2012年1月14日土曜日

ショアーと内海先生

Version:1.0 StartHTML:0000000258 EndHTML:0000019387 StartFragment:0000004155 EndFragment:0000019351 SourceURL:file://localhost/Users/user/Documents/%E3%80%8E%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%80%8F%E3%81%A8%E5%86%85%E6%B5%B7%E4%BF%A1%E5%BD%A6.doc

『ショアー』と内海信彦

 講義の最中に扱った『ショアー』を参考にしつつ藝術家、内海信彦を取り上げ政治と藝術と記憶について論じる。
 私は内海信彦に教えをこうたことがある。彼は今も予備校や大学で教鞭をとっている。最近ではフェースブックを用い本気で革命を起こそうと尽力されている。私も応援している。彼の話はウィットに富み、時にシリアスに、時に下ネタを交えて面白おかしく私たちの好奇心を刺激し、道を説く。彼は藝術家であり、彫刻家であり、料理人であり、教師である。人間を全人間として全人格的に生きる藝術家である。
 そんな彼の作品に、『レクイエム』という作品がある。十数年前の作品であるが彼はポーランドのアウシュビッツで行ったライブペインティングパフォーマンスである。重低音の音楽がアンビエントミュージックとして流され、立てた大きな白いカンバスの前に裸の人間が踊る。彼はナチスの軍服の格好をして登場し、狂気に満ちたトランス状態で踊る人間に赤や黒といったファインパウダーをこれでもかと叩きつける、といったパフォーマンスである。パフォーマンスの終わり頃には白かったカンバスはグロテスクな暗黒混沌に染まり、そこに阿鼻叫喚したかのような人間の白い影だけが残響として残る。そんな作品である。
 彼のパフォーマンスには多くの賛否両論がある。わざわざポーランドくんだりまで行って寝た子を起こすな、といった批判は今でも多くある。しかし、彼がシンポジウムなどでも語っていることだが、ポーランド出身の方で家族を失った遺族の方の多くから言われたことは、ありがとう。の感謝の言葉であった。
 ヴァイツゼッカは過去の過ちを認めぬ者は、また同じ過ちを繰り返すと『荒れ野の40年』で語ったように、内海信彦はそうした全人類が共有すべき歴史的な悲劇を繰り返さないようにするためにパフォーマンスを行っている。真実はいつも残酷だ。だから彼の作品から多くの人が目を逸らしてしまうのだ。だがしっかりと目を見開いて見つめねばならない。彼は人間の業と闘っている。朝はガス室に人を送り焼却し、人体実験を行い、人の皮を引き伸ばしたシェードのランプの明かりの元でバッハに涙する。この人間非人間的なものを彼は探求し、悲劇を背負いつつも人間の善なるものを追い求めている。
 彼は記憶を決して風化させない。彼はアウシュビッツがあぁ、かわいそうな出来事でしたね。といって完結することを極度に嫌う。なぜならアウシュビッツは過去の問題ではなく現代の問題だからだ。アウシュビッツは至る所にある。アウシュビッツは日常性の問題なのだ。この本学でさえもアウシュビッツはある。張り紙は禁止され、非人間的な官僚制が敷かれ、ひとりひとりの教員や職員自体はとてもいい人であるのに、それが組織の中の人間になったとたんに人が変わる。あたかもこころの先生のように人格が変わってしまうのだ。無自覚に保身に走ってしまう人間がどうしてアウシュビッツを笑うことができるというのだろうか。たしかにアウシュビッツに比べれば本学は天国である。けれども、それでもやはり、いわれなき自由を縛る非人間的な官僚制はアウシュビッツを彷彿とさせる。そして眠るだけの講義、意味のない出席カード、国立の大学だから仕方ないという鷗外もびっくりの諦念が蔓延っている。システムの破綻と蟻のコロニーの限界閾値の問題かもしれないが、いずれにせよ改善の余地は十二分にある。こんな日本に誰がした?と言いたくもなるが、人のせいにするだけではアウシュビッツを自分の問題としてとらえていない。人のせいにするだけではアウシュビッツを風化させてしまうことになる。何も学んでいないということだからだ。悪がなされるのは悪自体ではなく、それを黙認する人間の所為である。とアインシュタインが語ったように、アウシュビッツを自分に引きつけて考える。自分が自分自身がその片棒を担いでいるということを自覚しなければならない。もっと自分の罪深さを自覚することこそがショアーやアウシュビッツ、マイダネク、ヒロシマ、フクシマの解決に繋がっているのだから。だから私が自分に引きつけてこの問題と記憶を考察した時に、自分の周りでこのことを吟味し、それに関していえば、身近なところでは、この大学についてでも、たとえば大学自体が就職予備校と化すことに私は反対である、などだ。私自身、人の幸せに干渉することは好まず、人の生き方は個人で決めればいいと思っているが、やはり大学の就職予備校化には反対である。なぜならそれは食うか食われるかの極限状況下で食う方を選ぶことを奨励しているように思えるからだ。誰かが率先してこの負の連鎖を止めなければならないのに、それに拍車をかけてしまっている。そうではなくて一歩引いてオルタナティブを出すノーブレスオブリージュを持たなければいけないと思う。藝大生は激しい競争を勝ち抜いてきて、ここで学んでいるのだからその社会的な義務がある。落ちていったもの達に、こいつになら負けて本望だったと思わせ、成仏させてやらなければならない義務がある。だから社会を覆うそうした人権弾圧とはノーブレスオブリージュを持って戦っていかねばならない。自分は保険をかけて、大学をやめず、こうしてレポートまで出して単位を欲しがっている。自分は今のところ就活をするつもりはないが、来年追い込まれれば人間何をしでかすかわからないから、そうしたファッショ的行為をしてしまう時があるかもしれない。そうしたこころの先生のように自分が変わる可能性には常に自覚的でありたい。私は学生運動も何もしていない。人のことをとやかくいえたものではない。ただ活動家に湯豆腐をおごるくらいのことしかしていない。自分にできることはこうしてノンポリの振りをして、罪悪感に苛まれ続けて、自分の罪深さに自覚的であり続けること、そしてそれでも、考えて考え抜いた結果、可能な限り自分の立場を表明し、意志を示すだけだ。政治は中立を許さない。だから私は政治が嫌いなのである。私は原発反対の署名があったら現段階では一応署名する立場をとっている。同年代の若者が街角に立って、上野駅の改札の前で署名を集めているところをみると、私は自分にshame on you!と自分自身に言いながら。だが、これが私のできるアンチアウシュビッツ的態度であるし、勇気が出た時には勇んでアウシュビッツに反対をする運動に参加したいし、行いたい。本学の3年生を見ていて思ったこと、そしてすでに私の学年にもすでにこの病魔が進行してきているし、後輩の中にも既にこのアウシュビッツへと邁進している者も少なからずいる。何もできない彼らが無自覚的であるだけになおさら君悪く思える。自分にとってそれはアウシュビッツの片棒を担いでいる感覚に近いものがあるのだ。私はゲーリングでいるよりはロマン・ロランでいたいと思うし、可能な限り悩み続けるガンジーであり続けたい。それが記憶を風化させないということだ。賢人は歴史から学び、愚人は経験から学ぶ。歴史は絶えず現代の問題として更新され続けなければならないのだ。それを少しでも周りの人間に還付していきたいし、石田先生にも、そして藝術学含めた、藝大の全教職員にもそうした態度を望みたいと思う。歴史とは更新され続ける現代史なのだから。
 自分が見たいと思う世界の変化となる為に、まずは自分自身を知り、そして自分自身を動かす。そこからしか記憶の風化は止められない、それが私の暫定的な結論である。静かな絶望を生きることは私には耐えられない。だから私はこのことばを胸にして生きていきます。
 
 孤独に歩め、悪を為さず。林の中の象のように。


 脚下照顧。

0 件のコメント:

コメントを投稿