約一年間お世話になったバイトを辞めた。学業に本腰を入れるためだ。バイトを言い訳にして創作をさぼっていた。本当ならばバイトを続けながら創作活動をせねばならないのかもしれないが、漱石の草枕を読んだら藝術家はのんびりとせねばならないというから一度真っ白になって考えてみたかったし、毎週の土日がバイトでは学校が平日毎日あって、土日もバイトだとのんびり藝術館見学もできずじまいであった。だから今年は授業もあまり出ないようにしたい。大学に本物の学問がないと言いながら、皆勤賞に近かったのは、自分が本気を出してダメだったときのいい訳の理由が俺の本心のさらに裏の方にあった気がする。もう逃げない。この一年を勝負の年にしたい。早くビッグになって有限実行をしたい。今年は昇る年。昇龍の年。
お世話になったバイト先の皆様、本当に一年間ありがとうございました。
学んだこと、それはこの世は驚くほど多くの人によって支え支えられしているのだなと肌で知れたことです。まさにコぺルくん曰くの人間分子網目の法則というわけです。これを臓腑で納得した訳であります。私は東京駅のホームでお弁当を売っておりました。お弁当を食べるまでには、まずは俺のような販売員がいて、そこにお弁当を持ってきてくれる補給員さんがいて、そのお弁当を均等に配るホーム周りさんがいて、安全の立ち入りを見張る警備員さんがいて、お弁当を東京駅まで運んでくるトラックの運ちゃんがいて、工場でお弁当を作る人がいて、具に関しては野菜は農家から、肉は肉屋さんから、魚は漁師から、箱のデザインは社員さん、その時の売れ具合から発注をしたり、みんながみんな支え合い支えられ愛合い生きている。このことを肌で学べて良かった。これが一生涯の宝物になることだろう。何よりも得難い財産になった。東京駅の駅弁は少々高いが、マジでうまい!旅のちょっとしたぜいたくな時間のお供に最適である。これはマジである。衛生管理は完璧すぎである。少しでもパッケージが破けていれば交換である。信頼のできる会社である。そんな弁当だから安心して食べられる。空腹と安心が一番の極上のスパイスである。
もう一つ学べたことは、それはお金を投げて出すような人間には決してならないと決めたことだ。お金を投げて渡すようなことは人間として恥ずかしいことだと思う。お客様は上様であるのは当然だが、それだけで優れた人間ではない。お互いに人間なのだ。そこは絶対に譲れないところだ。だから、人間が人間同士互いに行為を尽くしてそれを喜びとし合えるような関係であることこそが仕事の喜びであり、それこそがあるべき人間の労働の姿なのである。であるからお互いに“ありがとう”といいあう姿がこの世の理想であろう。買ってくれてありがとう。売ってくれてありがとう。販売員だけでなく、買ったお客もありがとうという。言えるお客さんはさすがだなと思う。お金を投げてよこす客よりは人間的に格上だと思う。どんなに高いお弁当をたくさん買ってくれるよりも、ありがとうと言ってくれるお客さんのほうが一番のお客である。そして人間的にも一番である。私は売店に立っても、お弁当を買う側になっても、ありがとうといえるにんげんになりたい。
この国からありがとうのことばが消えていったい何年が経つのだろう。昔はありがとうの応酬があちこちでちらほらとみられたという。三丁目の夕日は安易なノスタルジアで犯罪の件数も今よりは段違いで多かったのも事実ではあるが、それでも昔はありがとうがあった。いまもある。だが少なくなった。犯罪件数が戦後最少となったのはいい。戦後民主主義教育が50年経って浸透した結果だ。だがそれは、俺俺様を増やすことにもつながった。天上天下唯我独尊が無数に増えた。モンスターペアレント、一億総評論家時代、権威の失墜、スーパーフラットは止まらない。加速するだけだ。いよいよやってくるダス・マン社会の到来。それは語り継がれるべき古典の消失を意味する。
我二十有五にして天命を知る。我の為すべきことは失われゆく古典を語り継ぐ事なり。これができれば死んでも構わぬ。魂をもって語り継ぐことに毎日尽力したい。
今までお世話になったみなさんの応援を受け、一ノ瀬健太はここにビッグになることを誓います。
やるぜぇぇぇっぇ!!!!昇って見せるぜ!バベルの塔!
憂ゆく日本を変えるぜよ。
敷島の 大和心を ひと問はば 朝日ににほう 山桜花 ―― 宣長
本日の歳費:806円 (祝い酒216円) 也 実質590円 也
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