2011年2月8日火曜日

ぼくは小学5年ちぇい

 東京藝大で開催中の“ぼくの色、わたしの形”展覧会に行ってきた。

 子どもは良いね。自由だよ。ほんと。それが高学年になってくると作為が見えだしてダメになってくる。こう書いた方がよく見られるんじゃないかというような他人の目を気にし出した瞬間に作品はダメになるね。作品のクオリティーは他者の視線を意識し始める思春期の到来とともに下がって行く。美的基準が自分から他人にシフトして行く。結果、みな似たようなつまらない作品になっていく。素晴らしい藝術作品は自己の自問自答でしか生まれない。そこには他人が介在する余地はない。自己に忠実でありさえすればそれでいいのだ。だがそれが難しくなってくるのがあの年頃でもある。

 また作品がダメになるもう一つの理由としては、うまくなるためにはそれ相応の努力を要するということだ。くだらないおしゃべりをしながらではいい作品はつくれない。話せば話した分だけ作品に込められるべき熱量は減って行く。昨日誰をおかずにしたとか、関ジャニで誰が好きとか言う話は作品の価値を減ずるだけだ。だけだがその話は、そこでする話は実に面白い。そこでしかできぬ話でもある。手を動かせば口も軽くなる。それにある種のあきらめが既にある。どうせ本気でやったって、作品の質はたかが知れてる。それに本気でやってたらイタイ奴に思われるだけだろ。美術にそこまで賭ける気は毛頭ないね。といった感じだろう。まぁ、あそこにある作品自体が先生たちの恣意的審査を通ってるわけだから何とも言えないけどね。まぁ、そんなだべってる奴らよりはいい作品なんだろうけどね。

 また展示について。展示品に触れないのはいかがなものか。本は触れて当然だろう。それはよろしい。問題は布や木、金属系統の作品だ。触ったっていいじゃないか。砂時計の作品が触れないってどういうこと?だれが壊すの?砂時計は砂が流れてこその砂時計でしょ!布は触れての布でしょ!あんなところでこどもたちが展示をみたら美術品とは何か?を誤解してしまうでしょうが!ガチガチに管理された監視の中で作品なんて見れませんよ。えぇ、そうじゃないか、諸君。子どもの作品だから触ってもいい。まだ無名の人の作品だから触ってもいい。そう言ってるんじゃありません。一流のアーティストも指輪とか茶碗を、見る限定ではなく、実用を兼ねるものであるならば、触らせなきゃだめでしょ。戦国の茶人は見て触れることで美を鑑賞したんです。何ですか?いまの美術館は!近代的な美の陳列は!あんなの見るだけじゃないですか。触れないじゃないですか。あんなのはたちの悪いSМですよ。餌を前にした犬にお預けしてよだれを垂らさせて遊んでるのとおんなじですよ。たちの悪い。そんな鑑賞方法、鑑賞環境の中で育った子どもに美術鑑賞なんてできる訳ないじゃないですか!何が藝術ですか!自分で字自分の首をしめているのがわかんないですかねぇ。そういうのを本当のバカというんです。バカに付ける薬がないから面倒なことになるんです。


 だからぼくはこっそり子どもたちがたくさん集まっていたから、聞いてみましたよ。砂時計の前で。みんなさかさまにしたいって言ってましたよ。だからね、僕はさかさまにして挙げたんです。え!まじで?いいの?そういっているにもかかわらず、じゃあ、やめよっ、というと、やってぇ!という。だから、やってあげたんです。そうしたら子どもたちは、おおっ!と目を見開いて“あぁ、きれい、、、はぁ、、、、、”っていったんですよ。そこにいた全ての子どもたちが!これですよ!これ!これこそあるべき美術鑑賞なんです。作品の保護よりも子どもの目の輝きにこそ重きが置かれるべきなんです。プライオリティーを間違っているんです。作品が壊れたら私が直します。だから温室でトマトを育てるのはやめなさい。カラッカラの大地でトマトを、子どもを育てるんです。自分の性的な欲求不満を子どもたちにぶつけてはダメですよ。自分の欲求不満くらい自分で解決しなさい。


 そんなことをおもった展覧会でした。多くの幼稚園、小学生、中学生が来館していた。中学生は中ではしゃいでいたため、60人くらいが外で先生からお説教をくらっていた。その先生の後ろで、私がコマネチをしたら大爆笑だった。それでまた怒られていた。あの時期は何をやっても面白い。感性がマックス鋭い時期である。花ビラが落ちるだけでもおかしい、そんな素晴らしい時期である。多感な、センスを磨く時期である。私の鑑賞方こそ彼らにふさわしいのである。もちろん、彼らだけに限定されるものではない。万人が万人に遍く当てはまる美術鑑賞方法なのである。


 本日の出費;475円 也       合格

0 件のコメント:

コメントを投稿