働くとは何かについて吟味していく。就活生必読のブログにしたい。否、必読の書籍にしたい。まぁ、必読の電子書籍でもいいや。就活生にとってアイフォンは必需品、三種の神器らしい。就活をしたことのない私には何が何の事だかわからないが、なぜだかよく就活の相談を受ける。内定をもらった友人曰く、なにやら余の頭は非常にガチガチの保守的で、はや25歳にして既におっさんだというのである。言われてみれば確かに思い当たる節がある。余の愛読書は古典であり、それも論語や聖書といったいわゆる中堅サラリーマン以上でなければまず読むことのないお堅い本ばかりである。司馬遼太郎も読む。池波正太郎も、藤沢周平も読む。江戸時代が好きである。ビッグコミックも読む。映画の話は黒澤、小津、溝口の話ぐらいしせず、高峰秀子が死に昭和も遠くなりにけりとうそぶいたほどである。おっさんというよりは、むしろじじいである。だがもちろん、ぎりぎり昭和に生まれた人間である。ぎりぎり昭和を体験した最後の砦である。日航機墜落の年に生を享けたものである。上戸彩と同い年である。白鳳とタメである。昭和の終わりに死を迎えつつあった教養を宿す最後の断片である。余が死ねば一切の文化が断絶してしまうのである。天の未だ余を滅ぼさざるや、それ匤人我をいかんせんな男である。我を知るもの、それ天か、な男である。昭和が残す明治の気風を備えた最後の教養人である。教養とは知的好奇心と精神的向上心とを合わせたものである。それに若かりし日はエリート意識が隠し味に必要である。だから余は簡単にいって、おっさんである。だがただのおっさんではない。経営者、重役クラスのおっさんなのである。それゆえに余の気に入る解答をすれば、そうしたおっさんに気に入れられること必携である。おっさんとは趣味が合う。サライを読め。一個人を読め。和楽を読め。古典文学を読め。東洋経済を、日経ビジネスを、プレジデントを読め。そういった話題にについていける人間になれ。幅広く、全てとはいわないまでも、時に深く語れるようにしておけ。これだけは負けない得意技をひとつ用意しておけ。ってなことを言うつもりはありません。余は就活、それ自体に反対はせぬが、ただそれが3年生になってすぐにやるということに大反対である。重役以上のおっさんたちはなにを考えているのだろうか。そこが解せない。日本は日本らしくていいのである。ガラパゴスおおいに結構である。だがこの就活という集団発狂はガラパゴスでなくていい。ここは改善しようじゃあないの。余に教えを請えば教えてやらんでもない。謙虚な心持で教えを請うがいい。経団連会長、副会長、ささ、まずは隗より始めよ。
最近の新聞に面白い記事があった。非正規と正規の職の年収を実際の万札をガラスケースに入れてハローワークかどこかで展示したそうである。面白い。実に面白い。だがそれは恐怖をあおっているようで面白いが美しくはない。恐怖をあおるものはたいてい真実を語っていないのがほとんどだ。現体制を維持しようとするものがそのネガティブ・キャンペーンをはったのかしらん。もしくは本当に心の底から良かれとおもってやったのであろうか。まぁ、どっちだっていいのである。ただ余はもうちょっと多くの真実を提示しても良かったと思う。非正規、正規の年収の差は本当であろう。だがそれだけではないのである。その年収の差の背後にはまたさらなる差異が多くあるのである。正規の職員になれば時間がぐっと縛られる。一週間のうちのほとんどすべてが仕事漬けになる。休日にも仕事のことを考える。休みも好きな時にはとることができなくなる。何をしていても仕事のことを考えてしまう。明日仕事があるからと、帰らねばならなくなる。多くのことが縛られる。つまり資金的自由は増大するが、時間的自由は減少するのである。こういった事実を告げなければ不公平である。何に不公平であるか、それは知らん。だが何かに不公平である。またさらに、正規の仕事に就く利点にも触れねばなるまい。時間的自由は縛られるが、有名企業に就けば、合コンでモテる。いい女が抱ける。結婚できる。保険に入れる。言い過ぎかもしらんが、普通にこなせば一生安泰である。だが営業などでは毎日競争、競争に晒される。休み返上で毎日馬車馬の如く走らねばならなくなる。差し迫る納期、きりきりと腹の底がしまる重圧。下衆なつくり笑い、二枚舌外交、靴下で絞った日本酒一気飲み、ラップ越しの、もしくは生での尺八。俺いったい、なにやってんだは日常茶飯事である。日に日に自己を滅す方法を編み出し、年月は加速度的に過ぎ去り気付けば30,40になっている。だが、そんなことはあっても、楽しい毎日であるかも知れぬ。オフの日はキングであろう。羽振りは最強である。そして、社会的にも白い目で見られることもないのである。むしろ箔がつくかもしらん。結婚するには、やはり愛だけでは難しいのである。当人たちにとってはそれでいいかもしらんが、親御さんにとってはやはり安定した職についていてもらいたというのが本音であろう。有名企業ならなおさらである。自分がもし親ならそう思うと思う。たぶん。いや、やはり、わからん。わからん。
総じて、私が言いたいことは、結局は個人の幸福の探究に行き着くのである。非正規、正規を秤にかけて各人が自分で責任をもってより幸福な、幸福になるであろうとする選択肢を選ぶべきである。冷静に自らの魂、心と相談して結論を出せばよいのである。人生に遅いはないとはいうが、現実には遅いはあるのである。中途採用は大変である。だがそれでも、その事実を胸に突き付けて吟味せよ、ということである。全ての現実の情報を白日のもとに晒して、それから考えるべきである。自分は特別だ、中途でも簡単に職が見つかると思っている奴は意外に見つからないのである。だがその楽観主義は非常に尊いものである。そして、じゃあ、好きなことをして喰っていくとうわべの覚悟を決める者もあるかもしらん。だがそれは、その現実が厳しいからこそ、親は、世間は就職しろというのである。人の幸福のかたちは数多あれど、基本的には経済的幸福にハズレはないのである。良い家に住み、うまいものを食べ、いい嫁をもらい、いい子に恵まれ、順風満帆な生活はなかなか幸せであり、また科学的な幸せとは家族を持つことであるという研究結果もあることから、この経済的な幸福は普遍性が高く、それゆえに、万人に支持されるのである。いうなれば、しあわせの安全策である。誰だって、一塁にランナーがいれば、送りバントとはわかっていても、思いっ切り打ちたいのである。エンドランをかけたいのである。だが世間はそこで送りバントを要求するのである。見栄や食っていけない不安は、決して逆らうことのできぬ鬼監督である。鬼ではあるが結果はしっかりとのこしているのである。全打席ホームランを狙う。盗塁、エンドラン、ホームスチール、そんなことをして勝つチームはまれである。稀であるが少なからずいる。それが好きなことをして喰って行けてる人たちである。金のアンカーである。もちろん、その背後には死ぬほどの努力がある。それはそれで、つらいものである。成功の保証も何もないのである。独り孤独にその道を歩む勇気が必要である。好きなことをやって喰っていくということがどれほど厳しいことか、世間は知っているのである。死ぬほどの努力をしても報われないよりは、ある程度の努力で報われることとどちらが、よりしあわせの確立が高いのであろうか?やはり、結局それは人によるとしか言わざるを得ないのである。人生に遅いはあり、遅すぎて女神の髪をつかみ損ねた者が数多いるかもしれぬ。人生に遅いはないと断定しかねるが、少なくとも余はそんなビリっけつたちを応援するものである。我もまたそのひとりであるから。
結局、話は元に戻る。正規か不正規かはその当人のしあわせのかたちに由来するものであり、その人間の人生の見方、感じ方に依存する。そして、それは先の見えぬ未来の不安と期待とが絡むため一層人は迷うのである。そして迷ってるうちに、就活の季節が来て、周りの友人たちのがっつきを見て、自分も遅れてはならぬと躍起になるうちに、内定がとれ、とりあえず、せっかく獲れたし、そんなわるいところでもないからと、就職し気付けば既に孫がいる訳である。これが現在の就活の現状である。まるで戦前の日本と構造は同じである。体制があるべき形を知りつつ、それを止めようにも止めることができず、なあなあのうちに、理性が消え、残るのは恐怖を煽る声のみである。
“First of all, let me assert my firm belief that the only thing we have to fear is fear itself - nameless, unreasoning, unjustified terror which paralyzes needed efforts to convert retreat into advance.”
このルーズベルトのことばを常に胸にしまっておいてほしい。
理性を失うな。
どんな時にも自分自身に忠実であれ!
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