2011年1月21日金曜日

月光歌男(メン)

 
仰せの如く近来和歌は一向に振い申さず御座候。現代の正岡子規が詠める


 月見て 床に入り また月見て 月見る



 今宵は満月である。月がきれいですね、と女の子に言われたら、それはOKのサインである。美しいものを共に見ることは心を許さねばできぬものである。日本人に愛してるということばは存在せぬのである。そういう気持ちはもちろんあるが、愛しているというのはI love youの訳語であるから、それに南蛮の時代には大切と訳していたから、日本古来からの表現ではない訳である。ない訳であるが、まぁ、もう定着したと言ってよろしいかとも思う。私もしばしば使う。照れながら。やっぱり私は、好きな子には、月がきれいですねという。そっちの方がしっくりくるからである。美しいものを肩を並べて見るその共有体験はサンテグ・ジュぺリの結婚の概念である。人類は皆兄弟である。四海の内、皆兄弟である。ユングである。集合的無意識であるから国境を越えてもこの概念が理解しあえる。日本人でもクリスチャンになれるのである。フランス人でも仏教徒になれるのである。おおいにありである。気持ちは同じである。共に魂をもった考える葦である。

 古来日本に愛を伝える言葉はなかった。あったのは、そう、歌だ。ヒカルではなく、歌があった。歌に高ぶる胸のざわめきを乗せた。万葉の時代から人は空の青を、海の匂いを、世の中のはかなさを、感動を、えもいえぬあの感情をリズムに乗せた。言の葉は“もののあはれ”を伝えるための歌の音符であった。現在の科学では言語の始まりは言葉ではなく、歌であったと考えられている。日本人のI love youはより本能に近い。

 言葉にできぬ気持ちを伝えたい時に、人は言葉以外の何で気持ちを伝えればいいのであろうか。身ぶりか、テレパシーか、目か。気持ちを気持ちのありのままに伝えるとき、人はそれを“藝”に託す。感じた気持ち、情操を藝のある表現で伝えた時、放った言の葉が、歌い手が感じた気持ちをありのままにその聞き手の心に生じさせる。それは波紋となって聞く者の心をバイブレーションさせ、その波紋が目に届き、人間の心の海に津波が起こる。その津波が大きな一粒の涙となって頬を伝うのである。涙とはこころの津波である。感動の大きさの指標である。流した涙の大きさ、量だけ、その感動はゆるぎないものとなる。美しい富士を見たときに、うまいものを食った時に、愛する人を思慕する時に、叶わぬ望みを抱く時に、そして遂に契りを結ぶ時に、愛する者が死んだときに、そして愛する者の誕生の時に、実に人は涙を流すのである。感極まったその果てに、人はどうにもならなくなって、体の中からあふれ出る何ものかを外に出せねば、自身が得体の知れぬなにものかに破裂させられてしまう、そんな気になり、精巣にたまった精子が夢精となって体外に発射されるように、なにかが体の中で爆発して、その爆発の衝撃波は体の、心の爆心地から放射状にその感動を発散させねば気が狂いそうになる。その為、人は声にもならぬ大声をあげる。荒れ踊る。月に向かって吠えるのである。画を描く。脈々と波打つ熱き血潮が吹き出て止まぬ。それが藝であり、詩であり、歌である。

 その黒々とした得体の知れぬモノを世界1に出力させるときに、それが祝福の白魔法となるか、黒魔法となるかがその人間の人格が決める。“もののあはれ”を知る人はみな白魔法使いである。心の練れる人は幸いである。世の中に通じている人は幸いである。そんな人を“もののあはれ”を知る人といい、センス・オブ・ワンダーのひとともいう。”もののあはれ”をよく知る人は、人よりよく感動する。そんな人間は世界一の幸せ者である。感動することこそが人間が生きる意味である。感動する為に人間は生きているのである。“神”を感じるために生きているのである。“もののあはれ”を味わう為に人間は生きているのである。

 今日の月を見て、歌を詠めぬ人間は獣である。歌を詠めぬ人間は精神的向上心のない馬鹿である。身近にある半径3メートルの世界の幸せに気付けぬものは不幸である。青い鳥にきづけぬものも不幸である。だが、まぁ、私のおかげで、これから気付くことができる。それが私の歌である。私の得体の知れぬ黒々したものがわたしに書かせる。今日の素晴らしき世界に、今宵の素晴らしき月に、打ち震えた胸のさざ波を歌にしてみるがよい。いい歌が詠めなくてもよい。そうであるならば、こうすればよい。月に向かって吠えればよろしい。思いっきり、わお~~ん!と吠えてみるがよい。それが藝である。それが歌である。

 私もさっそく、女の子に向かっていおう。月がきれいですね。





 君とヤリたい。




 ビンタが涙を詠んでくれる。

 

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