批評はかっこわるい。
近来、批評とは他人のふんどしで相撲をとることだと思われている。
批評とは他人の作品を使って自己を語ることだと思われている。
批評とは藝術界に寄生する虫である。高階秀爾は藝術界切っての特大サナダ虫である。
批評家とはダンゴ虫やミミズ、バクテリアといった藝術界の分解者である。
目立たぬ存在ではあるが彼らがいなければ世界は回らない。
そうだ。それでいい。間違いない。返す言葉もない。
こんなイメージが流布したのはいつのことからだろうか?
かつて批評家は太陽であった。教養の化身であった。尊敬の的であった。
そんなイメージは露と消え、すべてがフラットと化した。
藝術学科の存在意義が重箱の隅を突くことを生業にしはじめ、
フィールドの外で野次を飛ばすだけだと思われてからずいぶんと時間が経った。
どんな批評の傑作もその作品の前では児戯に等しい。
この事実の前にはいかなる「批評」も嘘にならざるを得ない。
だが、人は口を噤むことはできない。感じたものを誰かに伝えたいと思った時、
それが「ことば」となり、「批評」になる。
“いい”とか“わるい”とか、主観を通じた客観を語る。
いうなればそこに剥き出しの自己が表れる。
作家が感じたことを作品にするのと同じように、
批評もまた自己を語るだけのことである。
感じたことを作品にすることに何の変わりもない。
ただ、感じ入ったその対象が人間の作った世界であっただけだ。
世界に感じ入ったのは作家も批評家も同じことである。
ここでは作家の世界に感じ入ったものたちの内部世界が披歴される。
ようこそ、鑑賞者の虫の世界へ。
本日の歳費;国産豚バラ肉149、みっくすもやし105、たまねぎさらだ105、やまざきどーなつ105、やきにくしょうゆたれ105、ころっけ50 計469円 也
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