2011年9月13日火曜日

教育方法論レポート

[1]教育とは国家百年の計である 。坂の上の雲のような国益云々の立身出世は別にしても今回の講義を聞いて思ったことが多々あった。天は人の上に人を造らず。人の下に人を造らず。と福沢が学問のすすめを記してからはや140年ちかくがたとうとしているのに、未だにその本義が明確化されていない、もしくは誤魔化そうとしているのかは定かではないにしても、福沢の意味するところが伝わっていないのは残念に思う。一身独立して一国独立す。個人の独立、自立なくしては国家、もとい社会、人と人との共同体は機能しないのである。おんぶに抱っこではその共同体は滅びる。

そんな人間を養成するような教育が今の日本でなされているかは微妙なところだ。寺脇さんの学校は国学校でしか学校たりえないという趣旨の発言は聞いていてものすごく古い考えだと思った。といっても当人がのたまっている発言時期も過去のものだから当たり前といっては当たり前のことではある。今ではトヨタの学校もあるし、ソフトバンクアカデミアなるものもある。そこのほうが公立の学校よりもよっぽど優れた教育がなされている。可能な限り学校は社会の格差是正機関であるべきだ。いや、それ以上に学校は経済的にはどうであれ、まさにいかに幸せな生活を営むことができるかの多様な選択肢を 与える場であるべきだと思った。アルビン・トフラーの第三の波を踏まえた上での、これからのライフスタイルの変化、一次産業と自給率、国際社会における人権、飢餓、貧困対策など実に多くのことが学校で教えられるべきである。個人の幸せは世界全体が幸福にならないうちはあり得ない、と賢治は語ったが、そうしたもろもろの事柄をやまびこ学校のような環境下で人間いかに生きるべきかをプラトンのようなアカデメイアのように、またフランスのように現場至上主義の権限を与えた、机上の空論を捨てた身体感覚に基づく新しい教育の現場を一刻も早く日本の社会、社会がなければ世間に根付かせなければならないと思う。官僚主義が諸悪の根源であるがここではそのことは割愛する。荒川周作や宮崎駿が話していた過保護でない子どもたちの持つ本来の力、ナイフを使ったり、火を起こしたり、気に登って落ちたり、そうしたことが のびのびとできる学校が全国に配備されることを強く望む。旧来の近代的な囲い込み学校は完全な時代遅れである。ジャパン・アズ・ナンバー・ワンの成功法則にすがるのではなく、明治維新のように変化することこそが今の教育に、日本に必要とされていることだ。障碍者の学校もしかり。灰谷健次郎の兎の眼のように子供達の自主性に任せて世間に溶け込ませることこそが大切であり、そしてそれは個人の幸福を第一に考えるということが共通認識として子どもの中に共有されていればなんら問題ないと思う。そこで問われるのが教師の力量である。子どもを信じ愛情をもって接した、その果てに自主的悟りのような自己本位の萌芽が芽生えたその時に、その教師は実に偉大なる仕事を成したといってよろしいかと思う。その萌芽の方法は各先生の個性に委ねられることであろう。だが目指すところは同じである。今回の講義で古今東西数多の偉人、学者、現場の教師がこの先に述べた方法論を扱っていた。この偉大なる麦を預かり後世に植え伝えたいと思う。そしてまた、思うことは、藤岡先生が講義中挙げた古典が教育現場でどれだけ教えられているのか疑問にも思いました。私は古典至上主義者です。小学校の頃には一にも古典、二にも古典、三にも古典であるべきだと思っております。小学生の頃には学問のすすめ、スマイルズの自助論、孔子やプラトンなどの古典が今よりももっと幅広く読まれればいいなと思いますし、そして自分がその変化になれるよう日々精進したいと改めて思いました。

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