2011年1月19日水曜日

Someday my mentor will come!

 眠い。眠いが毎日書く。続けることが大事である。続ける意志が余を超人たらしめる。

 6年来の夢が叶い余は憧れの人と酒を組み交わした。勇気を出して近づき、その存在をアピールしたのが、4年前のエンジン01文化戦略会議、現場はモノマネ大会の会場。その日になるまで、まさか、余がモノマネの会場に、それも舞台に上がるなんてことは思ってもいなかった。ただその前日にたまたま川沿いを散歩していると、ふうん、明日なんか面白いのがあんな。あっ、あいつも来るのか。へぇ、というそんな感じであった。翌日、目覚ましなどかけぬし、かけたところで意味はなく、二度寝して起きることすらも稀で、三度寝がふつうの自堕落の体であった。まして早起きなどここ数年来したことがない。しかし、この日はなぜか早く目が覚めた。目が覚めて一向に二度寝ができない。珍しい。そして枕から生える糸屑を眺めながら、頭をかすめるのはエンジン01のこと。どうせ行ったって、チケットも売り切れであろうし、話すことなどできぬであろう。しかし、なぜか気になる。気になって仕方がない。とりあえず起きる。起きて、服を着替える。勇気。勇気。勇気。何者かが余をけしかける。気付けば余は自転車に乗り、川沿いを全速力で駆けていた。憧れを持つことは大事である。ロールモデルを持つことは人生の指針になる。憧れの人に近づくのは、なにか気恥かしい。気恥かしいが近づかねば何も始まらぬ。動かねば何も始まらぬ。やった後悔よりも、しなかった後悔のことを恐れたい。告白したことの後悔よりも告白しなかった後悔の方を恐れたい。わかっている。わかっているが、足が動かぬ。動かぬのは自分が明日も生きていると思っているからである。自分がダス・マンであるからである。とりあえず動け、動いてから考えろ。走りながら考えろ。という訳である。会場に着いた。もちろん、遠くから見るだけのつもりである。チケットは一枚500円である。だが財布がない。訊けばモノマネ大会の参加者になれば、その会場に入れるという。入賞すれば日本酒ももらえる。実にここが余の人生のターニングポイントであった。偶然から必然への命がけのジャンプである。幸いにして余はモノマネが得意であった。得意であったが身内ネタがほとんどだ。普遍性がない。だけれどもいい機会だ。多くの人に見てもらえるし、憧れのあの人にも見てもらえる。話ができるかも知れない。余は足が震えていた。手も震えていた。だが覚悟を決めて申し込んだ。すんなり、軽い気持ちでという係の人に促されたのもあった。参加者の楽屋に入ってもやっぱり、やめたいな、帰りたいな、とずうっと考えていた。手がしびれている。血液が来ていない。心の臓だけがただ空回りしている。周りは本職の人ばかりである。家族、友人が応援に来ている人もいる。余は、実に余だけは完全アウェイである。孤立無援の行軍である。大会が始まった。演者が藝をなし、それを審査員が評価し、点数を付ける。その後に軽い質問とトークがある。場は常に笑いに包まれる。係の人が動く。時間が押しているらしい。係の人がそっと余に耳打ちする。申し訳ございませんが、時間の関係で、前日に申し込まれた方だけが舞台に立てることになってしまいました。本当に申し訳ございません。余は残念というよりも、むしろ安堵した。自身がゆえでなく、自身ではどうにもならぬ外的条件によって自身の恥をかくかもしれぬリスクはなくなった。だが、当然できるチャンスは消えた。正負の法則である。人間とは不思議なものでやれなくなるとやりたくなってくる。ないものは欲しくなる。余は逆にモノマネがどうしてもやりたくなってきた。またスタッフがあわただしく動く。なにやらまだチャンスはあるかも知れぬという。何度も何度も変更して申し訳ないという。ただ、またやれるとなると、やらなくてもいいと思えてくる。人間とは不思議なものである。また係の人が来る。余に訊く。やりたいですか?と。余は答えた。お願いしますと。言った瞬間後悔した。何かが言わせた。だが何が言わせたがわからぬ。わかるのはオーラの泉現象であるということだけである。理屈ではない。江原さんが新潟に来ていたのも影響していたのかしらん。言ったが手前、後悔したが後の祭りである。やらねばならぬ。男にはやらねばならぬ戦いがある。余は覚悟を決めた。足は震える。手も震える。うまく立てぬ。だが踏ん張る。声も震えては、恥ずかしい。恥ずかしいと思っていることを知られるのはなお恥ずかしい。堂々と堂々としているのがよいのだ。余は走って舞台の中央へと向かった。お笑い芸人のように元気よく、元気が良ければたいていのことはうまく行く。元気!元気!舞台に立って振り返る。みんなが見ている。世の人は人前に立てば、かぼちゃと思えという。思ってみる。だが、まったく、いっこうにカボチャに見えぬ。まったく見えぬ。二つの目がこっちを見ている。たくさんの目がこっちを見ている。こいつはいったい何者だという目でこちらを見ている。ええい、関係ねぇ!やってやるぜ!結果はカタストロフィ―であった。もちろん良き意味でなく、悪い意味で。余が自信満々に為した、朝青竜やキアヌ・リーブス、そして笠智衆のモノマネは見事にドンずべりであった。毒食らわば皿までと思い、自身の全てを披歴した。自身を表現すればするほど、これでもかというほどに場は凍った。新潟は寒い。だがその日の新潟は瞬間的に冥王星ぐらいまで冷えた。それは余が原因であっただろう。ミラーニューロンの結晶も通じない時には通じないのである。実にモノマネは既知であることが重要なのである。そんなことはつゆ知らず、残ったのは後悔である。清々しいまでのやらなかったよりもやった後悔である。冷気が張り詰めるまでに透き通る空の碧の後悔である。もう新潟は歩けない。誰もそんなことを思うてはいないのに、自意識過剰であろうからか、そんなことばかり考える。顔から火はでなかったが、顔はトマトになった。額の汗がこいつ、無理してる感を一層お客さんに与えてしまったかもしれぬ。汗すらもコントロールできる吉永小百合はすごいなぁと感心した。感心しながら余は公開処刑に殉じた。殉じた結果、余は彼から9.1点をもらった。なにやら余の演技は小数点を付けたくなったらしい。どの審査員にも共通の認識であった。表彰式が終わり、場が解散すると余は彼の元に駆け寄り、握手を求めた。いつも見てます。本読んでます。来年は藝大で先生の授業を受けます。待っててください。余は興奮気味であった。きっと早口であっただろう。それに対して彼はこう答えてくれた。おう!待ってる!そんな短い対話にもならない会話。一方的主張であった。しかし、運命は実に余に艱難辛苦、臥薪嘗胆を強要した。そこからさらに余に三年の時を要させた。要させておいて、芽出度く上野で学べることとなったが、時すでに遅しであり、そこに彼の姿はなかった。事務に訊けば去年までは彼の授業があったそうである。彼の著書の写真には藝大の学び舎が写っている。二次試験での受験の会場がその教室であり、ここであの人が授業をし、そしてそれを自分が今年受けるものかと何度も何度も夢想した。毎年毎年、その教室で受験するたび、何度も何度も夢想した。その念願が遂に叶うと思ったが矢先の出来事である。そんな彼を新潟という一つ地方都市から本やインターネットを通じてフィーチャーしていた。サンデルよりもずっと前からフィーチャーしていた。それは今でも変わらぬことである。彼の授業を受けるために、目指した大学に入るのに6年もかかった。かかって、またさらに一年近くかかった。彼が藝大で講義をするという噂を聞いたのは一月も半ばに入ってからのことであった。

そうして来る一月十七日、月曜日、万が一にも彼がこの界隈にいるかも知れぬと、カメラをもってうろうろしていると、目を疑う光景があった。本物だ。いきなり呼びかけて写真をとる。アップを撮る。まったく嫌なそぶりを見せぬ。書いている文章と人格が一致しているとは、願ってはいたが、実際はどうなのかと試した面もあった。が、実に、確かに一致していた。まんまあのままだった。


講義は余にとってはそれ程新鮮なものではなかった。というのも内容がいつも彼の本で聞いている、読んでいる内容のことであったからだ。だがそのライブ感と間のとり方、話のリズムはやはり唸るものがあった。うまい。聴いていて心地よかった。脳の回路がシャープな人だと改めて思った。そして、どんなことにも、ものにも、人にも真摯に対応する紳士であると思った。


その後の饗宴で余は彼に花のワインを注いだ。そのワインは余が血でもあった。

ワインには余が受難の歴史、念いが込められている。



彼と酒を片手に見上げたあの空の碧さは余が一生涯の宝物である。



ここからがスタートである。藍より出づるは藍より青しである。

茂木健一郎、彼を越えていくことこそが余ができる真の恩返しである。

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