2011年1月10日月曜日

喰うことと、生きること 5

  魂を売るとはいったいどういうことであろうか。

 私はその言葉を就活した者たちを揶揄するときにそばしば適用する。しかし、それはもののたとえであって実際にその本質をついてはいない。ただネガティブなもののある種の一形態のものの表現として用いているのである。もし就職が魂を売ることであるのなら、アインシュタインもニュートンも、松本清張もみなが魂を売ったことになる。ここで言う魂を売る、ということの端的な意味は、自分の心に嘘をつくということであろう。自分自身に忠実になれなかった行為の総体としてを意味しているのである。であるから、夢の為に、自分に忠実である限りはたとえ就職したとしても、それは魂を売ったことにはならないのである。だが現実はそれほど甘くはなく、実際問題として正社員になったということは、驚くほど多くのものに縛られることになるということがある。家庭をもてばなおさらである。もはや夢を追うことなど夢のまた夢であろう。初志貫徹の夢は消えるが、人間は変化する。それに伴い夢もまた変化する。青年の頃に描いた途方もない莫大な夢は、こじんまりとしたリアルな夢へとその姿を変える。億万長者、ハーレム、世界的な有名人から宝くじ100万当たんねぇかなぁ、になるわけである。感動しない人間は死んだ人間と同じである。とアインシュタインは言ったが、私ははここで、夢追うことを忘れた人間は、精神的に向上心のない馬鹿である。と言いたい。いつまでもそんなことは言ってられない。現実を見ろと多くの人は言うだろう。自身の魂を売った行為が自身でとがめられて仕方がないのであろう。誰しもがみな自分の人生体験を正当化し、それに合致しないものは、異端だと決めつけ、自身の妬み、嫉み、僻みの炎のルサンチマンは胸の底に秘め、夢追い人を嘲笑し、自分と同じように魂を売らせようとする。経済的に豊かであることは幸せと直結しはしないと建前では言うものの、実際問題、魂を売るということは、自分が実際にやりたいことをやるよりは、経済的、もしくは人からどう思われるかどうかをはかりにかけて、そっちを重視せざるをえなかったそいつ自身の弱さからくる、いやいや仕方なく就職する方を選んだという時に発する、嘘臭さが、それだけじゃ、喰ってけないというものから漂ってくるのである。

 では、なぜ夢を追わねばならぬのか、夢なき者は何を追えばいいのか、という問題もある。わざわざ夢を持てと強制しないでくれ、と否が応でも競争、競争の世界に晒されて、はぁ、香山リカさん助けてくれよ、という声も聞こえてくるかもしれぬ。なにも香山リカに助けを求める必要もあるまい。私がここで言いたいのは、夢を持たずとも別にいいのである。極限的にいえば、悪さをせずに、お天道様に顔向けできるような生活を送ってくれればそれでいいのである。小人閑居して悪を為さねばそれでいいのである。ただ、それ+αで精神的に向上心を持てと言いたいだけである。夢を真摯に追う人間は正直である。アルバイトをしながらボクシングの世界チャンピオンを目指す者は人格者である、ことを願うものである。売れない俳優には優しい奴が多い、ことを願うものである。がやはり、よくよくかんがえてみると一概にそうも言えないなと思ったりもして、その境は明確なものをなんら持たないように思う。
 
 私はそうだ。私はエリートである。であるから、道は譲る。ゴミも拾う。挨拶もする。それがエリートとしての使命であるからだ。人間としての本分であるからだ。美しくありたいからだ。極限状況にならん限りは限りなくいい奴であらんとする覚悟をもつものである。夢を持てとはこういうことである。精神的に向上心のない馬鹿はコンビニやスーパーでも、ありがとうの一言もいわず銭を投げたりする。まさしく小人である。今のこの世になんと小人の多きことかな。親の顔が見てみたい小人が世に跳梁跋扈している為、いちいち見ていたら日が暮れてしまうのである。人間が人間を育てているのではなく、動物が動物を育てているのである。人間が人間であるから基本的人権があるのであって、動物に基本的人権はない、とまでは思っていても、言わないが、精神的に向上心のない馬鹿は、良い、悪いはともかくとしても、もちろん戦後民主主義のドグマの中においては、みんなちがってみんないいのであろうが、一つだけ確かなことは、見ていて美しくないのだ。だが彼らにも私と同じように感じる魂という自我、主体を持っていることは疑いようのない事実である。ここでは独我論にはふれない。あんなのはおもちゃであるから。夢を持つことは精神的に向上心を持つことである。精神的に向上心を持つものは、人生について考える。この世の不条理について考える。そして自分がいかにあるべきかを吟味し、美しくあろうと試みる。

 魂を売った、なんちゃって就職組と飲んでいてもちっとも面白くない理由が整理してみて少しわかった。青年の頃に議論した、世界って何だ?神って、人生って、学問ってなんだ?人間ってなんだ?という激しくほとばしる熱い議論はチーズとともにどこかへ消えた。あいつらと熱い議論ができた理由、それは中学や高校の時には、まだ俺たちの天井ははっきりとはまだ見えていなかったからだ。天井はただただ碧き空であった。果てしなく広がる碧の無限の空を前に、俺たちは、お前の頭じゃ無理だの、そんな顔じゃ結婚相手も見つからないだのとずいぶんと馬鹿を言い合ったものだ。だが今や、みな自分の天井がはっきりと見えている。今から夢はもう追えまい。追うにしてもいい訳になるだけだ。目の前には、明確な輪郭線を持つ、家庭、おおよその年収、これからのぼんやりした人生設計がある。それを前にして批判すれば、それはもはや面と向かって悪口を言っているともとられかねない。おまえの顔じゃ、生まれてくる娘が不幸だと大声で笑い合ったあの瞬間も、今では笑えないブラック・ジョークである。天井が見えた。みながそんな人間になった。今汝画れり、な精神的に向上心のない馬鹿どもな、人間が集まったところで、花開く会話はやはり、自分が一番輝いていたあの可能無限に包まれていた頃のことであろう。青春は過ぎ去るからこそ青春なのである。降りた人間は本を読まない。読んだって何も変わらないと思っているからだ。語学も、資格も、何もやろうとは思わない。ただただ、寝転がって、くだらぬバラエティーをくだらぬといいながらネットと誰も読まぬブログを更新するのみである。もちろん子どもの送り迎えはしっかりやる。ゴミ出しも。精神的向上心も教養もない人間はいったい何のために生きるのであろうか。ただただユニクロを着て、マックを喰い、ワタミで飲み、〆に牛丼を食べ、ローンの残る家に着き、さきに寝た最愛の妻子にそっと口付けをして、眠りに就く。あぁ、あぁ。やっぱりここにも真理がありや。まことに余に、この真理を打ち砕く真理なし。精神的に向上心のない奴は馬鹿だ。精神的に向上心のない奴は罪だ。罪悪だ。だが…だが…無知は罪なりや?無知は罪なりや?

 こんなこといってすみません。うまれてきてすみません。合掌。

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