急性扁桃炎になった。喉が痛い。喉が痛い。単なる痛みではない。こんなのは今まで一度も経験したことのなかった痛み。この世界のすべての痛みをすべて吸収したかのような痛みである。歩くだけで痛い。歩くだけで振動する体の、足から肩までの骨のきしみの喉まで上がりしの痛み。鈍痛。唾液さえ飲み込むことができない。唾液は口の中にたまる一方。飲み込めず、飲めば激痛が喉の奥から脳髄へと駆け巡る。これはなってみたものにしかわからぬ痛みであろう。ただただ洗面器に糸状のはちみつの如き唾液がたまるばかりである。
想像力には限界がある。
叔母はがんで死んだ。抵抗力がなくなったため、扁桃腺がよく腫れていた。おばの苦しみなんてその時はちっぽけなかけらもわかっていなかった。
ただ漫然と死に行く苦しみと闘っているだけだと思っていた。死に対してのみ闘っていると思っていた。
叔母は言っていた。食べ物を食べることは本当に喜ばしいことなんだよ。
食べることは、力のいることなんだよ。飲み込むことでさえも力のいることなんだよ。
ふむ、そんなものか、なるほど、そうなのか。
ただ単に知識として僕の頭の中に入った。
僕には叔母のこの言葉の意味が何も分かっていなかった。
急性扁桃炎(自己診察、家庭の医学調べ、写真と一致。)にかかって叔母の言っていたことばが僕の魂に深く刻まれた。おばのことばが僕の魂の一部になった。もう二度と離さない。この言の葉。
嚥下する力があって初めて食べ物が食べられる。嚥下することに痛みがなくて初めて、食べ物を味わうことができる。口の中に痛みがなくて初めて食べ物もそのうまみを発する。
体だけではない。悩み事がある時はどんなごはんも砂利のようにまずい。砂を食べているみたいだ。
食べ物を味わう喜びは奇跡的なものが奇跡的に掛け合わさって生ずる。生きる喜びはすべて奇跡の上に成り立っている。
食べ物に感謝し、そしてそれをおいしく食べることのできる体に感謝し、そしてそれを作ってくれた人に感謝し、それをおいしく食べられる自分の心の持ちよう、気持ち、感情に感謝して、そこにある命をいただく。
これがどれだけすばらしいことか今日初めて分かった。心底体で知った。
歩けることの喜び、学ぶことができることの喜び、ピアノが弾ける喜び、自分の考えを広く天下に知らしめられる喜び、友達がいる喜び、支えてくれる人がいる喜び、裏切られる喜び、急性扁桃炎にかかる喜び。ガンで死ぬ喜び。生きていることは常に苦しみと喜びの桶狭間。だということ。
傲慢にならず、今健康で生きていることに感謝して生きていこう。今回の急性扁桃炎はいい勉強になった。今も痛いがだいぶ楽になった。病は自分を見つめなおさせてくれる。
傲慢だった自分に反省。
この痛みに想像力は追いつけない。追いつけないが、これからはこの痛みを感じ入ってる人には想像力で追いつくことができる。
人生は経験の連続。辛いことを知ってる人間の方がそれだけ人にやさしくできる。それはその人の想像力が身体に裏打ちされた想像力だからだ。
想像力に限界はある。だが身体に裏打ちされた想像力に限界はない。
年をとることによって見えるものも増えてくる。感じられるものも増えてくる。年をとると涙もろくなるのは、そういうことだ。身体に裏打ちされた、自身の魂を通じた想像力に限界はない。
人の痛みに敏感な人は、それだけ想像力が豊かであるといえるのはこの為である。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
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