創作活動を言い訳にして日記を付けることを怠っていた。ゴッホの書簡を読んで改めて自分が情けなくなった。言い訳は理由にならない。
最近怠っていた理由は、ひとたびブログを書けば3000字を越えなければならないという何の根拠もない強迫観念じみたものを感じていたためである。だからあえて、面倒なことになるからと書かずにいたわけである。だがそんな甘えも今日で終わりである。毎日書く。ネット環境があるなら毎日書く。怠らず書くことをここに誓う。これを読みし人が証人である。毎日書くと決めれば、毎日たった疲れた。ふぅ。といった感じで10文字以内になるかも知れぬが、固定はしない。自由に。自由にをモットーにこのブログを細々と続けていく。余が生涯のライフワークの一つである。
ゴッホをみならって自己に忠実に自分が思ったことを詳細に綴って行くのである。余はゴッホである。君はテオである。
藝大の卒展、実に面白かった。下手な都心の大規模展覧会よりも余っぽど面白かった。全体的に日本画は微妙だった。こんなことを書けば敵をつくるかも知れぬが、それでもやっぱり思ったことは書いておこう。どうせだあれも見ていやしないのだから。日本画で記憶に残っているのは蛙と南国の少女の絵だけであとは何も残っていない。彫刻はすべて思い出せる。彫刻は良かった。どこに何があったかまで隅から隅まで配置が頭に入っている。油画も面白かったが、全体的にパンチがたりなかった。まぁ、それでもだいたい記憶に残っている。デザ化、工芸、大学美術館にあるものはすべて頭に入っている。頭にうんこビルを乗せていた人形、立体がシュッとひきしまっていて良かった。全てに関して批評したいのは山々だが時間にも限りがある。全てに関して批評できるが、ここでは割愛しよう。よって今回はひとりだけ取り上げる。だれにしようかしらん。
うん。そうしよう。
W田さんからのリクエストがあったので彼の批評をしましょう。
W田さんの作品について、読んでおられることを想定して記しておきます。
今回の彼の作品は彫刻ではあったが、彫刻は彫刻でも音楽的彫刻であった。シンセサイザーやノイズの混じったアップビートでポップなミュージックが泉のように一斉に湧き立ってくる、そんな彫刻であった。他の作品が重量感に溢れる質的彫刻であったなら、今回の彼の作品はかたちの美しさ、幾何的造形に重きを置いた構造的秩序に基づく作品であった。ノリのよいアップビートな音楽は人の心を浮遊させ、俗界と峻別させるある種の酩酊感すら漂わせる。幾何的図形の狭間で揺れるその作品にはほかの作品とは異なる“軽さ”がその特徴にあった。見るものに幾重にも重なる幾何の曼陀羅が怒濤に押し寄せ、窒息すらしてしまう情報量に、死の直前に感じるあのエクスタシーが脳裏を霞める。昇天寸前まで導かんとする愛は性欲か、はたまた魂のハートか。今回の彼の彫刻は天を目指した。地上を離れんとする彫刻は軽くなければ重力には勝てぬ。天を目指せぬ。そのために彼の彫刻は軽さを希求した。その為に彼の彫刻は“軽”かったのである。ここまでは批評である。
ここからは感想である。次回は彼の“重い”作品が見てみたい。高村光雲みたいな“重い”やつを。今回はポップなアップテンポのビートが脳髄を駆け巡る彫刻であった。次回は重低音のウーハーを効かせたビートを刻む“ズシンっっ”とくる作品が見てみたい。
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