費される、するの関係で回ってるように思えました。

そこで考えましたのが、消費されない関係とはどういうことかということです。

打算がもっとも打算のない行為だと芥川がいっていましたが、誰かを利用するされる、といったことから人間は逃れることができるのでしょうか。

そのほかたくさんのことを考えさせられました。


随想みたいなものを送ってしまいました。やはり自己顕示欲の塊なのです。これが現在の自分です。こどもです。がきです。感じたことを誰かに伝えたくなる病なのですね。




消費されるとはその場限りの瞬間的な快体験のことをいうのか。つまり消費されない人間関係とは、長く付かず離れずで付き合い続けるということなのか。腹6分の付き合い。

友情は、メロスのようなものでない限り、すべて消費される関係といっていいのか。打算があったら、それは消費なのか。打算もありつつ、時になくというのは、それは半消費関係なのか。

好きな人に近づくのは、下心のあるなしをとわず、自分を磨く為でも、自分を磨くっていうこと自体打算なのかもしれないですが、つまりは世界の為というよりは、自分のために、たんに面白いから、知識、教養が身につくからという理由などから、興味のある人物に近づくことは消費関係になるのか。またそのスパンしだいで消費関係でなくなるのか。

基本的に金銭で換算されるものが消費関係になるのか、

また瞬間的な消費関係でも、本人の意識、無意識下で気づかぬうちにベルグソン的な魂の一部を形成した場合、それも消費になるのか。

形式が内容以上に内容を表わすの意味が少しだけわかってきました。云々。

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