2011年5月6日金曜日

大学の講義VS岩波文庫

ものごとを巧みに伝える術を熟知するものを“藝”のある人間という。

“藝”のある人間といえば、落語の名人が挙げられる。

何のことのない世間話から、気づけば虚構の世界に。


誘われたことすらも気づかぬうちに、我に返るはみなが席を立ちてから。





藝のある講義について考える。


藝のある講義の要素は大きく3つ。


一、面白いこと

一、対話があること

一、その後もその問題、テーマについて考え続ける原動力になること。

この3つの要素すべてを含むのが“藝”のある講義である。




一、面白いことについて

これはファニーなことでなくともよい。ただ、それよりも知的に面白いということが大前提となる。

また面白いことの指標としては、寝てる者の有無がその判断基準として有効。寝ている者が多い授業は概して、“つまらない”ことが多い。教えている内容は“素晴らしい”ものであっても、それでもなお寝ている者がいるのであるならば、学生の心身の疲労を考慮の余地にいれたとしても、それ以上にその講義の話し手の力量不足がその主な原因であろう。つまり話し手に“藝”がないという訳である。講義にはある程度の緊張感が必要。指されるかも知れない、恥をかくかもしれないリスクと同時に、うまいことが言えるかもしれない期待とリターン。ハラハラのスリルを体感できるジェットコースターのような講義なら誰しもが眠らないエンターテインメントになる。

また、時が経つのすら忘れさせる講義、もっと聴きたい、と思わせるような講義ができたらそれは最高に素晴らしい講義だ。


一、対話があることについて

えてして、日本式の講義は学生、聴講者が“お客さん”もとい“借りてきた猫”になりがちである。当事者意識の欠如がその原因。自分には関係のないこと、そんなのかんけーねぇ!そんなのかんけーねぇ!はいっ!オッパッピー!と思っているうちは、ただそこに存在しているだけで、講義が終わる。居眠りする為の講義。いうなれば話し手のコトバは緩慢なノイズ子守歌というわけだ。岩波文庫を読んでいるほうが5兆倍人生の役に立つのはこの理由がゆえである。当事者意識なき講義、または態度、は真剣に見るジャッカスに及ばない。自分も今、参加しているという感覚は常に持たせる必要がある。対話なき講義ならそこに存在する意味も理由もない。ただユーストリームで流せば事足りる。mp3で配信すれば事足りる。…とまではいわないが、そこにあるライブな感覚は大切ではあるわけで。また近くにいることで感じられる、話し手の緊張感やアウラなんかの感覚についての考察もありっちゃありなわけだが、ここでは割愛する。

対話形式には制約がある。それは大人数、時間といった物理的な制約である。聴講者各個人の話し方、内容が多様なため、個性が溢れて結果収拾がつかなくなる事態に陥る可能性がある。それゆえに、対話形式の講義は難しい、無理だ、という結論に至り、結果、現状維持という名の無策な講義が例年、繰り返されるわけである。

しかし上記のような理由にもはや有効性は見いだしえない。サンデルを見た後では一切が嘘になる。話し手のいい訳にしか聞こえない。つまり話し手は自分の藝のなさを認めたくないわけだ。演習、ゼミではできることも、大人数になるとできなくなるというのは嘘だ。もちろん、本当のところは対話形式でなくともいい。TEDのような講義がなされるのならば。対話式の授業をまずはやって見ることだ。やって試行錯誤してみればいい。トライ・アンド・エラーからしかすべては始まらない。藝がなくったっていい。これから身につければいいだけのことだ。誰しもがサンデルになれる訳ではない。サンデル並みのウィットも、明晰さも頭の回転もあるわけではない。ないが、それでもサンデルに近付く努力には意味がある。日本人だから、それが伝統だから、そんな理由でサンデル形式の授業にそっぽを向いてはならんねぇ。なぁ、そうだろ、諸君。対話しようじゃないかぁ。小林秀雄も最後にはそこにたどり着いた。プラトン、ソクラテス。結局はそこに戻る。ソコカラスベテガハジマッタノダカラ。


一、その後もその問題、テーマについて考え続ける原動力になること。

各自の“課題”、いうなれば“使命(ミッション)”といってもいいものについての新たな視点の提供につながればいい、といった程度のこと。絶対に役立つものは絶対に役立たない。絶対に役立たないものは絶対に役に立つと言うだけの話。荘子です。即非の論理です。鈴木大拙です。それが教養というものです。

その人間がいかに生きるべきか?と自分の人生を真剣に考えた時に、生じざるを得ないプライオリティーの判断基準に合致した時に、その講義が役立てばいいし、役に立たなくてもいい。死ぬまで役に立たないものがあってもいい。いや、むしろあるべきだ。いやぁ、ひさびさに“べき”ってことば使ったなぁ。まぁいいや。アインシュタインの言葉で少し補足。

育とは、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているものである。

うんうん。結局いいたいことはそんだけなんだけどね。

役に立つことばかりを考えていれば頭打ちになる。自由が消える。雁字搦めの卍固めに陥ってしまう。そうならない為の無用の用。いうなれば“遊び”。人間の本質。“遊び”がなくなれば人間は人間でなくなる。遊びは寛容のバロメーター。遊びなきところにナチあり。猪木の卍固めには若干のゆとりあり。こん平のかばんにも若干の余裕あり。ちゃっら~!


そんなこんなで考えた新たな講義があってもいい。

面と向かっては言えない勇気なき声も、文明の利器であげられる世の中になった。勇気ある者は面と向かって、なき者はツイッターでつぶやけばいい。講義の最中に、思ったこと、感じたことはなんでもいいからつぶやいてくれ、と。そしてそれをタイムラインに上げて、見られるようにする。あるものはなんだって使えばいい。やれる試行錯誤はなんだってやったほうがいい。みんながみんな何を考えているのかがわかる。話さないから他人を見下す。軽蔑する。大切なのは世界を、他人を、自分を軽蔑しないことなのに。ヘッセのことば。狭い世界に閉じこもる。それで生まれるものもある、だが外からの刺激の方がそれ以上に価値がある。すごい奴等は周りに溢れてる。ただ、話す機会がないから気付かないだけのこと。話す場がないからだけのこと。一つの講義がハブになれるのだとしたら、それはなんて素晴らしいことなんだろう!



話をまとめよう。いい講義とは何か?

それは“いい”の定義に起因する。ここでは“みんなちがって、みんないい”なんていう戯言はいわない。俺がルールだ。俺の“いい”が“いい”である。

であるから俺のいい“藝”のある講義のまとめである。



結局、いい“藝”のある講義とはそれは“背中で語る”講義だ。生き様を語らずに、生き様を語ることだ。人間が本当に“おもしろい”と思うのは本音が出た時だ。その人間の本音が見えた時に面白いと感じる。いうなればそこに真実を見た時に“ぐっ”とくるのだ。自然や、虫の美しさはそれが真実だからだ。人間の美しさも、講義の美しさもそれは同じ。建前は睡眠導入剤にしかならない。みんなちがって、みんないい、の果てにはみんなおなじで、みんなクズ、な世界が待っている。睡眠導入剤の多用は“感性”の低下を招く。だから“つまらない”、“寝かせる”講義はクズである。本音がないからである。話し手が本当に思ったこと、感じたことを言っていないからである。聴講者が眠くなるのは、そこに“人間”を感じないからである。若者は敏感である。真実を簡単に見抜く。子どもであれば子どもであるほど、“つまらない”講義には眠くなる。そんな授業に出席しろというのもクズである。そんなクズな講義にはでるなといっておいて、そんな講義に出席する俺は一番のクズである。大学を辞めない俺は一番のクズである。クズであるが感じたことは書いておく。ここはゴッホの日記なのだ。クズでも感じたことには嘘をつかず、感じたままに書いておく。それがクズにでもできることなら、クズなりにベストを尽くそう。それがクズの矜持だ。一寸のクズにも五分の魂。

そうなのだ。書いてみてわかった。書きたいことがあるか書くんじゃないんだ。やぱり、書くから書きたいことが分かるんだ。これは真実だ。

わかった。わかったぞ。やっぱり、岩波文庫の方が大学の講義よりも5兆倍、人生の役に立つんだ。つまり人生の役に立つってのは、つまり≪俺の≫人生にとっての役に立つってことだ。俺の人生のプライオリティーの上位にくるもの、それが岩波文庫だってことだ。つまり、古典だ。

そうすると、だいたいのことについて説明がつく。よくなされる議論、古典を学ぶべきか?歴史から学ぶべきか?

それは、ずばり、人による。だ。そして、ただ、俺にとっては、俺の人生にとっては、古典を学ぶことはプライオリティーの最上位にくるってだけだ。必須ってだけだ。歴史から学ぶことは俺にとっての“べき”だ。守破離は我が人生だ。

そして、そのプライオリティーのふるいにかけられたときに、大学の講義の大半がクズってことだ。大学の講義、それ自体がクズな訳ではなく、俺のプライオリティーに精査されたときに、俺の守破離のフィルターにかけられたときに、ある講義がクズにも宝石にもなるってわけだ。そして、それゆえに、、大学の講義の大半が基本“クズ”なわけだ。


そして教養とは、いつ役に立つかわからぬ知識をため込み、それをその時が来た時に、知恵に変えることだ。教養とはもののあはれだ。名言を暗記することだ。人間について広く深く知ることだ。教養とは人生の味の素だ。スパイスだ。宝石とガラクタの入り混じったおもちゃ箱だ。そうだ。人の気持ちがわかることだ。

あぁ、やっぱり最後はここに行き着くぞ。

何が人生の役に立つか、それは神のみぞ知るってわけだ。はは~ん、なるほど。


とりあえず、今、暫定的に言えることだけでも書いておこう。

教壇に立つものへ。または多くのものに語りかける場にいる者たちへ。





種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、すべて育つだろう。


アインシュタインのことばより。




この種とは、種馬の種ではない。


けっしてそういった意味ではない。…精子ではない…はず。






おあとがよろしいようで♪



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