2011年9月10日土曜日

ライフログ

最近読んだ本を列挙する。

木幡和枝訳 現代藝術岩波美術、ライアルワトソン、~生命潮流、地球は語る、風の博物誌、スーザンソンタグ、私は生まれ直している。スーパーレディ。等

宇野邦一、訳、アンチオイディプス、千のプラトー、器官なき身体

佐々木幹郎、死者の鞭、柔らかく壊れる

御厨貴、オーラルヒストリー入門、権力の館を行く、オーラルヒストリー

三木成夫、胎児の世界ー人類の生命記憶

このくらいかな。。。


またさいきんたるんでいる。もうはっきり言って大学に行く意味はない。大学は勇気のないやつが行きところだ。大学に行く時点で保険をかけている。ただ保険をかけるのは人間として当たり前で保険をかけるのは生命の本能である。うさぎだって、りすだって保険を掛ける。こうと、さんくつあり。りすも土に餌を埋める。

ただ、ー大学はやっぱりマジで意味がないとまで字は言わないまでも、おそらく大学はサボるためにあるものだと思う。留年して始めて大学は大学としての意味を持つ。

最近言われたこと、著名な先生方、第一線で活躍されている先生からいただいた助言の言葉は、お前の話は観念的すぎるということであった。大上段に構えすぎて広すぎて収集がつかなくなるとのことだった。それと言葉のクオリティーがあまりに低すぎると言われた。言葉の世界に身をおく人間としてはショックだった。理解されないのが藝術だから、それはそれでいいのかもしれないけれども、それでもやはり、指摘してくれるのはありがたいし、自分のことを本当に考えていてくれるのだと思うから、ぜひとも耳にいれておきたい話だ。良薬は口に苦し。愛のある言葉は聞くに値する。これは真理だから。

それと自分には言葉がないらしい。自分のオリジナルな言葉がないとも言われた。岩波文庫に答えが書いてあるんだもん、というのが僕の答え。だって、人類の古典には答えがすでに記されていて、あとはそれを現在に繋ぐ温故知新をすればいいだけでしょ?というのが僕の考え。型。型なき教養はゴミだ。僕から言わせれば、賢人は歴史から学び、愚者は経験から学ぶと言いたい。。。のは山々ではあるが自分自身がまず持って経験から学んでばかりだからなんともいえないのが本音。びょうりのやまいはいやしやすし、しかうして、しゅうりのやまいはいやしがたし。そういうこと。

少し自分がなぜ、言葉を引用するのか考えてみる。おそらく、ー長きに渡る浪人時代が原因だろう。誰も自分をみてくれない。誰も自分の存在を無視する。人は肩書きで言葉を聞く。肩書きのない人間、中卒の、高卒の人間の話など誰も聞く耳を持たない。だからぼくは自分の言葉を、声を聴いて欲しくて古典を学んだ。権威を着た。虎の威を借る狐になった。もちろんいまではやはり、虎の威を借る狐以上のものが、といってもやはり、時の淘汰を超えた言葉はやはり、真理で不動のものという感の方が強いが、当時の僕はおそらくそういった理由で古典を地肉にしたのだと思う。日本人に認められないから外国人に認められたい。外国人は引用できる人を尊敬するというような記事を何処かで読んだ。だから英語でも、原文でも引用できるようにしておいた。完全に暗記して諳んぜられて血肉にかしたと言えるというような高いレベルで古典を学んだ。秘すれば花、秘せずは花なかるべからず。だからあまり自分の古典の引用をMAXでしたことはいままで一度もない。gsおそらく近々自分の引用のMAXを披瀝する機会も来ることだろう。高校時代のあだ名は引用抜粋太郎でした!

そしてなぜ、引用だけで人生を過ごしては行けないのだろうか?どうしてオリジナルなんてものを求めるのだろうか?そんなもの幻想にすぎないのに。個性は型からしか生まれないのだよ、諸君、体系的に学んだその果てに、模倣の果てのその先に真の独創性が待っているのだから。私がいまからそれを証明しますので是非ともご覧あれ!刮目せよ!もっと、みんな古典に学べよ!どうせそんなに読んでないんだろ?読んでないやつに限って古典をばかにするんだもんなぁ。。。自分も三省三省。九省くらいしてしまおう。


それとゲーテとエッカーマンの対話を読んで、ゲーテから学んだことが実に大きい。齋藤孝にも実にお世話になりました。

ふんがふんが!!

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