2011年1月5日水曜日

お正月考

毎年この季節になると血が騒ぐ。雪を見れば全身が勃起する。年末から年始にかけての幸せの金色週間がやってきた。年末年始は胸躍るものだ。家族が集まり、楽しく酒を飲み、おせちを食らい、ときにはしゃぶしゃぶ、そして時に、というか毎年恒例の5000円のお寿司の詰め合わせ!恥ずかしがり屋のうちのじいさんのさっさとすませる投げやりな年末の乾杯のあいさつも終えれば、そぞろに紅白の頃合いに。弟と父はやれ格闘技を撮っただの、ダウンタウンを撮ったのだのの口角に泡する応酬もまた毎年恒例。AKBも終わったころにはもうほろ酔い気分でうまい寿司を自分の好きなものだけつまみ、ほうばり、注意なんかなんのその、またつまみ、ほうばりして両の頬をリスにする。もぐもぐこんぼ。昼ごろに買った数え切れぬほどの駄菓子、甘いジュースの群立がこちらをむいて鎮座しまします。頭をかすめるのは冷凍庫の中のバッカスのチョコ2箱とキットカット、そしてお正月アイスの巨星、ハーゲンダッツ諸々が我の脳髄の宇宙をはやぶさの如く駆け抜ける。おかんにそんな買ったって全部たべきれんよ、と言われた昼さがりの午後もはや幾歳、永遠の一瞬だよね、ランボーさん。これも毎年の恒例。恒例の恒例の予定調和。もうお菓子も食えへん。アイスも食えへん。甘いジュースも飲めへん。すべてがみちたりた瞬間。全てが調和した完全な黄金律のモメント、メメント・モリと人はいえ、カウぺ・ディエムと我はいえ、生まれてきてよかった!と心の底から掛け値なしで宇宙に向かって咆哮できるゆるぎない絶対的しあわせの秩序の存在をうつら、うっすらとまどろむクオリアを感じながらクオリアって、マッハの原理って、ファインマンさん、世界は今日も回ります。世界は回ります。真っ赤じゃないよ、真っ白だよん。代助じゃないよ、三四郎でもないよ。五六郎だよ。ふんわぁ!それはあたかも母の子宮のなかにいたあの絶対的な幸福感すら漂わせる家族の集まり、囲いに我は身を横たえる。兄者が寝った!という弟の声は既に遠く、このまま死んでも悔いはないと思いながら、やっぱり親より先には死んだらアカンがな、と平静と情熱の間を行ったり来たりして、意識が徐々に消えゆくことを楽しむ。李白の詩を原語で口ずさみながら、余は根っからのエリートであ、、ら、、、、、ん、、、。

故郷は遠きにありて思うものと誰が言ったか、悲しく歌うものと誰が言ったか、故郷とはぽわわわわんだ。ほんわかしたもわわ~んなり。

昨年までは常に受験という暗黒のカーテンが我が家を覆ってはいたが、それでもやはりお正月は頗る太平の世であった。天下ののんびり屋になれたものであった。受験でさえその聖域は侵せぬのである。これはもしかすると余のみなるかもしれん。余が平成の逸民であったが故に6浪もしたのかもしれん。結果オーライ。終わりよければすべてよし。である。最後に笑えればそれでいいのである。人生とはオセロなり。最期に白を置けば全てが白である。黒を置けば全てが黒である。白でも黒でも、赤でも、茶でもかまわぬ。自分の好きな色で人生を染めればいいのである。さいごのさいごで、今までの苦労()いコマを一挙に返せるのは見ていて心持がよく、実に壮観であろう。

とりあえず、余は今年、一時、白を置けた。6年間という受験生活にピリオドを打った。余は次の課題に移る。ここからがスタートである。藝大合格は余にとってスタートラインに過ぎぬ。本当にすごい奴は大学を中退、もしくはいかぬものである。それを強く自覚しておけ!自分!大学に行く目的は自分よりすごい奴がいることを肌で実感するために行くのである。余が大学に行く目的はそういった奴等に一生涯かけても敵わぬ奴がいるといったことを肌で実感させ、彼らに引導を渡すためである。

余は故郷、新潟に一時帰郷する。新幹線は若干高いが、帰る道すがら、理由なき優越感に浸られる。都から地元への道に余の栄光の未来を夢見るのである。未来とは夢を信じる者のものである。越後湯沢は雪が舞い、今年はスキー三昧と行こうかしらん、ディズニーランドにも、海外旅行にも行こうかしらん。余が前に彩られるは白銀の虹なり。学問と女人と故郷とハリウッドとである。三四郎の世界を我は生きるのである。我、7つの海を繋ぐ虹の架け橋とならん。

毎年この季節になると血が騒ぐ。全身が勃起して妄想がとめどもなく溢れてくる。ひょっとしたら、越後の里の、この白雪たちが余の酔興()をさましてくれるのかしらん。

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