2012年1月28日土曜日

さらばついったー!

潜ろう。自分の内に。世界を変えるのはやめた。自分を変えることに専念しよう。


ついったーもふぇーすぶっくも、しからざる人以外が使えば単なる時間泥棒。携帯を持った猿が須磨帆を持った猿に深化するだけ。


それにいきがいをかんじる人がいるのも確かだけど、もっと自分と向き合う時間をふやしたほうがいい。


僕はそれに生き甲斐を感じない。


もっとたいせつなものとむきあったほうがいい。




ついったーはほんとの独り言をいう。


今のついったーは共感重視か、もしくはリアル充実ツールになっているね。それもよろし。それもまた人の人生、それぞれの学び。




僕は還る。

潜ろう。自分の内に。世界を変えるのはやめた。自分を変えることに専念しよう。








P・S  ついったーもふぇーすぶっくも、連絡先のバックアップとして使うから、連絡取りたい方は安心してください。










2012年1月25日水曜日

作品とは?

咲く品位、のことです。

そこにその作家のすべてが現れます。

2012年1月23日月曜日

Hisabisanoburogu

ぶろぐをかくのもめんどうだ。

かけば我が創作熱が逃げるのだ。

Twitterなるものももうやめた。

フェースブックももうやめた。


それら諸々の媒体に書けば書くほどエネルギーが逃げてしまう。呟きたい衝動、得体の知れぬ黒黒としたもの、のダークマターのようなものを一つの対象にぶつけてみたい。そうしなければ人の心に響くものなど作れる訳がない。

渾身!渾身!渾身!

まさにこれに尽きるであろう。


人から認められたいのならぶつを見せろ!Show your flag!Show your Arts!
というわけだ。

だから藝術家はつぶやいてはならぬ。フェースブックしてはならぬ。


といっても、表現媒体はひとそれぞれ。私の場合は上記のようである。自戒としてここみ記す。

文章は読まれれば劣化する。簡単に消費される文章は書きたくない。

書くならば古典たりえねばならぬ。




脚下照顧。我、孤独の中に沈潜す。

しばらくさようなら。さようなら。

ここはしばらく、気付きとめもめもこーなーになるでせう。

2012年1月14日土曜日

ショアーと内海先生

Version:1.0 StartHTML:0000000258 EndHTML:0000019387 StartFragment:0000004155 EndFragment:0000019351 SourceURL:file://localhost/Users/user/Documents/%E3%80%8E%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%80%8F%E3%81%A8%E5%86%85%E6%B5%B7%E4%BF%A1%E5%BD%A6.doc

『ショアー』と内海信彦

 講義の最中に扱った『ショアー』を参考にしつつ藝術家、内海信彦を取り上げ政治と藝術と記憶について論じる。
 私は内海信彦に教えをこうたことがある。彼は今も予備校や大学で教鞭をとっている。最近ではフェースブックを用い本気で革命を起こそうと尽力されている。私も応援している。彼の話はウィットに富み、時にシリアスに、時に下ネタを交えて面白おかしく私たちの好奇心を刺激し、道を説く。彼は藝術家であり、彫刻家であり、料理人であり、教師である。人間を全人間として全人格的に生きる藝術家である。
 そんな彼の作品に、『レクイエム』という作品がある。十数年前の作品であるが彼はポーランドのアウシュビッツで行ったライブペインティングパフォーマンスである。重低音の音楽がアンビエントミュージックとして流され、立てた大きな白いカンバスの前に裸の人間が踊る。彼はナチスの軍服の格好をして登場し、狂気に満ちたトランス状態で踊る人間に赤や黒といったファインパウダーをこれでもかと叩きつける、といったパフォーマンスである。パフォーマンスの終わり頃には白かったカンバスはグロテスクな暗黒混沌に染まり、そこに阿鼻叫喚したかのような人間の白い影だけが残響として残る。そんな作品である。
 彼のパフォーマンスには多くの賛否両論がある。わざわざポーランドくんだりまで行って寝た子を起こすな、といった批判は今でも多くある。しかし、彼がシンポジウムなどでも語っていることだが、ポーランド出身の方で家族を失った遺族の方の多くから言われたことは、ありがとう。の感謝の言葉であった。
 ヴァイツゼッカは過去の過ちを認めぬ者は、また同じ過ちを繰り返すと『荒れ野の40年』で語ったように、内海信彦はそうした全人類が共有すべき歴史的な悲劇を繰り返さないようにするためにパフォーマンスを行っている。真実はいつも残酷だ。だから彼の作品から多くの人が目を逸らしてしまうのだ。だがしっかりと目を見開いて見つめねばならない。彼は人間の業と闘っている。朝はガス室に人を送り焼却し、人体実験を行い、人の皮を引き伸ばしたシェードのランプの明かりの元でバッハに涙する。この人間非人間的なものを彼は探求し、悲劇を背負いつつも人間の善なるものを追い求めている。
 彼は記憶を決して風化させない。彼はアウシュビッツがあぁ、かわいそうな出来事でしたね。といって完結することを極度に嫌う。なぜならアウシュビッツは過去の問題ではなく現代の問題だからだ。アウシュビッツは至る所にある。アウシュビッツは日常性の問題なのだ。この本学でさえもアウシュビッツはある。張り紙は禁止され、非人間的な官僚制が敷かれ、ひとりひとりの教員や職員自体はとてもいい人であるのに、それが組織の中の人間になったとたんに人が変わる。あたかもこころの先生のように人格が変わってしまうのだ。無自覚に保身に走ってしまう人間がどうしてアウシュビッツを笑うことができるというのだろうか。たしかにアウシュビッツに比べれば本学は天国である。けれども、それでもやはり、いわれなき自由を縛る非人間的な官僚制はアウシュビッツを彷彿とさせる。そして眠るだけの講義、意味のない出席カード、国立の大学だから仕方ないという鷗外もびっくりの諦念が蔓延っている。システムの破綻と蟻のコロニーの限界閾値の問題かもしれないが、いずれにせよ改善の余地は十二分にある。こんな日本に誰がした?と言いたくもなるが、人のせいにするだけではアウシュビッツを自分の問題としてとらえていない。人のせいにするだけではアウシュビッツを風化させてしまうことになる。何も学んでいないということだからだ。悪がなされるのは悪自体ではなく、それを黙認する人間の所為である。とアインシュタインが語ったように、アウシュビッツを自分に引きつけて考える。自分が自分自身がその片棒を担いでいるということを自覚しなければならない。もっと自分の罪深さを自覚することこそがショアーやアウシュビッツ、マイダネク、ヒロシマ、フクシマの解決に繋がっているのだから。だから私が自分に引きつけてこの問題と記憶を考察した時に、自分の周りでこのことを吟味し、それに関していえば、身近なところでは、この大学についてでも、たとえば大学自体が就職予備校と化すことに私は反対である、などだ。私自身、人の幸せに干渉することは好まず、人の生き方は個人で決めればいいと思っているが、やはり大学の就職予備校化には反対である。なぜならそれは食うか食われるかの極限状況下で食う方を選ぶことを奨励しているように思えるからだ。誰かが率先してこの負の連鎖を止めなければならないのに、それに拍車をかけてしまっている。そうではなくて一歩引いてオルタナティブを出すノーブレスオブリージュを持たなければいけないと思う。藝大生は激しい競争を勝ち抜いてきて、ここで学んでいるのだからその社会的な義務がある。落ちていったもの達に、こいつになら負けて本望だったと思わせ、成仏させてやらなければならない義務がある。だから社会を覆うそうした人権弾圧とはノーブレスオブリージュを持って戦っていかねばならない。自分は保険をかけて、大学をやめず、こうしてレポートまで出して単位を欲しがっている。自分は今のところ就活をするつもりはないが、来年追い込まれれば人間何をしでかすかわからないから、そうしたファッショ的行為をしてしまう時があるかもしれない。そうしたこころの先生のように自分が変わる可能性には常に自覚的でありたい。私は学生運動も何もしていない。人のことをとやかくいえたものではない。ただ活動家に湯豆腐をおごるくらいのことしかしていない。自分にできることはこうしてノンポリの振りをして、罪悪感に苛まれ続けて、自分の罪深さに自覚的であり続けること、そしてそれでも、考えて考え抜いた結果、可能な限り自分の立場を表明し、意志を示すだけだ。政治は中立を許さない。だから私は政治が嫌いなのである。私は原発反対の署名があったら現段階では一応署名する立場をとっている。同年代の若者が街角に立って、上野駅の改札の前で署名を集めているところをみると、私は自分にshame on you!と自分自身に言いながら。だが、これが私のできるアンチアウシュビッツ的態度であるし、勇気が出た時には勇んでアウシュビッツに反対をする運動に参加したいし、行いたい。本学の3年生を見ていて思ったこと、そしてすでに私の学年にもすでにこの病魔が進行してきているし、後輩の中にも既にこのアウシュビッツへと邁進している者も少なからずいる。何もできない彼らが無自覚的であるだけになおさら君悪く思える。自分にとってそれはアウシュビッツの片棒を担いでいる感覚に近いものがあるのだ。私はゲーリングでいるよりはロマン・ロランでいたいと思うし、可能な限り悩み続けるガンジーであり続けたい。それが記憶を風化させないということだ。賢人は歴史から学び、愚人は経験から学ぶ。歴史は絶えず現代の問題として更新され続けなければならないのだ。それを少しでも周りの人間に還付していきたいし、石田先生にも、そして藝術学含めた、藝大の全教職員にもそうした態度を望みたいと思う。歴史とは更新され続ける現代史なのだから。
 自分が見たいと思う世界の変化となる為に、まずは自分自身を知り、そして自分自身を動かす。そこからしか記憶の風化は止められない、それが私の暫定的な結論である。静かな絶望を生きることは私には耐えられない。だから私はこのことばを胸にして生きていきます。
 
 孤独に歩め、悪を為さず。林の中の象のように。


 脚下照顧。

古美術研究旅行レポート感想文

Version:1.0 StartHTML:0000000240 EndHTML:0000013077 StartFragment:0000003876 EndFragment:0000013041 SourceURL:file://localhost/Users/user/Documents/%E4%B8%89%E7%9C%81%E5%8F%A4%E7%BE%8E%E8%A1%93%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%97%85%E8%A1%8C.doc
古美術研究旅行
学籍番号1110224 一ノ瀬健太

 法隆寺など燃えてしまってもけっこう!とかの岡本太郎は語ったが、まさしく私も智積院など燃えてもけっこう!だとそう思わずにはいられなかった。作品が無惨に貶められ、阿鼻叫喚しているのを見ることは美に使えるものとして身を引き裂かれる思いだった。
 かの智積院障壁画を見た時の私の衝撃を想像してもらいたい。展示室に入った瞬間から私は度肝を抜かれた。
 あぁ、、、こ、、これは!!!、、、、(なんてこった!あまりにひどすぎる!)。
 あの障壁画の展示の仕方は問答無用であった。鑑賞者を無視した配置、鑑賞するにも枠木が鑑賞者からのバリアとなり、全体はその枠木で遮られ見ることができず、作品本来の持つ安土桃山最大の特徴である巨木のダイナミズムなど微塵も感じ得ることはできなかった。もはやそこに信長や秀吉はいなかったのだ。明治の頃まではいたのかもしれない。いや、ともすると昭和の初め、はたまた実はつい最近まではいたのかもしれない。だがもう彼らの姿はそこにはなかった。現代の作品保護至上主義といった呪鎖に縛せられた楓の大樹はもはや朽ち果てていた。元の襖の位置から外された時に巨木はその根を切断され、生涯を終えていたのかもしれない。まさに楓は散り、そこには単なる古びて痩せこけた枯木があったまでであった。ともすれば水墨画のような境地で私はこの世の諸行無常を託して、この作品を眺めていた。哀悼と惜別と義憤の念を胸に抱いて。作品を照らす光の照明加減はただ単に煌煌と照らすのみで、さしたる藝もなく、ともすれば地方の箱モノ行政で作られた人気のない寂れた美術館のような下卑た印象を拭いきれなかった。等伯に罪はない。あるとすれば等伯というネームバリューにあぐらをかいてふんぞり返っている智積院であろう。等伯の慟哭が私には聴こえた。来年からは智積院は研究行程から外した方がいいだろう。行ったとて何ら見る価値はないだろう。あるとすれば哀れな美術品、見るも無惨な作家の魂の残響を聞き取ることができるくらいだ。以て他山の石となす。それのみだ。
 復元された障壁画がある部屋は池を有した庭に面している。その復元されたものもやや微妙であった。迫力はあるにはあったが、それは感動にまでは達しなかった。金メッキされ、多彩な文様を描かれた仏像がエジプト美術のように毒々しい“いやったらしさ”を以て私たちの前にたち現れるように、この障壁画も当時の美的センスが現代に理解されづらいということもあるのやもしれぬが、それでもやはり私にとってはパンチが足りなかった。ともすればNHKの大河ドラマで美術小道具として役者の背後に描かれている障壁画の方がクオリティーが高いように感じた。しかし、そう思わせるのはテレビの映り方からに起因するかもしれないから、本当のところはわからぬ。だがそれ以上に確実で私が驚愕し、あきれたのはその庭に面する部屋の照明であった。ちょうど良く庭の光が揺らめく池に反射して、揺らめくままに部屋の中に入ってきているというのに、部屋の中はなんと、まぁ、あきれたことであろうか、普通の蛍光灯がカッカと点いているではないか。おそらく作品がよく見ることができるようにといった寺側の配慮であろうが、それは要らぬお世話だ。本物の美は時を超えるから、要らぬ作為は迷惑なだけである。明日をも知れぬ安土桃山の武将達が一息ついたまさにその場で、私たちは“同じもの”を感じたいから其処にいるわけで、秀吉や家康と、そして自分と語らう為に其処にいるのだ。美を堪能する虚構の世界に蛍光灯は要らぬ。野に花のある如くに作品を展示してもらいたいものだ。頭を下げるのなら私が敢えて教えてやってもいいとつくづく思った。
 偉大なる人類の遺産は全くもって護らねばならぬものである。それは紛れもない事実である。ではあるが、もっとも護らねばならないのはその精神である。その作品が生々しく鑑賞者と対峙できない展示で作品が護られるのであるならばその作品は燃えてしまっていいのかもしれない。現代性をもって絶えず更新され続け、見るものを震え上がらせる美にこそ存在し得る、かつ保護され得る価値がある。そういった価値のあるものを私たちは後世に伝えていかねばならない。であるからして、京都のどこかの寺社のようにレプリカの襖絵ですら近づいて見ることができないというのはもはや異常としか言いようがない。何の為に公開するのか、寺社側はわかっっているのだろうか。寺社側の生臭坊主が祇園で遊びほうける為に公開してもいい。悪人正機だから、それが人間の業だからそれはそれでいい。だが一番大事なのは美といったものが広く人を豊かにさせ、そしてそれがゴータマが語った一切の生きとし生けるものの幸福に寄与する為である。それを忘れてなにが名勝であろうか!なにが由緒ある寺社であろうか。本末転倒である。脚下照顧せよ。精進なされい。
 また最後に、古美術研究を通じて考えたことは、寺社の非公開の公開制についてである。確かに私たち東京藝術大学の学生はエリートであるからして、そのノーブレスオブリージュを行使したる為に非公開の作品を鑑賞する権利があるのは当然である。だが、しかし、私はその非公開とされているものを一般にも広く公開すべきだと思う。ただし、それには条件を付けるべきである。それは入場時に靴を揃えることができたり、敷居を踏まないだとか、作品を鑑賞する際には貴金属などのアクセサリーを外すことや、呼吸器付近にハンカチーフ等を添える等といった一般常識といったものは当然のこととして、そこから更にその寺社の歴史、由緒、来歴に関する試験等を行い、それに合格したものがその寺社の有する非公開藝術作品を鑑賞する権利を有するといったものである。そうすれば遍く一般に公開することもできるし、なにより作品の保護といった観点からも十分に寺社側の保護と衆生の鑑賞とが両立できるのではないだろうかと思う。
 まとめとしては、古美術研究旅行は実に楽しかった。本当に楽しかった。アルティメットに楽しかった。なんといってもハーレムであった。この年になってハーレムに恵まれるとはまさか思っても見なかった。仏と謳われるM先生の御上で煩悩にまみれた若い男女が酒池肉林に耽る有様はまさに末法の世であった。その背徳感もまた乙なものであった。悪人正機南無妙法蓮華経。南無阿弥陀仏。また是非行きたいと本当に思う。本学の歴史に残るであろう優秀な教員と、まぁ、助手さんも含めてあげましょうか、と実に贅沢な時間を過ごさせていただいた。私は作家を目指している人間である。実に類い稀なる汲めども尽きせぬインスピレーションの泉が我の中に湧いたのを確信した。
 いや、あっぱれ!実に美(たの)しい研究旅行だった。余は満足である。

認識の瞬間の作家

Version:1.0 StartHTML:0000000294 EndHTML:0000017848 StartFragment:0000004620 EndFragment:0000017812 SourceURL:file://localhost/Users/user/Documents/%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E7%81%AB%E6%9B%9C%EF%BC%95%E9%99%90%E3%80%80%E5%B7%9D%E7%80%AC%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88.doc

 見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ。
                            ———金子みすず
 本レポートは以下の引用を付して本論を展開する。

「最初の魅惑、最初の理念」、「最初のヴィジョン」・・・何らかの事物が美しく見える際の、見え方のこと。
ボナールは、部屋に入った一瞬に見えるものを描く、とも語っている。
その瞬間においては、対象が何であるかに重きを置く通常の知覚は行われていない。
しかし、そうした特別な見え方を維持できるのは限られた画家のみであり、ボナールにとってはそれは直ちに消え去ってしまう。
薔薇のヴィジョンを出発点に描こうとしても、薔薇を目の前にして観察すれば、見えるのはその細部のみであり、ヴィジョンからは遠ざかってしまう。
——20111129日 ボナール(1) ボナールとバゼーヌ P2より引用
 
 ボナールは認識の一刹那のエッジを探求した画家であった。新世界に踏み込みフェルディナンドを見初めたミランダの感情を類い稀に絵画に表現した画家である。写真で絵画は終わったと囁かれていたかもしれぬ当時に彼は絵画にしかできないことを成し遂げたわけである。それはあたかも認識の木の実を齧ったその瞬間に、初めて人類が見た景色に近しいのかもしれない。彼の絵は人間が人間らしく楽しみを享受できる環境を生み出してくれる。
 我々が決して認識することができない世界は数多ある。我々はヤーコプ・フォン・スキュルの環世界から脱することはできないから、我々は我々の認識の制約で世界を見る。小林秀雄はその制約を引き受けるからこそ美が生まれると語ったわけだが、今回私が取り上げる作品はその制約を美に変えた作品を紹介し、考察したい。
 私が取り上げる作品、それは天体写真である。M51渦巻き銀河やオリオン大星雲M42などを撮った写真である。ここで自然は藝術作品ではないという考えもある。だが私は天体写真を藝術作品であると定義したい。藝術の本質である、人為と感動というファクターをこの天体写真は如実に内包しているからである。そもそも写真自体が藝術作品として今現在既に流通しているから説明は蛇足であるかもしれない。
 本題に入る。これらの天体は通常、人間の眼では見ることができない。それは距離的な面からも見ることはできないと同時に、肉体の限界の環世界では見ることができない可視光線から逸脱したX線やγ線といった光を放つ天体だからである。つまり、見ることができない天体を我々が認識し、かつそれを美しいと思うのはそれが、おそらく科学者だろうが、によって色付けされているからである。人間の環世界からすれば何千、何億という時間のかかる超新星爆発も宇宙の歴史から見ればそれは人間がものを認識する瞬間と同様の一刹那にすぎない。
 一刹那を描いた絵画なら五万とある。なにもボナールだけが一刹那を描いた画家ではない。フェルメールだって、ゴヤだって一瞬を描いた。私がここでボナールの絵画に天体を比したのは私の恣意性もさることながら、客観的なそれ相応の理由がある。それは、その一刹那の持つ情報量の混沌さ、である。ボナールが認識の瞬間を捉えた絵画にはすべてが混じり合ったカオティック何ものかがある。それはあたかも混沌、七竅に死す(出典『荘子』)といった曖昧ですべてがドロドロとした未分化な状態を醸し出している感が共通している。
 我々は普段から意識してものを見て生活している。だが実はそう思っているだけで、実際私たちは何かに熱中しているときだったり、ぼーっとしたりしている時に何を見ているのか本当は覚えていないのかもしれない。無意識に見る世界と認識の瞬間の世界は似ている。いや、ともすると同じなのかもしれない。というのも無意識の世界を認識させられるのが意識が生じる瞬間だからである。それは陰陽と相通ずる。無意識があるからこそ、意識の世界があるということだからだ。意識の世界なくして、無意識の世界も情景も存在し得ない。
 宇宙の始まりと認識の始まり、宇宙の終わりと認識の終わりは構造的にも造形的にも類似的な印象を拭えない。DNAとかたつむり、つむじ、鳴門海峡の渦巻き、台風、銀河といった渦巻き構造に見られるホロン型構造を私は真理だと思っている。ある種の宇宙の絶対的な秩序をば私はそこに垣間見てしまう。ボナールが描いた絵画はまさに宇宙の天体写真であるとすら言っても過言ではあるまい。
 何度も繰り返しになるが人間は環世界から逃れることはできない。だからこそ、この環世界の混沌に我々は驚嘆し、ある時には美を見いだす。虫の世界も、死後の世界もは我々がこのように見えると推測できるまでだ。だがそれでも推測できる世界がある。神、天国、地獄、極楽、魂、11次元宇宙、無、禅といった認識の境地は汲めども尽きない。ボナールの絵画は天体写真のように我々が中間者であると覚醒させてくれる。ボナールのはしごを上れば、考える葦の前には今日も新世界が広がっている。


           星とたんぽぽ
                   金子みすず

         青いお空のそこふかく、
         海の小石のそのように、
         夜がくるまでしずんでる、
         星のお星はめにみえぬ。
         見えぬけれどもあるんだよ、
         見えぬけれどもあるんだよ。

         ちってすがれたたんぽぽの、
         かわらのすきにだぁまって、
         春のくるまでかくれてる、
         つよいその根はめにみえぬ。
         見えぬけれどもあるんだよ、
         見えぬけれどもあるんだよ。

                         

かわいい美学

Version:1.0 StartHTML:0000000366 EndHTML:0000013740 StartFragment:0000004004 EndFragment:0000013704 SourceURL:file://localhost/Users/user/Documents/%E9%87%91%E6%9B%9C%E4%B8%80%E9%99%90%E3%80%80%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%81%84%E3%81%84%E7%BE%8E%E5%AD%A6%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%80%E6%95%99%E5%93%A1%EF%BC%9A%E6%9D%91%E5%B1%B1%E5%85%88%E7%94%9F.doc
金曜一限 美学レポート 教員:村山先生
                     学籍番号1110224 一ノ瀬健太
              
              かわいいの必然性

 ポストモダンがカワイイに行くつくのは必然であった。ニーチェは神を殺し、デュシャンは藝術を殺し、フランシス・フクヤマは歴史を殺した。すべてが死んだその後に残るもの、それがカワイイ、だった。
 カワイイを構成する最も重要なファクターは、幼児性である。芥川が子どもがカワイイ理由を、それが決して私たちが騙されないと確信しているからであると語ったわけだが、彼はやはり明察であった。騙されないこと、則ち、ジョゼフ・スティグリッツの情報の非対称生を軽々と超えたその先にカワイイが待っているといっても過言ではないだろう。すべてのものが白日の下にさらされれば、もはや騙されることなど何もない。世界すべてが見通せる千里眼があるのだから。
 すべてが死に、あとは同じ構造が繰り返されるだけだ。1945年には二つの大きな雷が東の楽園に轟いた。2000年初めに二本のバベルの塔が崩れ、昨年には大海嘯が日昇る国を覆い、ノアの箱船が白い小さな家に乗った。ホピの予言通り大地は汚染された。人類はレヴィの構造から逃れることはできない。できないからこそ、起きることはもうすべて分かっている。日の本に新たなるものは何も無いのだから。
 漱石が近代人の病理と語った、他人を見下し、自分一人を尊いものと考える病は今なお多くの我々現代人も罹患しており、我々は常に物事をメタにメタに見つめようとする。客観的であれ。客観的であれ。広い広い視野に立て。鳥の目線で俯瞰せよ。エンドレス。と呪詛のような脅迫観念で自らに思念を植え込む。その結果、理性的に、理性的にと物事を見るに至った結果、私たちはすべての物事をあたかも見通したかのような錯覚に捕われるようになってしまった。ウィキリークスも、アンノニマスもすべてを披瀝できるわけではない。だが、情報の非対称性があたかも消え、ネットのおかげですべてが見渡せる感のような、ある種の小さな物語の中での神のような全能感に浸れるようになったものからすればすべてが児戯に見えてしまう。引きこもりのニートもオタク達も皆現実の三次元、ポパーの世界1では蔑まれ虐げられ搾取される側なのにも関わらず、彼らは小さな物語の中で神たれる。現実の虫けらは今日も個室で神になる。神からすればすべてはカワイイ。実に現代人は、理性的であろうと、すべてを見渡してやろうという、ルサンチマンにまみれた結果、あたかも消えてしまったかのように見える情報の非対称性を錯覚し、すべてがカワイイという実に感情的なものに行き着いたというのは実に面白いことだ。カワイイとは則ち現代の弱者のルサンチマンである。歴史から消え行く名もなきもの達の戯れの場として、萌えがある。そこには鴎外が晩年に辿り着いた諦念がある。現代の締念、それが萌えであり、カワイイなのだ。神を殺し神になった人間はすべてがカワイイと錯覚するルサンチマンの化身になった。リベラルであろうとすることは、カワイイに行き着く。この世のすべてを客観的に見つめれば見つめるほど世界はカワイく愛しく見えてくる。古の大和の歌人たちはカワイイを愛しいともうつくしとも歌った。最終的にはアナンダよ、世界は美(たの)しい、などと言ってしまうものも出てくるかもしれない。
 すべてがカワイイと思える社会へ移行しつつあるのか。もちろん現実問題として東電がかわいい等と思っている人間はほぼいないのであろうが、東電や政府の対応はたしかにカワイかったとも云える。というのもすべてが明るみにされつつある昨今、それでも未だにその対応の拙さは消えないからだ。東電、含む巨大産業が実際に虐げられている我々をカワイイと思うことは理にかなっているが、虐げられている我々自身が虐げているもの達をカワイイと思うのは意識の倒錯である。だが、それは人類普遍の知恵であり、それがユーモアであり、皮肉なのである。漫画の神様手塚は語った。漫画の本質は風刺です!と。漫画やアニメは権力に対抗し得る。カワイイは権力構造の非対称性を皮肉る。だが、しかし皮肉るが、やはり最終的には、巨大産業に対して何もできないし、アクションすら起こさない限りにおいては、私たち自身が最もカワイイ存在であろう。無意識に笑顔で真綿で自分の首を絞める私たちの姿は、なんとも萌え要素抜群ではないだろうか。
 カワイイとは、現代の病理である。動物化するポストモダンの小さな物語の中で神たれるのならば、たとえ大きな物語の世界が壊滅しようとも、個室で神たれる小さな世界を望むものは多い。だがそれでも私は大いなる一縷の希望を持っている。なぜなら小さな物語の世界に生きる神々が現実の世界でリンゴを植えるようになりだしたからだ。今回の4月中における商業的原発の全停止は彼らが木を植えた成果でもある。カワイイは世界が美(たの)しくなるその過渡期の現象である。萌えとは、則ち、ニヒリズムを通した現代の締念イデオロギーである。しかしその背後にある、大いなる共感が人と人とを現実で繋ぎもする。ニヒリズムの振り子は大きく揺れるのだ。小さな世界は大いなる物語へと繋がり始める。小さな物語の世界と大きな物語の世界は同時並行的に両立可能なのである。現実の嫁と俺の嫁は共存できるのだ。カワイイは世界を自由にする。カワイイは世界を変える。

蛇足:横山大観は語った。日本画の本質は線である。と。手塚が語った漫画の本質である風刺。線はもっとも速く、もっとも簡易に描ける絵画である。日本が世界の現代文化のエッジにいるのは文化的に見ても必然であろう。いかんせん、その言語がボトルネックになって世界、主にハリウッドに対抗しづらく、劣勢ではあるけれども、ジャパニメーションは世界を覆っている。マンガ、アニメには目を見張るものがある。日本のライトノベルの軽さ(主に初期設定だけで話が動いていくこと等)と日本の出版システム(作家から消費者に届くまでの過程)はスピードを加速させる。重い古典や現代文学からすれば物足りなく、見下されてしまう類いのものではあかもしれないが、パイオニアはいつも劣勢から始まるものである。小説が、マンガが、アニメが市民権を得たように、いずれはライトノベルも市民権を得るだろう。ゆくゆくはセンター試験にもマンガ、ライトノベル、果てはアニメーションまで登場し、メイとサツキの心情問題が国語の大問2に出題される日もきっとくるにちがいない。

2012年1月11日水曜日

久しぶりのやしきたかじんの何でも言って委員会!

やっぱおもろーーーーーーー!!!!!!

これ今んとこテレビにできるマックスだな!おもしろいよーーーーー!!!!


もっと市民権獲得しようよーーーーー!!!


ー2012年のこれからー

民主党の代表が交代して総選挙。

口だけでなく、実動部隊として動け!4年だけやれ!体張れ!

基礎自治体へ。市役所から府から国へのたらい回しを阻止!地方道州制。

お上は引っ込んでてくれ!

水戸黄門の終焉と中央集権時代の終焉。高度経済成長=中央集権

大統領の暴走よりも議会の暴走のほうが怖い。なぜなら議会は責任をとらないから。

橋本ファシズムへの期待。民主国家同士の戦争、ツイッター、フェースブックとかあるのに、、、隣人を殺せるのか!!?

自衛隊員がツイートとかすんのかな。

公僕と聖職のことばの復権から。

坂の上の雲から、五十六とか、うん、60年経った今、日本は客観的に戦争をみてるんじゃないでしょうか。

被災地で5万円配布、奥さんが返しにきた。なぜ?旦那がもらってたんで。他の人にあげてください。

医療崩壊の可能性、名医ブームに惑わされるな。
重症患者が見れなくなる。

名医に集中すると、3ヶ月待ち、、、そのためがんのステージがあがってしまう。
さらに一次、二次、三次と上がっていくべきもの。
町場のクリニックから総合病院、それから大学病院とステップしていくべき。
最初から大学病院に行く金持ち。
ランキングはいんちき。難しい手術はやらない。にげてるだけ。

紹介状がないと診療できなかった。

ヤブ医者だけど名医。自分の手に負えない者は自分の車で送る。

医師数を1.5倍したところで何も意味はない。

国公立大学の医学部には税金を使ってる。だから縛りをもうけるべき。地元勤務10年とか。初期のがんは総合病院。難しい者は名医へいってもしかたない。

脳がおかしくなると犯罪しゃになる?食べ物、とか水とか。

500人のキャリアが27万のノンキャリを仕切ってる。もっとノンキャリを優遇するべき。短眠ですぐ死んじゃう。

電力自由化。ドイツ40パーセント、日本5パーセント。

原子力、1キロワット8.9円は火力とかとなんらかわらない。これもうそ。実は15円。

原発は安全だということも嘘になったし、安いというのも嘘と判明。

電力の自由化で料金が安くなる。電話も安くなる。NTT独占で高かった。

スペインモデル。2万機、風力は予測できる。オンラインコンピューターで。ガスと風力で最適化できる。効率化も可能。

2012年1月7日土曜日

3、11以降ツイーと


»

 一ノ瀬 健太 
夜の散歩、月がきれい。星もよく見える。桜の花びらをスッと鼻で味わう。はぁ、ええ匂いやわぁ。いつもと違う道から帰る。小股という表札のかかっている家を発見。ちいさいおまた、頭をクレヨンしんちゃんにして帰る帰り道なのでした。
 ケラリーノ・サンドロヴィッチ 
そうそう。今は不謹慎より不寛容をなくすべき。
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
一寸先は闇だが、その闇はきっと温かい。
 一ノ瀬 健太 
エジプトに続いて、誰がこの先進国、安全国家日本でこんな事態を想定していただろうか。1万人の安否不明は、不明ってだけで、実際には、そのほとんど多くが生きていると勝手に解釈していたが、、、ちがうのか?ここは日本だろ?先進国だろ?まじか。一寸先は闇だな。
 一ノ瀬 健太 
どこかで人ごとだと思っていたニュージーランド。めっちゃ揺れて、ひょっとすると人ごとじゃないなと思っていた今回の地震のはじめ、1万の死者となったら、もうぜったい人ごとじゃないな。まじで。身近な人が絶対に関わってる。もう当事者として行動しよう。
 一ノ瀬 健太 
まあまあ、落ち着け。落ちつけ。“不謹慎”があるほうが健全なんよ。どんな時も“KY”は必要なんよ。それもあっての“オール・ジャパン”なんよ。 
 一ノ瀬 健太 
@ 
 いいね! あと、童謡が聞きたいです。日本の心を。
 一ノ瀬 健太 
藝術の可能性を信じる!バッハとかモーツァルトとか、ベートーヴェンとか現場で聴けたらいいな。
 一ノ瀬 健太 
生き残ったダヌタさんの手記の中にはこう書かれている。ミケランジェロやショパン、シェークスピアたちが私たちを最後まで支えてくれました。
 一ノ瀬 健太 
アウシュビッツのような過酷な環境の中で、最後まで生き残った人々を支え続けたのはユーモアと藝術であった。
 一ノ瀬 健太 
@ 
    素晴らしい!それ頂きました(●^o^●)!
 一ノ瀬 健太 
世界って何だ?神って何だ?人間って何だ?
 一ノ瀬 健太 
大学に落ちた人、受かった人、被災した人、ちょっと被災した人、被災しなかった人、天国と地獄とその狭間、神は多様性を好むというが、この多様性っていったい何だ?
 一ノ瀬 健太 
@ 
 おめでとう!ようこそ残酷な絶望と夢溢れる希望の世界へ!
 一ノ瀬 健太 
天災は忘れたる頃来る。まだ十分な警戒必要。
 一ノ瀬 健太 
共に生きよう。会いにいくよ。ヤックルに乗って。
 JT 
【公式RTで拡散希望】情報を検索したいけど非公式RTが邪魔だって人は、「 -rt 」を加えて検索する方法を知らないんだと思う。(例えば「おにぎり」で検索したかったら、検索欄に -rt を付けて「 おにぎり -rt 」ね!)意外と知らない人多いから教えてあげて!!
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
“がんばろう東北”から“がんばろう日本”へ!
 一ノ瀬 健太 
”がんばろう宮城”から”がんばろう東北”へ
 ぽよ 
ぽよは、大学&大学院時代の10年を仙台で過ごし、仙台を第2の故郷のように感じている。知人や恩師も沢山おり、本当に安否を知りたいと思う。ぽよがマスコミに期待する事は、外にいる我々よりも被災者に情報を与え、「救けにゆくから諦めるな!」というメッセージを被災者に伝え安心させることだ。
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
民法は速攻性、NHKは確信性の情報。
 一ノ瀬 健太 
“がんばろう神戸”から“がんばろう宮城”へ
 一ノ瀬 健太 
明けない夜はない。
 一ノ瀬 健太 
@ 
 あり(●^o^●)
 一ノ瀬 健太 
祈りは“未”科学。祈りはカオス理論を通じて現実を変える力を持つ。と信じたい。祈りは通じると思わなきゃやってらんないね。念いよ届け。
 一ノ瀬 健太 
今、まさに日本人のアルマゲドンのブルース・ウィルスや24のジャック・バウアーが福島原発で闘ってるんだよなぁ。ありがとう。と祈るしかできねぇや。
 NHK広報局(NHKについてユルく案内) 
救援物資の送り先などのお問い合わせが増えておりますが、行政機関あるいは支援団体などからの案内があるまでは、現地への発送などはお控え下さい。阪神淡路でも新潟中越でも、大量のゴミとなり、処分に困ったと聞いております。必要なものがわかった後に、出来るかぎりの支援をお願いします。
 がリツイートしました。
 勝間和代 
この、インドの生徒さんたちが日本のために祈ってくれている写真をみたら、涙が止まらなくなってしまいました。 出所: 
 がリツイートしました。
 ぽよ 
ぽよは、「今は、住民は理由を聞くこと無く政府と電力会社を信じよ。」と言う意見だ。責任は後で徹底的に追求すればいい。住民の自由に関しても、「シートベルト着用の義務程度の義務として避難せよ。」と言う意見だ。状況から言って、政府は行動を誤魔化す余裕は無いと思う。今は信じて良いと思う。
 がリツイートしました。
 ryugo hayano 
格納容器が守られていれば,大惨事にはなりません.
 がリツイートしました。
 ぽよ 
よく考えてみよう。避難半径が10kmから20kmに広がった事の理由を説明しないことを追求するのと、確実に住民が避難できているかどうか報道するのと、どちらが有用で大事なのか。理由は後で聞けばいい。それとも、マスコミは電力会社に近隣住民を危険に晒そうという陰謀があるとでも言いたいか?
 がリツイートしました。
 takashi ikegami 
何度も繰り返しますが、原子炉が停止してたんだから、最悪でもスリーマイル島の事故と同じ。この時の被爆は、ほとんど問題にならない程度だった! だから、安心しましょう。
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
何が真実か、最後は自分の理性で決めよう。もし自分で決められなければ絶対に掛け値なしで信じられる、命を賭けても後悔しない、そんな信頼できる人を信じよう。
 東浩紀 
原子力資料情報室会見。8時から。 (  live at)
 がリツイートしました。
 Nobuyuki Hayashi林信行 
こちらのUstreamでジャーナリストの岩上氏が東芝の原子炉格納容器設計者インタビュー中。政府や東京電力が全知全能で調べても本当のところはまだわからないだろうとのこと。 (  live at )
 がリツイートしました。
 鈴木健太郎 
拡散してください!RT : これは拡散して知らせてください! 北海道・東北・関東で透析可能な病院一覧
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
@ 
 気にすんな。善意は善意。カント、カント。
 佐々木俊尚 
東電によると、明日の地域ごとに順番に停電させる輪番停電は回避できた模様。/TEPCOニュース|東京電力
 がリツイートしました。
 ぽよ 
原発の人、マスコミの責任追求なんて無視無視。兎に角、安全に冷やせ。1000μSvだって、暫く避難していればなんとかなるし、最大値の場所だけが強調されているだけ。マスコミは、本気の努力の邪魔をするな。
 がリツイートしました。
 ぽよ 
スリーマイル島の時も、チェルノブイリの時も、炉内水位計を信じて冷却を一時的に停止したことが原因だった。もう、水が溢れてもいいから、圧力だけ心配して、冷やせ。放射線漏れで騒がれても、マスコミ無視して、ガス抜き程度、普段の100倍程度なら害は殆ど無い。冷やせ。メルトダウンはいかん。
 がリツイートしました。
 藤原えりみ 
RT : 【拡散希望】 避難する人は絶対にブレーカー落として!じゃないと送電時に火災になって家が燃えちゃうから!拡散して!!!停電から復旧した瞬間ショートして火災というケースも多いようですので停電してても落として!
 がリツイートしました。
 trad11 
 東京電力が輪番停電を決定しました 13日より家庭、工場、公共施設の区別なく3時間ごとに送電を止めるそうです 家庭で医療機器を使用している人には発電機を貸し出すそうです 13日より首都機能が麻痺しはじめます 
 がリツイートしました。
 NHK広報局(NHKについてユルく案内) 
たいへん失礼いたしました。お詫びして訂正いたします「普段使っていないストーブなどの暖房器具を使用し一酸化炭素中毒で病院に搬送されるケースが相次いでいます。使用されている方は注意してください。こまめに換気を。」 RT : 誤字です「換気」ですよ
 がリツイートしました。
 如月兄弟@LUNAVOLO 
各テレビ局が違う役割で放送すればいいのに NHK「地震報道は任せてください」 フジ「関東の地震報道は私に」 TBS「俺は地震発生時のマニュアルを放送するぜ」 日テレ「人命の件は僕がやるよ」 各地方局「「地震対策と地方から出来ることを伝えます」」 テレ東「アニメで子供たちに笑顔を」
 がリツイートしました。
 碇 シンジ 
【拡散】案外知らない方もいるかもしれないので。救急車や消防隊は119番ですが、海での災害の際には118番にかけてください。海保に繋がります。まだ津波などにも警戒が必要であるとのことなので、この事を知らなかったという方は是非RTして他の方にも教えてあげてください。
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
この国はやっぱり、やるときゃやるよ。覚悟を持った時のこの国の強さは半端ねぇ。
 一ノ瀬 健太 
@ 
 今日はナイス働き!見なおしたよ!ありがとう!これからもよろしく。
 NHK生活情報部 
揺れが強かった地域では今後も余震のおそれがあるため、寒さ対策や明かりを確保するために火を使うのは危険です。屋内に避難している人も火の気には注意が必要です。出来るだけ懐中電灯などを使用してください。  
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
俺は今、東京大空襲の映像を見ているのか?
 一ノ瀬 健太 
今、少しでも多くの笑顔を護るために闘っているすべての方々、ありがとう!そして、がんばってください!
 一ノ瀬 健太 
少しでも、多くの笑顔が保たれんことを。
 一ノ瀬 健太 
落ち着くこと。とりあえず落ち着くこと。1にも2にも落ち着くこと。どんな時にも理性を失わないこと。ゆっくり急げ。
 一ノ瀬 健太 
結局、今の俺には祈ることしかできない。無力だねぇ。
 堀川中立売 
【TLまとめ】●玄関あけろ●米炊け●荷物は玄関へ●水、菓子、タオル買ってこい●毛布出せ●懐中電灯●サランラップ●靴はけ●浴槽に水ためろ●出来るうちに携帯充電しろ●ブレーカー落とせ●ガスの元栓締めろ●電話は最低限●ガラスや塀に注意●とりあえず落ち着く【順次追加希望】
 がリツイートしました。
 松田美由紀 
【拡散希望】生死を分けます。躊躇をすべて無視して、近所に住んでる。障害者、難病患者、患者、高齢者の周囲に近所に声をかけまくって。自力で動けず、避難所に行けず、室内が散乱して危険、閉じ込めもあるかも。
 がリツイートしました。
 ぽよ 
津波の秒速は、大体(深さの10倍)のルート。沿岸だと、深さはせいぜい10メートルぐらいと思うから、秒速10mだ。つまり100m先に見える津波は10秒で到達するから、普通の大人なら50mぐらい逃げられる。車に乗り込む暇は無い。車は道を塞ぐだけだから使うな。
 がリツイートしました。
 ぽよ 
電話連絡は無理。暫く東北地方に携帯電話するな。100万人が互いに連絡しあったら、100万×100万=1兆回の回線処理が必要となる。これを1m秒で行えたとしても、10億回線分の処理装置が必要となる。絶対無理。早い者勝ちにはならない。結果として、誰一人電話を使えない。
 がリツイートしました。
 星野大介 
【緊急拡散希望!】【人命にかかわります!!】電話の使用は極力避けてください! 非常の為の119番や110番がかかりづらくなっています 安否の確認は災害用伝言ダイアル171番 またはツイッターなどのネットの利用でお願いします
 がリツイートしました。
 未来@レスキュー合体、始め! 
何度も言うようですが、車に乗っている人はすぐにスピードを落として、道路の左側に止めて下さい!そのままでいると緊急車両の邪魔になります。私の、親戚は阪神の時、一般車が邪魔になり緊急車両の到着が遅れ亡くなりました。拡散希望です
 がリツイートしました。
 一ノ瀬 健太 
生きろ!
 ようこ 
 RT : 家具に埋もれて動けなくなったら机の脚でも何でもいい、とにかく叩けるものを叩いて音を出せ。“2・5・2”のリズムは「要救助者あり」の信号。消防職員が必ず救助する。