2011年1月30日日曜日

大学受験で魂を売ったボク

 

 以下は平成二十二年度東京藝術大学美術学部藝術学科一次試験の再現答案である。

 世界史
 第一問 紀元前5,6世紀の古代ギリシャ文化と1世紀のローマ文化の比較

ドイツの実存主義者カールヤスパースが枢軸時代と名付けた紀元前6世紀頃には“ΓΝΩΘΙ ∑ΑΥΤΟΝ”と語ったタレスをはじめとするイオニア自然学派は従来のホメロスに見られる擬人的な神々における自然解釈から脱した理性を用いた明るく人間的で合理的な現象解釈を行うようになった。無知の知や客観的な真理、ただ生きるのではなく善く生きることを説いたソクラテスやその弟子でありイデアの存在を説いたプラトン等の哲学者が活躍した。また『アガメムノン』のアイスキュロス、『オイディプス王』のアイスキュロス、『メディア』のエウリピデスの三大悲劇詩人も活躍し、また建築の分野ではドーリア式のパルテノン神殿にフェイディアスの彫刻が並べられるなど、均整で調和のとれた理想像の追求がうかがわれる。
また1世紀頃のローマでは時の皇帝アウグストゥスの部下であるマエケナスが文学を支援、保護し、ラテン文学の黄金期を迎えた。『アエネイス』を記したヴェルギリウスは“omnia vincit Amore et nos cedamus Amori”と語り、『転身譜』、『アルス・アルマトリア』をオヴィディウスは記し、『詩集』のホラティウスはその中で、carpe diemと語った。“omnia mecum porto mea”と語ったキケロ等もいた。またローマ法やガール水道橋、アッピア街道、コロッセウム等の建築が整備されるなど実用的な文化の特色を持つ。
いずれの文化も現世肯定的で、享楽的な人間賛歌の面を持つが前者は理想に重きを置き、後者は現実的、実用に重きを置く文化である。


第二問、明代までの江南の商業と工業の歴史

  隋の時代になるまでには江南地方の産業的な意味での大規模な開発は行われてはいなかった。隋代になり大運河の開発がおこなわれると江南も都を中心とする商業圏に組み込まれ、それ以降江南地方は重要な産業の要衝となった。
 唐代には揚州、広州が多くの外国人が行き来する国際色豊かな貿易の街として繁栄したが、未だ政治的都市の性格を色濃く残していた。
宋代にも運河の改修は行われ、ヴェトナムから生育の困難な環境にも強い占城種がもたらされると江南地域は稲、麦の二毛作が行われるようになり、蘇湖熟すれば天下足るという諺からもわかるように長江下流の江南地方は一大穀倉地帯となった。また景徳鎮では青磁や白磁などが大量に作られ一大窯業地となった。商業的緩和政策がなされ政治的都市から商業都市へとその性格を強めた。
 元代には大運河がさらに整備され、ムスリム商人により大量の陶磁器が船舶を通じてイスラム圏、その他周辺地域にもたらされた。
大航海時代における進む世界の一体化、ウォーラ―スタイン曰くの近代世界システムの中で明代になると綿花栽培が広く行われ、それに伴い穀倉地帯は長江中流域に変わり糊広熟すれば天下足ると言われるまでになった。織機が発明されると工場制手工業的生産も行われ、生産された木綿は広く海外に輸出された。海外からもたらされた銀が興隆する貨幣経済を支え、山西、新安商人が活躍した。藍色の絵模様を焼き付ける染付や、五色(赤・青・黄・緑・黒)の釉薬で文様を描く赤絵も生産され、ヨーロッパのバロック、ロココにも影響を与えた。

第三問 19世紀から20世紀初めまでの社会主義思想

時間がなくてあまり書けなかった。全体として箇条書きになってしまった。

パリ・コミューンがあった。とか

レーニンが『帝国主義論』を記した。とか


をなんか思いつく単語、出来事を5,6行書いた気がする。あまり覚えてない。





点数は200点中130点だった。





自分の中での出来としては第一問60点、第二問60点、第三問10点のように採点された気がする。正当な評価、公平無私な評価だとも思える。だが、しかし、しかしここは藝大なのである。藝大なのであるから、一問ぶっ飛んだやつがあったらそれで合格させてもいい気がする。それで200点くれればいいと思う。それで良いと思う。しかし、そんなことばかりをしていたら試験の意味がなくなってしまう。いい子ちゃんなんか藝大にはいらないという気もするが、いい子ちゃんの今までの努力もしっかりと評価されるべきだということも一理あると思う。もし母子家庭の子がいて、その子が母の為を思い、自己を滅し、予備校教育のいいなりになることで合格の果実を食べることができると信じ込んでいるのであったとして、“魂を売った”として、楽しいことから目を背け、ただその為だけに勉強をしてきたのであるとするなら、彼らの努力をシシューポスの神話だと笑うことができるのであろうか?狭い世界にしか生きられぬ、硬直化した固定観念の枠の中でしか生きられぬちいさな魂を持つ者に誰が救いのアンチテーゼを与えることができるのであろうか?世界は広い!ということはわかっててはいてもその枠の中でしか生きられない者に、それがどうして説得力を持ち得ようか?そのバカの壁を超えるものが超一流の藝である。であるがその話は置いておいて、彼らにも正当な評価を与えることが大切である。

試験には枠がある。制約がある。その制約の中で自己を表現するものである。論文の試験において絵をかいてもいいがそれはまったく評価されないのである。プラスにもならないし、マイナスにもならないのである。私の体験談からそう言える。実際に訊いた訳でもないが、訊いても教えてくれぬだろうが、私の皮膚感覚でそう思うのである。実際に試験答案に聖書の一節を英語で書いてみたり、ゲーテをドイツ語で引用した体験としてここに記しておく。解剖学図、少女の漫画を描いた経験としてここに記す。結果6浪したこともここに記す。こういったことを引用しても次の試験には進めるし、その成績開示をした結果も自分の達成感と相談してだした点数とほぼ同じであった。プラスにもマイナスにもならない。だからもしとりあえず、目先の合格に目が眩むのなら、試験の枠に沿って、内容に忠実に、まずはその場の問題に全力で当たった方がいい。そうして50回くらい見直しをしてそれでも時間が余っていたら絵とかを書いてみるのもいい。コワくてかけないとは思うけどね。

もし一流のアーティストになりたいんだったら、論文の試験でデッサンを書け!デッサンの試験で論文を書け!全ては自己に帰ってくる。自己の行いに責任を持て!良かれ悪しかれ全てを受け入れろ!そんな覚悟を持ってほしい。そんな覚悟で受けてほしい。

ここで一つ、試験とは守破離の守である。基本をしっかり学んでいるかの勝負である。型の勝負であるともいえる。サッカーの試験でバスケットボールをしていては勝負にはならない。野球でもダメなものはダメなのである。もし川島が相手のシュートを木製バットでではじき返し、直接、敵陣ゴールネットを揺らしたら、それはそれで世紀の超超スーパープレーではあるが、それがワールドカップ決勝の舞台であったのなら、その得点は認められる可能性はゼロではないが、極めて厳しいであろう。サッカーはサッカーでやり、ハットトリックをとった上で自陣のゴールの裏で木製のバットを振るのが得策である。あぁ、あいつ、あんなこともできるのかぁ、と思ってくれるわけである。実力も不確かなままでは、スゴいことを違う分野でしてみてもダメなものはダメなのである。ピカソたれ!極端な写実のあとに崩すから説得力を持つのである。試験はピカソを求めている。がっちがちの基本が見たいのである。その上でまぁ、発展も見てやろう、ということである。基本とは別にして。ということである。

昨年、私は全ての形式を守った。ある意味で遂に身を屈した。“魂”を売った。好きだからこそ、愛しているからこそ“売れる”魂もあるのである。それはあたかもボキャブラ天国で時間が短いながらも出続けたお笑い芸人が今、結局は残っているのと同じように、愛しているからこそ“売れる魂”があるのである。試験という制約を、枠をしっかりと守った。だが内容に関しては自己を表現するに決して躊躇わなかった。後悔することだけを恐れた。もし自己をありのままに表現してそれでだめなら仕方がないと“諦念”の境地で文を書いた。書いたそれがしっかりと評価された。採点者はしっかりと評価してくれる。採点者が公平無私であることを信じた。こんなこと書いたら落とされるんじゃないかという恐怖に打ち克った。藝術の女神を信じた結果がこれであった。


明日は藝大二次試験を公開する。




つまり結局、何が言いたいのかというと、思いっきりはじけろ!ということである。しっかりと形式に則り、その中で後悔しないことが一番大事なのである。


This above all,to thine ownself be true!


どんな時も自分自身に忠実であれ!  ―――――William Shakespeare

2011年1月27日木曜日

いまのじぶんにできること



 いまのじぶんにできること。

 ただ地道に活動すること。なんの?どんな?

 社会的な発言権を得ること。そのためにブログを書いたり、ツイッターをしたり。

でも本当にそれで世界が変わるの?本気で思ってる?それで世間は君に注目してくれると思うの?

じゃあ、何をすればいい?

人の己を知らざるを患えず。己の人を知らざるを患えよ。

わかってる。わかってるよ。

じゃあ、まずは軽く芥川でも獲るよ。

獲って何?どうするの?

全ての権威が崩壊して、あんなクソつまんないとまでは言わないまでも、何ら斬新さのない小説を書くの?小説の限界だと思わないの?文学なんてもう流行んないよ。もうすぐに全て休刊だよ。だって面白くないじゃん。ジャッカス見てたほうが面白いよ。

とりあえず、待つよ。

待って何?逃げてるだけでしょ?解決になってないよ。攻めなよ。攻めなよ。

そうするよ。嚢中の針だよ。伯楽を待つよ。

伯楽なんて待って立って現れないよ。自分で動けよ。

動いて何になる?どう動く?

とりあえずいろいろな所に送ってみたら。今はネットだよ。時代に合わせないと。古典は永遠だよ。けど様式を変えないと。

そうだな。とりあえず文藝春秋や新潮社に送って見ようかしらん。

かしらんじゃだめよ。送るの。送って千々に乱れなさい。世界の広さを知りなさい。時代の先を走り過ぎてるのよ。時代が追いつくのを待ちなさい。

いやだ。阿りたい。おもねりたい。

おもねって何が残るの?

お金がもらえる。

結局、そこなのね。

否!そこもそうだが、手取りで20万もらえればそれで十分だ。多くは望まぬ。

もっともっとが人間なのよ。あなたはまだ人間を知らない。そんなんだから良い作品が書けないのよ。

よく知ってるさ。嫌なまでに。人間好きの人間嫌いだから、藝術に進んだのさ。詩と画の世界に逃げるのさ。草枕の世界こそ俺の世界だ。

人がいなきゃ、何も始まらないでしょ。あなたがバカだと思ってる人から称賛を得たいんでしょ?平気でゴミを捨てたり、ウォークマンの音漏れしたり、化粧したり、席を譲らない奴の、そんなゴミみたいな人間のアプラウドがほしいんでしょ?ちがう?

うう。わからん。タヒチで朝からシャンパン飲んで、ポケモンがしたい。

全てはそこでしょ。あなた。結局あなたは自分のことしか考えていないのよ。

いや、ちがう。違うがそうだ。イエス、けどノー、後者は大澤真幸。

攻殻引用したって駄目よ。あなたは葵にはなれない。顔はイケメンだからイけるけど、能力が足らないわ。

ちがう。エゴと利他は共存できる。コンパティブル、両立可能だ。

アウシュビッツ?朝にはガス室に送って、夜にはバッハに涙するってことかしら?

ちがう。タヒチでシャンパン飲みながらポケモンしたって、人を助けることはできる。痩せ我慢はできる。マザーみたいに全てを擲ってコルカタにはいけないけども、足るを知るはできる。自分の幸せを確保しながらなら、助けることはできるはずだ。

喰うか喰われるかになったら?

喰う。感謝しながら。凡夫を自覚しながら。

だいぶ打つのが速くなったわね。

だろ。

1200文字に達したわね。

ああ、これで今日のノルマは達成だ。

さすが作家だけあるわね。

ああ、膨らませるだけなら猿にでもできらぁ。

それができない子もいるのよ。世の中には。

へぇ~、そんなもんかいねぇ。

1200文字なんて臍で茶がわかせらぁ、俺にとっちゃ、朝飯前の、朝の小便前ってなもんよ。

ユーモアのセンスもお持ちなのね。
当然。当たり前だのクラッカー。

例えがふるいわねぇ。

頭の中はおっさんなんでぇ~。おおっとぉ~!、あたこうしてるうちに1500文字になっちまったぁ。この才能が自分でも怖いよ。おおこわ、おおこわ。饅頭でなく、おおこわ、おおこわ、お、こわ、おこわ。




おあとがよろしいようで。

2011年1月25日火曜日

日本茶チャ茶!


 日本におけるレオナルド、ミケランジェロに相当するカウンターパートとはいったい何であろうか。洋の東西を問わず、美術、藝術を論ずれば一番はじめに頭の中のイメージはこの二者を思い描くであろう。またはピカソか、岡本太郎か。いずれにせよこのレオナルドとミケランジェロとは西欧のマエストロの中でも格が違う。特別視される存在である。現在、世界のアートマーケットを牛耳るのは西欧である。サザビーズやクリスティーが世界を席巻する。彼らがルールであり、それに従わねばアートとは認められない現状がある。そんな彼らのルールの中において、日本の藝術、美術の扱いはいったいどうなっているのだろうか、レオナルドとミケランジェロの作品と日本のアーティストの作品とを比較して、地球最後の日にどちらか一作品だけを残すことができるとしたら、一つの作品だけを宇宙船に乗せることができるのだとしたら、というそんな問いを道行く人に訊いたときなんという答えが返ってくるであろうか。多くは、レオナルド、ミケランジェロの名をあげるだろう。それは我々を取り巻く文化環境のせいなのであろうか、はたまた本当に、純粋に作品そのものの持つ価値に由来しているのであろうか。わからない。わからないがそれが現実だ。西欧におけるカウンターパート、汗びっしょりになるまでどちらの作品を宇宙に送るか考えられる作品が日本にはあるか、彼らのルールに従ってるうちにそれは可能であろうか、また、別の文化圏の作品を比べることに無理があるのか、はたまた、造形藝術に限らず、文学、音楽などにその一筋の光明をみるか、考察するべき対象は五万とある。論ずる余地は無限にある。その無限に対峙した時、茫然自失となり、いままでの流れに身をゆだねるのか、それとも流れに逆らい新たな境地を開拓するか、現状肯定かドンキホーテか、余はドンキホーテになりたし。
 
 二者を比較する。比較すれば見えてくることがある。西欧と東洋と日本の様式の違いに考察のヒントがあるように思えてならない。比べることはいいことだ。ヴェルフリンだって比べた。日本が知りたいのなら、海外に行け。と同じ構造である。比べれば比べるだけその対象の特質が浮き彫りになってくる。

比較するに当たりまずは、比較を定義する。比較とは同じところと違うところを分析するところにある。レオナルド、ミケランジェロと共に無限者を扱っている。西欧の様式は細密で緻密な、病的なまでの描写である。レオナルドのミクロ点描画法やミケランジェロの超超絶技巧がその例である。それに比べて日本は無限を表現する際には省略を用いる。ここで二つに議論の方向は分かれて行く。レオナルドやミケランジェロのカウンターパートとして細密な描写で対抗するか、省略で対抗するかということである。日本における超絶技巧を凝らした細密描写とは何であろうか。簡単なところでは彫刻の対として運慶があげられる。これならば対抗できる気がする。西欧で運慶がどう思われているか、私は良くは知らない。できれば御教授願いたいものである。いずれにせよ、私の直覚がそう言っているのは間違いないのである。だが日本の細密描写でモナリザに対抗するものが私にはすぐに浮かんでこない。であるから、ここでは日本の得意芸である省略の方からアプローチして行く。

 まずは当然、利休である。削ぎの美の代名詞である。茶である。前衛である。日本人のお家芸は前衛にこそあるのかもしれない。抑圧の壁が高ければ高いほど、前衛の伸びんとする圧力が強まるのかもしれん。それに戦国の世にあって茶という前衛藝術で、小指で簡単に人の首を飛ばすような絶大な権力者たちと渡りあったというところが凄すぎる。それは教皇に物申したミケランジェロにも通ずる。野上弥生子の小説を読むとその凄さが伝わってくる。五本の指で数えられるか、否かの畳の間に、そこに添えられた一輪の花に、虚空が、幽玄が、無限の宇宙が広がるのである。

そして、さらには芭蕉である。

静けさや 岩にしみ入る 蝉の声

夏草や 兵どもが 夢の跡

もう説明する必要もあるまい。たった15文字の世界が無限のイマジネーションを頭の中に押し広げる。その省略は聞くものに、万人が万人に同一の言葉では説明し得ないあの何とも言えぬ、もののあはれを感じさせる。その無限はレオナルドやミケランジェロにも相当すると言っても過言ではあるまい。

だがここで問題となることがある。それは文化の壁と、言語の壁である。利休の無限は日本文化を理解せねばわからぬのではないか、芭蕉は日本語を知らねば、それもネイティブでなければ分からぬのではないかということである。レオナルドもミケランジェロもそれが造形藝術であるだけに人種、国家、宗教等、ありとあらゆる垣根を越えて見るものを無限の世界に誘うだろう。つまりこの両者も日本人にとっては同等の無限の表現者であっても、一歩世界に出ていけば理解され得ないものになるのかもしれない。詳しいことはわからぬがそんな気がする。

では造形藝術のカウンターパートは誰であろうか、すぐに思い至るのが光琳と等伯である。どちらも省略で無限を表わす。時期的にも利休と被る。日本のルネサンスに相当する時代は安土・桃山である。書いていてそんなことを思った。だが、これすらも日本人の心を揺さぶるに足るだけであって。人類最後の一枚には世界の常識というアートワールドのルールの下では、その普遍性を勝ち得ないのではないかという疑問も残る。藝術的に価値を議論することは荒唐無稽であるが、極端な馬鹿げた疑問には真実が隠れている。人質にとられた妻と子供、どちらか一人を助けることができる、さてどうする?究極の二者択一、カレー味のうんこかうんこ味のカレーかなら話は簡単である。そこらの素人が絵画教室で描いた絵とレオナルドなら話は簡単である。マエストロ同士になると話は変わる。国家のメンツが絡むと話は変わる。音楽も文学もそうだ。人類全ての藝術のうちでたった一つだけ作品が残せるのだとしたら、人類はいったい何を残すのであろうか。バッハか、レオナルドか、聖書か、ラスコーか。究極を超えた、至高すらも越えた、禅問答的命題中の禅問答である。

話が広がった。元に戻す。とりあえず、いまのところ私がたどり着いた日本におけるレオナルド、ミケランジェロのカウンターパートは漫画の神様こと、手塚治虫である。今回は“静”なる造形作品を考察するとすれば黒澤と駿も外しがたいが、今回は手塚について述べることになる。漫画には全てが詰まっている。細密と省略が同拠している。細かく描けば北方ルネサンスのネーデルラントの画家並みに精緻であり、時に大胆な省略と可変、それでいてかつ顔の色は白つまり、紙質の色と同じであるのに違和感を与えず、効果線やでトーンを駆使してスピードや光などの様々な現象を多分に表わす。そこには日本のエッセンスが凝縮されている。また手塚の扱ったモチーフが質、量ともにレオナルドやミケランジェロにも相当している点が共通している。だがこれも世界的にはどうなのであろうか、疑問が残る。

問題は欧米式のルールにあるのかもしれん。書きたいから書くのではなく、書くから書きたいことが分かるのだ、は真理だ。書くから書きたいことも、次の課題もみつかるのだ。

総じて、日本におけるレオナルド、ミケランジェロに対する“静”なる造形藝術作品は総合して鑑みた結果、手塚治虫であるという結論に至った。

何か意見のある方いらしたら、教えてつかぁさい。

2011年1月24日月曜日

横浜で見た生存競争の厳しさと現実と

 東京藝術大学先端藝術表現科(以下先端)の卒業制作展(以下卒制)を見に行った。始まり長いな。今日は読み易いブログ構成を狙ってみんとす。

場所は異国情緒を醸し出す歴史ある風景が居並ぶ横浜。みなとみらい線を馬車道で降りる。乗り過ごせば中華街だ。実はそれが真の目的であったりもする。せっかく近くに来たんだからおいしい中華を食べても罪にはならないだろう。いや、むしろ、食べねば罪になる。まぁ、よい、それは後にして卒展の話に戻るとしよう。

のっけから驚いた。取手アートパス事件以降、私は先端がすぐに日和る学科であり、先端は死んだと常々公言していて憚らなかったが、今日はその定説をひっくり返された。やっぱり卒制は違う。学び舎で学んだ全てを込めている。各人が入学から今までの、紆余曲折の4年間、はたまた5、6年間をそこに込めている。それは今までの自分への鎮魂歌であるとともに新たな自分への旅立ちの頌歌でもある。だから私は実に驚きを覚えた。私が考えていた先端はそこにはなかった。ただただ、青春の青臭い、ハチクロ的な汗と涙との結晶があっただけであった。今回の出品者には敬意を表す。そのクオリティーの高さには脱帽した。純粋に面白かった。中でも私のお勧めは笑関図であった。笑いを井上ひさしのように定義する。難しいことをやさしく、やさしいことを面白く、面白いことを真面目に、真面目なことを愉快に、愉快なことをいっそう愉快に分析していた。笑いの分析を大真面目におかしく細かく分析する。病気の野球少年が野球選手とホームランを打ってくれる約束をしたが、その選手が補欠だった時の笑いや、下腹部に毛が生えていたことに気付いた時の笑いなど、事細かに繊細に観察の対象としていた。なかでもADSL(筋萎縮性側索硬化症)の難病と闘う夫婦に笑いとは何かを訊くところは圧巻である。奥さんは病の為に、既に目しか動かすことはできない。笑う為には頬の筋肉が必要である。だがそれは当然もう動かすことはできない。だがそれでも作家は笑いとは何かと問う。奥さんは笑っている。顔には出なくともこころで笑っているのだ。それも笑いの定義である。そこには愛があった。落語の世界の愛、生の、業の全肯定があった。ある種の日本版モンティ・パイソンであった。人間賛歌がその背後にBGMとして流れていた。いろいろな笑いがあることを我々は重々知っている。だがそれはぼんやりしている。そのぼんやりのベールをはぎとり、明確な輪郭線を作家は引いた。シルエットの中に迫り、冷徹な目で人間を見つめた。そんな真摯なまなざしが見ていて心持ちよかった。


しかし、その作家もまた今回の展示の一例に過ぎない。だいたいがこのぐらいのクオリティーを保持していた。これが今の現場か、というか、ほんとうのところはみんな食っていけるのではないか、そんなレベルなのではないかと正直思った。だが現実は甘くない。こんなすごい奴等がひしめいている中でも、本当に食っていける奴、ここではまぁ、売れっ子になるという意味であろう、は十年に一人か二人だという。それもこの先端だけではなく、油画や日本画、彫刻などの全ての分野を含めての話だ。実に藝の道は本当に厳しいものであると改めて痛感した。一気通貫した。清一でしかもドラも乗った。こんな凄い奴等が蠢く世界で、生き残ることは至難の業である。ここはグランドラインである。一億ベリー以上の首が所狭しと犇めく世界である。生き残ることそれ自体が才能である。続けること、それ自体が才能であると突き付けられた。

好きなことをして暮して行くことは、激しい生存競争の後に得た血塗られた安楽椅子である。その椅子の上には今にも切れそうな細い糸で吊られた剣がぶら下がっている。藝で食べていくことは、一国の宰相になるのと同じくらい難しいことである。ストレスも同じくらいかかる。そんな覚悟がなければ藝の道では食ってはいけない。心を鬼にした優しき鬼で、それでいて勇気を持つ鬼が生き残って行くのだろう。我もまたその心優しき鬼の一匹である。蠢く世界の住人である。その血塗られた安楽椅子を求めるものである。

さぁ、ゲームの始まりです。もちろん、この世界に酒鬼薔薇は要りません。バトルロワイヤルですが、バトルロワイヤルではありません。時に批判し、時に協力し、時に孤立し、高め合う者達の集団である。精神的向上心を持ち続けるものたちの烏合の衆である。


いのち短し 恋せよ 乙女 明日の 月日はないものを

明日のことはわからない。藝術は博打だ!ギャンブルだ!そして運も実力だ!

いざ、尋常に勝負と致そう。さ、さ、参る!後のことは神のみぞ知る!








あぁ~~!中華食べ放題、うまし(●^o^●)/!料理も藝術なり。

2011年1月23日日曜日

拝啓、養老孟司様

教養とは人の気持ちのわかること、初めて聞いた時にはなんの意味か分らなかった。


 唯脳論、バカの壁以来、私淑していた私にとって今日の出来事は素晴らしいものだった。生ける伝説、橋本治、柄谷行人と並ぶ日本三大柱の一柱。実に不動。実に自由気儘な人だった。ありのままの自分をありのままに受け入れている。分を知る。それが身体感覚でできる人。また諦めの人。足るを知る人。考える人。実に不動。写真を撮っても何も気にしない。勝手に撮ってくれという。休憩中に独りひっそりと退出し、煙草を喫む。巨木の前に独り佇み、煙草を燻らせる、その後ろ姿は、男は黙って語れという不立文字の教えを説いてるように思えた。雲雀が飛んだ。草枕な人。単独者、光栄ある孤立者、養老先生は神だの、仏だのについては多くを語らない。ただ塀の上を歩けとおっしゃる。そして、それだのに万人が万人にとって、美しいや、正しいといった客観的真理は存在するという。神や仏を語らず、良いことは良い。悪いことは悪いという。養老孟司にパスカルの賭けは通じない。なぜなら神がいるかどうかにかかわらず、正しいことをする人だからだ。禅の教えだ。諸悪為勿、衆善奉行。悪いことはするな。いいことをしろ。ただソクラテスや、ゴータマ、孔子の様に淡々と語る。悲しいかな、しかし、私はそこにを見てしまう。

 養老孟司は絶対者の存在については語らない。それは彼の美意識がそうさせる。彼の魂がそうさせているのだ。といっても、そういうと本人はまた沈黙するだろう。来歴、ベルグソンのいう記憶と言い換えたところで彼の沈黙は破れない。直視人心、見性成仏だからだ。彼は魂についても、その存在についても、多くをかたらない。魂とはサッカー場で行われるサッカーそのものだという。魂、そんなのあるにきまってるじゃないですか!といいきった小林秀雄の逆を行く。だが、それでいて、実は小林秀雄と同じことを語っている。そこにはただ、語り方の違いがあるだけだ。世界の見方は一つではない。同じ対象についてレオナルドは絵画で、ミケランジェロは彫刻で同様のものを表現したように孟司は沈黙することで、その存在を語る。言葉にした瞬間に固まる。柔軟性がなくなる。それをかれは危惧する。秀雄は文士であった。だから書いた。書かざるを得なかったから書いた。猛は医者であり、脳科学者である。その違いがあっただけだ。双方、どちらも抽象は語らない。常に、常に、具体的に、身体的に語る。語る本人が納得したことしか語らないから聞いている側も納得して聞く。だから、猛はわからないものはわからないとする無記を貫く。氷のような情熱を以って。


 今まで、虫や自然、宇宙を愛でる人間がなぜ“あの存在”を語らないのか、実におかしいと思っていた。ダーウィンのセンス・オブ・ワンダーを知り尽くすほどの男がなぜ?と、いつも疑問に思っていた。同じく虫好きな手塚治虫は悉くその存在をくどいまでに語った“あの存在”をどうして孟司は語らないのかと。しかし、今日の講演を聞いてその疑問は氷解した。私は確信した。木の葉の配置、そして森の木々の配置の類似性を熱く語る氏の目が、“あの存在”を熱く語っていたことを。孟司は確信している。だが語らない。ゴータマと孔子が行ったことを実に、このネットが世界を覆ったこの現代において実践しているのだ。

 “神”を語れば楽になれる。なのに猛はあえて語らない。その名のもとに実に多くの血が流れたことを深く知るから。語ればその存在が嘘になるから痩せ我慢をする。真に感動を覚えた人間はただ沈黙する。ただ感じ入る。話せばその感動が嘘になるから。ただ同じものを感じていると信じたい。伝えたい。言葉にしたい。だがそれは不立文字なものである。ジレンマと葛藤がある。そのジレンマをジレンマとして維持させ考えていくところに猛の魅力がある。不可知的態度、これを塀の上を歩くという。無限を相手にする時に、その無力を痛感して“神”を語ってしまう。それはただ、単に自分が楽になりたいからだ。神を語るにはまだ早い。早いが語りたくなる。それが人情というものだ。

本日の美術解剖学会は無限に挑戦するドンキホーテな野郎の集まりであった。筋肉と骨の無限の組み合わせや、脳の中の1000億の1000億乗のエンドレスの世界を相手にする。“世界ってなんだ?””神ってなんだ?”“人間ってなんだ?”に挑戦する無謀な輩の学会であった。二重螺旋、頭のつむじ、渦潮、台風、銀河、そのホロン型構造に感動を覚え、“あの存在”を痛感するものたちの集いである。


 そんな集いであるが、その長は“その存在”に言及しない。そこに日本の粋がある。芭蕉が、利休がいる。絵でも図でもない絵図が日本である。

 教養とは人の気持ちのわかること。教養とは、すなわち“もののあはれ”がわかることである。センス・オブ・ワンダーを解する心である。共感する想像力のことである。学べば、学ぶほどその空の碧さを知るのである。空の碧さとは、すなわち養老猛のことである。


 私は自分の分を知ります。ですから、まずは名を馳せて、野蛮人の会に呼ばれるまでの人物になりたく思います。そうしてじっくり話す機会を得たいと思います。養老先生のご存命中に何とか実現いたしますので、その辺は心配されなくても大丈夫です。

今日実際にお会いして、本当に勉強になりました。不躾な行いにも寛大に応じてくださった先生にただただ感謝です。本当にありがとうございました。














 あ~、ふぐ食いて。

2011年1月21日金曜日

月光歌男(メン)

 
仰せの如く近来和歌は一向に振い申さず御座候。現代の正岡子規が詠める


 月見て 床に入り また月見て 月見る



 今宵は満月である。月がきれいですね、と女の子に言われたら、それはOKのサインである。美しいものを共に見ることは心を許さねばできぬものである。日本人に愛してるということばは存在せぬのである。そういう気持ちはもちろんあるが、愛しているというのはI love youの訳語であるから、それに南蛮の時代には大切と訳していたから、日本古来からの表現ではない訳である。ない訳であるが、まぁ、もう定着したと言ってよろしいかとも思う。私もしばしば使う。照れながら。やっぱり私は、好きな子には、月がきれいですねという。そっちの方がしっくりくるからである。美しいものを肩を並べて見るその共有体験はサンテグ・ジュぺリの結婚の概念である。人類は皆兄弟である。四海の内、皆兄弟である。ユングである。集合的無意識であるから国境を越えてもこの概念が理解しあえる。日本人でもクリスチャンになれるのである。フランス人でも仏教徒になれるのである。おおいにありである。気持ちは同じである。共に魂をもった考える葦である。

 古来日本に愛を伝える言葉はなかった。あったのは、そう、歌だ。ヒカルではなく、歌があった。歌に高ぶる胸のざわめきを乗せた。万葉の時代から人は空の青を、海の匂いを、世の中のはかなさを、感動を、えもいえぬあの感情をリズムに乗せた。言の葉は“もののあはれ”を伝えるための歌の音符であった。現在の科学では言語の始まりは言葉ではなく、歌であったと考えられている。日本人のI love youはより本能に近い。

 言葉にできぬ気持ちを伝えたい時に、人は言葉以外の何で気持ちを伝えればいいのであろうか。身ぶりか、テレパシーか、目か。気持ちを気持ちのありのままに伝えるとき、人はそれを“藝”に託す。感じた気持ち、情操を藝のある表現で伝えた時、放った言の葉が、歌い手が感じた気持ちをありのままにその聞き手の心に生じさせる。それは波紋となって聞く者の心をバイブレーションさせ、その波紋が目に届き、人間の心の海に津波が起こる。その津波が大きな一粒の涙となって頬を伝うのである。涙とはこころの津波である。感動の大きさの指標である。流した涙の大きさ、量だけ、その感動はゆるぎないものとなる。美しい富士を見たときに、うまいものを食った時に、愛する人を思慕する時に、叶わぬ望みを抱く時に、そして遂に契りを結ぶ時に、愛する者が死んだときに、そして愛する者の誕生の時に、実に人は涙を流すのである。感極まったその果てに、人はどうにもならなくなって、体の中からあふれ出る何ものかを外に出せねば、自身が得体の知れぬなにものかに破裂させられてしまう、そんな気になり、精巣にたまった精子が夢精となって体外に発射されるように、なにかが体の中で爆発して、その爆発の衝撃波は体の、心の爆心地から放射状にその感動を発散させねば気が狂いそうになる。その為、人は声にもならぬ大声をあげる。荒れ踊る。月に向かって吠えるのである。画を描く。脈々と波打つ熱き血潮が吹き出て止まぬ。それが藝であり、詩であり、歌である。

 その黒々とした得体の知れぬモノを世界1に出力させるときに、それが祝福の白魔法となるか、黒魔法となるかがその人間の人格が決める。“もののあはれ”を知る人はみな白魔法使いである。心の練れる人は幸いである。世の中に通じている人は幸いである。そんな人を“もののあはれ”を知る人といい、センス・オブ・ワンダーのひとともいう。”もののあはれ”をよく知る人は、人よりよく感動する。そんな人間は世界一の幸せ者である。感動することこそが人間が生きる意味である。感動する為に人間は生きているのである。“神”を感じるために生きているのである。“もののあはれ”を味わう為に人間は生きているのである。

 今日の月を見て、歌を詠めぬ人間は獣である。歌を詠めぬ人間は精神的向上心のない馬鹿である。身近にある半径3メートルの世界の幸せに気付けぬものは不幸である。青い鳥にきづけぬものも不幸である。だが、まぁ、私のおかげで、これから気付くことができる。それが私の歌である。私の得体の知れぬ黒々したものがわたしに書かせる。今日の素晴らしき世界に、今宵の素晴らしき月に、打ち震えた胸のさざ波を歌にしてみるがよい。いい歌が詠めなくてもよい。そうであるならば、こうすればよい。月に向かって吠えればよろしい。思いっきり、わお~~ん!と吠えてみるがよい。それが藝である。それが歌である。

 私もさっそく、女の子に向かっていおう。月がきれいですね。





 君とヤリたい。




 ビンタが涙を詠んでくれる。

 

2011年1月20日木曜日

拝啓、高階秀爾様

 質疑応答のない講演会はごみである。司会の話が長いのは罪である。勇気を出して質問をした学生に対して、時間がないからと黙殺するのは教育者失格である。それすらも許容できないのであるならば講演する意味などない。講演が単なる出来レースであるならば、もう一回プラトンから読み直したほうがよい。対話にこそ真の講演の意味がある。そこらのミーハーならまだしも秀爾は東京藝大における教養である。生ける伝説である。常識である。場違いな質問であるならば答えずともそれでよろしい。まぁ、そんな空気を読まぬ質問であっても、当の本人が訊きたいと思ったのだから、答えてやるのが本当はいい。だが、今日の講演に携わった者たちはクーリエの資格を一切持たぬ者たちである。過去の遺物を無批判で崇め奉る干物である。乾物である。本日の高階秀爾はごみであった。

 文化功労章をもらったから、それがいったい何であろうか、それよりはひとりの美術を真摯に学ぶ学生の質問に真摯に答えることの方がよっぽど偉い。名誉美術館長だからなんなのであろうか、そんなふんぞり返る館長ばかりだから、日本にアートが根付かないのだ。その罪は極めて重いのである。それに無自覚であるからなお一層困る。そんなんだから本物のアートなどわかりっこないと言われるのである。そんなんだから太郎にバカにされるのである。そんなだから私にもバカにされるのである。評論家は一生評論家である。一生涯、外野からヤジを飛ばしているがよい。自分は安全地帯にいて、上からなんのリスクもとらないでモノばかり言っているから人の心を打つことができないのである。人の心を打つ評論家など小林秀雄と吉田秀和ぐらいである。いや、彼らは批評家ではない。彼らは藝術家であった。批評家、評論家は現場の藝術にとっての寄生虫である。もっとも共生しているから、それはそれであるべきかたちであるのかもしれない。

 評論家が人の心を打たないのは覚悟がないからである。覚悟を持った評論でも人の心を打たないのは、それが常にやりもしないのに上からモノを言うからである。ここに大きな違いがあるのである。批評家は実際に描いてみるべきである。描いて作家に敬意を持ち、その上で評論するがいいのである。とはいっても、評論家はそれを承知の上で評論している。脛に傷を抱えながら評論する哀れな生き物なのである。実際に描いて、モナリザのミクロ点描画法を発見した美術史家が本物の美術史家である。彼は画家でもある。決して評論家ではない。やってみて、いってみせねば人は動かないのである。

 わからぬ。何をそんなに急いでいたのか、皆目見当もつかぬ。そんなに、本当に時間がなかったのであろうか、それともとるに足らぬ質問だとでもおもったのであろうか。新幹線か、それとも飛行機の時間であろうか、いずれにせよ、彼は学生の質問に答えることよりも、時間がないほうを選んだ。一応、以下に私の聞こうとした質問を記す。

 私の質問はこうであった。それは日本における、レオナルドやミケランジェロに相当する造形作品は何かということである。

 実際これだけを聴けば今日の講義に何も関係ないように思えるだろう。だが実に的を得た質問であったのだ。別に講演に関係なくてもいいとは思うが。

高階先生はご存知の通りを多用したが、それはまずもって、間違っている。教養は既に死んでいるから、誰も一見したところで伊勢だの、源氏だのとわかるわけではない。御存じの通りが通じるのは私を含めて、教授、少なくとも博士課程の者だけである。その閉鎖性が美術、藝術を解する上での出発地点になるのであるなら、つまり教養がなければアートはわからないのではないかということになってくる。そこで私の疑問は深まる。

講義は進んだ。 西洋はとにかくみっちりと細部まで細かくぎっしりと描く。それに比して日本は省略を用いる。どちらも“神”を、無限を捕らえるための一つの手段である。レオナルドはミクロ点描法で無限に迫りモナリザを描いた。ミケランジェロは超超絶技巧で無限に迫りピエタを生み出した。では日本は省略を用いてそれに相当する、無限に迫った者は何であったか。そんな疑問が浮かんだ。

 省略は実に利休に、芭蕉に見られる。歌に見られる。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声

夏草や 兵どもが 夢のあと

など、たった15文字に無限の宇宙が広がる。本学の創立者岡倉天心が述べたように、顕示するのではなく、仄めかすことこそに無限の秘密があるのである。私は日本のレオナルドや、ミケランジェロに相当するものは芭蕉や利休ではないかと考えた。だがここでさらに問題が深化する。つまり、その無限は日本人でなければ感じ得ることができないのではないか、つまりはじめにも述べた通り、その藝術の深奥性は教養や言語、文脈などの閉鎖性の中にあるのではないかということとともに、しかし、それでもレオナルドや、ミケランジェロはその閉鎖性を突き抜けたところにあるように思えてならないということだ。そう考えると、日本のレオナルドやミケランジェロは、芭蕉や利休ではなくなってくるわけである。

 日本画の本質は線にあると大観は語ったが、それとかつ、無限の為の省略と、閉鎖性のコンテキストを突き抜けるものはなにかと考えてみる。そうすると私の来歴はひとつの答えに行き着いた。日本におけるレオナルドやミケランジェロに相当する者、それは手塚治虫である。質、量ともに“神”を、無限者を扱っていることも共通している。文字と画の世界も融合している。日本の伝統がまさにそこに根付いている。宮崎駿についてもそうだ。そのことについて訊きたい。

わたしはそう思った。そして今、目の前には生ける伝説がいる。これを訊かずして何を訊く?今訊かずしていつ訊く?そう思って質問した次第であった。

 高階先生の人柄は本当のところ何も知らぬ。ただ一度の見聞でその人柄を判断するのは早計である。だが私はそんな印象を持った。もう会えるかもわからぬ。私は彼の遺言を欲したわけである。私がそんな印象を持ったのも、評論家で知っている人がいたからであり、その彼と比較してしまったためである。彼は時間のことなど決して気にも留めなかった。“時間なんてどうだっていいよ。対話しようじゃないか。諸君!”秀爾は彼を越えられない理由がここにある。彼の名は小林秀雄、真の評論家にして、偉大なる藝術家。彼の評論は時を超える。

 高階先生が一言でもいいので、質問にお答えしてくださることを期待しております。

 

 

2011年1月19日水曜日

Someday my mentor will come!

 眠い。眠いが毎日書く。続けることが大事である。続ける意志が余を超人たらしめる。

 6年来の夢が叶い余は憧れの人と酒を組み交わした。勇気を出して近づき、その存在をアピールしたのが、4年前のエンジン01文化戦略会議、現場はモノマネ大会の会場。その日になるまで、まさか、余がモノマネの会場に、それも舞台に上がるなんてことは思ってもいなかった。ただその前日にたまたま川沿いを散歩していると、ふうん、明日なんか面白いのがあんな。あっ、あいつも来るのか。へぇ、というそんな感じであった。翌日、目覚ましなどかけぬし、かけたところで意味はなく、二度寝して起きることすらも稀で、三度寝がふつうの自堕落の体であった。まして早起きなどここ数年来したことがない。しかし、この日はなぜか早く目が覚めた。目が覚めて一向に二度寝ができない。珍しい。そして枕から生える糸屑を眺めながら、頭をかすめるのはエンジン01のこと。どうせ行ったって、チケットも売り切れであろうし、話すことなどできぬであろう。しかし、なぜか気になる。気になって仕方がない。とりあえず起きる。起きて、服を着替える。勇気。勇気。勇気。何者かが余をけしかける。気付けば余は自転車に乗り、川沿いを全速力で駆けていた。憧れを持つことは大事である。ロールモデルを持つことは人生の指針になる。憧れの人に近づくのは、なにか気恥かしい。気恥かしいが近づかねば何も始まらぬ。動かねば何も始まらぬ。やった後悔よりも、しなかった後悔のことを恐れたい。告白したことの後悔よりも告白しなかった後悔の方を恐れたい。わかっている。わかっているが、足が動かぬ。動かぬのは自分が明日も生きていると思っているからである。自分がダス・マンであるからである。とりあえず動け、動いてから考えろ。走りながら考えろ。という訳である。会場に着いた。もちろん、遠くから見るだけのつもりである。チケットは一枚500円である。だが財布がない。訊けばモノマネ大会の参加者になれば、その会場に入れるという。入賞すれば日本酒ももらえる。実にここが余の人生のターニングポイントであった。偶然から必然への命がけのジャンプである。幸いにして余はモノマネが得意であった。得意であったが身内ネタがほとんどだ。普遍性がない。だけれどもいい機会だ。多くの人に見てもらえるし、憧れのあの人にも見てもらえる。話ができるかも知れない。余は足が震えていた。手も震えていた。だが覚悟を決めて申し込んだ。すんなり、軽い気持ちでという係の人に促されたのもあった。参加者の楽屋に入ってもやっぱり、やめたいな、帰りたいな、とずうっと考えていた。手がしびれている。血液が来ていない。心の臓だけがただ空回りしている。周りは本職の人ばかりである。家族、友人が応援に来ている人もいる。余は、実に余だけは完全アウェイである。孤立無援の行軍である。大会が始まった。演者が藝をなし、それを審査員が評価し、点数を付ける。その後に軽い質問とトークがある。場は常に笑いに包まれる。係の人が動く。時間が押しているらしい。係の人がそっと余に耳打ちする。申し訳ございませんが、時間の関係で、前日に申し込まれた方だけが舞台に立てることになってしまいました。本当に申し訳ございません。余は残念というよりも、むしろ安堵した。自身がゆえでなく、自身ではどうにもならぬ外的条件によって自身の恥をかくかもしれぬリスクはなくなった。だが、当然できるチャンスは消えた。正負の法則である。人間とは不思議なものでやれなくなるとやりたくなってくる。ないものは欲しくなる。余は逆にモノマネがどうしてもやりたくなってきた。またスタッフがあわただしく動く。なにやらまだチャンスはあるかも知れぬという。何度も何度も変更して申し訳ないという。ただ、またやれるとなると、やらなくてもいいと思えてくる。人間とは不思議なものである。また係の人が来る。余に訊く。やりたいですか?と。余は答えた。お願いしますと。言った瞬間後悔した。何かが言わせた。だが何が言わせたがわからぬ。わかるのはオーラの泉現象であるということだけである。理屈ではない。江原さんが新潟に来ていたのも影響していたのかしらん。言ったが手前、後悔したが後の祭りである。やらねばならぬ。男にはやらねばならぬ戦いがある。余は覚悟を決めた。足は震える。手も震える。うまく立てぬ。だが踏ん張る。声も震えては、恥ずかしい。恥ずかしいと思っていることを知られるのはなお恥ずかしい。堂々と堂々としているのがよいのだ。余は走って舞台の中央へと向かった。お笑い芸人のように元気よく、元気が良ければたいていのことはうまく行く。元気!元気!舞台に立って振り返る。みんなが見ている。世の人は人前に立てば、かぼちゃと思えという。思ってみる。だが、まったく、いっこうにカボチャに見えぬ。まったく見えぬ。二つの目がこっちを見ている。たくさんの目がこっちを見ている。こいつはいったい何者だという目でこちらを見ている。ええい、関係ねぇ!やってやるぜ!結果はカタストロフィ―であった。もちろん良き意味でなく、悪い意味で。余が自信満々に為した、朝青竜やキアヌ・リーブス、そして笠智衆のモノマネは見事にドンずべりであった。毒食らわば皿までと思い、自身の全てを披歴した。自身を表現すればするほど、これでもかというほどに場は凍った。新潟は寒い。だがその日の新潟は瞬間的に冥王星ぐらいまで冷えた。それは余が原因であっただろう。ミラーニューロンの結晶も通じない時には通じないのである。実にモノマネは既知であることが重要なのである。そんなことはつゆ知らず、残ったのは後悔である。清々しいまでのやらなかったよりもやった後悔である。冷気が張り詰めるまでに透き通る空の碧の後悔である。もう新潟は歩けない。誰もそんなことを思うてはいないのに、自意識過剰であろうからか、そんなことばかり考える。顔から火はでなかったが、顔はトマトになった。額の汗がこいつ、無理してる感を一層お客さんに与えてしまったかもしれぬ。汗すらもコントロールできる吉永小百合はすごいなぁと感心した。感心しながら余は公開処刑に殉じた。殉じた結果、余は彼から9.1点をもらった。なにやら余の演技は小数点を付けたくなったらしい。どの審査員にも共通の認識であった。表彰式が終わり、場が解散すると余は彼の元に駆け寄り、握手を求めた。いつも見てます。本読んでます。来年は藝大で先生の授業を受けます。待っててください。余は興奮気味であった。きっと早口であっただろう。それに対して彼はこう答えてくれた。おう!待ってる!そんな短い対話にもならない会話。一方的主張であった。しかし、運命は実に余に艱難辛苦、臥薪嘗胆を強要した。そこからさらに余に三年の時を要させた。要させておいて、芽出度く上野で学べることとなったが、時すでに遅しであり、そこに彼の姿はなかった。事務に訊けば去年までは彼の授業があったそうである。彼の著書の写真には藝大の学び舎が写っている。二次試験での受験の会場がその教室であり、ここであの人が授業をし、そしてそれを自分が今年受けるものかと何度も何度も夢想した。毎年毎年、その教室で受験するたび、何度も何度も夢想した。その念願が遂に叶うと思ったが矢先の出来事である。そんな彼を新潟という一つ地方都市から本やインターネットを通じてフィーチャーしていた。サンデルよりもずっと前からフィーチャーしていた。それは今でも変わらぬことである。彼の授業を受けるために、目指した大学に入るのに6年もかかった。かかって、またさらに一年近くかかった。彼が藝大で講義をするという噂を聞いたのは一月も半ばに入ってからのことであった。

そうして来る一月十七日、月曜日、万が一にも彼がこの界隈にいるかも知れぬと、カメラをもってうろうろしていると、目を疑う光景があった。本物だ。いきなり呼びかけて写真をとる。アップを撮る。まったく嫌なそぶりを見せぬ。書いている文章と人格が一致しているとは、願ってはいたが、実際はどうなのかと試した面もあった。が、実に、確かに一致していた。まんまあのままだった。


講義は余にとってはそれ程新鮮なものではなかった。というのも内容がいつも彼の本で聞いている、読んでいる内容のことであったからだ。だがそのライブ感と間のとり方、話のリズムはやはり唸るものがあった。うまい。聴いていて心地よかった。脳の回路がシャープな人だと改めて思った。そして、どんなことにも、ものにも、人にも真摯に対応する紳士であると思った。


その後の饗宴で余は彼に花のワインを注いだ。そのワインは余が血でもあった。

ワインには余が受難の歴史、念いが込められている。



彼と酒を片手に見上げたあの空の碧さは余が一生涯の宝物である。



ここからがスタートである。藍より出づるは藍より青しである。

茂木健一郎、彼を越えていくことこそが余ができる真の恩返しである。

2011年1月18日火曜日

The lark soaring up

 西行の和歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり。

 雪舟の『秋冬山水図』については巷に様々な説が流布しているが、どれも的外れな見解を示している。緊密な構成、気迫あふれる筆致、厳しい精神性、等々。わかった。もうたくさんだ。先行研究をこねくり回すことはもうやめにして、新たなオリジナリティーを出して行こう。もちろん本当のところでは、先行研究に敬意を払いつつ。

 山水。見る者の視点を手前の近景から、ゆらゆらと揺れるゆりかごが上昇するように、画面を上へ、上へと、奥へ、奥へと誘導する。山の端を構成する、縁取る線は太く力強く、筆者の力の入れ具合が伝わってくる。時に角々しく、時に直線を引き、筆者の高い線の内圧は手塚治虫の線の力強さを髣髴とさせる。アナクロニズムか、雪舟が先である。この内圧は実際に手塚の画を模写せねばわかるまい。暗黙知であるが、やってみればわかることなので一応書いておく。小舟や帽子を被った人が精緻に、というかまぁ、小さくスラッと手早に流れるように描かれ、奥には銀閣にも似た建物がある。遠くの山の端は薄く描かれ、手前は濃い。そんな濃淡の使い分けがなされている。岩や木々には薄い墨で陰影か模様が描き塗られ、それがあまりに自然なためしっかりと見ねば気付かぬほどに画に一体感を与えている。モノクロの写真のように、要らない情報は排除して、美しいものを喚起させる仕掛けを組んでいる。画面下の手前の塗りミスのような黒々としたかたまりは、狙いなのかは定かではないが、いやきっと狙いである。それが偶然の産物か定かではないが、ミスったと思ったが、そのまま書いていたら意外によくね?と思ったのであろうか、とにかくそれもまた狙いであり、それがものすごい速さで、オノマトペを使わせていただかせれば、しゅっしゅっ、ぐぐっしゅっ、といった感じであろうか、そんな早書きが見てとれる。そういった描き方が画面全体を支配する。手前の水面などは西洋絵画のラフスケッチの陰影を付けるようにしゃっしゃっと素早く筆を走らせているため軽い蛇のような波線が波紋のように揺らめきを与える。画面全体にところどころある黒いちいさな玉は真っ黒黒助であろうか。いや、木霊だ。トトロよりはもののけ姫の方が雪舟は好きらしい。これもアナクロニズムか。建物のすぐ奥にある薄いちいさな、上辺が底辺に比べ短い台形の山が、後光的な効果を生み、あたかもそれは西方浄土、天竺を髣髴とさせる。行く旅人は三蔵法師であり観者自身でもある。さすが禅、仏教である。不立文字である。それも雪舟の狙いである。画面半ばから濃い太線が一気に上昇するように描かれている。それは崖という定説があるが、果たして本当のところはどうなのであろうか。

 ディスクリプションは終わりにして、ここからはオリジナリティーを発揮して行く。先ほどにも述べたように画面中央を縦に上昇するように描かれるこの太い線はいったい何なのであろうか。話をもったいぶるのはやめにしよう。なにもここは漱石の猫ではないのだから、即座に本題に入ろう。総じてこの中央の線は雲雀の上昇線の軌跡である。ぴぃぃーーーーーーーっという魂の声の聞こえぬ者はこの山水を見る資格はない。山水はイマジネーションを必要とする。余白を想像で埋める。ここには日本の、東洋の理想がある。山水などこの世の穢さに、エゴイズムにまみれ、まみれた者にしか結局はわからぬのだ。よく見てほしい。この線は崖ではない。崖なのに後ろが透けているではないか。後ろの山の端が見えるではないか。この線は精神的向上心である。線である。グラフである。欲の重みが線の上昇を妨げているため、途中まで蛇行しているのである。上がっては、時に下がり、上がっては下がりの繰り返しである。しかし、それでも、そんな中においても精神は向上し続けているのである。水面に停めてある船は今までのエゴイズム剥き出しの穢い世界からの脱却を表わす。あとは高みに登るだけである。旅人の真上には旅人の精神の向上を表わすように、雲雀が重力すらも超えた恬淡の世界への急上昇を見せる。

 たちまち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いているか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞こえる。せっせと忙しく、絶え間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴きつくし、鳴きあかし、また鳴き暮さなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めたあげくは、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のあることを忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだ時に目がさめる。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀が鳴くのは口で鳴くのではない。魂全体で鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。―――――『草枕』夏目漱石著

そして ―――― 雪舟の『秋冬山水図』である。

2011年1月16日日曜日

場末のホテルで考えたこと

NHKの視点・論点で坂村健がユビキタス社会の到来を告げてから早5年が経とうとしている。渋谷にほど近い場末のホテルのロビーで見た夢は五年の歳月を経て違う形で実現した。東京という、その甘美に響く魔性の言の葉は我が心の臓を鷲掴みにして一向に離すつもりがない。若者を誘い、そしてその墓標とせしめる苦き日本の中心よ。三四郎を読み憧れた三つの世界、田舎、に学問、そして女人の世界が大きな口を広げて待ち構えている。それは地獄の入口か、立て札にはこう書いてある。“汝らここに入りし者、一切の望みを断つべし”ダンテが独りつぶやく。東京で立身出世するというその憧れは日に日に増して大きなものとなり、それに伴い私の前を日に日に大きな大きな高い壁が立ちはだかる。東京大学というイェリコよりも高く堅い壁が。甘美な蜜を吸うためには受験という苦い経験を突破せねばならず、私は途方にくれた。東京で学問がしたい。そう本気で思っているものがいったいどれだけいるのだろうか。いつからだろうか、学問が人間の本能でなくなってしまったのは。漱石を読んだことのないものが、受かるのが東大である。漱石全集を読んだものが落ちるのが東大である。天心を知らぬものが受かるのが、藝大で、茶の本を読んだ者が落ちるのが藝大である。まぁいい、受験なんてそんなものさ。受験生の手記の時代から。金色夜叉はきんいろやまたになった。ただそれだけのことだ。だから、僕は、それが今でも記憶に鮮明に残っている。東大受験を翌日に控えた眠られぬ夜の、期待と不安の入り混じった独りの夜の、外はラブホテルだらけの、性欲のルサンチマンに包まれたあの夜の、ユビキタス社会の到来の夜のことを。そんな世の中が来るとは到底思えぬ、馬鹿なことを言うな、と坂村健を揶揄し、これもルサンチマンからきているのであろうが、当時の僕はそんなことなんか知ったこっちゃなかった。ルサンチマンなんて言葉も知らなかった。今だって、何も知らない。わかっているのは自分が何も知らないことだけ。なんてメタ認知は当時からできた。メタ認知の早さ、早熟さがひねくれと相関関係にある。自我の目覚めと鏡、だから女の子の方が自我の目覚めが早いのか。そのうちサイエンスで証明されるだろう。こころと鏡、童貞の僕はひとりぼっちであれをこすり、浅い眠りに就く。携帯はオンだから、何かなるのではと落ち着いて眠られぬ。夜に電話が鳴ったことなど一度もないのに、警戒している。明日は母さんに起こしてもらおう。だから携帯はオンで。もちろん自分でも起きよう。とりあえず射精だ。射精をすれば眠くなる。明日のことを考えれば、実に科学的手法に乗っ取った戦略である。遠くで大きな怒鳴り声がした。痴話げんかは犬も食わぬ。偏差値の低い君らはずっとそんな暮しでもしてな、と東大模試E判定の僕は言う。高い志とそれに伴わぬ実力の乖離が一層余を苦しめる。東大を目指しているから、人よりも優れている。なんの根拠もないマインドセットを当時は疑うすべもなく、ただ為すがままに過ごす。我を知るもの、それ天か!故郷を離れて、ひとり寂しく見る東京は、カオスな眠らぬ街である。そこで女人に囲まれ、東大に一ノ瀬ありと天下にその名を轟かせ、一生懸命に自己の研鑚に励み、努め学ぶ自身の姿を描きながら、まどろむ意識は意識できず、気づけば朝になっていた。疲れのとれぬ眠り。眠りのような死があるならば、歓迎しよう。のれんをくぐるような軽い感じで寅さんがくるように、スピノザが語ったように軽い感じで。死ねればいいのに。死ぬ勇気もなく、尊大な羞恥心が身に沁みる。山月記の李徴のように、気づけば虎になってるかもしれん。虎は虎でも、あっちの寅か、寅さんか。よっ、タコ、まだバカやってるか?

前置きはここまでにして、これから本題に入る。といっても上の文章もまた本題である。自己とこれからのユビキタス社会の関わりはもう逃げられない。逃げない。アナログの男と呼ばれる時代は、業は終わりを迎えた。これからはネットエリートとしてITの周辺機器を武蔵の様に融通無碍に使い、世界に躍り出ていかねばならぬ。古典は学んだ。あとは手段だ。一番大事な核を持ってるから、あとはかたちだ。ゲーテになりたい。レオナルドになりたい。もしその二人が今、この世にいたら?コンピューターを巧みに使っていたに違いない。アナログだけしかできないかっこよさもある。だが墨子悲糸、楊朱泣岐だ。自分を捨てろ!まずはブラインド・タッチを覚たい。いや覚える。覚えた。今年は電子書籍元年、文章の扱いならお手の物、まずはこれでひと山当ててやろうかしらん。上の文章はその為に書いたものである。これからもっとコンピュータを用いた藝術表現に関与していく。藝術情報センターをもっと活用すべし。今回のこの文章もパソコンで書いている。それまでは手書きだったが、昨年の10月からは変わった。世の中に不満があるのなら自分を変えろ。それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮せ!その言葉に従った。

高校の教科書の表紙で見た複素数を用いた幾何図形に、スーパーコンピューターを用いたアルゴリズム解析に、コンピューターと生物の融合に、カイコガとかね、アメリカかどこかで開発された、なんちゃらドッグとか、遺伝子とか、アイソト―プとか、無限の宇宙の記述方の方法論にすぎない科学に、“神”を見る。スーパー望遠鏡がとらえる銀河の煌めきに、自身の目が見つめる子どもの笑顔に、オイラーの公式に、私は同じ真理を見る。

坂村健の予言通りになった。おサイフケータイ、パスモ、監視カメラの顔認識ソフト、無人衛星からの偵察、お茶の間から、世界の裏まで、世界の一体化のさらなる一体化が始まり、それがどんどん加速している。今が始まりなのか、それとも最盛期なのか、それすらもわからぬのが現状だ。人間はその時代に生きるドグマから逃れることは絶対にできない。コンピューターの可能性とは何だ?ネットの普及、チュニジアでの革命、兵器格差、無人機対生身の自爆、今もイラクで、アフガンで、世界のどこかで悲鳴が聞こえる。そしてアサンジ氏率いるウィキリークス、世界は“あるべき形”に行き着くのか、そこにあるのは神の国か、目的の王国か、イーハトーブか、ダンテか。私は先進国のノーブレス・オブリージュを発揮したい。エリートとしてネットを学ぶ。ゆくゆくはMITやハーヴァードのネットエリートたちと対等に渡り合っていく。日本が好きとアメリカも好きは共存できる。フランスも、イタリアも、ヴェトナムも好きだ。億万長者になるのもいい。もちろん社会には還元する。私はネットエリートになって何らかのアクションをしていく。それがこれからのユビキタス社会との私の関わり方だ。私は言ったことにはすべて責任をとる。人任せではだめだ。当事者意識を持つ!軽い言葉ではいえない。聖人の言葉は重いのだ。人命よりも、地球よりも。麦を食って精進精進!

Be the change you wish to see in the world !
By Mahatma Gandhi

栄華の巷低く見て、魂を以って事に当るべし。たまには性欲にまみれても。

2011年1月14日金曜日

喰うことと、生きること 8

 手がかじかむ。昨日から部屋の暖房の調子が悪い。手が凍えてうまくキーが打てない。14度という極寒の中で今日もブログを更新する。誰の為に?余自身の為に。おぉ、誰がために鐘は鳴る?余が自身の為に。

 就活、もとい働くとは嫌なことを我慢することである。いうなれば給料は我慢料である。働かざる者食うべからずの前提においては、嫌でも喰っていくためには仕事をせねばならない。仕事とはものを動かすことである。自身の体を動かし、ものを動かすことである。そうして何らかの剰余価値を生み出すものである。このことをまず忘れてはならない。さて、以前このブログで就活とは魂を売ることであると書いたが、それについて補足をしたい。まず言いたいのは、すべての仕事は売春であるということである。全ての人間は売春婦である。嫌なことをしてお金をもらっていること、その構造においては皆が同じである。だが、そこに一種の違和感がある。イチローとさえない営業サラリーマンとの違いである。どちらも自身の体を動かし、仕事をしている。だが何かが違う。どちらが魂を売っているかと、もし強制的に問いただされたら、どちらをこたえるであろうか?多くの人がサラリーマンの方を選択するであろう。その違いはなんであろうか。収入の多寡にその違いを見てとるのであろうか、それとも有名か否かにその指標をとるのか、いったいその違いはどこに起因するのか。そこを分析、吟味していく。

 どちらも我慢料をもらっている。イチローもサラリーマンもどちらも辛いことをしている。どちらも魂を売っている。イチローは魂を売っていない。という反論もあろう。まぁ、落ち着いて余の話を聞くがよい。数学的に場合分けして、定義立てて考えていく。まずは嫌なことはすべて魂を売ると定義する。もちろん、イチローもその分にもれず、この範囲を仕事以外にも当てはめれば、嫌なことを我慢する行為は全て魂を売るとしてみてもよい。違和感、反証はあとで検証に回してみることにして今はこのまま進んでいく。魂を売るということばは一般的にポジティブな表現ではない。魂を売るにはその売る相手が明示されておらず、一般的にコンテキスト付けられる文化的な背景としては、売る相手はたいてい、悪魔か鬼であり、そして売った理由がその売った人間の自己利益の為が大方であり、その結果はたいてい悲惨な目にあって終わるというのがおおまかなところである。そのため
魂を売るという行為はネガティブなニュアンスを帯びる。自己の利益の為に、わかってはいても、やらざるをえない人間の弱さ、破滅への予兆がそこに見てとれ、就活という本当はやりたくないことをやらねばならない業のアナロジーをそこに見いだすがためであろう。就活に関して、このことばがよく用いられるのはそんなニュアンスがあるからである。また会社、組織という大きなものに自己を滅す、埋没させるということも自己を消すという点で人格の主体であり、自身の自身たるゆえんである魂ということば用いて、そしてそれを売るという表現が実にふさわしいからということもあるであろう。それゆえに魂を売るという言葉は言い得て妙である。
 
 だがさらに話を進める。ここでイチローとサラリーマンを同列に扱う上で問題となるのは、その違いである。どちらも魂を売っていると定義した。その定義に矛盾せぬ理由をここであげたい。さきに述べたように魂の売られる相手が問題なのである。サラリーマンは魂を何に売ったのであろうか、イチローは、石川遼は何に魂を売ったのであろうか?そこが新たな論拠となる。端的に言えば、魂を売った相手が違うのである。イチローは野球に魂を売ったのである。石川遼はゴルフに魂を売ったのである。その為なら嫌なこと、つらいことも耐えて見せると契約を交わしたのである。サラリーマンは魂を会社に売ったのである、と言いたいところではあるが、それは本質を突いてはいないのである。サラリーマンは何に魂を売ったであろうか、サラリーマンは、そう、そうなのである。彼らは自身のしあわせにその魂を売ったのである。そのしあわせの為なら、嫌なことも。辛いことも耐えて見せると誓ったのである。

 つまり、イチローとサラリーマンの違いは魂を売る方向がより明確か否かであり、その売る主体が予測不可能かつ、競争がもっとも激しい対象であり、経済学的にも希少性に富むものであるからである。

 魂を売るということばは、実はそれ自体ではニュートラルな言葉である。誰に売るかでポジにもネガにもなるのである。魂は神にも売れる。悪魔にも売れる。妻にも、子どもにも、AKBにも売れる。イチローだけではない。役者に、学問にも魂を売ることができる。そして、その魂を売る対象が明確であればある程、そして競争が激しければ激しいものほど、リスクがでかければでかいほど、人から見て、かっこよく映るのである。嫌なことをすることはすべて魂をうることである。狭き道で道をゆずることは神に魂を売ることである。憎しみの連鎖を止めることもまた神に魂を売ることである。実に魂を売るとは、魂を捧げることである。その為に自己を滅し、精進するためのものである。

 サラリーマンは、小さきしあわせの為に魂を売るのである。合コンで少しでもモテる為に魂を売るのである。ローンの残るマイホームで健やかに眠る妻子の為に魂を売るのである。お父さんは実に偉大である。名もなきサラリーマンではあるが偉大なのである。偉大といったら偉大なのである。

 多くのものが魂を売る。金に魂を売ったとなると穢いように思えるが、実に皆たいていのものは金に、経済的な豊かさに魂を売っているのである。自分の欲しいものとリスクとを相談して、魂を売る相手を吟味するのである。余もそのたぶんにもれないのである。ただ余はそれを金ではなく、自由に置くだけである。自由に魂を売るの者なのである。真に、善に、美に魂を売るものである。売りたいと願うものである。

 またさらに、目的のためには魂を売ることも大いに結構である。出世の為に尺八をしたり、就職先のコネを売るために媚を売ったりすることは、その為に魂を売ることである。プライドも、恥も外聞も捨てて、心から欲しいと思ったものだからである。本当に欲しいと思うものに、それは捧げられるべきである。ストラディバリウスは金持ちが持つものではなく、サラサーテが持つものである。勇者の剣は勇者が持つべきものである。

 美しい花を摘むためには勇気を出して崖の先までいかねばならぬ。

 そこまでしてほしいのであるならば。

  "Ask, and it will be given to you; seek, and you will find; knock, and it will be opened to you.

 魂は自分の心に売れ!

2011年1月13日木曜日

喰うことと、生きること 7

 とりあえず毎日ブログを書く。それは文章の鍛錬の為である。一日の稽古を鍛といい、万日の稽古を錬という。毎日続けることもまた才能である。友人と一日1200字以上を書く約束をした。したが友人ははや、三日も待たずして脱落してしまった。これもまた人の心というべきものであろう。人は利害が絡まねば動かぬ。私はこのことを痛いほど知っている。漱石の心は真理である。利害で人は動くのである。利害で人は変わるのである。人間で常に悪人である人を私は見たことがない。普段は良い奴なのである。だがそれに金と異性が絡んだ時に善人は悪人にかわるのである。私はその現場を目撃したことがある。信頼していた先輩が豹変した瞬間を垣間見たことがある。私も悪かったのであるが、バイト先のマドンナとデートをこぎつけ、その天にも昇るうれしさのあまり、つい口の紐が緩み、そのことを先輩に言ってしまったのである。その先輩にはいつもそのマドンナのことについて相談していた。その先輩は応援してくれている者だと信じていた。だが真実は違ったのである。数日後私は愕然とした。二人で行くはずのデートがなぜかもう一人の女の子を足して、あろうことかその先輩も足した4人のデートになっていたのである。そして私はそれでもやっぱり二人で行きたいと駄々をこねたが、時すでに遅しであり、かつ、彼女の機嫌も損ねてしまい、グループデートすらできずじまいであった。余はこの世のはかなさを知った。もののあはれを学んだ。諸行無常を歌った。後で聞いた話であるが、その先輩は私が働くずっと前から彼女のことを狙っていたそうである。誘っても誘っても、答えはノーだったそうで、その為、私の話を聞いた時には、心臓がバクバクしてやまなかったであろう。彼は何としてもコレを阻止し、そして、この機に乗じ、私の功を横取りして、あわよくば自分がおいしいところを頂こうといった魂胆だったのである。わたしは、まさに出し抜かれたのである。余にはその4人で行くデートのことは一言も相談がなかったのである。剥き出しのエゴイズムほど穢い物はない。それ以来余は、人間不信になった。とまでは言わないまでも、軽い心の先生のような精神状態になった。自分だけではない。人間全体を疑うようになったのである。羊は簡単に狼に変わる。人間は利が絡むと狼になる。ハイエナになる。人を裏切る。私だってそうなのだ。だが私は常に自分が悪人になり得ることを想定している。自分の穢さを自覚している。当時の私は彼の立場に立つことはできなかった。ただただ笑顔で彼に接し、心の奥底では憎しみでいっぱいであった。時が経つにつれ、年月が過ぎるにつれて、理解されるよりは、理解されることを学ぶにつれ、彼の気持ちがわかってきたのは、つい最近になってのことである。人間の弱さである。利があればみながっが、がっがとがっつくのに、利がなければ見向きもせぬのである。利がなければ、文章など書かぬのである。最近の小人は常に人の為に何かをするのである。古の、余も含めてだが、は自らの為にことをなすのである。小人は目先の目に見えぬ利益がなければ動かぬ。大人物は超長期的視野からものを見て、行動を伴うものである。人間は理で動かぬ。利で動くのである。理では変わらぬ。理で変わるのである。

 多くの就活生は小人である。大人物ならまず就活などしない。まずは自分が小人物であることを自覚する必要があるのである。そして自身の原動力に思いを馳せてみてほしい。自分が常に自身の保身で動いていることに気づくであろう。小人は個人のエゴイズムで動くのである。我は天下の要請に応じてうごくのである。そこの違いである。その違いが積もり積もって動かしがたい山となるのである。違いはそこにあるのである。就活だってそうである。試験も、婚活も本日、既に勝負は決しているのである。今日が、いや、昨日が関ヶ原だったのである。ほんの少しの積み重ねが一生涯の分水嶺になる。たかが1200字と笑うなかれ。そこには越えられぬエリートと凡才の壁がある。モーツァルトとサリエリはこの三日で決しているのである。それは試験でも同じである。勝負は今日、もう既に決まっているのである。石川遼が今日は眠いから、明日からでいいや、というであろうか。イチローが、宮里愛が、寒いから、練習できる環境にないからといって、そのまま床に就くであろうか。多くの就活生はそのまま眠りに就く。眠りについて、朝起きて、また二度寝する。二度寝して、三度寝する。亀田三兄弟は二度寝はしないのである。天は自助くる者を助くのである。多くの就活生は、この二度寝の為に、小人なのである。意志の力が弱いのである。それでいて楽をしようと考えているから小人なのである。学問に王道はないのである。どんな分野にも楽して良い思いをしようなんてことはあり得ないのである。その二度寝が積り積み重なって、その結果、就活に苦しむことになるのである。ただ、いい話がある。朗報である。就活で戦う相手は自分と同じ二度寝野郎たちであるということである。そこに差は皆無といっていいだろう。ただそこにも少なからずはじめから一定の差がある。学歴である。ただ学歴あるものは、三年前か、四年前は亀田であったわけである。あの時には二度寝などしていなかったのである。眠い目をこすりながら、あそこをこすりながら、これ関係ないか、努力をした違いである。そこの差がでるのである。時間差である。ただ今となってはもう既に二度寝野郎であるから実力的にはそれほど変わるまいが、ただ箔が付いているのである。この箔はなかなかのものである。だからいい就活のためにもいい大学に入らねばならぬとなるわけである。いい高校、いい中学、いい小学校、といいの先手先手を打って行くのである。この先手を打つために夢の規模が小さくなるのである。大志が持てなくなるのである。困ったものである。大志のデフレスパイラルである。これだから小人は困るのである。小人が小人をまた型にはめていき、結果また小人を生み出すのである。就活で勝ちたいのなら話は簡単である。就活をせずにすむ大人物になればいいのである。自分で考え、自分で動けばいいのである。大学など辞めればいいのである。辞めれなければ、何かをするのである。何かを為せばメディアが君を放ってはおかないのである。それができないのであるならば、小人として本を読みなさい。二度寝、マージャンをせずに、古典を読みなさい。一流のものにふれなさい。一流の絵画を、演劇を、映画を、音楽を聞きなさい。そうすれば就活の時にあなたは群を抜いているでしょう。人事は君を見抜きます。古典に通じた人間は話せば一発でわかります。これは真理です。頭がいい人と話すとすぐにわかるでしょ。それと同じなんです。そんなモノのわかる奴とおっさんたちは仕事がしたいんです。働きたいんです。世界に舞台が移れば教養なしではまずやってはいけません。まず相手にされません。これが現実です。事実です。教養の機智の応酬合戦です。ですから古典です。小人は小人らしく古典をお読みになりなさい。すぐに効果を求めてはなりません。だから、それが小人なんです。歴史から学びなさい。わからずとも、皆がやってきた方法論に従ってみなさい。成功するかわからぬけれども、自分を賭けてみなさい。二度寝していた時間を使うだけですから、失うものなど何もありはしないのですから。うまい方法なんてないんです。ただ一生懸命努力する。勉め強むる。それだけです。この意味がわかった時、あなたは小人じゃなくなるんです。

 予定運命なんてないんです。あるかもしれません。わかりません。ただ自分を賭けてみるんです。リスクをとってみるんです。大志を持ちのです。公のアルチュラリズムで動くのであす。そこが大きな違いなんです。

 夢を持てとはこういうことである。大志を抱けば、行動の原動力も自然と自身のエゴイズムを脱する。今の就活生の夢が大きくならんことを。

  Hope springs eternal in the human breast;
  Man never is, but always to be blest:
  The soul uneasy and confin'd from home,
  Rest and expatiates in a life to come.
                    
                                  Essey on Man by Alexander pope

 
 教養とはこういうことです。

2011年1月12日水曜日

喰うことと、生きること 6

 働くとは何かについて吟味していく。就活生必読のブログにしたい。否、必読の書籍にしたい。まぁ、必読の電子書籍でもいいや。就活生にとってアイフォンは必需品、三種の神器らしい。就活をしたことのない私には何が何の事だかわからないが、なぜだかよく就活の相談を受ける。内定をもらった友人曰く、なにやら余の頭は非常にガチガチの保守的で、はや25歳にして既におっさんだというのである。言われてみれば確かに思い当たる節がある。余の愛読書は古典であり、それも論語や聖書といったいわゆる中堅サラリーマン以上でなければまず読むことのないお堅い本ばかりである。司馬遼太郎も読む。池波正太郎も、藤沢周平も読む。江戸時代が好きである。ビッグコミックも読む。映画の話は黒澤、小津、溝口の話ぐらいしせず、高峰秀子が死に昭和も遠くなりにけりとうそぶいたほどである。おっさんというよりは、むしろじじいである。だがもちろん、ぎりぎり昭和に生まれた人間である。ぎりぎり昭和を体験した最後の砦である。日航機墜落の年に生を享けたものである。上戸彩と同い年である。白鳳とタメである。昭和の終わりに死を迎えつつあった教養を宿す最後の断片である。余が死ねば一切の文化が断絶してしまうのである。天の未だ余を滅ぼさざるや、それ匤人我をいかんせんな男である。我を知るもの、それ天か、な男である。昭和が残す明治の気風を備えた最後の教養人である。教養とは知的好奇心と精神的向上心とを合わせたものである。それに若かりし日はエリート意識が隠し味に必要である。だから余は簡単にいって、おっさんである。だがただのおっさんではない。経営者、重役クラスのおっさんなのである。それゆえに余の気に入る解答をすれば、そうしたおっさんに気に入れられること必携である。おっさんとは趣味が合う。サライを読め。一個人を読め。和楽を読め。古典文学を読め。東洋経済を、日経ビジネスを、プレジデントを読め。そういった話題にについていける人間になれ。幅広く、全てとはいわないまでも、時に深く語れるようにしておけ。これだけは負けない得意技をひとつ用意しておけ。ってなことを言うつもりはありません。余は就活、それ自体に反対はせぬが、ただそれが3年生になってすぐにやるということに大反対である。重役以上のおっさんたちはなにを考えているのだろうか。そこが解せない。日本は日本らしくていいのである。ガラパゴスおおいに結構である。だがこの就活という集団発狂はガラパゴスでなくていい。ここは改善しようじゃあないの。余に教えを請えば教えてやらんでもない。謙虚な心持で教えを請うがいい。経団連会長、副会長、ささ、まずは隗より始めよ。

 最近の新聞に面白い記事があった。非正規と正規の職の年収を実際の万札をガラスケースに入れてハローワークかどこかで展示したそうである。面白い。実に面白い。だがそれは恐怖をあおっているようで面白いが美しくはない。恐怖をあおるものはたいてい真実を語っていないのがほとんどだ。現体制を維持しようとするものがそのネガティブ・キャンペーンをはったのかしらん。もしくは本当に心の底から良かれとおもってやったのであろうか。まぁ、どっちだっていいのである。ただ余はもうちょっと多くの真実を提示しても良かったと思う。非正規、正規の年収の差は本当であろう。だがそれだけではないのである。その年収の差の背後にはまたさらなる差異が多くあるのである。正規の職員になれば時間がぐっと縛られる。一週間のうちのほとんどすべてが仕事漬けになる。休日にも仕事のことを考える。休みも好きな時にはとることができなくなる。何をしていても仕事のことを考えてしまう。明日仕事があるからと、帰らねばならなくなる。多くのことが縛られる。つまり資金的自由は増大するが、時間的自由は減少するのである。こういった事実を告げなければ不公平である。何に不公平であるか、それは知らん。だが何かに不公平である。またさらに、正規の仕事に就く利点にも触れねばなるまい。時間的自由は縛られるが、有名企業に就けば、合コンでモテる。いい女が抱ける。結婚できる。保険に入れる。言い過ぎかもしらんが、普通にこなせば一生安泰である。だが営業などでは毎日競争、競争に晒される。休み返上で毎日馬車馬の如く走らねばならなくなる。差し迫る納期、きりきりと腹の底がしまる重圧。下衆なつくり笑い、二枚舌外交、靴下で絞った日本酒一気飲み、ラップ越しの、もしくは生での尺八。俺いったい、なにやってんだは日常茶飯事である。日に日に自己を滅す方法を編み出し、年月は加速度的に過ぎ去り気付けば30,40になっている。だが、そんなことはあっても、楽しい毎日であるかも知れぬ。オフの日はキングであろう。羽振りは最強である。そして、社会的にも白い目で見られることもないのである。むしろ箔がつくかもしらん。結婚するには、やはり愛だけでは難しいのである。当人たちにとってはそれでいいかもしらんが、親御さんにとってはやはり安定した職についていてもらいたというのが本音であろう。有名企業ならなおさらである。自分がもし親ならそう思うと思う。たぶん。いや、やはり、わからん。わからん。

 総じて、私が言いたいことは、結局は個人の幸福の探究に行き着くのである。非正規、正規を秤にかけて各人が自分で責任をもってより幸福な、幸福になるであろうとする選択肢を選ぶべきである。冷静に自らの魂、心と相談して結論を出せばよいのである。人生に遅いはないとはいうが、現実には遅いはあるのである。中途採用は大変である。だがそれでも、その事実を胸に突き付けて吟味せよ、ということである。全ての現実の情報を白日のもとに晒して、それから考えるべきである。自分は特別だ、中途でも簡単に職が見つかると思っている奴は意外に見つからないのである。だがその楽観主義は非常に尊いものである。そして、じゃあ、好きなことをして喰っていくとうわべの覚悟を決める者もあるかもしらん。だがそれは、その現実が厳しいからこそ、親は、世間は就職しろというのである。人の幸福のかたちは数多あれど、基本的には経済的幸福にハズレはないのである。良い家に住み、うまいものを食べ、いい嫁をもらい、いい子に恵まれ、順風満帆な生活はなかなか幸せであり、また科学的な幸せとは家族を持つことであるという研究結果もあることから、この経済的な幸福は普遍性が高く、それゆえに、万人に支持されるのである。いうなれば、しあわせの安全策である。誰だって、一塁にランナーがいれば、送りバントとはわかっていても、思いっ切り打ちたいのである。エンドランをかけたいのである。だが世間はそこで送りバントを要求するのである。見栄や食っていけない不安は、決して逆らうことのできぬ鬼監督である。鬼ではあるが結果はしっかりとのこしているのである。全打席ホームランを狙う。盗塁、エンドラン、ホームスチール、そんなことをして勝つチームはまれである。稀であるが少なからずいる。それが好きなことをして喰って行けてる人たちである。金のアンカーである。もちろん、その背後には死ぬほどの努力がある。それはそれで、つらいものである。成功の保証も何もないのである。独り孤独にその道を歩む勇気が必要である。好きなことをやって喰っていくということがどれほど厳しいことか、世間は知っているのである。死ぬほどの努力をしても報われないよりは、ある程度の努力で報われることとどちらが、よりしあわせの確立が高いのであろうか?やはり、結局それは人によるとしか言わざるを得ないのである。人生に遅いはあり、遅すぎて女神の髪をつかみ損ねた者が数多いるかもしれぬ。人生に遅いはないと断定しかねるが、少なくとも余はそんなビリっけつたちを応援するものである。我もまたそのひとりであるから。

 結局、話は元に戻る。正規か不正規かはその当人のしあわせのかたちに由来するものであり、その人間の人生の見方、感じ方に依存する。そして、それは先の見えぬ未来の不安と期待とが絡むため一層人は迷うのである。そして迷ってるうちに、就活の季節が来て、周りの友人たちのがっつきを見て、自分も遅れてはならぬと躍起になるうちに、内定がとれ、とりあえず、せっかく獲れたし、そんなわるいところでもないからと、就職し気付けば既に孫がいる訳である。これが現在の就活の現状である。まるで戦前の日本と構造は同じである。体制があるべき形を知りつつ、それを止めようにも止めることができず、なあなあのうちに、理性が消え、残るのは恐怖を煽る声のみである。

 “First of all, let me assert my firm belief that the only thing we have to fear is fear itself - nameless, unreasoning, unjustified terror which paralyzes needed efforts to convert retreat into advance.”
 
 このルーズベルトのことばを常に胸にしまっておいてほしい。

 理性を失うな。

 どんな時にも自分自身に忠実であれ!

 

2011年1月10日月曜日

喰うことと、生きること 5

  魂を売るとはいったいどういうことであろうか。

 私はその言葉を就活した者たちを揶揄するときにそばしば適用する。しかし、それはもののたとえであって実際にその本質をついてはいない。ただネガティブなもののある種の一形態のものの表現として用いているのである。もし就職が魂を売ることであるのなら、アインシュタインもニュートンも、松本清張もみなが魂を売ったことになる。ここで言う魂を売る、ということの端的な意味は、自分の心に嘘をつくということであろう。自分自身に忠実になれなかった行為の総体としてを意味しているのである。であるから、夢の為に、自分に忠実である限りはたとえ就職したとしても、それは魂を売ったことにはならないのである。だが現実はそれほど甘くはなく、実際問題として正社員になったということは、驚くほど多くのものに縛られることになるということがある。家庭をもてばなおさらである。もはや夢を追うことなど夢のまた夢であろう。初志貫徹の夢は消えるが、人間は変化する。それに伴い夢もまた変化する。青年の頃に描いた途方もない莫大な夢は、こじんまりとしたリアルな夢へとその姿を変える。億万長者、ハーレム、世界的な有名人から宝くじ100万当たんねぇかなぁ、になるわけである。感動しない人間は死んだ人間と同じである。とアインシュタインは言ったが、私ははここで、夢追うことを忘れた人間は、精神的に向上心のない馬鹿である。と言いたい。いつまでもそんなことは言ってられない。現実を見ろと多くの人は言うだろう。自身の魂を売った行為が自身でとがめられて仕方がないのであろう。誰しもがみな自分の人生体験を正当化し、それに合致しないものは、異端だと決めつけ、自身の妬み、嫉み、僻みの炎のルサンチマンは胸の底に秘め、夢追い人を嘲笑し、自分と同じように魂を売らせようとする。経済的に豊かであることは幸せと直結しはしないと建前では言うものの、実際問題、魂を売るということは、自分が実際にやりたいことをやるよりは、経済的、もしくは人からどう思われるかどうかをはかりにかけて、そっちを重視せざるをえなかったそいつ自身の弱さからくる、いやいや仕方なく就職する方を選んだという時に発する、嘘臭さが、それだけじゃ、喰ってけないというものから漂ってくるのである。

 では、なぜ夢を追わねばならぬのか、夢なき者は何を追えばいいのか、という問題もある。わざわざ夢を持てと強制しないでくれ、と否が応でも競争、競争の世界に晒されて、はぁ、香山リカさん助けてくれよ、という声も聞こえてくるかもしれぬ。なにも香山リカに助けを求める必要もあるまい。私がここで言いたいのは、夢を持たずとも別にいいのである。極限的にいえば、悪さをせずに、お天道様に顔向けできるような生活を送ってくれればそれでいいのである。小人閑居して悪を為さねばそれでいいのである。ただ、それ+αで精神的に向上心を持てと言いたいだけである。夢を真摯に追う人間は正直である。アルバイトをしながらボクシングの世界チャンピオンを目指す者は人格者である、ことを願うものである。売れない俳優には優しい奴が多い、ことを願うものである。がやはり、よくよくかんがえてみると一概にそうも言えないなと思ったりもして、その境は明確なものをなんら持たないように思う。
 
 私はそうだ。私はエリートである。であるから、道は譲る。ゴミも拾う。挨拶もする。それがエリートとしての使命であるからだ。人間としての本分であるからだ。美しくありたいからだ。極限状況にならん限りは限りなくいい奴であらんとする覚悟をもつものである。夢を持てとはこういうことである。精神的に向上心のない馬鹿はコンビニやスーパーでも、ありがとうの一言もいわず銭を投げたりする。まさしく小人である。今のこの世になんと小人の多きことかな。親の顔が見てみたい小人が世に跳梁跋扈している為、いちいち見ていたら日が暮れてしまうのである。人間が人間を育てているのではなく、動物が動物を育てているのである。人間が人間であるから基本的人権があるのであって、動物に基本的人権はない、とまでは思っていても、言わないが、精神的に向上心のない馬鹿は、良い、悪いはともかくとしても、もちろん戦後民主主義のドグマの中においては、みんなちがってみんないいのであろうが、一つだけ確かなことは、見ていて美しくないのだ。だが彼らにも私と同じように感じる魂という自我、主体を持っていることは疑いようのない事実である。ここでは独我論にはふれない。あんなのはおもちゃであるから。夢を持つことは精神的に向上心を持つことである。精神的に向上心を持つものは、人生について考える。この世の不条理について考える。そして自分がいかにあるべきかを吟味し、美しくあろうと試みる。

 魂を売った、なんちゃって就職組と飲んでいてもちっとも面白くない理由が整理してみて少しわかった。青年の頃に議論した、世界って何だ?神って、人生って、学問ってなんだ?人間ってなんだ?という激しくほとばしる熱い議論はチーズとともにどこかへ消えた。あいつらと熱い議論ができた理由、それは中学や高校の時には、まだ俺たちの天井ははっきりとはまだ見えていなかったからだ。天井はただただ碧き空であった。果てしなく広がる碧の無限の空を前に、俺たちは、お前の頭じゃ無理だの、そんな顔じゃ結婚相手も見つからないだのとずいぶんと馬鹿を言い合ったものだ。だが今や、みな自分の天井がはっきりと見えている。今から夢はもう追えまい。追うにしてもいい訳になるだけだ。目の前には、明確な輪郭線を持つ、家庭、おおよその年収、これからのぼんやりした人生設計がある。それを前にして批判すれば、それはもはや面と向かって悪口を言っているともとられかねない。おまえの顔じゃ、生まれてくる娘が不幸だと大声で笑い合ったあの瞬間も、今では笑えないブラック・ジョークである。天井が見えた。みながそんな人間になった。今汝画れり、な精神的に向上心のない馬鹿どもな、人間が集まったところで、花開く会話はやはり、自分が一番輝いていたあの可能無限に包まれていた頃のことであろう。青春は過ぎ去るからこそ青春なのである。降りた人間は本を読まない。読んだって何も変わらないと思っているからだ。語学も、資格も、何もやろうとは思わない。ただただ、寝転がって、くだらぬバラエティーをくだらぬといいながらネットと誰も読まぬブログを更新するのみである。もちろん子どもの送り迎えはしっかりやる。ゴミ出しも。精神的向上心も教養もない人間はいったい何のために生きるのであろうか。ただただユニクロを着て、マックを喰い、ワタミで飲み、〆に牛丼を食べ、ローンの残る家に着き、さきに寝た最愛の妻子にそっと口付けをして、眠りに就く。あぁ、あぁ。やっぱりここにも真理がありや。まことに余に、この真理を打ち砕く真理なし。精神的に向上心のない奴は馬鹿だ。精神的に向上心のない奴は罪だ。罪悪だ。だが…だが…無知は罪なりや?無知は罪なりや?

 こんなこといってすみません。うまれてきてすみません。合掌。

2011年1月9日日曜日

新たなるラオコーンとトルストイに向かって

『さらに新たなるラオコーンに向かって』を端的にまとめれば、藝術作品における支持体、およびメディウムそのものの、そのメディウムにしかできない独自性の追及をこそ純粋藝術であるとしている。また、その造形的、または抽象的に質の高い作品が価値のあるものであると肯定的にグリーンバーグはとらえており、純粋藝術は歴史的な必然性のもとに生じたとも説いている。優れた純粋藝術の作品としてあるならば、いかなるコンテキストも排除せねばならなず、神話や聖書の物語はその作品の純粋性に関しては邪魔なもの、および不純物であり、その作品の質を落とすものであるとする考えである。

 グリーンバーグのこの考えはもはや既に過去の遺物である。真に優れたる藝術作品は純粋性にもコンテキスト性にも、なんらその存在を縛られるものではない。いや、むしろその純粋性もコンテキスト性も十二分に抱合するものである。真に優れたる藝術の神髄の懐はあまりにも深いのである。

いろいろ様々な感じ、非常に強いのも弱いのも、ごく目立つのもまるで何でもないのも、非常に悪いのも非常にいいのも、ただ読む人、見る人、聴く人がそれに感染しさえすれば、芸術の作品になる。劇に現わされた自分の身を棄てるとか運命や神にまかせるという心持、小説に書かれた恋人同士のうっとりした感じ、絵画に描かれた肉欲の感じ、音楽で凱旋行進曲に写された勇壮な感じ、舞踏で示される快活な感じ、笑い話に出てくるおかしみの感じ、又は夕暮れの景色や子守唄に現わされる静かさの感じ、これはみんな芸術だ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 60から61ページ]

ということが私の考える藝術の定義であり、グリーンバーグの定義、及び、価値基準の範囲はやや狭隘である。またさらに、

見る人、聴く人が創作作家の受けた心持に感染しさえすれば、それでちゃんと芸術になる。
一度味わった心持を自分の中に呼び起こして、それを自分の中に呼び起こした後で、運動や線や色や音や言葉で現わされる形にしてその心持を伝えて、他の人がその心持ちに感染してそれを感じるようになるという人間の働きがある。芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見えるしるしを使って自分の味わった心持を他の人に伝えて、他の人がその心持に感染してそれを感じるようになるという人間のはたらきだ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 61ページ]

簡単にいうなれば、芸術とは、

人間の交通の手段、人間を同じ心持の中に結び付けるための手段だ[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 61ページ]

ということである。

純粋藝術にはこの働きが少なく、つまり感染力が弱いのである。人間は今現在どこまで行っても身体から離れることはできていない。そのために神話や聖書の物語は自身の身体的感性に訴えてくる為に純粋藝術よりは心を打つのである。レオナルドやミケランジェロのほうが、よしんばそれが神を現わしていようとも、より身体感覚で実感できるという点で人間的であるため、かつ人間は生まれた瞬間から一番人間に反応するのであり、人間を見ること、感じることは生得的な本能にも起因する為、コンテキスト付けられたものの方がその作品世界に入りやすい、つまり感動しやすいといえるだろう。

またさらには、 

芸術の価値つまり芸術の与える心持の価値を決めるのは、人生の意味を人間がどう見るか、いい換えると、人間が人生の善はどこにあって悪はどこにあるかということに関係している。そうして人生の善と悪は宗教といわれているものがきめる。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 65ページ]

ということからもわかる通り、何がよくて、何が間違っているかどうかは個人の人生の見方にその価値基準が委託されるということである。個人の内面に話が及んだ瞬間に神聖不可侵なものになるのが戦後民主主義の定石であるが、このプロタゴラスの相対主義はいずれ打ち破らねばならないものである。プロタゴラスのその先にソクラテスが待っているのである。待っているのであるが、そこにはグリーンバーグがいうように教養がなければわからない美があるという世界も待ち構えている。無知文盲なブルーカラーと、崩壊しつつある一億総中流のホワイトカラーと、プチブルジョワジーのインテリたちとが、まったく無条件で同じくらいに感動するものはあるのか、ということに結局話は行き着く。トルストイはこう言う。

立派な芸術品はすべての人がそれに近づいてわかるようになるからこそ立派なのだ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 129ページ]と。

わかりやすい例を挙げるなら、最近ではヒルズ族もブルカラーもハマった映画ドラマである24だろう。ERやプリズンブレイクもいい。タイタニックやガンジーなども素晴らしい。基本的にそういったアカデミー賞を獲る映画、多くの人々に感動をもたらすエンターテインメント映画などは現代においては、それなりに優れた藝術作品であるといえよう。

最後にトルストイはこうも言う。

現代の芸術の務めは、人間の幸福は人間同士が一つに結び付くというだという真理を、理性の領分から心持の領分に移して、いま支配している暴力の代わりに、神の支配、つまり我々みんなで人類の生活の最高の目的と考えられている愛をしっかりと立てることだ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 257ページ]

詩人マラルメは、詩の魅力はその意味を推察させるところにあるので、詩にはいつでも謎がなければならないと真っ向から説いている。『私の考えでは仄めかしだけが必要だ。物をじっと眺めること、ものが誘い起した夢から舞い出る形、それが歌だ。パルナス派の人たちは物をそっくりとって来てそれを見せる。そこであの派の作品には神秘がなくなる。読む人の心から、創作した人のつもりになって感じる何とも言えない喜びを奪うことになる。物に名前を付けてしまっては、少しずつ推察してゆく嬉しさという詩人の楽しみを大部分を毀すことになる。仄めかすということ、それが、夢だ。この神秘を完全に使うことが象徴というものだ。物の姿を少しずつ呼び出して気分を示すか、又は逆に、物を選んでその意味を次々に仄めかして行ってそこから気分を浮かびださせることだ。』 [岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店100ページ]

 詩にはいつでも謎がなくてはならない。それが文学の目的なのだ。他に目的はない。仄めかしだけで物を描かなければならない。 [岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 101ページ]

マラルメの詩は実に優れた藝術作品ではあるが、トルストイの定義する藝術とは相いれない。

グリーンバーグのいう純粋藝術はこの意味において、人類そのものの連帯を喚起させるようなものではない。だが今までの藝術作品が人々を結びつけたかどうかも定かではないが、すくなくとも、歴史的に見て言論の自由が建前であっても保障されている今の世の中の方が間違いなく人々を連帯させた素晴らしいものだとも言えるし、民主国家同士の戦争が未だ起こっていないというのは一縷の望みにも思える。優れた藝術作品がその世界形成に少なからず影響を与えているのは間違いのないことだろう。マルクスやウェーバー、ハンナ・アーレント等の学問の名著だって、リンカーンやキング牧師、オバマの歴史的な演説だって至極優れた藝術の神髄である。

当然、ソクラテスやゴウタマ、イエス、孔子、ムハンマドなどのパフォーマーは天才的、神的である。


 総じて、真に優れたる藝術作品とは“神”を感じさせる作品である。ここでいう“神”とは“感動”と置き換えてもいいかもしれない。国家、人種、宗教、性別などありとあらゆる制約を超越して、掛け値なしに、無条件で、ひざまずきたくなるもの、手を合わせたくなるもの、祈りたくなるもの、神聖で崇高な“あはれ”を感じさせるものである。あぁ、素晴らしい!と生きててよかったと心の底から思わせることのできるもの、魂をカタストロフィックに震撼させてくれるものであればなんでもよろしいのである。レオナルドや、ミケランジェロ、それにポロックだって、ロセッティだって、ジャッカスだってなんだっていいのである。それがより多くの人間を感動させればさせる分だけ、素晴らしいものであり、鑑賞者に涙を流させれば流させた分だけ素晴らしいのである。そしてそれを見た人間にとっての一生涯の友となれればそれは最高の藝術作品であると言って差し支えないのである。その鑑賞者の挫折時に、また愛するものを失った時に、いつでもそばにいて、優しく、時に厳しく支えてくれる、そんな作品のことをマスターピースというのである。造形藝術、非造形藝術問わず、利他的行為などの日常の行為までをも藝術の神髄は網羅する。トルストイは禁欲的である。それもまた狭隘である。官能なくして我が人生なし。女なくして我が人生なしであるのだから。もう一度話をまとめれば、実に“神”感じさせるもの、その行為、またはその作品が全能であり、全知であり、美しく、真であり、善であり、遍在である一者を感じさせるものをこそ真に素晴らしく優れたる作品といい、実に人類最高の遺産であるといってよろしいのである。

線的と絵画的と、そのはざまで

 その藝術作品が、とりわけ造形藝術作品が線的であるか、絵画的であるかは二つの作品を並置し、比較することで初めて浮き上がる印象、心的現象である。一枚の絵画だけでは線的か絵画的か否かを見いだすことも、またその概念にたどり着く事も出来はしないだろう。ものそのものがものそのものであるためには他のものそのものが必要となる。それはあたかも私が私であるためには他者存在が必要とされるように。実にヴェルフリンはモダンにしてポストモダンの先駆けをなしていたのである。デューラーの三大銅板画などはそれを単体で見せられれば絵画的と言わざるを得ないし、レンブラントの立てる女の習作などはともすれば線的作品であると判断しても差し支えない。数々のマエストロが遺したドレ―パリー表現もまた線的とも、絵画的ともとれ得るものが多々あり、人間が人間である限り持ちうる図式の顕在下においては、目に見えぬはずの線を補ったり、あるはずの線をあたかもなきが如くにその心象クオリアを形成したりもする。ゆえに線的、絵画的も単体のみでは判別しかねる。

 ヴェルフリンの功績に活目すべきなのは、いい、わるい、見ていて気持ちがいい、気持ちが悪いといった幼児的快不快、及び良い、悪いといった主観的な絵画、及び藝術作品全般に関する心象感想からの解脱にあった。従来の野獣化した藝術批評や感想から絵画に起因する間主観的、または客観的かつ事実的なものに置き換えた個別の経験事、関心ごとをよりメタレベルで厳密に議論することを可能にした点である。いうなれば絵画を言葉でより綿密に語ることを可能としたのである。

1 <線的>と<絵画的>
2
 <平面的>と<奥行的>

3
 <閉>と<開>

4
 <多数性>と<統一性>

5
 <明瞭性>と<不明瞭性>

といったヴェルフリンの基礎的概念の重箱の隅をつつくような議論は他のものに任せて、私はより本質的なことを議論して行きたいと思う。

 絵画は文字で説明でき得るか?この命題についてヴェルフリンを踏まえて考察していく。

 次元という考えがある。数学的にデカルト座標なるものがあり、0次元は点、1次元は線、2次元は面を表わす。三次元になれば立体となり、次元が4になれば時間軸が加味される。私たちが日常意識して生きる世界は4次元である(実際には10または11次元までその存在が考えられているのであるがその詳細はここでは割愛する。リサ・ランドールの『ワープする宇宙』を参考として挙げておく)。
 美術史学とは作品にふれて感じたものを、ことばに起こす作業が必須であり、ことばは美術史の精神的支柱をなすものである。視覚や聴覚、肌などの五感、六感で感じた魂のふるえを、クオリアを言葉で記述、分析し、表現した人類の知のアーカイブの一角である。近代になるまで美学、美術史学はともに密接であり一流の学者は美学者、美術学者である前に一個の哲学者であった。明治の時代、日本が哲学という言葉をあやまって輸入してしまった為に、何が間違った為か、ここまで大きく道がそれてしまったわけである。美学も、美術史学も当然のことながら哲学の部分集合である。今では線的か、絵画的かを美術の範疇で議論することは既に頭打ちとなっている。それはそれは偉大に鎮座まします文献など掘り起こしたところで時間の無駄とまでは言わないまでも、趣味の世界の出来事どまりであろう。巨人の肩に乗らずしては新たなものは生み出せないのはわかるが、先行研究をこねくり回すことが巨人の肩に乗ることではない。美学、美術史学には新たなパラダイム・シフトが求められており、それはこの現代だからこそできるようになった文明の利器を使わずしては進めないのである。ハイネが語ったように、人類にはその時代、その時代の課題があり、それを乗り越えていくことで人類は進歩して行くのだ。線的か、絵画的かを議論する上での現在できる、認識のドグマのロヴォストネスが一般的に無自覚で無批判である最強の思考形態である科学という方法論、それもとりわけ脳科学という方法論にその光明が見てとれるのである。美術史を学んだことのない早稲田の政経を今年卒業予定の友人に、この文献を読ませた後、もちろん、その作者の名称は隠して、その絵画が線的か、絵画的かを判別するテストをしてみたところ、デューラーとレンブラントの裸の裸婦の習作と以外は全問正解であった。作品はことばで論証することができるのである。ことばで絵画について主観を超えて間主観的に到達することができるのだと実感した。したがそれは彼が実際にどのように判断したのかは実際に脳の中をfMRIで見てみないとわからないし、それだけでも十分ではない。一つのものを個別に突きつめて行けば無限の壁に取り囲まれた袋小路に行き着くばかりだ。レオナルドの様に。一つのニューロンから線的か、絵画的かの判別に行き着く事は、相対論と量子論とを合わせた万物の理論を発見するのと同じくらい難しい。

ここで哲学的にヴェルフリンの線的、絵画的を考察してみたい。人類最初の絵画は線的であった、とプリニウスは語っているがそれまで以上に今の我々は科学という一つの方法論でよりもっと太古にまで遡ることができる。旅立つ恋人の影をなぞるよりも前の絵画を我々はラスコーに見ることができる。人類初めの絵画はいったい何であろうか?そしてそれは意図的にうまれた絵画であったのだろうか?意図的に初めて描かれた絵画とは何であっただろうか?偶然引かれた線が何かに見えたのだろうか?それとも今もラスコーに残るあの紅い手形が人類初の絵画なのであろうか?人間の本質は“不在を想う”ことである。これは私のオリジナリティーである。ベルグソンやホイジンガ、リンネよりも人間の本質を突いているように思う。ホモ=イマジナチオ。素晴らしい!人間が実に人間になった瞬間とは、死者に花を手向けた瞬間であっただろう。しかし、屈葬や最愛のものに花を手向ける以前に、既に絵画があったようにも思える。人間が人間になる前に、既に絵画があり、絵画があったがゆえに人間になることができたのだと考えることもできなくはない。次元的にみて初めの絵画は線的、絵画的の前に点的がある。だが点的絵画はこの四次元の世界においては存在しない。点を打った瞬間に面になっているからである。かといって実際問題、面を意識するにはその前に線を意識せずいかないのであり、その線が自らの線上のどこか一点を通過した時に初めてその内側に面が生ずるのである。その為に意図的に絵画を描く場合には、意図的に面の絵画を意図しない限りにおいては、まずはじめに線から始まることからは逃れることはできないのである。絵画の始まりはその性質上線的なものから始まるのである。面的に色を塗ることはできるが、それは線の積み重ねであり、はじめに線ありきなのであり、微分・積分がその根っこにある。四次元連続体の下では高次元は全て低次元に制約される。面は線があってのものであり、線は点があってのものである。そして点は存在論あってのものであり、人間が認識の木の実を齧るまでは存在しなかったのであるという環世界、人間原理にまで線的、絵画的について遡ってみることもできるし、それが哲学である。美学なくして哲学は存在できるが、哲学なくして美学は存在できない。何度も言うが、線的か絵画的かは鑑賞者の主観の来歴に依存するが、それでも間主観的なレベルで議論できるようになったのはヴェルフリンの功績である。音楽が身体言語で語ることができるように、絵画もまた身体言語やヴェルフリンのことばで語られ得る。

ヴェルフリンの業績は決して消えはしない。たとえ新たな方法論が線的か、絵画的かをより、今まで以上に確固としたドグマで解明できるようになったとしても。いずれにせよヴェルフリンの影響は美術史を学ぶ者にとっては絶大であることにかわりはなく、永遠の古典たりえる。だが、その図式があまりに強力すぎるあまりに、そのことばと、絵画を見ることによってもたらされるクオリアとを絶妙につなぐ認識、図式のもとから逃れるには相当の苦労を要するがゆえに、もう二度と純粋に絵画を楽しむことができなくなることは必携である。もうあの頃には戻れないのである。だがこの図式を得たことで新たなものが見られるようにもなる。そのアドヴァンテージを最大に活かそう。シェリーのひばりにはもう戻れない。認識の木の実を食したあの二人の様に。だからことばで絵画を語ろう。ことばは絵画の如くに、絵画はことばの如くにかたることができる。C言語ということばで絵画を語ろう。東大も藝大も一つになろう。多種多様な異種な分野のことばで語ろう。クオリアにも太初にことばありきなのだから。

喰うことと、生きること 4

出版業社に魂を売った友人と話をしていてふと気付いた。この友人は余の近しい友である。メロスとセレヌンティウスばりの友情ではないにしろ、かなりの腐れ縁な友である。ホモではない。ゲイでもない。作家志望でその可能性を保留しつつ夢を追うズルイ奴である。彼が大手出版社に就職が決まったのは十中八九余が功績である。余の力がなければ、今頃彼はこの世にいなんだかも知らん。彼は都の性欲に通う学生であった。馬場に住んでいたことを鑑みれば、もし余の後知恵なかりせば新宿で中央線にヒデ並みにロケット・ダイブしていたことだろう。光速のオレンジが一瞬のスパーク!だったであろう。余はひとりの悩める魂を救った訳であり、彼の為に涙を飲んだ人もいるのであるから、余はその名も知らぬものを蹴落とすことに加担してしまった罪深いものであり、恨まれて当然かも知らん。

話を元に戻し、彼は就活に見事勝利を納めた。彼の就職が99パーセント余のおかげではあるものの、彼の実力がなかったかといえば嘘になる。彼は実に類稀なる目利きであった。現代の刀工並みの審美眼を持っていたことは紛れもない事実である。相談すべき相手は無数にいた。だが、その中において、いったい誰が血迷って、こんな六浪の男に相談するであろうか、いや、なんといたのだ。モノ好きな男がここに。彼は敏感な嗅覚で話を聞くに足る、価値ある男を嗅ぎ分けた。そこに彼のセンスがあり、彼は目に見えぬところでしっかりとリスクをとったのだ。ノーリスク・ハイリターンはこの世には存在しない。正負の法則という絶対的秩序ががんぜんとしてあるからだ。その成功体験のない周囲からは白い目で見られている獣に話を請うた、その点が彼の攻めの姿勢であり、コスプレプレイヤーが大晦日に勝利したのを見て、あまりに興奮したマサトが、やっぱりせめなきゃだめなんすよ!といった、まさにそのことを彼はしていたのである。彼の就職は実にその99%は余のおかげである。残りの1パーセントが彼のセンスである。その1パーセントの中には我の知らぬ彼の汗と涙と血と痴との結晶の努力がある。その1パーセントの彼の目利きが100パーセントの勝利をもたらしたのである。その1パーセントは紙一重の様でいて、じつに分厚い紙一重なのである。剣心と四乃森蒼紫のように分厚い紙一重が彼と他の就活生のなかにあったのである。

 その彼と最近話をして、ふと気付いた。余は喰う為に就活をするものだと思っていた。だが実際は、実に就活の本質は見栄、すなわち虚栄にあるということに気付いた。誰だって、電通やフジ、物産、商事と周りに吹聴するがために、要は、ぶっちゃけていってしまえば、その会社に入って合コンする時のアドヴァンテージの為だけに、死ぬ気で就活をしているのである。周りの人間がうらやましがる、経済的な一つの指標に基づいた価値を見せびらかし、かつ、そして劣等感に悩みたくないというのが真実なのである。やりたい仕事ではない。ただ合コンと優越感の為だけに貴重な大学生活を棒に振るわけである。友人は語った。有名大学に行ってない人が自分の大学をぼんやり秘匿するのと同じように、有名でない企業に就職した人間は飲み会の席でも隅っこのほうで芋焼酎を飲んでいると。商事に決まった大学時代のザコキャラ君が今では中小企業に就職した大学時代のキングに隅っこのほうで芋焼酎を飲ませている。この現実にみなが少しでもウォ―ラ―スタインの近代世界システムばりに周縁から中心へと行くために躍起になっているのだ。職など腐るほどある。就職氷河期などオレンジな嘘だ。

勝てば官軍とはまさにこのことであって、彼は今鼻高々で後輩に就活のアドヴァイスをしている。これぞ勝者の特権だ。そこに、惜しかっただの、というプロセスは存在しない。あるのは結果だけの世界が屹立としてある。逃れることも言い訳もできない。天地は仁ならずの世界。厳しい現実と虚構の交錯、赤とんぼは山田耕作。トゥナイトは杉田J作。その戦いを終えた彼は今もどこか誇らしげに語る。幾度の戦場をさも経験してきたかのような老兵のように。ただただ血肉にすらなってもいない空虚な言葉を。自信満々に、満面の頬笑みに乗せて。

人間ってなんだ?就活ってなんだ?

2011年1月8日土曜日

喰うことと、生きること 3

 喰う為に生きるのか、生きるために喰うのか。この2者択一しか残されていないのか。それが問題だ。うん。それにしても俺ハムレット、相当好きだね。

 魂を売った友人たちとは話がもう合わなくなった。それは紛れもない事実な訳で、話の内容が劣っているとか、優れているとかいう議論はしない。ってな相対主義者的な、みんなちがってみんないい的な話はここではしないわけで。相対性理論は聞いても、ラブ・ズッキュンは口ずさんでも、相対主義を打ち破らねばならない訳で。だからここでもどんな話が優れているのかもしっかりと価値判断する訳で。人間は実に自分の人生を正当化せずにはいられない訳でありまして。あいつらの話よりは俺の話の方がだんちで優れている訳で。世界とは何か?神とは何か?人間って何か?っていう話こそ俺はそそられる訳で。そんな話にこそ興味があって、誰が結婚したとか、誰がどこに就職しただとかに、それ程興味はなく、、、とはいってもまぁ、知りたい訳だが、そんなにひっぱる話でもないから、聞いて、はい、それまでよってな訳にいきつくわけで。それから過去の話なんかされた日にゃ、もう沢山だよって思うけれども、いいだせず、苦笑いの愛想笑いを浮かべる自分がなんとも情けなく誠を尽くしているのかと、自分にも、友人にもね、自分の良心が痛み、ズキズキズキンちゃんな訳で。遠慮をする仲はホントの友人ではないのではないのかと自問自答してみたり、自分が特別じゃないなんてのはホントはもうわかってるわけで。個性なんて全然ないのも重々の合点承知之助な訳で。とりあえずの優越感に浸ってブログを書いてるなんて奴はそれこそごまんといるわけで。読むに足らない情報を日夜勤しんで一生懸命やりがいを以って0人の読者の為に毎日アップする自己満足族なわけで。そんなこんなで結局その空気はうち壊せず、ずるずると二次会についていくわけで、二次会でも結局何も起きない訳で。ここは小樽ではないけども、おおきな牡丹雪が降るわけで。そんな雪がまた何ともいえず、ほんとに綺麗な訳で。駅前のイルミネーションに照らされて、これまたなんともロマンティックな情景であるわけで。地元の新潟にもやっぱり、そんな美しい真理があるわけで。それをなんだかんだで誇りに思ってる自分が確固としているわけで。やっぱり新潟はパトリな訳で。ラ・マルセイエーズを歌ってみる訳で。今日はそんな感じでブログする訳で。

 4日目にして学校が始まるというのもいかがなものかと文科省を小馬鹿にしつつ、それでも組織の論理に従う小市民な僕ちゃんは三日の夜に東京に戻った。

 郵便受けのポストをみると年賀状が入っている。そこには魂を売った友人から来た一枚の年賀はがきがあった。彼は昨年の12月、最近結婚したばかりの友人である。その彼の年賀はがきを見た時、余はぎくりとした。短剣があたかも余の首元に押しつけられているかのように、ひんやりとした感覚が喉仏を襲ってきたのである。そこにはもう一つの真理があった。

 余は魂を売った人間を軽蔑する。また売らざるを得なかった者も軽蔑する。喰わせてもらってる親をも軽蔑する傲岸不遜の厚顔無恥な野郎事大である。余は夢に妥協した、妥協せざるを得なかった全てのものを軽蔑する。経済的理由で、政治的理由で、また身体的理由で夢半ばに散華したものたちには哀悼の意を表する。逆境の中にこそ真理があり、それ以外には真理はないものとする。真の生き甲斐は実に逆境の中にこそあり。

 余の信条は瓦解した。そこにあったのは美しい光の中、閑静な住宅街で撮られた仲睦まじく映る二人の若い夫婦の写真であった。あぁ、実に余は不勉強であった。ここにも真理はあるのだ。

 夢を追い散華した人間にも人生があり、スポットライトが当たるのは本当に選ばれし人間のみだ。世の大半の人々はその一生を暗い闇の中で生涯を終える。散華した人間にも残りの人生がある。人生は決して終わりではないのだ。ライフ・ゴーズ・オンである。ドラゴンアッシュである。

 人生とは妥協である。幸せな人生を送るコツはいかにうまく妥協をするかで決まるのである。いかにうまく頭を垂れて生活するか、そこにかかっている。鴎外が晩年にたどり着いた、あの諦念の境地に、今の若者は既にみなたどり着いているのかもしれない。どうせ叶わぬ夢ならば、見ない方がましではないかと思い立ったが吉日なのか。それは自分で決めることだ。ただ俺は妥協はしない。したくない。こう言っていた自分がいつか妥協した時、コレを見た皆が大いに私を嘲笑するだろう。そのときには私はたいそうイタイ奴になっていることであろうし、まぁ、今もイタイ訳だが、それもまた若気の至りと笑ってくんなまし。

 妥協なくして人生なし。妥協してくれる人のおかげで今の俺がある。妥協する人がいるからこそ成功者となれるのだ。敗者に乾杯。人生の敗者たちに乾杯しよう。素晴らしき妥協に涙の乾杯。妥協するも涙、妥協せぬも涙。どちらの涙にもその先がある。その涙に報いあれ。その熱き血潮に祝福あれ!結局、老子。ラオツー。ラオツー。

 その年賀状に幸せありき。その年賀状に愛ありき。妥協の世界に真理多し。

2011年1月7日金曜日

喰うことと、生きること 2

 就職か?自由か?それが問題だ!

 日本を覆う就活というマインドセットはもはや常識中の常識であるにもかかわらず、余のパソコンは何とも呑気である。州カツと表示するのは理由があるのかしらん。アメリカかどこかのかつ丼の親戚か何かだと思ってるのだろう。なんとも牧歌的で俺っちのパソコンらしくて、こいつぁ春から縁起がええわい。という感じでいつもエンジン01全開である。受験、就活、親、学校、会社のえも言わせぬ顔なしの圧力が無限の可能性を秘めた子どもたちの想像力を圧迫するどころか、窒息死させて、それどころかさらには根こそぎ刈って根絶やしにしてしまう社会の現状。小学生のなりたい職業が公務員なんてぇのは世もまさに末である。鎌倉の末法以上に末法である。大人になれば夢は消える。否、受験を控えれば夢は消える。せめて子どもの頃だけは夢だけみさせてあげようじゃないのよ。どうせ、はかなく散る夢だって、夢見たことに夢みたっていいじゃない。夢見たあの頃はかけがえのない財産になるんだから。過去に生きる人間にとってこれほど甘美で苦いものはないでしょうに。わかっちゃいるけどやめられない。そんなおとなだらけの“穢い”現世な世の中なんです。いつだって末法なんです。いつだって人間は苦しいんです。人間になったあの2001年宇宙の旅のあの瞬間からず~~っと苦しいんです。辛いんです。それより前に人間になっていたんです。ぼくたちは死者に花を手向けた瞬間から人間になったんです。人間の本質は言語です。遊びです。道具です。私の先行研究を踏まえた人間の定義は“不在を思うこと”です。ホモ=イマジェンヌスとでもしておきませうかね。まぁ、いいです。このことはおいおいかいていきませう。

 とりあえず話をもとにもどしませう。せう、よし。文が一気に平安や明治に戻る。締まる。人間は喰わねば生きては行けぬ。されど人間はパンのみに生くるにあらず。されどパンなくてはいきることあたわず。パンを得るには労働せねばならず、働かざる者食うべからず。ごもっともです。ごっつぁんです。三年寝太郎がいたっていいでしょ。落語の世界のお話でもいいでしょ。そこにいていいよ、という存在の全肯定、人はそれを愛とよぶんです。

 余の友人たちは自由を売った。金の為に、喰っていくために、夢を捨てた。諦めた。凡人にとっては、いつか突き付けられる真実がある。夢を追っては喰ってはいけぬ。夢は諦めねばならない。周りを巻き込んでまで追う夢なのか?自問自答してだす答え、就職という第二のゴールか、一生頭を垂れて、自分を殺し、見せかけのつくり笑いを浮かべ、喰うて、クソして、寝て、起きて…、のその毎日の繰り返しで生きざるを得ない真実。その大いなる夢を追い汗水流したものは幸いなり。彼らは夢知らぬものよりも、優しくなれるのだから。本気で夢を目指したものは挫折のやり場のない人生の悲哀を膝小僧をすりむいた日の夜に入るお風呂にゆっくりと浸すあの膝小僧のようにしみじみとそれを痛烈なまでに知る。それは弱さとはちがうからな、by加持リョウジ。小学生、中学生、高校、大学、会社、人間の頭には目に見えぬ天井がある。その天井がマインドセットである。ノミのジャンプである。しかし、その天井は意外に打ち破ることができるかも知れないのである。実はその天井は発砲スチロールでできているのかも知れないのである。鋼鉄でできているかもしれないのである。それはやってみなければわからないのである。今の世の凡人どもは牙を生まれながらにして折られた哀れなロンリ―・ウルフである。ラルフであるのならランク王国に出られるので、好きなことをやって食の心配もないのであるが、いや、ラルフも辛いのかもしれぬ。世に悩みなき人間は存在せぬのである。どんな金持ちでも悩みはあるのである。水嶋ヒロにも悩みはあるのである。当然である。悩みのないのは聖なる愚者か、人でなしの国の住人ばかりである。脱線戻す。

 天井は打ち破ることができるのである。ルフィがドン・クリーク戦の時に見せた大戦槍粉砕である。続ければしっかりと打ち破れる日は来るのである。たとえそれが鋼鉄の天井であっても毎日味噌汁を口に含み少しずつ床を腐食させ釘を抜き、その釘で脱出不可能と言われた網走刑務所から脱走した伝説の受刑者のようにあきらめず精進することが大事なのである。精進の使いかた待ちがっとる?総じて、意志の力である。鋼鉄の天井なら油圧でも劣化ウラン弾でも27インチ砲でも持ってきて打ち開ければよいのである。方法はいくらでもある。それこそマインドセットに陥らないことが肝要である。

 鼻を垂らしていた小学校の友人たち、授業の終わりの起立で違うところが起立していて立てなかった中学校の友人たち、ワキがを漂わせていた高校の友人たち、一緒にスクラムを組んだ大学の友人たち、そして、そして、魂を売った友人たち、今では腐った魚の目をしている友人たち、そんな君たちに、そんな君たちにあえていおう!

 向上心のない人間は馬鹿だ。と。


 俺が言ったんじゃないよ。Kがいってたんだよ。こころの先生に向かってね。

 まっ、実質俺が言ってることに変わりはないいんだけどね。精進。精進。

2011年1月6日木曜日

喰うことと、生きること 1

 久しぶりに新潟での飲み会に参加した。余は天下の逸民である。余は自らを天下のエリートであると確信する。ノーブレス・オブリージュを自らに課す武士道精神の最後の断片である。

 飲み会には不満がある。不満があるが、やっぱり行ってしまう。行ったとていつも内容は同じである。今何してる?の現状確認と住むところが近ければ今度、一緒に個別に飲みに行こうと、まずかなわぬ約束をし、酒がまわれば何べんも使い古した昔話にあだ花が咲き、ぐだぐだしているうちに二次会、三次会へとつまらぬ、くだらぬ、もりあがらぬの無限梯子である。メメント・モリはいずへ?余は昔話に興味など皆無である。余はイチローと同じ空気を吸うものである。過去の話は本当に心の底から興なく思うものである。しかし世には過去に生きねば生きられぬ者もいる。毎日の平凡な暮らしに、上司に頭をペコペコと下げ、後輩からは背を突っつかれ、眠い目をこすりながら、満員電車に揺られ、牛丼を駆け込み、また満員電車に揺られ、帰ってテレビをつけながらネットをする。その繰り返しの毎日、シシューポスの神話など露知らず、ダス=マンは今日も浅い眠りに就くのである。生き甲斐なき人生のなんともふがいなきことよ。仲良きことはよきことかな。武者小路実篤かな。教養なき人間の一生、すべてこれに足れり。

 しかし、そんなことをいったとて、余はまた今年も飲み会に出席したのである。毎年来ていたあいつの姿も今日はみえず、遂に余はこの中で唯一の皆勤賞という余にとってはじつに不名誉な賞を誰も知らず、こんなことを考えているのは余ひとりのみなれば、ひっそりと受賞した。会費は4000円なり。2次会はしっかりと断ろう!と勝間和代をしっかり読んでいたのにもかかわらず、先輩からおまえは金はらわなくていいからと言われたのと、先輩諸氏らの圧力に負けて、f××kつまらない2次会にまで出る始末、金は要らないといった先輩からは、飲み終了後に、伝票を見て、じゃあ、一人2000円で!という締めの声を聴き、空気を読んで2000円を財布からだし、先輩に渡そうとすると、いや、お前はいいよ。という言葉の期待もむなしく、まもなく、あいよ!と2000円は手元から抜き取られ始末書の両津。えっ!えっ!ドッキリ!!これってどっきりカメラ、ビックリドンキー?!新潟の野球部に吉本の伝統なく、先輩だから多めに払うという習慣もなく、余的にはあった方がいいと思うのだが、いかがかしらん、先輩が多めに、というか全額払う心持ち、おとこの粋を見せてもらいたかったけちんぼけんちゃんなのであります。かくして余の6000円は虚空に消えた。6000円とは一日の余のバイト料である。6000円は魔法では出てこない。余はお金の重さ、尊さを肌で知るものである。これほどまでにいたく身にしみて知るものである。コンクリートの駐車場で鬼ごっこをしていて、膝小僧をがっざりすりむいた日の、その夜のお風呂に入る時ぐらい沁みて沁みて知るものである。6000円もあれば本が買えた。おいしいお菓子もスキーにも行けた。画材も粘土もフィルムも買えた。おぉ、素晴らしき無駄ずかいよ!ミランダよ!シェークスピアよ!有り金は露と消え、帰るタクシー代も消えた。道路には誰もいない。寒夜の新潟を独り口ずさみながら家路に着いた。あったかい布団でねむるんだろな。と人間に生まれた喜びと、うまいものが、酒が食えた喜びと、五体満足で、待っててくれる家族がいる家がある幸せを噛みしめながら。

 もう飲み会なんて3年はいかなくていい。そういいきかせて皆勤賞を獲った。今年こそはいかないぞ!といいながらまた行ってしまう人間ってなんだろう?この業、わかっちゃいるけどやめられない。

 自分がいない時に限って、その飲み会が面白いのではないかという不安、自分がいない時に限って、高校の時好きだったクラスの違うあの娘がくるのではというまず間違いなく外れる予感、やれねぇ、女はただの豚だ、といったポルコ・ロッソ風にいえば、そんな女のいない飲み会はでてもなんにも面白くなく、かといって知性のない女にも興味がなく、完全にないとは言えないが、ポップティーンとかアゲハはやっぱり遊びになっちゃうかな、みたいな、だよねぇ、だよねぇ、ゆうっきゃないかもね、そんなときならね!みたいな、真のエロスは知性のある女にしかわからないんだよね、澁澤のあんちゃん、フランスのサルトルががっつりやっていたような、ハーヴァードやケンブリッジのような世界のウルトラ・エリートたちと杯を酌み交わしていきたい。ザッカ―バーグみたいなやつと世界のビジョンを共有したい。ハイとロウを融通無碍に行き来したい。本当にすごいやつは地元の飲み会で皆勤賞などまずとらないのだ!というかこないやつのほうが勝ってる感がでていた。類は友を呼ぶ!!!精進!精進!けっして仲間を切るのではない!次のステップに行くために薄くするのだ。旧交は温めればすぐに濃くなる。いざ!次のステージへ!

 …っと、こんなことをあの場にいたみんながみんな思ってるんだろうな。人間っておもしろっ!

2011年1月5日水曜日

お正月考

毎年この季節になると血が騒ぐ。雪を見れば全身が勃起する。年末から年始にかけての幸せの金色週間がやってきた。年末年始は胸躍るものだ。家族が集まり、楽しく酒を飲み、おせちを食らい、ときにはしゃぶしゃぶ、そして時に、というか毎年恒例の5000円のお寿司の詰め合わせ!恥ずかしがり屋のうちのじいさんのさっさとすませる投げやりな年末の乾杯のあいさつも終えれば、そぞろに紅白の頃合いに。弟と父はやれ格闘技を撮っただの、ダウンタウンを撮ったのだのの口角に泡する応酬もまた毎年恒例。AKBも終わったころにはもうほろ酔い気分でうまい寿司を自分の好きなものだけつまみ、ほうばり、注意なんかなんのその、またつまみ、ほうばりして両の頬をリスにする。もぐもぐこんぼ。昼ごろに買った数え切れぬほどの駄菓子、甘いジュースの群立がこちらをむいて鎮座しまします。頭をかすめるのは冷凍庫の中のバッカスのチョコ2箱とキットカット、そしてお正月アイスの巨星、ハーゲンダッツ諸々が我の脳髄の宇宙をはやぶさの如く駆け抜ける。おかんにそんな買ったって全部たべきれんよ、と言われた昼さがりの午後もはや幾歳、永遠の一瞬だよね、ランボーさん。これも毎年の恒例。恒例の恒例の予定調和。もうお菓子も食えへん。アイスも食えへん。甘いジュースも飲めへん。すべてがみちたりた瞬間。全てが調和した完全な黄金律のモメント、メメント・モリと人はいえ、カウぺ・ディエムと我はいえ、生まれてきてよかった!と心の底から掛け値なしで宇宙に向かって咆哮できるゆるぎない絶対的しあわせの秩序の存在をうつら、うっすらとまどろむクオリアを感じながらクオリアって、マッハの原理って、ファインマンさん、世界は今日も回ります。世界は回ります。真っ赤じゃないよ、真っ白だよん。代助じゃないよ、三四郎でもないよ。五六郎だよ。ふんわぁ!それはあたかも母の子宮のなかにいたあの絶対的な幸福感すら漂わせる家族の集まり、囲いに我は身を横たえる。兄者が寝った!という弟の声は既に遠く、このまま死んでも悔いはないと思いながら、やっぱり親より先には死んだらアカンがな、と平静と情熱の間を行ったり来たりして、意識が徐々に消えゆくことを楽しむ。李白の詩を原語で口ずさみながら、余は根っからのエリートであ、、ら、、、、、ん、、、。

故郷は遠きにありて思うものと誰が言ったか、悲しく歌うものと誰が言ったか、故郷とはぽわわわわんだ。ほんわかしたもわわ~んなり。

昨年までは常に受験という暗黒のカーテンが我が家を覆ってはいたが、それでもやはりお正月は頗る太平の世であった。天下ののんびり屋になれたものであった。受験でさえその聖域は侵せぬのである。これはもしかすると余のみなるかもしれん。余が平成の逸民であったが故に6浪もしたのかもしれん。結果オーライ。終わりよければすべてよし。である。最後に笑えればそれでいいのである。人生とはオセロなり。最期に白を置けば全てが白である。黒を置けば全てが黒である。白でも黒でも、赤でも、茶でもかまわぬ。自分の好きな色で人生を染めればいいのである。さいごのさいごで、今までの苦労()いコマを一挙に返せるのは見ていて心持がよく、実に壮観であろう。

とりあえず、余は今年、一時、白を置けた。6年間という受験生活にピリオドを打った。余は次の課題に移る。ここからがスタートである。藝大合格は余にとってスタートラインに過ぎぬ。本当にすごい奴は大学を中退、もしくはいかぬものである。それを強く自覚しておけ!自分!大学に行く目的は自分よりすごい奴がいることを肌で実感するために行くのである。余が大学に行く目的はそういった奴等に一生涯かけても敵わぬ奴がいるといったことを肌で実感させ、彼らに引導を渡すためである。

余は故郷、新潟に一時帰郷する。新幹線は若干高いが、帰る道すがら、理由なき優越感に浸られる。都から地元への道に余の栄光の未来を夢見るのである。未来とは夢を信じる者のものである。越後湯沢は雪が舞い、今年はスキー三昧と行こうかしらん、ディズニーランドにも、海外旅行にも行こうかしらん。余が前に彩られるは白銀の虹なり。学問と女人と故郷とハリウッドとである。三四郎の世界を我は生きるのである。我、7つの海を繋ぐ虹の架け橋とならん。

毎年この季節になると血が騒ぐ。全身が勃起して妄想がとめどもなく溢れてくる。ひょっとしたら、越後の里の、この白雪たちが余の酔興()をさましてくれるのかしらん。