二次試験について、前回までの24、ER、プリズンブレイクって感じ?前回の続き。
問題 それを芸術作品とする人もいれば、しない人もいるというように意見が分かれるもの、
または分かれたものを1つ(または1種類)選び、それぞれの側が出すであろう論拠を想定して提示しなさい。
芸術作品とはいったい何であろうか?まずは芸術作品という概念を定義し、その後にその題意に基づいて考察をしていく。
一般的にいって、そもそも芸術の本分とは美の追求であるとともに、時代の真実をあらわす鑑(ツァイガイスト)であり、国境や、時代、社会の変化を超えて遍く多くの人々に感動をもたらすものである。そして藝術作品は何も造形芸術だけに限られたものではない。音楽や文学などの非造形芸術、さらには近年のインスタレーションなども当然含まれる。ここでは内海信彦氏のインスタレーション作品を取り上げ、賛否両方の面から対話(ダイアローグ)を重ねていく。
“素晴らしい芸術作品のない国は不幸だ!”、“否!素晴らしい芸術作品を必要とする国こそが不幸なのだ!”二人の男たちが激しい舌戦を繰り広げる。“お前の造る芸術作品など素晴らしくもなんともない。下品で、お下劣極まりないだけだ。ただ重厚で、気味の悪い、悲壮感漂う音楽をかけて、その前に全裸の人間を立たせて、お前はナチの軍服を着て、そいつらに紅い粉をただ叩きつけて、ひとり悦に入ってるだけじゃないか。あんなのは子どもにだってできる下等なものだ。技術なんて何もいらないじゃないか。それにわざわざアウシュビッツくんだりまで行く必要があるのかねぇ。”、“お前は芸術というものを何もわかっちゃぁいない!お前の考える芸術はただうまくて、きれいで、心地いいものとだけでも考えているのだろう。芸術はそんなつまらないものものではない!そんなに懐の浅いものではないのだ!わざわざアウシュビッツに行くことにこそ意味があるのだ。敢えて、まさにその地で、そのインスタレーションをやることにこそ重大な意味があるのだ。”、“その意味とは何だ?”“祈りだ。”、“ぬはは、馬鹿げている。馬鹿げているぞ。そんな傷口に塩を塗るようなことをしておいて、何が祈りだ?救いだ?馬鹿も休み休み言え。”、“では、訊こう。お前に俺がやったことができるか?お前はさっき子供にでもできると言ったが、じゃあ、やってみたらどうだ?”、“そんな暇は“そんな暇はない、とお前は言うだろう。勇気のなさを言い訳してはならないのだ。それにお前は訊いたのか?現地に行って、彼らの声を。少なくとも俺は彼らと直に接し、俺の為した行いが彼らの救いになっていると肌で実感した。そういうお前は、実際に現場を見てきたのか?”、“ふん、何もわざわざ寝た子を起こすな、と言っているだけの話だ。どうして過ぎたことをまた、掘り返す?”、“思い出さねばならないのだ。思い出すことで、人間は人間になるのだ。過去に目を閉じるものは、また同じ過ちを繰り返すのだ。お前はもう、よもや、またあの惨劇が起こることはないだろうと思っている。だが、違うのだ。あれは過去の出来事であるとともに、未来の、そして今の我々の姿なのだ。”、“な、なんだと!?”、“今の社会を見渡す時、限りなく花開く人間の可能性がいったいどこにあると言える?俺たちは縛られているのだ!自由の抑圧にさらされているのだ!満員電車に揺られ、牛丼を食べ、家と会社を往復する毎日のどこに花開く人間の可能性があるというのだ?それが無意識的であるだけに、なおたちが悪い。その為に声をあげられぬちいさな者たちがいる。親や、学校、会社、国家、その陰にひっそりと息をする声なき声に耳を傾けるのだ!人間は鳥や、獣ではないのだ!人間には追及すべき価値のある生き方がある!それは道徳であり、科学であり、宗教であり、そして芸術なのだ!そして、それを伝える手段として、俺はあの芸術作品をこの世に生み出したのだ!”
内海氏の芸術作品は論争に絶えない。だが限りなく“ちいさき者たち”に寄り添おうとする彼の態度は素晴らしく思う。ブレヒトの異化効果や、ヴァイツゼッカ、ヴィンデンバルト、フランクル、神谷美恵子などをコンテキスト付けながら、声なきに聞き、形なきに見る彼の芸術作品は芸術とはなにか、そして、人間とは何かについて、鑑賞者の魂をひどく揺さぶる。壮絶極まりないアウシュビッツの極限状況下で人間を救ったもの、それはショパンであり、ミケランジェロであり、ルーベンスであり、そしてシェークスピアであったのだ。その意味において彼の芸術作品はその系譜に連なる極めて優れた芸術作品だと言える。
冒頭、彼らの舌戦はまだまだ続くであろう。大事なのは互いに歩み寄ることだ。理解されるよりは、理解されることを、愛されるよりは、愛することを求めたアッシジのあの聖人のように。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい。彼の作品に涙は追いつけない。
問題を見た瞬間に受かった!と思った。後で入学してからわかったことだが、ここ5,6年ディスクリプションなるものが出題され続けていた。ディスクリプションなんて言葉初めて聞いたよ。二枚の絵を並べて比較してその造形的特質を述べよ的なやつかぁ、はぁ、俺はそれに6年もの間苦しめ続けられてたんだね。という会話をしたっけかな。まぁ、いいや、いずれにせよ、コレを見た瞬間イケる!いや、イった!と思ったのは間違いない。ただ、瞬間的に迷ったのは、あまりに膨大な作家が頭を駆け巡ったということだ。とりあえず、デュシャン、ルノワール、カンディンスキー、岡本太郎、そして内海信彦という我が師匠的な存在。造形藝術もいいが非造形藝術もいいな。音楽もいい、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ストラヴィンスキー、ジョイス、カフカもいいか。ここで五分くらい悩んだ。手持ちのコマがあり過ぎるのも困ったものだ。愛されすぎて、こまっちゃうなぁ~、と山本リンダを口ずさんだ、それぐらい余裕があった。ただ有名どころの方がいいんじゃないか?と一瞬おもねりかけた。そしてデュシャンやルノワール、岡本太郎は他の受験生と被るんじゃないか?とも思った。結局、ここが合否の分かれ目だったように今になって思う。私は内海信彦という、マイナーと言っては失礼だが、まぁ、まだ時代が彼に追いついていないだけではあるが、その彼を選んだ。こんな人を選んだら落とされるんじゃないか?みんな有名どころを書いてくるのに自分だけマイナーなものを選んで大丈夫なのか?不安が一瞬よぎり、シャーペンが一瞬止まりかけた。止まりかけたが、もしここで他のものを選んで落ちたら、それはそれで一生後悔する。だがマイナーな作家でも自分の魂が書けという、この作家を選んだほうが後悔はない。それでダメだったときはしかたねぇや!やった後悔よりも、やらなかった後悔を恐れたい。そう強く思った。そうしてまたペンを走らせた。もうペンは止まることがなかった。ただただ時間までカッカカッカと蒸気機関車の様に目標に向かって猪突猛進に走り続けた。止め!の合図がかかった時にはただただ達成感の蒸気のみが私の二つの大きく広がった鼻の穴から勢いよく噴出していた。心中にはただただ、やったぜぃぇぃぇぃぇぃぇぃ、というやまびこがこだましていた。
200点中125点だった。点数が私の意に反し意外に低いとも思ったが、やはり時代のエッジ(先端)を走る藝術はどんな時代も理解され得ないのだなとつくづくとも思った。時代が追いつくのを待っていよう。他の合格者に話を聞くとやはり、デュシャンもルノワールもいた。デュシャンに至っては3人もいた。デュシャンを書いたものの中から一人だけ選ばれるのかとも思ってはいたが、違ったらしい。いやわからん。デュシャンを書いたものが10人くらいいたのかも知れない。真相はブラックボックスの中である。
まとめである。結局イイタイことは
“決められたルール、枠の中で自己を十二分に表現せよ!”
ということである。自分を表現するに決してためらうな!はじめは、おそらく君たちは理解されないかもしれない。けれども独り坊ちであることを恐れるな。友はやがて君たちのもとに訪れるのだから。
待ってるよ。桜の花咲く、上野の学舎で。一緒に勝利の美酒を酌みかわそうぜ!
待ってるよ。桜の花咲く、上野の学舎で。一緒に勝利の美酒を酌みかわそうぜ!
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