2011年1月9日日曜日

線的と絵画的と、そのはざまで

 その藝術作品が、とりわけ造形藝術作品が線的であるか、絵画的であるかは二つの作品を並置し、比較することで初めて浮き上がる印象、心的現象である。一枚の絵画だけでは線的か絵画的か否かを見いだすことも、またその概念にたどり着く事も出来はしないだろう。ものそのものがものそのものであるためには他のものそのものが必要となる。それはあたかも私が私であるためには他者存在が必要とされるように。実にヴェルフリンはモダンにしてポストモダンの先駆けをなしていたのである。デューラーの三大銅板画などはそれを単体で見せられれば絵画的と言わざるを得ないし、レンブラントの立てる女の習作などはともすれば線的作品であると判断しても差し支えない。数々のマエストロが遺したドレ―パリー表現もまた線的とも、絵画的ともとれ得るものが多々あり、人間が人間である限り持ちうる図式の顕在下においては、目に見えぬはずの線を補ったり、あるはずの線をあたかもなきが如くにその心象クオリアを形成したりもする。ゆえに線的、絵画的も単体のみでは判別しかねる。

 ヴェルフリンの功績に活目すべきなのは、いい、わるい、見ていて気持ちがいい、気持ちが悪いといった幼児的快不快、及び良い、悪いといった主観的な絵画、及び藝術作品全般に関する心象感想からの解脱にあった。従来の野獣化した藝術批評や感想から絵画に起因する間主観的、または客観的かつ事実的なものに置き換えた個別の経験事、関心ごとをよりメタレベルで厳密に議論することを可能にした点である。いうなれば絵画を言葉でより綿密に語ることを可能としたのである。

1 <線的>と<絵画的>
2
 <平面的>と<奥行的>

3
 <閉>と<開>

4
 <多数性>と<統一性>

5
 <明瞭性>と<不明瞭性>

といったヴェルフリンの基礎的概念の重箱の隅をつつくような議論は他のものに任せて、私はより本質的なことを議論して行きたいと思う。

 絵画は文字で説明でき得るか?この命題についてヴェルフリンを踏まえて考察していく。

 次元という考えがある。数学的にデカルト座標なるものがあり、0次元は点、1次元は線、2次元は面を表わす。三次元になれば立体となり、次元が4になれば時間軸が加味される。私たちが日常意識して生きる世界は4次元である(実際には10または11次元までその存在が考えられているのであるがその詳細はここでは割愛する。リサ・ランドールの『ワープする宇宙』を参考として挙げておく)。
 美術史学とは作品にふれて感じたものを、ことばに起こす作業が必須であり、ことばは美術史の精神的支柱をなすものである。視覚や聴覚、肌などの五感、六感で感じた魂のふるえを、クオリアを言葉で記述、分析し、表現した人類の知のアーカイブの一角である。近代になるまで美学、美術史学はともに密接であり一流の学者は美学者、美術学者である前に一個の哲学者であった。明治の時代、日本が哲学という言葉をあやまって輸入してしまった為に、何が間違った為か、ここまで大きく道がそれてしまったわけである。美学も、美術史学も当然のことながら哲学の部分集合である。今では線的か、絵画的かを美術の範疇で議論することは既に頭打ちとなっている。それはそれは偉大に鎮座まします文献など掘り起こしたところで時間の無駄とまでは言わないまでも、趣味の世界の出来事どまりであろう。巨人の肩に乗らずしては新たなものは生み出せないのはわかるが、先行研究をこねくり回すことが巨人の肩に乗ることではない。美学、美術史学には新たなパラダイム・シフトが求められており、それはこの現代だからこそできるようになった文明の利器を使わずしては進めないのである。ハイネが語ったように、人類にはその時代、その時代の課題があり、それを乗り越えていくことで人類は進歩して行くのだ。線的か、絵画的かを議論する上での現在できる、認識のドグマのロヴォストネスが一般的に無自覚で無批判である最強の思考形態である科学という方法論、それもとりわけ脳科学という方法論にその光明が見てとれるのである。美術史を学んだことのない早稲田の政経を今年卒業予定の友人に、この文献を読ませた後、もちろん、その作者の名称は隠して、その絵画が線的か、絵画的かを判別するテストをしてみたところ、デューラーとレンブラントの裸の裸婦の習作と以外は全問正解であった。作品はことばで論証することができるのである。ことばで絵画について主観を超えて間主観的に到達することができるのだと実感した。したがそれは彼が実際にどのように判断したのかは実際に脳の中をfMRIで見てみないとわからないし、それだけでも十分ではない。一つのものを個別に突きつめて行けば無限の壁に取り囲まれた袋小路に行き着くばかりだ。レオナルドの様に。一つのニューロンから線的か、絵画的かの判別に行き着く事は、相対論と量子論とを合わせた万物の理論を発見するのと同じくらい難しい。

ここで哲学的にヴェルフリンの線的、絵画的を考察してみたい。人類最初の絵画は線的であった、とプリニウスは語っているがそれまで以上に今の我々は科学という一つの方法論でよりもっと太古にまで遡ることができる。旅立つ恋人の影をなぞるよりも前の絵画を我々はラスコーに見ることができる。人類初めの絵画はいったい何であろうか?そしてそれは意図的にうまれた絵画であったのだろうか?意図的に初めて描かれた絵画とは何であっただろうか?偶然引かれた線が何かに見えたのだろうか?それとも今もラスコーに残るあの紅い手形が人類初の絵画なのであろうか?人間の本質は“不在を想う”ことである。これは私のオリジナリティーである。ベルグソンやホイジンガ、リンネよりも人間の本質を突いているように思う。ホモ=イマジナチオ。素晴らしい!人間が実に人間になった瞬間とは、死者に花を手向けた瞬間であっただろう。しかし、屈葬や最愛のものに花を手向ける以前に、既に絵画があったようにも思える。人間が人間になる前に、既に絵画があり、絵画があったがゆえに人間になることができたのだと考えることもできなくはない。次元的にみて初めの絵画は線的、絵画的の前に点的がある。だが点的絵画はこの四次元の世界においては存在しない。点を打った瞬間に面になっているからである。かといって実際問題、面を意識するにはその前に線を意識せずいかないのであり、その線が自らの線上のどこか一点を通過した時に初めてその内側に面が生ずるのである。その為に意図的に絵画を描く場合には、意図的に面の絵画を意図しない限りにおいては、まずはじめに線から始まることからは逃れることはできないのである。絵画の始まりはその性質上線的なものから始まるのである。面的に色を塗ることはできるが、それは線の積み重ねであり、はじめに線ありきなのであり、微分・積分がその根っこにある。四次元連続体の下では高次元は全て低次元に制約される。面は線があってのものであり、線は点があってのものである。そして点は存在論あってのものであり、人間が認識の木の実を齧るまでは存在しなかったのであるという環世界、人間原理にまで線的、絵画的について遡ってみることもできるし、それが哲学である。美学なくして哲学は存在できるが、哲学なくして美学は存在できない。何度も言うが、線的か絵画的かは鑑賞者の主観の来歴に依存するが、それでも間主観的なレベルで議論できるようになったのはヴェルフリンの功績である。音楽が身体言語で語ることができるように、絵画もまた身体言語やヴェルフリンのことばで語られ得る。

ヴェルフリンの業績は決して消えはしない。たとえ新たな方法論が線的か、絵画的かをより、今まで以上に確固としたドグマで解明できるようになったとしても。いずれにせよヴェルフリンの影響は美術史を学ぶ者にとっては絶大であることにかわりはなく、永遠の古典たりえる。だが、その図式があまりに強力すぎるあまりに、そのことばと、絵画を見ることによってもたらされるクオリアとを絶妙につなぐ認識、図式のもとから逃れるには相当の苦労を要するがゆえに、もう二度と純粋に絵画を楽しむことができなくなることは必携である。もうあの頃には戻れないのである。だがこの図式を得たことで新たなものが見られるようにもなる。そのアドヴァンテージを最大に活かそう。シェリーのひばりにはもう戻れない。認識の木の実を食したあの二人の様に。だからことばで絵画を語ろう。ことばは絵画の如くに、絵画はことばの如くにかたることができる。C言語ということばで絵画を語ろう。東大も藝大も一つになろう。多種多様な異種な分野のことばで語ろう。クオリアにも太初にことばありきなのだから。

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