2011年2月16日水曜日

東京タワー

 高きに登り、いよいよ人の意見に耳を貸さなくなる。そんな中国の諺がある。

 東京タワーに行ってきた。登れば、耳がちょっと痛くなったというよりは耳がちょっと違和感を感じたくらいだった。
 
 眼下に蟻のように小さい人々が所狭しと歩いている。車を運転している。走っている。余は天下を睥睨し実に愉快である。このような太平の心持で常日頃いたいものである。だが余もまたひとたびここを下ればぎすぎすとゆとりをなくした一平民に戻るに違いない。余は少しでもここにいた心持で今から舞い戻る俗世を送ることにしよう。もののあはれをもって生きよう。

 見晴らしはいい。天気も快晴であった。ずーっと眺めていることができる。高い料金を払ったから元をとってやろうなんてことは毛頭考えなかった。ただ眺めていたい。ぼ~っと何も考えずに。オノヨーコが語ったように空の碧さに優る藝術作品はない。また海の碧さに優る藝術もない。自然を超える藝術は存在しないのかも知れぬ。モナリザも一輪の花にも勝てぬのかもしれぬ。ただ暑い。熱い。地上よりも高い所に位置しているからかやけに暑い。これは客の回転をあげる策略なのかしらん。まぁ、いい。富士が見えた。それで十分である。富士には月見草がよく似合う。エレベーターを降りながら、富士が原爆のターゲット候補だったことを思い出していた。ここに原爆が使われればヒルズも、皇居も全てがぶっ飛ぶんだなと思った。そしてつい50年前にはヒロシマとナガサキで使えわれたんだな、と思った。今眼下を歩く何も知らぬ人間のような人間がいて、その人たちが一瞬で灰になったんだな。と思った。何ともいえぬあはれな気分になった。

 蝋人形館にも行った。その隣のお化け屋敷?というよりはお化けシアターにも行った。蝋人形館はぎりぎり元を獲った気がしたが、お化け屋敷は微妙だ。アバターを知った者はもう戻れない。あれはいったい何年前に導入したものなのだろうか?鉄拳1の時代に見たら画期的であったろうが、いまはもう平成23年だ。3Dが当たり前の時代だ。カクカクの映像は古く、怖いというよりも滅びゆく、温泉宿のゲームセンターを見たときに感じるあのあはれにも似たものを映像に見てしまったために、恐怖の前にあはれを感じてしまったためにまったく怖くなかったのが本当の所である。新東京タワーができる。この150メートルのこの高さの4倍である。滅びゆく者にもののあはれを感じる。

 祇園精舎の鐘の音が聞こえてきた。東京タワーは滅びない。スカイツリーができたからと言って壊される訳ではない。高度経済成長からこの日本を見つめてきたこの塔は今も日本を眺め続けている。人に歴史あり。東京タワーに歴史あり。詳しくはトラッドジャパンで。三丁目には今日も夕日が登る。



 本日の歳費;2000 特別展望台、1000蝋人形、お化け屋敷 、830上野 九州ラーメン にんにくいれすぎた、明日は誰とも話せない。425、2785 フィルム代   計7030円 也

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