2011年1月13日木曜日

喰うことと、生きること 7

 とりあえず毎日ブログを書く。それは文章の鍛錬の為である。一日の稽古を鍛といい、万日の稽古を錬という。毎日続けることもまた才能である。友人と一日1200字以上を書く約束をした。したが友人ははや、三日も待たずして脱落してしまった。これもまた人の心というべきものであろう。人は利害が絡まねば動かぬ。私はこのことを痛いほど知っている。漱石の心は真理である。利害で人は動くのである。利害で人は変わるのである。人間で常に悪人である人を私は見たことがない。普段は良い奴なのである。だがそれに金と異性が絡んだ時に善人は悪人にかわるのである。私はその現場を目撃したことがある。信頼していた先輩が豹変した瞬間を垣間見たことがある。私も悪かったのであるが、バイト先のマドンナとデートをこぎつけ、その天にも昇るうれしさのあまり、つい口の紐が緩み、そのことを先輩に言ってしまったのである。その先輩にはいつもそのマドンナのことについて相談していた。その先輩は応援してくれている者だと信じていた。だが真実は違ったのである。数日後私は愕然とした。二人で行くはずのデートがなぜかもう一人の女の子を足して、あろうことかその先輩も足した4人のデートになっていたのである。そして私はそれでもやっぱり二人で行きたいと駄々をこねたが、時すでに遅しであり、かつ、彼女の機嫌も損ねてしまい、グループデートすらできずじまいであった。余はこの世のはかなさを知った。もののあはれを学んだ。諸行無常を歌った。後で聞いた話であるが、その先輩は私が働くずっと前から彼女のことを狙っていたそうである。誘っても誘っても、答えはノーだったそうで、その為、私の話を聞いた時には、心臓がバクバクしてやまなかったであろう。彼は何としてもコレを阻止し、そして、この機に乗じ、私の功を横取りして、あわよくば自分がおいしいところを頂こうといった魂胆だったのである。わたしは、まさに出し抜かれたのである。余にはその4人で行くデートのことは一言も相談がなかったのである。剥き出しのエゴイズムほど穢い物はない。それ以来余は、人間不信になった。とまでは言わないまでも、軽い心の先生のような精神状態になった。自分だけではない。人間全体を疑うようになったのである。羊は簡単に狼に変わる。人間は利が絡むと狼になる。ハイエナになる。人を裏切る。私だってそうなのだ。だが私は常に自分が悪人になり得ることを想定している。自分の穢さを自覚している。当時の私は彼の立場に立つことはできなかった。ただただ笑顔で彼に接し、心の奥底では憎しみでいっぱいであった。時が経つにつれ、年月が過ぎるにつれて、理解されるよりは、理解されることを学ぶにつれ、彼の気持ちがわかってきたのは、つい最近になってのことである。人間の弱さである。利があればみながっが、がっがとがっつくのに、利がなければ見向きもせぬのである。利がなければ、文章など書かぬのである。最近の小人は常に人の為に何かをするのである。古の、余も含めてだが、は自らの為にことをなすのである。小人は目先の目に見えぬ利益がなければ動かぬ。大人物は超長期的視野からものを見て、行動を伴うものである。人間は理で動かぬ。利で動くのである。理では変わらぬ。理で変わるのである。

 多くの就活生は小人である。大人物ならまず就活などしない。まずは自分が小人物であることを自覚する必要があるのである。そして自身の原動力に思いを馳せてみてほしい。自分が常に自身の保身で動いていることに気づくであろう。小人は個人のエゴイズムで動くのである。我は天下の要請に応じてうごくのである。そこの違いである。その違いが積もり積もって動かしがたい山となるのである。違いはそこにあるのである。就活だってそうである。試験も、婚活も本日、既に勝負は決しているのである。今日が、いや、昨日が関ヶ原だったのである。ほんの少しの積み重ねが一生涯の分水嶺になる。たかが1200字と笑うなかれ。そこには越えられぬエリートと凡才の壁がある。モーツァルトとサリエリはこの三日で決しているのである。それは試験でも同じである。勝負は今日、もう既に決まっているのである。石川遼が今日は眠いから、明日からでいいや、というであろうか。イチローが、宮里愛が、寒いから、練習できる環境にないからといって、そのまま床に就くであろうか。多くの就活生はそのまま眠りに就く。眠りについて、朝起きて、また二度寝する。二度寝して、三度寝する。亀田三兄弟は二度寝はしないのである。天は自助くる者を助くのである。多くの就活生は、この二度寝の為に、小人なのである。意志の力が弱いのである。それでいて楽をしようと考えているから小人なのである。学問に王道はないのである。どんな分野にも楽して良い思いをしようなんてことはあり得ないのである。その二度寝が積り積み重なって、その結果、就活に苦しむことになるのである。ただ、いい話がある。朗報である。就活で戦う相手は自分と同じ二度寝野郎たちであるということである。そこに差は皆無といっていいだろう。ただそこにも少なからずはじめから一定の差がある。学歴である。ただ学歴あるものは、三年前か、四年前は亀田であったわけである。あの時には二度寝などしていなかったのである。眠い目をこすりながら、あそこをこすりながら、これ関係ないか、努力をした違いである。そこの差がでるのである。時間差である。ただ今となってはもう既に二度寝野郎であるから実力的にはそれほど変わるまいが、ただ箔が付いているのである。この箔はなかなかのものである。だからいい就活のためにもいい大学に入らねばならぬとなるわけである。いい高校、いい中学、いい小学校、といいの先手先手を打って行くのである。この先手を打つために夢の規模が小さくなるのである。大志が持てなくなるのである。困ったものである。大志のデフレスパイラルである。これだから小人は困るのである。小人が小人をまた型にはめていき、結果また小人を生み出すのである。就活で勝ちたいのなら話は簡単である。就活をせずにすむ大人物になればいいのである。自分で考え、自分で動けばいいのである。大学など辞めればいいのである。辞めれなければ、何かをするのである。何かを為せばメディアが君を放ってはおかないのである。それができないのであるならば、小人として本を読みなさい。二度寝、マージャンをせずに、古典を読みなさい。一流のものにふれなさい。一流の絵画を、演劇を、映画を、音楽を聞きなさい。そうすれば就活の時にあなたは群を抜いているでしょう。人事は君を見抜きます。古典に通じた人間は話せば一発でわかります。これは真理です。頭がいい人と話すとすぐにわかるでしょ。それと同じなんです。そんなモノのわかる奴とおっさんたちは仕事がしたいんです。働きたいんです。世界に舞台が移れば教養なしではまずやってはいけません。まず相手にされません。これが現実です。事実です。教養の機智の応酬合戦です。ですから古典です。小人は小人らしく古典をお読みになりなさい。すぐに効果を求めてはなりません。だから、それが小人なんです。歴史から学びなさい。わからずとも、皆がやってきた方法論に従ってみなさい。成功するかわからぬけれども、自分を賭けてみなさい。二度寝していた時間を使うだけですから、失うものなど何もありはしないのですから。うまい方法なんてないんです。ただ一生懸命努力する。勉め強むる。それだけです。この意味がわかった時、あなたは小人じゃなくなるんです。

 予定運命なんてないんです。あるかもしれません。わかりません。ただ自分を賭けてみるんです。リスクをとってみるんです。大志を持ちのです。公のアルチュラリズムで動くのであす。そこが大きな違いなんです。

 夢を持てとはこういうことである。大志を抱けば、行動の原動力も自然と自身のエゴイズムを脱する。今の就活生の夢が大きくならんことを。

  Hope springs eternal in the human breast;
  Man never is, but always to be blest:
  The soul uneasy and confin'd from home,
  Rest and expatiates in a life to come.
                    
                                  Essey on Man by Alexander pope

 
 教養とはこういうことです。

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