2011年1月23日日曜日

拝啓、養老孟司様

教養とは人の気持ちのわかること、初めて聞いた時にはなんの意味か分らなかった。


 唯脳論、バカの壁以来、私淑していた私にとって今日の出来事は素晴らしいものだった。生ける伝説、橋本治、柄谷行人と並ぶ日本三大柱の一柱。実に不動。実に自由気儘な人だった。ありのままの自分をありのままに受け入れている。分を知る。それが身体感覚でできる人。また諦めの人。足るを知る人。考える人。実に不動。写真を撮っても何も気にしない。勝手に撮ってくれという。休憩中に独りひっそりと退出し、煙草を喫む。巨木の前に独り佇み、煙草を燻らせる、その後ろ姿は、男は黙って語れという不立文字の教えを説いてるように思えた。雲雀が飛んだ。草枕な人。単独者、光栄ある孤立者、養老先生は神だの、仏だのについては多くを語らない。ただ塀の上を歩けとおっしゃる。そして、それだのに万人が万人にとって、美しいや、正しいといった客観的真理は存在するという。神や仏を語らず、良いことは良い。悪いことは悪いという。養老孟司にパスカルの賭けは通じない。なぜなら神がいるかどうかにかかわらず、正しいことをする人だからだ。禅の教えだ。諸悪為勿、衆善奉行。悪いことはするな。いいことをしろ。ただソクラテスや、ゴータマ、孔子の様に淡々と語る。悲しいかな、しかし、私はそこにを見てしまう。

 養老孟司は絶対者の存在については語らない。それは彼の美意識がそうさせる。彼の魂がそうさせているのだ。といっても、そういうと本人はまた沈黙するだろう。来歴、ベルグソンのいう記憶と言い換えたところで彼の沈黙は破れない。直視人心、見性成仏だからだ。彼は魂についても、その存在についても、多くをかたらない。魂とはサッカー場で行われるサッカーそのものだという。魂、そんなのあるにきまってるじゃないですか!といいきった小林秀雄の逆を行く。だが、それでいて、実は小林秀雄と同じことを語っている。そこにはただ、語り方の違いがあるだけだ。世界の見方は一つではない。同じ対象についてレオナルドは絵画で、ミケランジェロは彫刻で同様のものを表現したように孟司は沈黙することで、その存在を語る。言葉にした瞬間に固まる。柔軟性がなくなる。それをかれは危惧する。秀雄は文士であった。だから書いた。書かざるを得なかったから書いた。猛は医者であり、脳科学者である。その違いがあっただけだ。双方、どちらも抽象は語らない。常に、常に、具体的に、身体的に語る。語る本人が納得したことしか語らないから聞いている側も納得して聞く。だから、猛はわからないものはわからないとする無記を貫く。氷のような情熱を以って。


 今まで、虫や自然、宇宙を愛でる人間がなぜ“あの存在”を語らないのか、実におかしいと思っていた。ダーウィンのセンス・オブ・ワンダーを知り尽くすほどの男がなぜ?と、いつも疑問に思っていた。同じく虫好きな手塚治虫は悉くその存在をくどいまでに語った“あの存在”をどうして孟司は語らないのかと。しかし、今日の講演を聞いてその疑問は氷解した。私は確信した。木の葉の配置、そして森の木々の配置の類似性を熱く語る氏の目が、“あの存在”を熱く語っていたことを。孟司は確信している。だが語らない。ゴータマと孔子が行ったことを実に、このネットが世界を覆ったこの現代において実践しているのだ。

 “神”を語れば楽になれる。なのに猛はあえて語らない。その名のもとに実に多くの血が流れたことを深く知るから。語ればその存在が嘘になるから痩せ我慢をする。真に感動を覚えた人間はただ沈黙する。ただ感じ入る。話せばその感動が嘘になるから。ただ同じものを感じていると信じたい。伝えたい。言葉にしたい。だがそれは不立文字なものである。ジレンマと葛藤がある。そのジレンマをジレンマとして維持させ考えていくところに猛の魅力がある。不可知的態度、これを塀の上を歩くという。無限を相手にする時に、その無力を痛感して“神”を語ってしまう。それはただ、単に自分が楽になりたいからだ。神を語るにはまだ早い。早いが語りたくなる。それが人情というものだ。

本日の美術解剖学会は無限に挑戦するドンキホーテな野郎の集まりであった。筋肉と骨の無限の組み合わせや、脳の中の1000億の1000億乗のエンドレスの世界を相手にする。“世界ってなんだ?””神ってなんだ?”“人間ってなんだ?”に挑戦する無謀な輩の学会であった。二重螺旋、頭のつむじ、渦潮、台風、銀河、そのホロン型構造に感動を覚え、“あの存在”を痛感するものたちの集いである。


 そんな集いであるが、その長は“その存在”に言及しない。そこに日本の粋がある。芭蕉が、利休がいる。絵でも図でもない絵図が日本である。

 教養とは人の気持ちのわかること。教養とは、すなわち“もののあはれ”がわかることである。センス・オブ・ワンダーを解する心である。共感する想像力のことである。学べば、学ぶほどその空の碧さを知るのである。空の碧さとは、すなわち養老猛のことである。


 私は自分の分を知ります。ですから、まずは名を馳せて、野蛮人の会に呼ばれるまでの人物になりたく思います。そうしてじっくり話す機会を得たいと思います。養老先生のご存命中に何とか実現いたしますので、その辺は心配されなくても大丈夫です。

今日実際にお会いして、本当に勉強になりました。不躾な行いにも寛大に応じてくださった先生にただただ感謝です。本当にありがとうございました。














 あ~、ふぐ食いて。

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