金曜一限 美学レポート 教員:村山先生
学籍番号1110224 一ノ瀬健太
かわいいの必然性
ポストモダンがカワイイに行くつくのは必然であった。ニーチェは神を殺し、デュシャンは藝術を殺し、フランシス・フクヤマは歴史を殺した。すべてが死んだその後に残るもの、それがカワイイ、だった。
カワイイを構成する最も重要なファクターは、幼児性である。芥川が子どもがカワイイ理由を、それが決して私たちが騙されないと確信しているからであると語ったわけだが、彼はやはり明察であった。騙されないこと、則ち、ジョゼフ・スティグリッツの情報の非対称生を軽々と超えたその先にカワイイが待っているといっても過言ではないだろう。すべてのものが白日の下にさらされれば、もはや騙されることなど何もない。世界すべてが見通せる千里眼があるのだから。
すべてが死に、あとは同じ構造が繰り返されるだけだ。1945年には二つの大きな雷が東の楽園に轟いた。2000年初めに二本のバベルの塔が崩れ、昨年には大海嘯が日昇る国を覆い、ノアの箱船が白い小さな家に乗った。ホピの予言通り大地は汚染された。人類はレヴィの構造から逃れることはできない。できないからこそ、起きることはもうすべて分かっている。日の本に新たなるものは何も無いのだから。
漱石が近代人の病理と語った、他人を見下し、自分一人を尊いものと考える病は今なお多くの我々現代人も罹患しており、我々は常に物事をメタにメタに見つめようとする。客観的であれ。客観的であれ。広い広い視野に立て。鳥の目線で俯瞰せよ。エンドレス。と呪詛のような脅迫観念で自らに思念を植え込む。その結果、理性的に、理性的にと物事を見るに至った結果、私たちはすべての物事をあたかも見通したかのような錯覚に捕われるようになってしまった。ウィキリークスも、アンノニマスもすべてを披瀝できるわけではない。だが、情報の非対称性があたかも消え、ネットのおかげですべてが見渡せる感のような、ある種の小さな物語の中での神のような全能感に浸れるようになったものからすればすべてが児戯に見えてしまう。引きこもりのニートもオタク達も皆現実の三次元、ポパーの世界1では蔑まれ虐げられ搾取される側なのにも関わらず、彼らは小さな物語の中で神たれる。現実の虫けらは今日も個室で神になる。神からすればすべてはカワイイ。実に現代人は、理性的であろうと、すべてを見渡してやろうという、ルサンチマンにまみれた結果、あたかも消えてしまったかのように見える情報の非対称性を錯覚し、すべてがカワイイという実に感情的なものに行き着いたというのは実に面白いことだ。カワイイとは則ち現代の弱者のルサンチマンである。歴史から消え行く名もなきもの達の戯れの場として、萌えがある。そこには鴎外が晩年に辿り着いた諦念がある。現代の締念、それが萌えであり、カワイイなのだ。神を殺し神になった人間はすべてがカワイイと錯覚するルサンチマンの化身になった。リベラルであろうとすることは、カワイイに行き着く。この世のすべてを客観的に見つめれば見つめるほど世界はカワイく愛しく見えてくる。古の大和の歌人たちはカワイイを愛しいともうつくしとも歌った。最終的にはアナンダよ、世界は美(たの)しい、などと言ってしまうものも出てくるかもしれない。
すべてがカワイイと思える社会へ移行しつつあるのか。もちろん現実問題として東電がかわいい等と思っている人間はほぼいないのであろうが、東電や政府の対応はたしかにカワイかったとも云える。というのもすべてが明るみにされつつある昨今、それでも未だにその対応の拙さは消えないからだ。東電、含む巨大産業が実際に虐げられている我々をカワイイと思うことは理にかなっているが、虐げられている我々自身が虐げているもの達をカワイイと思うのは意識の倒錯である。だが、それは人類普遍の知恵であり、それがユーモアであり、皮肉なのである。漫画の神様手塚は語った。漫画の本質は風刺です!と。漫画やアニメは権力に対抗し得る。カワイイは権力構造の非対称性を皮肉る。だが、しかし皮肉るが、やはり最終的には、巨大産業に対して何もできないし、アクションすら起こさない限りにおいては、私たち自身が最もカワイイ存在であろう。無意識に笑顔で真綿で自分の首を絞める私たちの姿は、なんとも萌え要素抜群ではないだろうか。
カワイイとは、現代の病理である。動物化するポストモダンの小さな物語の中で神たれるのならば、たとえ大きな物語の世界が壊滅しようとも、個室で神たれる小さな世界を望むものは多い。だがそれでも私は大いなる一縷の希望を持っている。なぜなら小さな物語の世界に生きる神々が現実の世界でリンゴを植えるようになりだしたからだ。今回の4月中における商業的原発の全停止は彼らが木を植えた成果でもある。カワイイは世界が美(たの)しくなるその過渡期の現象である。萌えとは、則ち、ニヒリズムを通した現代の締念イデオロギーである。しかしその背後にある、大いなる共感が人と人とを現実で繋ぎもする。ニヒリズムの振り子は大きく揺れるのだ。小さな世界は大いなる物語へと繋がり始める。小さな物語の世界と大きな物語の世界は同時並行的に両立可能なのである。現実の嫁と俺の嫁は共存できるのだ。カワイイは世界を自由にする。カワイイは世界を変える。
蛇足:横山大観は語った。日本画の本質は線である。と。手塚が語った漫画の本質である風刺。線はもっとも速く、もっとも簡易に描ける絵画である。日本が世界の現代文化のエッジにいるのは文化的に見ても必然であろう。いかんせん、その言語がボトルネックになって世界、主にハリウッドに対抗しづらく、劣勢ではあるけれども、ジャパニメーションは世界を覆っている。マンガ、アニメには目を見張るものがある。日本のライトノベルの軽さ(主に初期設定だけで話が動いていくこと等)と日本の出版システム(作家から消費者に届くまでの過程)はスピードを加速させる。重い古典や現代文学からすれば物足りなく、見下されてしまう類いのものではあかもしれないが、パイオニアはいつも劣勢から始まるものである。小説が、マンガが、アニメが市民権を得たように、いずれはライトノベルも市民権を得るだろう。ゆくゆくはセンター試験にもマンガ、ライトノベル、果てはアニメーションまで登場し、メイとサツキの心情問題が国語の大問2に出題される日もきっとくるにちがいない。
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