おっはー!今日も元気に生きようぜぇ!題名のない音楽界を聞きながら。
人はなぜつぶやくのか?昨日はいろいろな知識を頭に詰め込む日だった。家から一歩も出ずにただただ、知識の吸収、見聞を広める有意義な時間だった。溜まった一週間の新聞をオールチェックしたり、ゴミ捨て場にあった本を読んだり、とある科学の超電磁砲を一気に全部見たりした。そんな時間の中でひとはなぜこうもつぶやくのかということが分かった気がした。
それはたぶん、以前にも説明した通りつぶやかなければならない状態になるからなのだ。あるものに触れた時に“あぁ、あれ”ともののあはれを感じた時に人は体の中にわき起こった感動を体の外に出さなければ気が狂ってしまう、そんな状態になるからだ。感じ入る対象は何だっていい。カラスだって、ピアフだって、初音ミクだってなんだっていい。ゴッホでも、ルノアールでも、隆でもなんだっていい。新聞の記事でも、ラノベでも、人は共鳴することを止めることはできない。いうなれば人は歌うことから逃れることはできない。ツイッターばっかりやっているとこいつ閑人なんじゃないかと思われるんじゃないかと思って、一日につぶやく回数を自分に制限していたが、それは間違っていた。それはつぶやくことを制限するのではなく、それは歌うことを制限していたにすぎなかったのだ。つぶやきに飲み込まれることは本末転倒である。それはこれからも禁欲的でありたいが、それと同時に歌うことに関しては無制限に折りにふれたときに、ところどころで詠んでいきたい。よく歌を詠む人間は心やさしき風雅な人間である。そんな風流な酔興な詩人になりたい。朝日新聞の歌壇、俳壇欄読んでいてそんなことを思った。そして今それを読んでいるのが世界で自分一人なんじゃないかという感覚にも襲われた午後一時。みんな、つぶやくだけじゃなく、もっと歌を歌ったり、詠んだりするようになればいいんじゃないかなぁ。
またラノベについて。ラノベ、ラノベとバカにしていた自分がいたが、けっしてラノベはラノベそれ自体で劣っているわけではない。ただ安易な初期設定だけで話が進んでいくところがちょっと軽かった感じがして、明治、大正、昭和文学の臭いが大好きなぼくとしては、“名もなき拒否反応”みたいなのがありまして、いうなれば、ルーズベルトの一番やってはいけない恐れ、恐怖をもっていたわけで、いうなれば、食わず嫌いってなわけで、ハッとさせられたのは、最近の若者は、最近若者は、とかいうおっさんに限って若者のこと全然知らないってことなんだなってことだ言うことに気付いた。人間は人間なのである。一括りにできるものではない。ってことで、だから、それを知っているぼくはステレオタイプが大好きで、日本人の男は海外では全然モてないとか、ドイツ人はみんな無愛想だとか、中国人はみんながっついているとかね。安易な簡単なステレオタイプ、だいすきなんだよねぇ。もっとも火のないところに煙は立たないというから、あながち完全な嘘でもなく、つまり、日本人は謙虚だというのは、日本に来た外国人が謙虚な日本人に会い、それに感動した比率がたしかに多かったということであろう。常に大事なのは比率なのである。日本人にも傲慢な奴はゴマンといる。ゴーマンかましてよかですか?はたくさんいるが、その率は確かに低いんだろう。ドイツ人“イタリア人”の様に明るい野郎がたくさんいるが、全体の比率として無愛想な奴が多いからそう思われるんだろう。中国人にしても然り、孔子の子孫だっている。謙虚な奴もいることでしょう。傲慢な奴もいることでしょう。それが人間なんです。それが多様性なんです。ぼくの大好きなね。だから最近の若者、若者って言ってるうちは、メディアに踊らされてるんだね。モンスターペアレントもしかり、いい親だらけだよ。ふつうの親だらけだよ。読んでる君の家の様に。ふつうなんだよ。医者も、先生も、親も、中国人も、みんな普通なんだよ。基本的に。ただ人間はおりにふれ、珍しいものを見た時には感動してしまうから、それがものすごく印象に残ってしまって、結果、ステレオタイプが形成されて、自分の真理を見失ってしまう。大切なものがどっかいって舞うよ。ってことになる。自戒自戒。
ということでこれもごたぶんにもれず、ラノベもそうなのである。昨日はとある科学の超電導砲を一気に全部見たわけだが、やっぱ面白かった。ハルヒも、らきすたも、けいおんも面白かった。今まで見てきた。オタクだから、それを好む人がオタクだからという理由で勝手に変なもの、珍奇なものと思ったらあかんね。とりあえず、食べる。食べてみる。しっかり咀嚼して味わってみる。原住民にだされた虫の料理も笑顔で喜んで食べる。丸飲みにせず、口中で味わう。特大いも虫の口の中でむっちゅっとつぶれる感覚を味わう。鼻で息をする。そうすると、あれ!なんかクリーミーな感じがする、なんかちょっとうすいクリームシチュウみたいな?といってまた、もう一個食べる。原住民もぼくらもみんな笑顔で楽しくワイワイ。それが本物の“理解されるよりは理解されることを”である。アッシジの聖人が述べた誓いの言葉である。これこそがあるべき藝術鑑賞なのかとおもわれる。そしてただ、もし口に合わない時は遠慮すればいいだけのこと。決して相手を貶めず、ただ自分の口に合わないと言えばいいだけのことである。貶めて、蔑視する必要はない。どんな時にも相手に対する敬意を忘れてはならない。それがあれば何をやったって、何を見たって、何を聞いたって、うまくやっていけるであろう。
ラノベにはラノベの真理の語り方がある。純文学には純文学の真理の語り方がある。どちらも“もののあはれ”を生み出してくれる。涙が寄り添ってくれる。それにかわりはないのだ。
人は歌わずにはいられない。いいものはいい!と誰かに伝えたい!叫びたい!ただ体の中のこの感動を外の世界に出したい。そう思わずにはいられない。
あぁ、神様!この世界の多様性に
ありがとう
やべ、文末、ありがとう作戦にはまりそうだ、、、
本日の歳費:金麦170ぜいたくしちまった、サバ水煮100、じゃがりこアンチョビ128、サンマ蒲焼100、銀座カリーパン88 計586円 也