2011年3月26日土曜日

教育について 1 今の時代、そして俺について 

 
 ファンが1人増えた!やった!けど超恥ずかしい。実は俺もその人のファンです。お互いにファンってなんか素敵だね。今日はファンタでも飲もうかな。

 今日は教育について。これは俺の人生賭けて考えていくもののうちの一つの大いなるテーマ。一生涯かけて考えていくべきもの。これからも時折、定期的に書き続けていく。新学期が始まるのでとりあえずいったん整理しておく。とりあえず、今日はその要旨だけ。ここについては個別にまた説明していく。


 まず教育とは国家百年の計である。教育の効果が出てくるのは10年、20年先の話である。そんなおいそれと効果が出てくるものではない。そして効果が出たからといってその効果をすぐに打ち消せるわけでもない。思想が根付くのに50年かかるとマルクスはいったが、それは真である。戦後民主主義教育の正と負の頂点が今の時代において如実に表れている。今の時代精神はGHQの戦後制作にすべてが起因している。人命は地球より重い。みんなちがってみんないい。公害対策。ジブリ。いのちだいじに。その戦後思想のポジティブな側面がそこにある。そしてそれと同時にモンスター・ペアレント、学級崩壊、当事者意識の欠如、極端なノー・リスク。抵抗の精神の喪失がそのネガティブな面。ものにはどんなものにも表と裏がある。いいところもあれば悪いとこもある。正負の法則。これは絶対的な真理である。宇宙が始まる前からも、宇宙が終わってからでも、永遠に変わらぬ普遍の真理である。我が師匠の美輪さんが言ってたからまず、間違いはないでしょう。そしてそれは今の“生きづらい”時代をもたらしている。

 ここで俺の立場を明確にしておく。それは、人間なんて今も、昔も、そしてこれからも永遠に変わんないってこと。人間が人間である限りね。そして俺は漱石学派の末端に位置しているから思想的立場はものごとを傍観的にみる余裕派系統に属している。けれども余裕派なんだけれども、新しいのが当事者意識を持って自分でできることは自分で働きかけるようにしているということだ。つまりものごとを傍観者的立場で見て、そこから当事者になる。いうなれば新・余裕派ってことかな。そしてそんな立場で今の時代を見れば、やっぱり今の日本は最高にいい国だと思う。自殺が年三万人の国で、利権まみれの、自由を抑圧するそんなくそったれな国だけれども、やはり、今の時代は最高だ!だって一昔前まではものは食えなかった。常に自然との闘いがあった。毎日が極限状況下の暮らしだった。さらに自由に意見を言えなかった。自由に意見をいえば首が飛んだ。文字通り、頭が飛んだ。官憲が横暴をふるった時代があった。もしそんな時代に俺が生まれていたらと思うと、ぞっとする。俺は臆病でちんけな人間だから、だから、きけわだつみのこゑなんかの時代に生まれていたら逃げ回ってばっかで、戦争の何の役にも立たなかっただろうね。たぶんもう、悪い奴等と結託して、自分の財産、家族だけは守って、後は戦地に送り出す事務作業かなんかをしていたんじゃないかなと思う。だから、今の時代は、そんな時代に比べれば、最高である。最高にいい時代である。そしてここで高らかに主張しておきたいのは、

俺は俺の、俺というフィルターを通じてしか世界を見れないということだ。

 今、俺がこの時代に生まれてよかったと心の底から言えるのは、今、俺が、俺という人間の置かれている状況が俺にとって最高であるからだ。それがたとえ一日500円しか使えなかったとしてもだ。今の俺は五体満足で、健康で、心身のバランスも非常に整っている。だから今、この時代は最高であると言えるのかもしれない。もちろん、こんな俺にも当然悩みはある。悩みのない人間はこの世にはひとりもいない。そんなのは白痴だけだろう。そう思うのも俺の勝手な俺というフィルターを通したから感じること。訂正しよう。白痴だってなやんでるんだ。それはドストエフスキーを読んでくれたまえ。黒澤の白痴を見てくれたまえ。もし俺がヨーロッパ中世の時代に、大金持ちの家の生まれて何不自由ない生活を送っているのだとしたら、俺はこの最高の時代に生まれてよかったと思うだろう。そして、もし初めての恋をした相手がキャピュレット家の娘だったら、どうして俺はこんな時代に生まれたんだと、自らの運命を怨むだろう。こんな時代は今までの時代で最低の時代であろうと罵りながら人生を送ることだろう。人間に生まれたこと、男に生まれたこと、日本に生まれたこと、平和な今の時代に生まれたこと、今まで健康で生きていること、それらすべてが俺にとって素晴らしいものだから、俺は“今の時代は最高だ!”といっている、言える訳なのである。もし自分が乙竹さんだったら、脳性マヒを患って生まれたら(あっ、脳性まひブラザーズってのがいるんだけど、これ超面白いよ。俺が好きなのはエレベーターガールというネタ、彼らとは楽屋でちょっと話したことがある。)、生涯をもつ子どもの親になったら、愛する妻をレイプされ殺され、そばにいた赤ちゃんをちょうちょ結びで首を絞められ窒息死させられた父親だったら、あほな野郎に飲酒運転で突っ込まれ愛する妻と子を失ったとしたら、リストラされ富士の樹海を彷徨っていたら、家も愛する家族も津波で流されていたら、そこにある無限のケース・バイ・ケースの中においても“今の時代が最高である!”と言えるかどうかはわからないけれども、とりあえず、今は、自分の自分というフィルターを通じた世界認識では“今の時代は最高である!”と言わなければならない。意地でも。というのが今の“俺”というフィルターを通じた結論である。古代メソポタミアの粘土板に書いてあったコトバにも、今と何にも変わらない若者批判がある。席を譲れ、シャカシャカ嫌ホンの音漏れ、静かにしろ、今の若い奴は気力がない。だの今と何にも変わらない“人間”がそこに垣間見られる。脈脈と流れる人間がいる。

 だから今の“生きづらい”時代というのも確かにそういう面もあるよね。という態度である。

 そしてそういった“生きづらい”時代の中において、もっと自由に!太郎のように、清志郎のように、はじけようじゃないか、なぁ、諸君!といった感じである。“生きづらい”時代なんて、いつの世も“生きづらい”時代だから。人間が人間である限りそれは永遠だから。だから枢軸時代にもそれより以前の先史時代にもその事実はあったから。つまり、ハイネがいうところの、

どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。

 ということである。戦後民主主義教育の生みだしたポジティブな面はそのまま継承し、それが生み出したネガティブな面をどうやって解決していくか、ということがこれからの課題である。今は戦後最低の犯罪発生件数である。それは今の委縮した時代がもたらしたのだろう。道行く子どもに声をかけづらくなってる時代の一つの現象である。これからは犯罪件数も最低を維持しつつ、もっと子どもに簡単に声をかけられるような時代になっていくことが求められる。地域コミュニティーの再生、本物の知性の涵養、もののあはれの復興、失われゆく古典の継承などなど、問題は山積みである。それゆえにやりがいもまたある。

 はっ!話がそれていた。教育の要旨を羅列するはずだったのに。、、、ま、いっか。推敲せずともいい文章が書けるようになりたいなぁ。

 それはまた明日の話。

 忘れないようにメモをしていこう。明日やること。

 教育とは“洗脳”である。洗脳というとコトバがネガティブで強い印象を持つかもしれぬが、やはり“洗脳”である。その時代に尊ばれるべき価値観を先生という権威、権力を用いて子どもをその時代のふさわしい共同体構成員を醸造する洗脳作業である。

 続く

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